前回に続き、『月刊石材』誌に掲載のインタビューを紹介します。聞き手は青森市・(株)やまと石材社長の石井靖氏です。
□「これはサービス業だ」
石井社長(以下、石井) ちょっと安心しました。まさに私たち石材店ごときが言うことでもないし、お客さんにとっては、「大きなお世話だ」という話なんです。お墓作りをさせていただく中で、お寺様とお客さんの中間の立場にいると、「お寺様ももう少し工夫したほうがいいのに」なんて…。
南直哉(以下、南) 石材屋さんも葬儀屋さんと同じと考えれば、お寺さんとネットワークを組んだ方がいいと思いますね。お互い情報を流したりすればいいんです。たとえば葬儀屋さんが都会でお葬式を頼まれたら「あのお坊さんはいいよ」と。お坊さんが仏壇屋さんを頼まれたら「あそこは正直だよ」と。お互い袖の下ではなくて、信頼関係をもてる人間でネットワークを組めばいいと思うんです。
石井 もちろんちゃんとした仕事をする、というのが前提ですね。
南 もちろん。つまり、お互いの利益を守るのではなくて、依頼人なり消費者の利益を守る一点において、一致するネットワークを組めばいい。そうしてトータルでケアすればいい。さっき言ったように、葬儀屋さんは直葬でやろうが、友人葬でやろうが、やってあげればいいんです。そのあとを見て「違う」と思っているのであれば、その時にその情報を拾い出せる、ケアできるシステムを作っておいて、流せばいいんです。
石井 上田紀行さんの 『がんばれ仏教』(NHK出版)にすごく刺激を受けまして、私どものビジネス感覚におけるコミュニティ作りとか仕掛け方というのは、少なくともお寺様より生々しい部分で出来ますので、お手伝いが出来ます。
昨年、勘違いも甚だしいというお叱りも覚悟で、お寺様向けのセミナーを青森市内のホテルで開催したんです。「お寺でイベント」という言葉は、ちょっと抵抗感があるお寺様もいらっしゃるでしょうけれど、「もう少し地域の人を巻き込んじゃいましょう」という働きかけをしたんです。お叱り半分、おもしろかった半分のご感想をいただいたんですが。
南 ただ、私が思うのは、個別のケアですね。大きいイベントとか、マス(集団・大衆)でどうしようと、あまり考えないほうがいいような気がします。
仏教の現在、露骨に言えば需要は、もうマスではないんです。葬送儀礼が今はまだちゃんと生きていますから、「大変ありがたいな」と思うんですけれども、仏教が本当に問題とされているのは、一対一の局面なんですね。一対一ですくいとることが出来ないと、結果的にはダメだと思うんです。
檀家さんに対しても、寺と家の付き合いも、事実上は「住職個人と、その家の中の一人ひとりとの付き合いだ」と思ってやっていかないと、親が信心深いから、息子も信心深いかどうかは、わかりませんよ。ですから、ハッキリ言えば、「これはサービス業だ」と考えないとダメだと思いますね。
石井 南先生はそのことをハッキリとおっしゃいますし、だからと言って生々しい話じゃないのは、ご著書を拝読しても、「それが一般の生活者を救うことになる」という方針がしっかりしているからだと思います。しかし、地元でそれを理解できるお寺様がいるのかな、と思うと…。
南 ハッキリ言うと難しいでしょうね。曲がりなりにも旧来の檀家制度が完全に崩れてないからです。私の感じでは、ここ三十年、つまり団塊の世代が死に絶えた時が、次の大きな時代です。というのは、駅前に最近多いのは、パチンコ屋と葬祭場でしょう。葬祭場を作る葬儀社の人たちに話を聞いたことがあるんですが、皆が「減価償却は三十年」と言っていました。
どういうことかと言うと、「団塊世代が亡くなるまで」ということです。この三十年で団塊世代が亡くなると、おそらく旧来の檀家のイメージをもった一群の人たちが、消えてなくなるということですな。この時に、伝統教団は、大きなターニングポイントを迎えるに違いないと思いますね。今、福井のお寺の檀家は三十件ですが、たぶん私が住職している間に二十件を切るでしょう。
石井 やっぱり人口減少ということですね。
南 そうですね。それともう一つは世代間の伝承、引継ぎがもう不可能でしょう。先祖代々墓が、おそらくこの三十年間でほとんど機能しなくなるでしょう。
でも、この三十年間は何だかんだ言ってもたくさん亡くなりますからね。ですからいろんな異業種が参入してきてもマーケットは広いですから、それなりの利益を得ることになれば、構造改革は遅れる。だから、この三十年間で構造改革をしたところが生き残る。
石井 尻に火がつかなければ、なかなか現実を認めたくない、というのが人間ですからね。
南 そうです。いくら私が十年以上同じことを宗教問題の講演などで言って、みんな「そうだ」と言っても、何も変わりませんからね。
石井 納得して、同意はしていても行動は起こさない。石材業界も同じ状況のはずなんですよね。
南 私の今の感じでは、三十年後も今まで通りにやって生き残れるというのは、檀家が半分になってもやっていける、今檀家を千件以上もっているところだけです。つまり今ある檀家が半分になってもやっていける規模の寺。そうでなければ、そもそも仏教とも宗教とも関係のない収入のある寺。観光資源とか駐車場とかマンション経営などです。そうでなければ祈祷寺。そうでなければカリスマティックな住職がいる寺。この四つだけ。
石井 カリスマティックといいますと?
南 つまり人が呼べる。個人的な信者、要はキリスト教の牧師みたいに、宗教家と信者で教団が構成できるような、一代限りです。僧侶と信者のグループで成り立っている寺です。
石井 それは宗派に限らず。
南 そうですね。その間に合従連衡があって、その過程においては、宗門だけの生き残り競争ではない。日本は檀家制度ですから、地域にどんな宗派があるか、ということで宗派の生き残りにもなる。
今の日本人には、どの寺がどの宗派ということを知らない人はいっぱいいます。地域における宗派がいくつあるか、どの寺が、誰が生き残るかということだったら、教義なんぞわからなくて、宗派がわからなかったら、一番いいお坊さんのお寺が残るに決まっていますよ。
石井 そうですね。お墓の仕事をしていて「お寺はどこですか?」というと〇〇寺というだけで、宗派はご存知ないんですよ。
南 人気のあるお坊さんと、そうではないお坊さんはハッキリしているでしょう。一般の人は、何宗のお寺なんてどうでもいい。「どこの檀家になりたいか」「誰の檀家になりたいか」になると思いますよ。そうすると、「その信仰を子まで引き継ぐか」は別問題ですから、私の感じでは、僧侶と信者のパターンに、全部は決していきませんが、徐々にその比重が高い信仰パターンに変わっていくと思います。
□『クレヨンしんちゃん』の家が、『サザエさん』の家に戻るかどうか
石井 私もまさにおっしゃる通りだと思うんですが、ある一方で変な期待を抱いているところもありまして。「ITだ」「バーチャルだ」「金融危機だ」ってやってきまして、一方で「日本人は心が大事で、伝統を疎かにしたからだ」というような反省が働いて、お仏壇は必ずないとダメだし、本家・分家の考え方も復活させて、檀家制度もきっちり、お寺も大事にして、という流れに揺れ戻しはないのかなと。
南 それは『クレヨンしんちゃん』の家が、『サザエさん』の家に戻るかどうか、ということです。戻ると思いますか?
石井 いや、難しいでしょうね。でも、あこがれは持っていますよね。
南 そうではなかったら、未だに『サザエさん』があれだけ視聴率が二〇%近くもいくわけがないです。非常に大きいものです。今、北海道から奄美大島まで探したって、一家三世代が同居して、ちゃぶ台を囲んで夕飯を食べる家があると思いますか。
石井 ないですね。
南 ないでしょう。あれは絶滅危惧種、絶滅した家族ですよ。絶滅した家族なのに、何であれほど続いているのか。今や懐かしいからですよ。博物館で見るようなものです。懐かしい、伝統芸能みたいなものです。
石井 映画の『三丁目の夕日』(『ALWAYS 三丁目の夕日』)みたいなものですね。
南 そうです。懐かしい。では、ピンクレディーが今、同じように復活するかといったら、この世の中でありえないでしょう。いくら心が大切だって、『サザエさん』の家族が突如復活するっていうのは幻想でしょう。
そうしたらお仏壇を置く、実存的な欲求がどう変わるかが問題なんですよ。もっと言えば、『サザエさん』の家にお仏壇があるのは当り前として、では、『クレヨンしんちゃん』の家にお仏壇を置かせる、あるいは仏壇を置くような条件とは何かを考えるのが問題でしょう。
石井 なるほど。はい。
南 自分の親や先祖を大切にするという気持ちは、とても普遍的なものです。それと仏壇とがどう結びつくかですよね。
もう一つ、日本は先祖を大切にすると言いますけれど、その先祖はせいぜい曾じいさんまでです。これは儒教の国で、跡取りが家の系図を全部頭に叩き込むような話とは、わけが全然違う。日本人の平均的な意識では、関心の及ぶ範囲が極めて限局されます。時間的にも空間的にも、日本人の非常に深い意識の中は狭いですね。
石井 「柳田國男『先祖の話』を読む会」というのをNPO化して全国に広げようという運動がありまして、これでいくと南先生がおっしゃる通り、曾おじいちゃんぐらいまでは自分の家のご先祖なんですけど、後は氏神さまになって、地域のご先祖になって一つになっています。
南 一言に先祖と言っても、家意識というのは中国と韓国と日本では全然違うんです。「夫婦別姓はダメだ」なんていうのは、東アジアで日本だけですからね。なおかつ(婿)養子なんて概念があるのは、日本だけなんです。日本人が一般に持っている『サザエさん』型の家というのは、イデオロギーであって文化ではないんです。
石井 その違いを、もう少し具体的に教えていただけますか?
あたり前の事でありますが、
死んだ後の自分の身の始末を自分でできない事を改めて考えました。
永遠の独身(お一人様)ですと、死後の始末を誰かに委託する必要があるわけですよね、
家族(身内)があれば、死んだ事に周囲が気が付くのも時間が掛からないでしょうが、独居ですと、仮に誰かに頼んでいたとしても、「今死にました・・」とお伝えできないわけです。
死んでしまった我が身であれ、雑な扱いはして欲しくないのです。
葬式や墓はどうでもいいのですが、死体の始末を自分でできないのが・・・う~ん困った。
人間って自分ひとりで生きていけないし、死ぬ事もできないってことでしょうか?
自分の遺骨を 庭の桜の木の下に埋めて欲しいのですが、今の法律では許されないのでしょうか?
死生観は、人にとってもっとも重要なものと言っても過言ではないと思いますが、いかにみんなないがしろにしているのか思い知らされました。
お葬式の本は書かれないのでしょうか。とても大きな需要があると思います。
正確には出家教団が併存しておりこれを教理に取り込んだ形になります
今でもネパール、インド等に在家密教の伝統が残っていますし
麻原が直接師事した(と主張する)ヒンドゥ系のグルも明確な出家システムはとっていません
「日本的なるもの」への矮小化と拘泥こそ危険ではないでしょうか
独身である自分が亡くなったらこの先お墓を守っていくことが出来ません。どうしたらよいでしょう。
都会と違い、県内には永代供養などしてくれる所もほとんどなく町にはそのお寺しかないのです。
お坊さんは言いました。遠くの県のしかも他家に嫁いだ妹の子供に先祖供養させろと。
檀家制度とはそれぞれの人の生活を無視しても続けていかなければならないものなのか…と失望しました。
つい一年ほど前はお寺さんやら仏教には無縁だった自分ですが、年齢的に様々な事を考え始めると不安だらけです。
本当に、生きている今、そして死後もわが身をゆだねられるお坊さまと出会えたらどんなに安らかで幸せだろうと思います。
仏教にたづ何故もっと生きている人たちとかかわってくれないのだろうと
仏教に携わる方達がもっと生きている人間にかかわってもらえたら…と思っています。
私も、今現在も、この世を去るときも、もっと安心して仏教に委ねることができたら、どんなに素晴らしいかと思っております。
方丈様は「檀家さんが還暦になったら片っ端から受戒しようか」と思っているような、過激な方ですので(笑)、恐らく以下のような事もお考えになっているように思われます。
13歳ぐらいの思春期を迎えた子供たちに、『禅問答』をさせること。
これはユダヤ教が、「タルムード」について、子供の頃から自ら「新解釈」を確立させることを推奨している、「自立支援学習システム」に類似するものです。
くもん式学習塾のようですが、暫定的な解は出せても、正解は無いところが違います(笑)
ユダヤ教は、絶対神の構造と取りながらも、ラビ(ユダヤ教の聖職者)は「信じるものは救われる」などとは決して言わないことから、「欠けている」ことに気付いているように思われます。
そこで、個人的に解釈等を行わせることにより、自ら「欠けている」ことを補うという方法を、子供の頃から身に付けさせているように思われます。
信頼し尊敬するラビが見守る中、安心して、自らの世界観を作っては壊し、作っては壊しを繰り返しているので、ユダヤ教を信仰している人達は、精神的にタフになるのではないかとも思っております。
「老師と少年」を読んで、その様に思われました。
またユダヤ教等の記載に誤りがありましたら誠に申し訳ございません。
『クレヨンしんちゃん』以降に、果たして家族マンガが登場しないものか、考えてみました。
いろいろ考えた所、『クレヨンしんちゃん』の次世代が、
『新世紀エヴァンゲリオン』世代になるのでしょうか・・・
エヴァンゲリオンには熱狂的な青少年ファンがおり、この度のお話を通して、彼らの根底にある思いがなんとなく分かってきたような気がします。
主人公は14歳の少年で、とても特殊な家庭環境で育っております。
また、エヴァンゲリオンにある『人類補完計画』というのは、これだけで新興宗教を数個つくることができそうなくらい、頭がクラクラするような強烈なフィクションです。
簡単に説明しますと、『生まれながらに欠けている人間を、生物学的、心理学的、宗教的アプローチにより補うことで、本当の幸せや永遠の生命を得ることができる』ということらしいです。
(恐らくコアファンがいらっしゃいましたら、即時に訂正が入るようないい加減な説明ですみません)
エヴァンゲリオン世代は、『人類補完計画』などを全くのフィクションとして楽しんでいるわけではなく、切実な願望の一つとしているならば、なんとも切ない思いが致します。
自分の死後のことは残った人にお任せするしかありません。即身仏でさえ、後処理はお任せしたのですから。
私は、希望としては散骨して欲しいのです。できれば川に。葬儀はなくてもいいですが、やるなら地味に。でも、お墓にしても、葬儀にしても、遺族に任せるしかないでしょう。つまり、一連の儀式は遺族が死者(かつての生者)とどう別れるか気持ちの整理をどうつけるかというステップなのですから、死者がどうしてほしいとリクエストするのは本来おかしいのでしょう。その意味でも、私は「千の風」が好きではありません。死後のあり方を願うのは生への執着と同じだと思うからです。執着を絶てと言ったのはお釈迦様です。教えに従わねばなりません。在家の人が葬儀にこだわりすぎると、結局日本の仏教は、葬式で食っているだけの葬式仏教から脱却できないのではないでしょうか。
エミさん
現在の仏教が葬式仏教と堕してしまったのは、まさにこの檀家制度にあると思います。そういう檀家制度から自由になりましょう。
そもそも、檀家制度にこだわっている住職は、南師が言っているように30年後には絶滅しているでしょうが、30年待てなければ待たなければいいじゃないですか。檀家や~~めた。それで違約金がかかるわけでなし。寺を養い、石屋を養う義理などはござんせん。
「仏教に携わっている方達がもっと生きている人間にかかわってもらえたら」同感です。僧侶は死の専門家(読売2009.11)とする風潮がありますが、これもおかしな話です。生きている人を救えず、なんで死者を救うのですかね。死に仏より、生き仏です。僧侶は生の専門家でなければなりません。現在の仏教界には過大要求でしょうか。