人はなぜ、自分が死ぬ、と「わかる」のでしょう。我々が経験するのは、他の「人間」が、いつか動かなくなり、放っておくと腐り、分解されて消滅するという現象だけです。これと同じことがなぜ自分にも起きると「わかる」のでしょう。
「同じ人間だから」。では、なぜ「同じ」だとわかるのでしょう。
もうひとつ。「死」が何であるか、誰にも何もわかりません。誰にも何もわからないことが自分に起きると、なぜ「わかる」のでしょう。
まったく別の個体に起きる「わけのわからないこと」が自分に起きるということは、実際には「わかる」のではなくて、そう「信じている」のでしょう。
なぜ、そう「信じる」ことができるのか。それは「自己」が「他者」のコピーで始まるからです。「他者」を写し取るとき、「死」も写し取るのです。というよりも、「自己」に写し取られた「他者の消滅」を自覚したとき、我々は「死」を獲得します。 逆に言えば、「他者」が「自己」に「死」を書き込み、「自己」はそれを読むということです。
したがって、「自己」の存在の「自明さ」程度に、人は自分の「死」を「自明のこと」と思っているのであり、それを「信じている」などと考えません。実際は信じているのに、「自分は死ぬ」と「わかっている」、と言うのです。
この認識構造が土台にあるから、人は「絶対神」や「絶対の真理」を「信じ」たり、「わかった」りできるわけです。
自分とはまるで別の存在の仕方をしている、それ自体わけのわからないもの(「絶対」は、人間には「絶対」にわからない)が「ある」と考えられるのは、我々が「死ぬ」と確信しているからです。
しかし、考えてみれば、人は自分が「死ぬ」と「わかる」ほど、つまりそう「確信」するほど、「絶対神」や「絶対の真理」を「わかる」わけでも、「確信」してるわけでもないでしょう。この強度の差異は、どういうことでしょう。
我々は「死」同様、「絶対神」も「絶対の真理」もそれが何であるか、決してわかりません。つまり、それらは本来、「死」のごとく空虚な観念、「無意味」な言葉です。
にもかかわらず、「絶対神」や「絶対の真理」が、それこそ「絶対的な意味」を持つように思われているのは、我々人間がそれらに「意味」を与え続けているからです。その「意味」と何か。それはすなわち、「死」が何であるか説明することです。「死」に「意味」を与えることが「神」と「真理」の「意味」なのです。
かくのごとく、我々が「死」の「意味」を欲望することが、「神」と「真理」を存在させるとすれば、「神」と「真理」は我々人間の持つ欲望の影にすぎないということでしょう。
だとしたら、「決してわからない死」を完全に満たす「意味」を与えられるわけがありません。人々の欲望の度合いや性質によって、様々な「意味」が案出され、「神」の教えや「真理」として語られるに過ぎないからです。
したがって、「死」の「無意味」の「絶対性」に対して、「神」や「真理」の「意味」は常に相対的であらざるをえません。人が「死」に与えようのない「意味」を、「神」や「真理」に与えたとき、つまり、「神」と「真理」が「無意味」でなくなったとき、それらは「絶対性」を喪失してしまうのです。
一方が、「無意味さ」において「絶対的」に現前するとき、「意味」を持たされた他方の現前は、はるかに強度が低くなる、ということでしょう。
追記:次回「仏教・私流」は5月30日(金)午後6時半より、東京赤坂・豊川稲荷別院にて、行います。