恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「自己」をめぐる闘争、または「疲労」的実存

2014年11月20日 | 日記
 あちこちで何度か述べたように、「自己」が「他者」から課せられたものであるとすると、最初から一方的な「お仕着せ」なのですから、なんとなく「居心地」が悪いのは当たり前のことで、「本当の自分」などという無いものねだりをしたくなるのも、無理からぬ話です。

 その上さらに困難なのは、課せられた「自己」は、その後も「他者」によって「自己として認められ、自己にされ続けなければならない」という事実です。それは言葉を換えれば、「他者」から欲望され続けなければならない、ということであり、それはすなわち、欲望されるに足るものを持たねばならない、ということになります。それこそブッダもキリストも、「自称ブッダ」や「自称キリスト」ではありえません。

「欲望されるに足るもの」とは、まずは金、職業、地位、名声、さらに容姿、才能、学歴、家柄など、そうでもなければ「やさしさ」「器量」「人徳」までに及ぶでしょう。

 欲望されるものなら、たとえ「悪行」(多くの場合、「悪」は欲望されるがゆえに、禁じられる)でも、「欲望されないよりはまし」と考えれば、あえて「悪行」を犯して「悪人」になろうとするものが出てくるでしょう。
 
 これはもう、ほとんど「自己」を存続させるための絶望的な闘争のようなものです。そのことをしみじみ思わせるのは、『法華経』に出てくる「常不軽菩薩」のエピソードです。

 この菩薩は、出会う人ごと、そのすべてに「私はあなたを決して軽蔑することはない。あなたは必ずや目覚めの道を歩み、仏となるであろうから」と告げ、礼拝し続けたと言います。

 すると、そう言われた人々は驚き怪しんで、罵倒し、棒で殴り、石を投げて迫害しました。それでも菩薩は一切変わることなく人々を礼拝し続けたのです。

 菩薩が迫害されるのは、考えてみれば当然です。礼拝された一般の人々は、普通「他者」の欲望に応えるが故に「自己」は肯定されるのだ、と考えています。つまり「取り引き」の世界の住人です。

 そこにいきなり、「あなたは仏になるだろう」などと「身に覚えのない」ことを言われて一方的に礼拝されたら、それこそ思い込みの押し付けのようにしか見えないでしょうし、「オレを馬鹿にしているのか」という怒りの反応にしかならないでしょう。

 この常人には理解しがたい、すなわち常人にはできない菩薩の行為は、「取り引き」の外側から、「自己」に無条件の(菩薩は人を選ばない)肯定を与えているのです。

 何ものも欲望しないまま相手を肯定する行為こそは、その相手が自己を肯定する究極的根拠を作り出すものです。その重要性の自覚は、通常きわめてむずかしく、いわば「亡くなってから知る親の恩」的事態でしょう。おそらく、「倫理」を発動する決定的条件の一つは、この行為です。

 それにしても、「自己が欲望される」ように振る舞い続けることは、本当に苦しいことです。そして疲れることです。疲労は「自己」の実存様態そのものです。そうしなければ「自己」は維持できないからです。

 ならば、それを一時的に解除して休む時間が必要でしょう。その有力な方法が、道元禅師の言う「万事を休息する」坐禅だと、私は思っています。