以下は、さる地方新聞から、正月用の記事にと寄稿を依頼されて書いたものです。
ここでいまさら、昨年がどんな年だったか、事あらためて言うつもりはない。正月とはいえ、おそらく今年の日本人は皆、そう無邪気に「おめでとう」とは言えないのではないか。
あの大震災と原発事故、さらに欧州の金融危機と東アジアの不安定化、さらにはそれらが結果的に露呈した様々な問題に、我々はいよいよ、正面から取り組んでいかなければならない。すなわち、我々は今までよりもっと、がんばらなけれならない新年を迎えたわけだ。
しかし、私がつらつら思い出すのは、震災直後に湧き起こり、ほぼ一年を通じて大合唱になった「がんばろう」に対する、どうも素直になれない自分の気持ちである。
これは私ばかりではなかったようで、たとえば、「被災した人に、あれ以上何をがんばれと言うんだ」と怒っていた知人もいた。だが、私の違和感はそれとは少し違う。
無所得の教え
がんばればなんとかなる。ならないのはがんばりが足りないからだ・・・・。我々は長いこと、そう考えてがんばってきた。その果てに、昨年、ああなったのである。がんばったってどうにもならないこともあると、さすがに身に沁みた。それを忘れて「がんばる」だの「がんばろう」だのは言うべきではない。そう思うのだ。
私は何も、「がんばらなくてよい」と言いたいのではない。いや、実際、今の世の中、がんばらなくてはダメだろう。しかし、目標をさだめてがんばっても、ダメなときはダメなのである。そのとき、このがんばりは全て無駄だったと、そう思うかどうか。
仏教に「無所得」とか「無所悟」という語がある。修行しても得られるものはないし、悟るものもない、という意味である。
普通考えれば、僧侶が修行するのは、悟りを開いて仏になるためである。それが目的なのだ。
ところが、この語は、仏教の真意はそうではない、と言っているのである。修行は取り引きではない。修行と交換に何かを手に入れようとすることではない。目的を自らの導き手として、たとえそれが最終的に手に入ろうと入るまいと、修行自体に打ち込んでいくその姿に、悟りがあり、仏が現れるのだ。
覚悟を決めて
努力は結果を出さなければ意味がない、と考えるのは世間の物差しである。努力した事実は決して消えない。しかし、それが果たして、いつどこでどのように報われるのか、いや、報われるのかどうかさえ、およそ人間の浅知恵ではわからない。そう考えるのが仏教である。
とすれば、我々は考えを変えるべきであろう。これからも、我々はがんばらないわけにはいかない。だが、「がんばる」ことには、がんばらない。がんばりの成否は問わない。人事を尽くして、天命は待たない。
積み重ねた努力の結果、失敗も挫折も喪失もある。悲哀も苦難もある。喜びや楽しみや成果よりも、それらがずっと大きいかもしれない。そう覚悟を決めて、がんばる。たとえ報われなくても、がんばりそのものを受け入れ、敬う。昨日のことは「しょうがない」と呟いて、それでも今日また歩くのだ。
(以上)
追記:次回「仏教・私流」は、2月29日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。
・・・とのことですが、
私たちの本尊は久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊で、私たちは本仏釈尊の、み教えに帰依する仏教教団です。
本仏釈尊の願いを私たちに分かりやすく示してくださった開祖さまのみ心を受け継ぐ、という会員としての決意が表されています。
当面の救われに満足するのではなく、お釈迦さま、開祖さまのみ教えをかみしめ、他の人を幸せに導く菩薩行実践のなかに真の救われがあることを自覚することです。
一般社会で生活をしながら、仏教真理に基づいた修行をすることです。
人格に相当する仏教の言葉は仏性。仏性とは、人を思う慈しみの心、人の悲しみをともに悲しむ心、人の喜びをともに喜ぶ心、人に施した恩も人から受けた害も忘れてしまう心のことです。この仏性を磨きあげていくのが私たちの信仰の目的です。
仏道を正しく歩むためには、仏・法・僧の三宝を信仰の基盤として、行学二道の研修に励むことが大事です。行とは自らの仏性を磨くための実践であり、学とは仏教の本義を深く学ぶことです。
行と学とは車の両輪のようなもので、行じては学び、学んでは行じる、という繰り返しのなかにこそ、ほんとうの人格完成の道があります。
苦悩を抱える人とふれあうなかで、相手が求めていることや苦悩の原因を正しく判断して、真理・法の働きに目ざめていただけるよう、取り組むことです。
そのための智慧が身につくよう自己の練成に努めることが、自らの真理の認識にもつながっていくのです。
私たちの修行目的は、人格完成にありますが、個人の人格完成だけが目的ではなく、家庭、社会、国家、世界の平和境を建設することこそが究極の目的なのです。この大理想を目ざし、手を取り合って菩薩行に励むことが法華経の精神であり、私たちの使命なのです。
初期化を学びつつ、一歩一歩あゆんで参りたいと思います。
記録的な寒波とのこと、どうぞご自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
29日ではありませんか?
そんなに大上段に構える必要はないと思いますよ。法華教ということで、日蓮宗系の信者さんと推測しますが、
>私たちの修行目的は、人格完成にありますが、個人の人格完成だけが目的ではなく、家庭、社会、国家、世界の平和境を建設することこそが究極の目的なのです。
とは立派ですが、これは今回の話の本筋ではないんじゃないでしょうか?
>普通考えれば、僧侶が修行するのは、悟りを開いて仏になるためである。
悟ろうとしても悟れないではなかったかしら。
>修行自体に打ち込んでいくその姿に、悟りがあり、仏が現れるのだ。
日蓮さんのところでも言う、煩悩即菩提ってことですよね? 座禅が坐禅するとかいうことなのかしら。
まあ、そんなに鯱張らずに、人格完成だとか世界平和だとかは考えずに、今できることを頑張る。ただそれだけではないかしら。過去には行けず、未来にも行けずという今様がありましたが、人格形成だとか世界平和だとかは未来です。まずは、今、頑張る。
結果は関係がないというよりも、良い結果が出れば、出ないよりは良いという感じかしら。足るを知ると言いながらも、好物(例えば、卵焼き)がない人生よりもあった人生のほうが良いよね、という感じで。
そもそも結果は、それを省みる時点で評価は変わるものです。その結果は、仏様が出した最上の結果と信じるだけです(今その時を頑張らなければ信じ切れないので、私が後悔することが少なくないのは、まだまだ未熟ということでしょう)。例えば、家族旅行の予定が子供の病気で潰れたとしたら、それはきっと旅行しない方が良かったのです(行っていたら事故にあったかもしれないし、あるいは家族離散のキッカケができたかもしれない。きっと避けることができたのです)。受験で第一志望に合格できず、第二志望に行くことになったのも良いことです(第二志望の学校で出会った友達が一生の友かもしれません。もっとも受験勉強を理由を付けて怠けてしまいがちな私は、勉強をもっとすればよかった後悔するタイプです。以前よりはマシになってきましたが)。
何を書いているかまとまりがなくなりましたが、
2月19日(水)は、日曜日の間違い? それとも15日や22日の間違い? どちらなのでしょうか?
道元さんが何を言っておられるか存じませんが、当たり前のことを日々考え今を生きるとは「仏道を習う」ことだと私は考えております。
ここでは、直哉さんが語ったことを因子に「私」自身が仏道を習うことでしょう。直哉さんがそれをいうはずもありませんが「仏道を習う?」と考えればそうなるでしょう。
はるか被災地から遠く離れた地に住む者ですが、記事の言葉をそのまま読めたのは、あの震災から10カ月以上過ぎたこと、1日1日の積み重ねで今があることを気づく機会になりました。ありがとうございました。
この大理想を目ざし、手を取り合って菩薩行に励むことが仏教の精神であり、仏教の使命なのです。