ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

きょうはハロウィン

2009年10月31日 | 教育・文化
キリスト教圏の国では、この日この時間、

町中、仮装の人であふれているでしょうね。

3年前、次女が滞在していたバンクーバー(カナダ)に行きましたが

ホテルの人まで、仮装しているのにはびっくりしました。

楽しい年中行事のひとつなのですね


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木馬も55歳(前橋遊園地)

2009年10月30日 | 教育・文化
〖「前橋遊園地、文化財の木馬と55年ぶり対面の製造元社長〗

きょうの読売新聞夕刊です。
わあ~懐かしい。
記事によりますと、前橋市の遊園地「るなぱあく」にある国有形文化財の
電動木馬「10円木馬」と製造元の社長が11月1日の開園55年式典で
対面する、と。

木馬は国内最古級、前橋公園1954年の開園から現役で製造元は長らく
不明だったといいます。今年入り「昭和鉄工」(東京)と判明。同社は
少子化の影響もあり遊具製造からは撤退。ただ社長は「まだ動いていた
なんて」と感動し再会を楽しみにしている。

10円を入れると1分間、揺れ動く。延べ500万人を楽しませてきた
といいます。わたしもその一人です。楽しい思い出です。

前橋公園の遊園地は、公営の良さで料金がとても安い。100円の回数券
で木馬のほかに、飛行塔、観覧車、メリーゴーランド、豆自動車、お猿
の電車など、いろいろ乗ることができました。低料金は今も変わらない。

それでも前橋のお孫さんをもつ人に聞きますと、今の子供達にはあまり
受けていないよう。
ディズニーランドなどで目がすっかり肥えてしまっているからでしょう。

木馬も55歳、老馬ですね。
十分役割を果たしてくれました。もうひと頑張りしてくださいな

【写真】10/30今夜の読売新聞夕刊から。
    下段の白黒写真は1961年の頃の子供たち

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「枕草子」を読む

2009年10月29日 | 研究・書籍
秋の夜長、昨日の公開講座(松嶺福祉短期大学)は、「枕草子」が
テーマでした。

枕草子は、1001年ごろの作品を言いますから今から千年も前のもの。
それでも、書かれていることは、今の世にも通じることばかりです。

「ありがたきもの」(=めったにないもの)
●舅(しゅうと)にほめらるる婿(むこ)
●また、姑(しゅうと)に思わるる嫁の君
●主そしらぬ従者 (意味=上司を悪く言わない部下はいない)
●つゆの癖なき (意味=まったく癖のない人などいない)

高校時代の古文の授業では、ひとつひとつを味わうところまで
行かなかったし、またその奥深い意味は理解できなかった。
今、自分が長く生きて来て、なるほどとうなずくこと、いと多し。

日本史、世界史、そして古文。
“ロートル高校生”、大忙し




うつくしきもの 枕草子 (学び直しの古典)
清川 妙
小学館

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【中学下宿記】(11) 僕、女子寮に住みたい!!

2009年10月27日 | 中学生下宿放浪記
中学校はイヤになった。下宿も息苦しくなった。
今では一番落ち着けるのが女子寮、そして母の部屋。寮こそわが家、
寮生は実姉のようだった。13歳の私には、まだ異性の意識は全く無く
平気でみんなの部屋に行き遊んだ。山形から来た漫画好きのM姉、
寮の前にあった大きな体育館でバトミントンの相手をしてくれた
宮城の美しいS姉、岩手出身の優しいM姉=写真=など。

「下宿はイヤだ。女子寮がいい、女子寮に住むう~」
ある日とうとう母の部屋で、私が駄々をこねた。
それを聞いた母は、なんとも苦しそうな表情を見せ、歯を食いしばる
ようにして私を見つめ、そして私を叩いた。その後、母もさめざめと
泣いた。。


強いと思っていた母が涙した顔には、あっけにとられた。驚いた。
三洋電機に入社の話があった時、私にあれだけ「女子寮勤務は別居が
前提。一人でやっていけるか」何回も聞いた母。その時はノーテンキに
OK、OKといっていた私。
言ってはならないことを口にしてしまい母を困らせてしまった。

その日はしぶしぶ下宿に戻ったが、しかし母の方は事を強く受け止めた
ようだった。母は再び、転職を考え行動した。
某楽器会社の保養所が葉山(神奈川)にありそこの管理人に採用すると
上京し面接まで受けたという。
「どうする一郎、一緒に住めるようになるよ。葉山に行こうか?」と母。
そこまで考えてくれた母の気持ちは、とても嬉しかったが、私は迷った。

寮生の一人が、
「私たちも寂しいけれど、イチローちゃんも寂しいよね。
だけどイチローちゃんのお母さんは、(寮生)みんなのお母さんでも
あるんだよ」と言ったことばを思い出していた。
寮の仕事に母は、やり甲斐をもっているように見えるし女子寮の人達を
前に、自分のわがままだけで母と葉山に行っていいものだろうか。

「葉山には行かない。お母さんは三洋の仕事を続けて。(僕は)なんとか
頑張るから」
母は、私の気持ちを聞き従ってくれた。
これまでも母は、私が小学生時分にあった再婚話のときも相談してくれた。
そのときも「新しいお父さんは要らない!」の私の意見が通った。
母自身の考えも、もちろんあったと思うが今度も母は“事前協議”をし
私の意向を汲んでくれた。(つづく)


【写真】消防車まである三洋守衛所付近。
    守衛さん、寮生のお姉さん達、北中生の僕。

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【中学下宿記】(10) “いじめ”に遭遇

2009年10月26日 | 中学生下宿放浪記
南中には授業進度の遅れ以外、いやなことは何もなかったのですが、
北中学校に転校しました。
同じ学校でも、その年の学年、クラスによってずいぶん雰囲気は違うもの。
しかし、ここで待ち構えていたのは“いじめ”だった。
ジェリー藤尾のような感じのクラスのボス、U君にカモにされてしまった。
理由も無く授業中、ずっと私を睨みつづけ「休み時間になぐるぞ」と脅迫する。
言われた私はそわそわして授業どころではなかった。予告通りいつもなぐられた。
しかし誰も止めない。そんなことが日常頻繁になっていた。それでも私はなぜか
抵抗しなかった。今思うと無抵抗が反っていじめを助長したようにも思います。

それまでは売られたケンカには必ず応戦し、やられっぱなしなどということは
なかった。それはケンカをしても、周囲の友人たちが私を支持してくれている
というどこか確信と安心感があったからだ。
ここでは、まったく勝手がちがう。というのも、転校生=“異邦人”であって、
まだ学校の様子もよく把握していない。いわば“敵地”にいるようで、それを
証拠にクラスの誰もが助けてくれない、ここに味方はいないと、一方的に感じ
取っていたからだろうと思います。

U君への対応は、
→神の御名においてUの罪を許すべきか。
→それとも体を鍛えなおして逆襲にでるか。

幼い時いじめられたボクシング王者、内藤大助や虚弱だった三島由紀夫と
同じような悩みでした。来るべき「武闘」に備え体力強化も真剣に考えた。

しかし、私は当面、前者の道(相手の罪の許しを神に請う)を選びました。
いじめにより、私の信仰心は高まり、教会へは日曜のみならず一般の大人
たちの平日の礼会にも頻繁に行くようになりました。大泉町内の街角で、
聖歌を合唱し、伝道布教活動にも積極的に参加しました。

そうこうしているうち、下宿先のM家の次男、K君とケンカをしてしまった。
内容はささいなことですが、このケンカにK君のお父上が“参戦”。
私の立場は危うくなりました。
学校でも下宿でも気の休まらない“対決”の日々がつづくのでした。
                           (つづく)

【写真】大泉町立北中学校の徽章

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愛唱歌「花嫁人形」

2009年10月24日 | 音楽
きょうの公開講座(関東短期大学)は「愛唱歌を訪ねて」。
乙部はるひ講師が、懐かしい曲集を解説してくださった。

印象に残ったのは、「花嫁人形」。
むかし、持っていた歌の絵本にこの曲が載っていました。

「なぜお嫁さんが泣いているの?」と本を指し私が問うと
母は、
「お嫁さんは悲しいものなのよ」とだけ。

歌詞の意味がむずかしく、暗い曲だなと思っていました。
今月、花嫁の父を演じ
「悲しいもの」の意味がちょっとばかり分かりました(笑)


♪--------------------------------------------------

金襴緞子(きんらんどんす)の 帯しめながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ

文金島田に 髪結いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ

あねさんごっこの 花嫁人形は
赤い鹿の子の 振袖着てる

泣けば鹿の子の たもとがきれる
涙で鹿の子の 赤い紅にじむ

泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
赤い鹿の子の 千代紙衣装



【写真】作詞は蕗谷虹児(新潟県新発田市出身)。新潟の記念切手。


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「たくさんのバラと幸せ」 in 浦安

2009年10月23日 | 音楽
終始、涙目の花嫁姿の妹に贈る姉、桂 宏美の自作オリジナル。

歌詞のように「まーぶる」な新しい二人の歩みを願って。

今月3日、浦安市内、結婚式場での一シーンです。



桂 宏美 「たくさんのバラと幸せ」 in 浦安





Dear My Friends
桂宏美
インディーズ・メーカー

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【中学下宿記】(9) “教会”そして“農繁期”

2009年10月21日 | 中学生下宿放浪記
この頃、東京三洋電機の近くに小さなキリスト教会があることを発見。
私は小学生のころから前橋市内の教会の日曜学校に通っていました。
きっかけは、両親が熱心なクリスチャンの級友M君の強い誘い。
教会での思い出は、サンタさんが登場する楽しいクリスマス。今でも
クリスマスが近づくと教会に行ってみたい衝動にかられます。それと
私たち子供班の担当だった若い女性信者さんの死。皆で遊びに行った
こともあるその優しい先生の突然の昇天はショックでした。
本格的なキリスト教式葬儀は、その時初めて経験しました。
人の死の余りのあっけないことも子供心に知りました。

懐かしさもあり気楽な気持ちで、大泉のキリスト教会に入りました。
前橋では「讃美歌」、大泉は「聖歌」、またちょっと違いを感じました。
もっともこれは、同じプロテスタントではあっても宗派のちがいでした。

さて、教科書の進み具合の差は気になり、意を決して、ある日放課後、
職員室を訪ねました。担任のH先生は、穏やかに笑顔で私の話を聞いて
くださったが居合わせた何人かいた先生の一人、ベテラン風の男の先生が、
「この辺の中学生には農繁期というのがあるのだ!知っているか?農繁期!?
みんな仕事を一生懸命手伝うのだよ。だから(勉強が)遅れてもしかたが
ないんだ」と叱るように言われてしまった。

たしかに中学生が農繁期に家業の手伝いをするため勉強に支障が
出ているのでしょう。
それに先生方は授業の遅れを“抗議”に来た生意気な転校生と
見えたのかもしれません。
しかし職員室を出た後も、どうしても納得することができず私は今いるM家
の通学地域である北中学校への転校を決意しました。(つづく)


【写真】当時の下宿先、M時計店近くの三叉路
    (社内報「東京サンヨー」1961年)

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デオデオ上尾が閉店、新店名に

2009年10月20日 | 地域・一般
今年1月、デオデオ太田が寂しく閉店しその場所はいまだ空き家状態。
太田店が消えた後も、私はデオデオのeeカード会員を続けていました。

業務を引き継いだ形の上尾中央店でしたが、それも来月8日で店じまい。
その後は「ishimaru上尾中央店」としてリニューアルオープンの予定。
グループのエディオン系列には変わりはないという。

行こうとは思っていたものの太田店が閉じた後、上尾中央店にはとうとう
一度も足を運んでいません。
デオデオではパソコン、周辺機器を中心に購入していた。5年間保証は
とても魅力的で、何回か利用し、無料修理の特典を受けていました。
それでも今後の利用頻度を考え本日をもって、会員を解約しました。

デオデオは量販店の中では、お店の雰囲気が良く好感を持っていました。
熾烈な販売合戦に、紳士的なお店は苦戦を強いられていたのでしょうか。
再び巻き返し、空き家の太田店での再開は、かなわぬ夢か・・


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【中学下宿記】(8) 商家での生活

2009年10月19日 | 中学生下宿放浪記
今度のM家は一転、大泉町のメインストリートに面した時計店。
通学区域としては、北中学校になりますが、私はしばらくM家から南中に
通っていました。その頃、新小泉駅で自転車と再会してからはぐっと行動
範囲が広くなっていました。

M家は、お店が閉まった後も夜遅くまで両親が忙しく働いていました。
そのため子供たちは皆自立心が強くしっかりしていて、それぞれ自室で
勉強や家事手伝いを自分から積極的にしています。
高校生のお姉さんは制服姿で台所。物静かなお兄さんは勉強。
私と同じ年の中学1年男子も規則正しく机に向かっていました。
可愛い小学生の妹さんがいて、新入りの私の親切な“味方”でした。

それに猫がいた。家族の布団の中を巡回。猫好きの私のところにも回数は
少なかったもののたまにやってきました

ご商売も順調のようで、良いご家庭でした。

次男で北中生のK君は、毎朝6:00からのNHKラジオ講座「基礎英語」を隣室で
聞いていた。私も負けないで同講座を自分のラジオで聞いた。
しかし眠くて目が半開きの状態。余り身にしみていなかったように思います。
芹沢栄先生の元気な「How are you,Friends」だけは今も記憶に残っています。

北中のK君と南中の私の教科書は、まったく同じ。彼が私の部屋に来て、
教科書の進捗状況を比較していきました。同じ大泉町内の中学校なのに、
南中の方が明らかに多くの教科が遅れていたのです。特に理科では、北中の
半分位しか教科書が進んでいなく、このままでは学年末にかなりの差が出ると
不安になってきました。           (つづく)


【写真】当時の東京三洋電機東門付近。
    毎日、自転車で東門経由、母のいる女子寮通いでした。


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ヴィオリラとピアノのコラボ

2009年10月18日 | 音楽
昨日は神奈川県相模原市でコンサートでした。

会場は橋本駅近くの「サンエールさがみはら」
近くには30階建ての高層住宅がひしめき、びっくり。

「土曜コンサート 第10回カジュアルピアノコンサート」

出演はピアニストの寺岡大悟氏、西山英里さん(ヴィオリラ)
そして桂宏美(ヴィオリラ/ヴォーカル)。
    

先着220名限定ということでしたので、2時間以上前に会場へ到着。
毎回好評のコンサートとみえ、会場はすぐに満席に。
カジュアルピアノコンサートのコンセプトは、大泉町で定期演奏を
されているヴァイオリンの古澤巌氏にも通ずるものを感じました。
普段着の合うリラックスした雰囲気での演奏会でした。

ダイナミックな大悟さんのピアノとヴィオリラ二重奏。
なんとも迫力がありました 。

ブログに紹介するときは、結果ばかりでなく、予告も必要ですね。
遅れ参考サイト↓
http://www.4902.com/mem_daigo/pg76.html
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『八ッ場ダムの闘い』 萩原好夫著

2009年10月16日 | 研究・書籍
著者は1916年(大正5年)群馬県川原湯の生まれ。家業の温泉宿を親の代
から受け継ぎ、水没住民の立場からダム建設行政と対峙してきた人。

本のタイトルからして「反対派」と思いきやスタンスは中立、条件付賛成派。

ダム建設の発端は、1952年(昭和27年)川原湯村民が集会所に集められ、
そこで建設省の役人が
「ここにダムを造る。この村はざんぶり水につかりますな」
の“水没宣言”から始まったという。
これは、成田の新国際空港の用地決定(1965年)とも同じで成田も「内容は
一方的であり抜き打ち的であった」(当時千葉県副知事川上紀一氏・手記)。

中立派代表の著者は、当初、建設省の関東建設局長や国の交渉窓口である
八ツ場ダム事務所長とも互いに気心が知れ、次第に信頼関係も生まれた。
しかし本書出版の1996年現在で、すでに局長は何人も代わり、事務所長も
10人目を数えるほどになっていた。官僚側は、選手交代を多用し、常に
強い姿勢で住民に臨む。一方、村民側には選手交代はない、できない。
ただただ消耗するばかり。反対派、賛成派の中心メンバーも老齢によって
他界し、住民の力は日に日に弱体化していった。

著者は、ダムの社会的科学的必要性がどのようなものかを冷静に知ろうと
していた。この姿勢は高く評価できます。時代の逆行でなく、また単純に
感情に走ることなく正しいダム造りは正しい補償の上にのみ成り立つ、と
いう見解を終始もっていた。
生活再建を優先し、生活再建は住民主導で、が著者の基本主張だった。
しかし国→県→町の天下り行政は、常に住民を裏切りつづけたという。
先の見えないたたかいに地元民は一人残らず疲れ果てた。
権力は一見遠回りにみえても時と共に重圧と化していく。素朴な村民は
相手の正体も判断できぬまま・・

著者はすでに亡くなっています。
著者を大叔父とする萩原渉氏は今、八ツ場ダム完成を推進する自民党県議。
補償交渉委員長だった息子の礼人氏は都内に転出。

あまりにも長すぎたダム建設であり闘いでした。
2001年には用地買収の補償基準調印が国と水没住民とで交わされている。
この問題に関しては、政権交代があと10年早かったらと思われてなりません。

本書は、中古市場で高値を付けています。それだけの価値はあります。
ただ多くの人に読まれるためにも

岩波書店さんにお願いです!
早急に、本書の復刻版を発行してくださ~い。


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八ツ場ダムの闘い
萩原 好夫
岩波書店

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ハイテク・クラシック・サロン

2009年10月15日 | IT関連
中原 紀氏(三洋電機元役員、理学博士)を講師に今日、第3回のハイテク・
クラシック・サロン(洋友会主催)が開かれ聴講しました。

テーマは「インターネットの起源を巡る興味ある話題とその後の経緯」。
コンピュータ間通信がどのようにして実用化されてきたか。

米国では核攻撃の対応策としてインターネットの原始的な構想が生まれた。
他方、英国ではコンピュータの“サイエンス”としての研究アプローチだ。
データ・パケットという考え方はBPL研究所(英国)から始まったもの。
便利になったインターネット社会ですが、問題点も指摘される。
個人思想が他者に把握されるおそれ。機器はalways-onで電力消費増大、等。


わが家のパソコンを初めてネットに接続したのは1995年12月24日夕刻。
あまりにも印象深く、今もしっかりその日を記憶しています。
最初にアクセスしたのが米国ホワイトハウスのホームページ。
ゆっくりと幕が上がるようにしておごそかにホワイトハウスの白い建物が
パソコン画面に現れた時は感激でした。
プロバイダーは、三洋がサービスを始めたばかりのSANNET。
通常の電話線につないだモデムはピポパポの14400bps。
ブラウザはnetscape1.1、OSがWindows95、CPUはintel486SX、
メインRAMがなんと8MB。HDD、273MBの仕様。

わずか15年にして、今のパソコン環境とは隔世の感があります。
ネットは便利にはなりましたが、落とし穴もあります。何事も「諸刃の剣」。

身近になったインターネットです。
その起源と経緯を振り返る良い機会になりました



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【中学下宿記】(7) 小さなカルチュアショック

2009年10月14日 | 中学生下宿放浪記
大泉町に来て、同じ県内なのに何かとちがいがあることに気付きました。

大泉では言葉の語尾に「だにぃ」と言う。「だんべ」は群馬県内共通ですが、
その「だんべ」の発音も大泉の方がアクセントが弱いように感じました。
語尾の「だにぃ」に対して、前橋の語尾は「きゃ」であることも知りました。

こちら大泉では「東毛(とうもう)」という名称をよく使用します。
近々、書道の東毛大会、球技の東毛大会がある、と聞いても私には意味が
分からなかった。群馬県東部地域=東毛。対して前橋、高崎は中毛ですが
前橋では「中毛」を冠にした行事はなく、日常的には用いられません。

教科書も数学以外は、全部新しいテキストを揃えました。
英語はJACK&BETTYでなく、主人公はTOM&KATEだったように記憶しています。
剣道部の掛け声も少し異なっていて、「エイトー」と「エイヤー」のちがい。
当然ながら中学生に人気のある高校名も異なっていました。

いたずらっ子が授業が終わり、帰り支度の私の所にやってきて、卑猥な替歌を
盛んに披露して私の顔をのぞき見る。隠語を多分に織り交ぜた曲なのですが、
その子がさかんに口にした「おかま(※)」の意味が分からず無反応な私に、
多少落胆し不思議そうにして去ってしまった。

※「おかま」=「尻の異名」(広辞苑)。

ただ大泉南中は、私にとって先生も生徒もあたたかく良い中学校でした。
下宿先のW家にも特に不満もありませんでしたが、ある時、母から町内の
M家の奥さんがご好意で、私の面倒をみてくださるということになり、
下宿を移ることにしました。             (つづく)

【写真】旧校名が今も残る大泉南中の南校門


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【中学下宿記】(6) 農家に下宿

2009年10月11日 | 中学生下宿放浪記
最初に下宿したのは、大泉町仙石の専業農家、Wさんのお宅。
その家には、娘さん2人と両親の4人家族。私には玄関南の部屋を一室貸して
いただきました。辺り一面、林と畑で、本で読んだかぐや姫の物語に出てくる
ような佇まいでした。
今でも農家が舞台の夢を見るときは、このW家がベースになって現れます。

娘さんは、長女が私と同じ中学1年生。中学を卒業したら家を出て就職すると
言っていました。名前は早苗さん。農家らしい名前でしたので覚えています。
妹さんは小学校高学年、私をいつも珍しそうに見ていました。2人ともシャイで
大人しい少女たちでした。
この家は、ずいぶん前に引っ越されたのか今はありません。皆さんどこに
行かれてしまったのでしょうか。

大泉町立南中には、W家から徒歩で通いました。
とにかくに母の住むところにやってきて寂しさは多少、なくなりましたが
それでもまだまだ十分ではありません。母恋しさで三洋電機女子寮には毎日
欠かさず行ってました。

W家の近くに新小泉駅がありました。(1975年廃止の東武仙石河岸線貨物駅、
所在は今の町立体育館付近)
前橋の祖母の家に置いてきた自転車をチッキ(託送手荷物)で送ってもらい、
ある日、新小泉駅に取りに出向きました。貨車の荷物の上に横になっている
懐かしいクリーム色の愛車と再会したときは嬉しかった。山口自転車製、3段
切替え、自慢の軽快車でした。

カメラ好きの私でしたがW家、新小泉駅などの写真が一枚もないのが残念です。


【写真】大泉南中の徽章

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