恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「理念」の不能

2014年11月30日 | 日記
 ある集団が組織の根拠とするような、「理想」とか「真理」と呼ばれる宗教的理念や政治的イデオロギーを、直接そのまま現実に適用しようとする態度、すなわち「原理主義」的態度が、不可避的に指導者の独裁的な体制を招き、最終的に組織を自壊させるのは、どうしてでしょうか。

 概念や観念を構成する言語の機能を考えれば当然のことです。「机」という言葉が意味しているものは、いかなる個別特定の「机」でもないのですから、それ自体、つまり「机」そのものを現実に製作することは、絶対にできません。

 我々にできるのは、「机」の意味を解釈して現実の事物に適用し、その限りで個体化・現実化することです。

 この事情は、宗教的理念や政治的イデオロギーで言う「理想」「真理」でも、まったく変わりません。一定の条件下で誰かが解釈した上で、現実化するほかありません。

 すると、その時点で、「理想」や「真理」は、所詮は特定の人物の「アイデア」にすぎません。ならば、解釈者の数だけ「アイデア」も出てくるでしょう。

 このとき、いや、ただの「アイデア」ではない、彼の主張はあくまで「理想」や「真理」の「現実化」だと言い張るためには、その解釈だけが「理想」や「真理」と直接結びついていると主張するしかありません。ですが、この主張にはいかなる根拠もありません。特定の「机」を指さして「これが『机』そのものだ」と言えないのと同じことです。

 ならば、ある解釈の「正統性」は、その他の「アイデア」の全面的・徹底的な排除によって主張される以外、確保されないでしょう(つまり、机が一つしかない状況を作る)。「独裁体制」が必要とされる所以です。

 特定の個人の、一定の条件下の解釈を、万人に通用する「理想」や「真理」のように言い募って現実を構成すれば、構成しようとする「解釈者」側と、構成された現実に生きる人々の側に矛盾が生じるのは自明で(沢山の人々が必要としているのに、使える机が一つしかない)、矛盾の蓄積が臨界に達すれば、この体制が自壊するのは必然でしょう。

 およそ「理想」や「真理」などというものは、人々の現実生活を構成する社会的条件を牽制したり、相対化したり、批判したり、調整する手引きとして使う程度のことが関の山です。それを通じて、生活の実際が少しでも充実すれば、ことは十分でしょう。

 にもかかわらず、「理想を実現しなければならない」などと言い張るのは、ただの標識をゴールだと錯覚するような愚行としか言いようがありません。

「仏になる」とは「仏になろうと努力すること(図作仏)なのだ」とする道元禅師の考え方は、まさにこの機微に触れる教示でしょう。

追記:次回「仏教・私流」は、明年1月28日(水)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。