恐山開山直前、思いつき禅問答シリーズ。
昔、中国で、ある修行僧が山中で道に迷って困っていると、ふいに粗末な庵が見えてきました。早速近づいて声をかけてみると、そこには並々ならぬ力量を感じさせる老僧が住んでいました。
そこで修行僧は尋ねました。
「老師はこの山中に暮らしてどのくらいになられますか」
「山の景色が青葉から紅葉へと移り変わるのを見ること、三十年ほどかな」
「実は道に迷ってしまったのですが、下山するにはどう行ったらよいでしょうか」
老僧は庵の前の川を指さして言いました。
「流れに随って行きなさい」
この禅問答はよくこう解説されます。
「煩悩から解脱しようと志すなら、自分勝手な思い込みを捨て、釈尊の教示する修行に身を任せるべきである。そうすれば、自ずから解脱の道は開かれる」
さて、時は現代、日本国。ある老師が弟子に同じ禅問答を提示して、このよくある解説をしたところ、弟子がすかさず手を挙げて質問しました。
「師匠、それはダメですよ。山の中で道に迷ったら、余計に歩き回らず、その場をじっと動かず救助を待たないと」
すると、老師が一喝、
「馬鹿者。禅問答の老僧を見よ。一番よいのは、庵を結んで住むことだ」
私はこの話を聞いて、実に面白いと思いました。私は老師と弟子の話をこう考えたのです。
「流れに従って行く」というのは、例えれば仏法の教える坐禅修行をして「悟り」を開こうとする方法だろう。それに対して「じっとして救助を待つ」というのは、阿弥陀様の本願を信じて念仏「往生」を待つ方法と言えるかもしれない。
では、「庵を結ぶ」とは何か。
そこに住む人は、そもそも、庵に「住んだ」時点で「迷って」いない。だから下山の必要もなく、救助は余計なお世話だ。だからといって、庵で何をして、どんな心境でいるのか、一言もふれていない。
すると、ここに一つの疑問が出てくる。
「なぜ、彼はそこにいるのか」
「庵を結ぶ」とは、この問いを露わにし、この問いに直面することなのだ。つまり、坐禅が開く実存の領域、「非思量」。