今日は靖国神社に参拝し、大東亜戦争で散華した250万の英霊に手を合わせたいと思う。日本人にとっては、死者は生者とともにあるのであり、物を言わぬ人々の声を聞くためにも、そこに出かける必要があるのだ。賊軍の汚名を着せられた会津は、蛤御門の変の死者が祀られるようになったのは、大正になってからである。しかし、西南戦争から大東亜戦争までの会津の戦死者は、靖国の杜に眠っているのである。そうした素朴な日本人の宗教心は、西洋かぶれをしたインテリとは無縁であり、日本の土着大衆が受け継いできたものなのである。葦津珍彦が昭和57年4月に「七百年前の国防精神ー現代でも必要でかつ有効だ」で書いていたように、現在の日本人は戦後的な精神的風土から一日も早く脱却しなくてはならない。「もっとも必要にして大切なことは、国民の大多数を占める土着大衆のなかに、いまもなお、脈々として生きつづけている『神国』の意識を浄め高めて、その意識との深い結びつきの上に、すべてを築き上げることである。日本の民族の祖神と国土の神霊に忠なる民の国ー『神国』の精神を浄め、高めることにつとめよ。蒙古の来襲から七百年、日本土着の民の『神国』の意識は、より文明、より高く、よりつよめられてもいいはずである」。そうした信仰心を否定するような中共や韓国の内政干渉は、断じて認めるわけにはいかない。世界中のどこの国であっても、それぞれの国体があり、それをお互いに尊重することが大事なのである。終戦の日ということもあって、靖国神社は騒然とした雰囲気に包まれているだろうが、物言わぬ人々の声に耳を傾けるつもりだ。
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