ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

姿消した東京三洋電機女子寮

2019年03月08日 | 中学生下宿放浪記

(中学生下宿放浪記番外編)

広大な正四方形の三洋敷地の南西に位置した女子寮、今は跡形もなく姿を消しました=写真。

親和寮、啓明寮、淑徳寮など最盛期は5つくらいの建物があったような気がしています。洗濯場では、自社製の当時最新のサンヨー2層式洗濯機がずらりと並び爽快でした。

歌手の森山加代子さんが亡くなりましたね。合掌。
坂本九とコンビを組み「九ちゃん・加代ちゃん」と親しまれ一世を風靡したアイドル。彼女は北国のお寺さんの子だったというような話を聞いたことがあり中学生だった私には、東北出身者の多かった女子寮の皆さんと森山加代子のイメージがどことなくダブって見えていました。。

 

 

月影のナポリ(森山加代子)

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懐かしい東武・新小泉駅

2016年07月25日 | 中学生下宿放浪記

当広場のカテゴリー「中学生下宿放浪記(6)農家に下宿」のアーティクルで新小泉駅については触れていますが、写真を撮っていなかったことをとても残念に思っていました。記憶の中にだけ残っていた新小泉駅の写真がきょう見ることができ嬉しくなりました。記憶の中の駅は1960年代初頭であったこともあり、駅名の文字も鮮やかで活気を感じたものでしたが・・。

ポポロの広場2009年10月11日より)

大泉町立南中には、W家から徒歩で通いました。
とにかくに母の住むところにやってきて寂しさは多少なくなりましたが
 それでもまだまだ十分ではありません。母恋しさで三洋電機女子寮には毎日
 欠かさず通っていました。

 W家の近くに新小泉駅がありました。(1975年廃止の東武仙石河岸線貨物駅
 所在は今の町立体育館付近)
 前橋の祖母の家に置いてきた自転車をチッキ(託送手荷物)で送ってもらい、
ある日、新小泉駅に取りに出向きました。貨車の荷物の上に横になっている
懐かしいクリーム色の愛車と再会したときは嬉しかった。山口自転車製、3段
 切替え、自慢の軽快車でした。

カメラ好きの私でしたがW家、新小泉駅などの写真が一枚もないのが残念です。

きょうの上毛新聞ニュースに新小泉駅の写真が掲載されていました。
記事は以下。

《消えた鉄道 今昔》貨車が砂利や製品運ぶ 西小泉―仙石河岸
 群馬県大泉町にあった貨物専用線、東武鉄道仙石せんごく河岸がし線の西小泉―仙石河岸間(3キロ)は、1976年に廃止された。
 鉄道史学会員の原田雅純さん(66)=高崎市=によると、利根川の砂利を運搬するため、39年に開通した。

【写真】貨物専用の新小泉駅(1971年 原田雅純さん撮影上毛新聞ニュース


悲しき鉄道員 (1970年)  ショッキング・ブルー(オランダ)

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基地の街だった大泉町  (番外)

2010年06月05日 | 中学生下宿放浪記
私が中学1年のとき、前橋から大泉にやってきて初めて広大な敷地の米軍基地に接したときの印象は「すごいなぁ~。こんな所があったのか。」と驚嘆しました。
英語文字の立て看板が所々にあって、まるで大草原のような異空間。「カッコいい~!ここは日本じゃない、外国だ、アメリカだ!」

異国情緒にあこがれる一方、余り使用されているように思えない空きスペースに、しだいに疑問も芽生え始めたものです。

高校へ通学するある朝、自転車でいつものように専用道路(※)を通って太田に向かっていますと、米兵(日本人のような顔つきの兵士でしたので日系人?)が、たいまつを炊いた道路に立っていて「迂回しろ」と手を横に振ります。
朝の通学時は、分刻みで急いでいるだけにむっとしました。ここは日本の道路なのになんで突然閉鎖するのだろうか、と思いました。このような事は、一度だけでなく何回もありました。今時の道路工事中などでは、警備の人が愛想よく誘導してくれますが、それとは違った雰囲気に感じました。

大泉から自転車で一緒の同級生に、私が不満を込めてこの事と、さらには使われていない大きな基地がいつまでもこの街にあることに変だと思わないのか尋ねてみました。しかし友人は冷静で「別になんとも思わない、基地は昔からあるから」との返答でした。

最近、基地問題のTV報道の中で、沖縄の青年たちに基地の存在についてマイクを向けると「生まれた時から基地はあるから、特になんとも思わない」と聞いたとき、私が高校時代に友人に投げかけた質問を思い起こしました。

本土がいわば「前橋」、基地のある沖縄が「大泉」で、長くそこに住むものによって感じ方にずいぶん違いがあるものだなと思いました。
しかしこの友人も、その後しばらくして、私の質問の影響かどうかは分かりませんが、広い土地が有効活用されていないことには納得できない、と言うように変化していきました。



(※)【専用道路】大泉町(西小泉)から太田市(新島町方面)に行く道は、大戦中は、中島飛行機小泉製作所で出来上がった軍用機を試験飛行で移動するための専門の道路だったことから、地元では「専用道路」と呼ばれるようになったそうです。専用道路には、直線のものと、L字形の迂回路の2系統がありました。現在、利用されているのは迂回路の方です。直線の道路は、返還後は富士重工のモータープール内に解消され今はありません。

【写真】1960年代、高1の筆者と友人の弟。場所は、今のスバル公園付近。

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【中学下宿記】(31) 下宿生活から学んだこと

2010年01月22日 | 中学生下宿放浪記
中1の大泉町仙石の農家W家から始まり中3の前橋市前代田のO家まで、
実に中学時代に9軒の下宿を経験しました。3学期制でしたから単純に
3年の間に「1学期1下宿」というような割合になります。転校は3回。
リヤカー1台、めまぐるしい引越しの繰り返しでした。

下宿は、いわゆるホームスティともよく似ていますが、私の場合は親元が
「女子寮」で、そこは認知されていない、帰れない「ホーム」でした。
それだけにしばしば突きつけられた「出て行け!」の最終通告には辛い
ものがありました。

高校時代になると、すっかり落ち着き、大泉町坂田のS家(大東館)に
下宿し、長く留まりました。
ここ大東館も9番目の前代田O家と同じように、奥さんがお膳を部屋に
運んでくれました。食事は部屋で一人。その家の人達との接触する時間は
少ない。これは、感情的な対立が起こりにくいベターな方式でした。

人間関係は、友人、恋人、師弟、上司部下でも当てはまりますが、最初は
急速に親密になります。しかし時間が経つと、互いの欠点が目に付き次第に
失望へと変わることが多い。密着し過ぎるとそれだけその反動が大きい。

初めは、どこも「ウチの子と同じように預かります」と言ってくださる。
これは誠、まったくその時点では、ありがたいほど善意なことなのです。
しかしそこの家の子とはちがい、日ごろから気に入らない事があっても、
どうしてもお互いに遠慮し合って感情を抑えている。真の親子の場合は、
その時、その時で、叱ったり反抗したりして言い合う分だけに鬱積した
ものはなく、コミュニケーションの免疫もできあがっています。

しかし下宿人の子はちがう。それが何かひとつの過ち(テープレコーダ事件)
をきっかけに爆発し「こんな子とは思わなかった」「さあ出て行け!」と
いうことになります。これは、他人の家に嫁いだヨメの立場にも共通した
ものを感じます。下宿人もお嫁さんも立場は弱い。

ただ、真の親子でないので、もしハズレだと判断したら直ちに退去し関係を
解消することが可能です。本当の親子は選べないし、簡単に縁を切れない。
下宿の子は、互いに選び選ばれた関係なのでいつでも離れられます。

基本的には、下宿人は「客人」であり「他人」なのです。
それを無理に「うちの子」と同じと思うと摩擦が起きるのです。
まさに嫁・姑の関係ですね。

私の推薦する格言です。
凧を飛ばして雷が電気と発見した米人、B・フランクリンの言葉。
-------------------------------------------------------
「結婚前は両目を大きく開き、結婚後は半分に閉じよ」

Keep your eyes wide open before marriage,
             and half shut afterwards.
-------------------------------------------------------

私の下宿生活の失敗ケースを倒置的に転じて考えてみますと

「下宿前は目を半分閉じて、良い子だ、良い子だ。
 下宿後は両目を大きく開いて、こいつ本当は悪い子だ。出て行け!」

このことわざは「結婚」の他にも、広く人間関係一般についても当てはまる
のではないかとかと感じます。職場や学校などの様々な人との交わりの場で。

「人」と「人」、そして「人」と「組織」。
そこに生まれる「期待」と「失望」・・

その様なことを、中学時代の下宿生活を通して感じ取ったような気がします。

「中学生下宿放浪記」は今月に入り、後半分を一気に書きつづけました。
元になる「日記」はありましたが、当時のことが今でもはっきり一つひとつ
思い出されるのは、それだけ中学生だった私にとって下宿生活が、刺激的な
出来事の連続であったからなのではないかと思われます。

母が亡くなった1986年は、まだ長子が小5でした。
生前、「子供たちが中学生になったら、お父さんの中学時代は大変だった、
ということを、しっかり聞かせるといいよ」と話していました。
つたないこのブログが、父から子へのささいやかな伝承になっていれば
幸いです。

当ブログ左側「カテゴリー」欄に、「中学生下宿放浪記」の過去ログが
(1)から収められています。ぜひさかのぼってご笑読ください。

最後は、前橋市内の映画館で母と見た「シェーン」の名場面とともに
終了にいたします。
当放浪記シリーズ、永らくのご閲覧、ありがとうございました。
(おわり)


【写真】12~13才ころの筆者。横の火鉢が懐かしい。

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Shane, come back!


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【中学下宿記】(30) “下宿道”を指南

2010年01月21日 | 中学生下宿放浪記
ちょうど時が3年経過して・・
高校3年の時、前橋一中の友人、離れた別のクラスでしたが、ハンサムで
学校一の美男と言われた“ミスター・一中”ことM君のお母さんが、前橋
から、わざわざ私の下宿先(大泉町坂田S家)までやって来られました。
主に母親同士で親密に話しをして帰りました。当のM君は現れていません。

M君については、こんな思い出があります。
彼とは時々一緒に下校しました。あるとき、校舎2階の窓から女子下級生達が
身を乗り出すようにてキャーキャー叫けびこちらを見て、さかんに手を振って
いるのです。最初、不覚にも私は、まけずに愛想良く手を振り返していました。
横のM君は、はにかんでうつむきかげん。すぐに気がつきました!
彼女たちの視線は横にいる美男M君に対してであって中学下宿人の方ではない。
なんとも気恥ずかしい限りの一場面でした。

その美男M君のお母さんの突然の来訪目的は、春から理科大に入学するM君が
初めて親元を離れて下宿をすることになるという。そこで事前に下宿の探し方、
下宿人の心得、ノウハウ?など下宿全般に関して当方から聞いて参考にしたい
ということでした。

母も最初びっくりしましたが、これまでのつたなくも豊かな?苦い経験の数々を
M君のお母さんに語っていました。

こうしてみますと3学年15クラスあった前橋一中の校内で、私の下宿珍生活は
けっこう“有名”になっていたのかもしれません。卒業後も、こうして未経験者の
方が訪ねて来られ、下宿道を指南するまでに至った私とは・・果たして何者・・
下宿スペシャリスト?下宿マニア?下宿道の達人??
そう思いますと、なんだか顔におヒゲがはえてきそうな気分になりました。(つづく)


【写真】下宿人の必須アイテム、お引越しの“友”、リアカー。

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【中学下宿記】(29) 母子家庭激励会

2010年01月19日 | 中学生下宿放浪記
前代田(現前橋市南町)のO家は、奥さんが部屋にお膳を運んでくれて、
下宿人や家族の人達と一緒に食事をしない。これはこれまでの下宿には
なかったパターン。済んだ食器は、廊下にある大きな共通の机に置きます。
それぞれ自室で食事をすることで人との交流はありません。いわばクール
な関係の仲に時が過ぎていきます。やや大人びてきた中3の私にはぴったり
の下宿でした。
庭には井戸があり、そこで洗濯をします。まともに自分で洗濯をした記憶は
このO家の下宿だけの気がします。

これまでの喧騒の中にいたような生活が一変し落ち着きました。
生活環境というものは、精神状態へも大きく影響を与えるものです。

部屋でレコードを聴いていました。仏映画主題歌「太陽はひとりぼっち」。
僕も独りぼっちか・・などと感傷に浸っていましたら、接近している隣の
家から男の人の声がします。
「おーい、それレコードかい?もっと音を大きくして聴かせてくれ~」
「は~い、もう一回かけますよ~」
レコードをかけていてうるさがれたことはあっても、アンコールがあった
ことは初めて。この下宿の居心地の良さを象徴するような思い出です。

進路の迷いもありましたが、よくよく考えますと自分には贅沢な悩みとも
思いました。
3学期に入りますと早くも就職の内定が決まります。卒業後は上京し就職
する友もいます。自ら働きたいというなら良いのですが、どうも親の経済力
によって進路の選択が制約されている生徒が多いように思い、世の中の
不合理さを感じました。

最近では考えられないことです。今は親世代に余裕ができ、高学歴化が
進んでいます。親が進学を勧めても子が応じないケースまであります。

卒業近くのある日、校庭に十数人が集められ、目的も告げられず引率する
先生の後について、県庁前の群馬会館に行きました。そこは前橋市が主催
した「母子家庭激励会」会場でした。3学年750人中、わずか十数人でした
から、いかに母子家庭の家が少なかったかが分かります。女性が子供を
抱え自立して生きるには困難が多すぎました。帰路、お互いに話をすると、
高校の普通科に進むのは、私しか見当たりません。顔見知りの秀才のNG君
がいましたが、彼は高校卒業後は就職するので商業高校に進むという。
優秀な生徒が、経済的な理由で、思ったようには進学できない時代でした。

母に聞いても母子家庭への福祉施策はほとんど何もない状態。そうすると
激励会の会場でいただいたアルバムが、唯一の“公的援助”ということに
なりそうです。(つづく)

【写真】前橋市主催の母子家庭激励会で贈呈されたフォトアルバム。


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太陽はひとりぼっち

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【中学下宿記】(28) 《進路問題》 親の立場、子の立場

2010年01月18日 | 中学生下宿放浪記
前代田のO家は、数えると9番目の下宿先、時は12月師走でした。
この時期になりますと、卒業後の進路をめぐって各家庭では親子
で将来を話し合うことになります。私と母も進路について意見を
たたかわせました。これまで転校、転居については、私の意のままに
追認してきた母ですが、ここで初めて自身の希望を述べました。
それは前橋地区の高校ではなく、東毛地区の高校を選ぶことでした。
私は、前橋での進学を考えていました。。

ふと省みますと私は、再び前橋に来てからは母の存在を忘れてしまった
かのようでした。何か騒動があった時だけ母にすがりついているような。
要所要所では、常に親の力で軌道修正してもらっているのに。
追い出されたのは、テープレコーダ事件、揚げ物屋、カレーばあさんの
3件、さらに母はなんといっても食事、洗濯、それに不規則になりがちな
生活習慣を案じていました。

母は進路については、最終的には子の私の判断だ、とは言っていました。
ただ親としては、東毛の高校を勧める、といつになくきっぱりと意見を
示しました。

前橋に来てからは、時々大泉で過ごした生活の日々が夢に出てきました。
社日様、S家のあばさんの涙、キリスト教会、壮大な米軍基地の景色、
そして女子寮のお姉さんたちの温かさ・・
この先の下宿放浪の中で、次の騒動でもう母に心配は掛けたくはないし・・

前代田のこの下宿の住人は、学生と社会人の混成。
隣りの部屋の群馬大学の学生と親しくなりました。一緒に市内の風呂屋で
話しもしました。学芸学部(今の教育学部)体育教師志望の人でした。
私の進路についての迷いを話すとその大学生からは、
「君はお母さんのことを、もっと考えなければいけない。きっと心配している。
お母さんの近くに帰って安心させるべきだ」と教育者の卵らしい助言でした。

この人と同じようなアドバイスは、雑誌「中学時代」を買いに行っていた
前橋駅前にあったT書店のおじさん(叔父と旧制中学の友人で脱サラ店主)
からも頂きました。
「ぜひ大泉に帰ってお母さんの近くに住み心配をかけないで親孝行しなさい」
又、信頼していた隣りのクラスのN先生も大泉に戻ることには賛成でした。

親子が人生で初めて対立するのは、どの家庭でも子の進路をめぐってでは
ないでしょうか。

進学か就職か?
進学先はどこか?
就職先はどこか?
そして究極は結婚相手でしょうか。
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親のスタンスは・・
(最初)長い経験からの自説は堂々と述べる、但し押し付けでなく。
(最後)子本人の判断を容認し応援する(折れる)。
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子のスタンスは・・
(最初)親の忠告、体験談は、十分聞き参考にする。
(最後)自分の人生は自分で決める。
------------------------------------------------------------

もし大泉に戻るには、前橋と東毛地区では学区が異なり住所変更を
しなければなりません。早々に決断をしなければならない時期に
来ていました。
母とも激しい討論をする中で、私は再び東毛(大泉)に戻る選択を
しました。(つづく)

【写真】1960年代の前橋一中


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【中学下宿記】(27) 下宿探しで知る人の情け

2010年01月17日 | 中学生下宿放浪記
「逆境の時こそ真の友」ということわざがあります。
ほんとうに自分が追い詰められた時、人の情けのありがたさが
身にしみました。

Yおばさんは、市之坪のお婆さんの代理人、不動産屋さん役。
「出て行け」といわれたからには、長居は無用、また旅支度です。

時は、3年2学期後半のころでした。自分でも積極的に下宿探し
をしました。
まずは、身近なクラスの親しい友人から。
その一人がF先生から「小泉に帰すよ!」とひどく叱られた時のA君。
彼の家は廃品回収を営んでいました。事情を知ったA君は、
「うちに来てもいいよ、家族もオーケーだよ」
ありがたかった。早速彼の家に行きました。しかし家の中は、外から
見るよりも狭く、とても私の部屋を確保することはむずかしいし迷惑
がかかると思いました。弟(中1)も出てきて、嬉しそうでした。
困っていた私にとって、A君の友情、A家の人達のご好意は、本当に
ありがたいものでした。

今風にいうならさしずめ“宿活”(下宿探し活動)とでもいいましょうか。
次は、大きな屋敷に住む別のクラスの友人S君の家に狙いを定めました。
外観からして広そうで一部屋くらい貸してもらえるだとうと見当をつけ
直接、S君のお父さんの姿をみつけ、庭から声をかけて頼み込みました。
「S君のおじさん、こんにちは。こちらに下宿させていただけませんか」
「なに?下宿?ダメダメ、ウチは下宿屋じゃない」
「今、住んでいる下宿から追い出されるのです。なんとかお願いします」
「ダメダメ、ダメ」

断られても当然なのですが・・元軍人の偉い将校さんだったと言われている
S君のお父さんのなんとも冷めたかった反応・・。
大きなお屋敷をしみじみ眺めながら引き返しました。

今度は同じクラスのN君。家では日本舞踊や三味線を教えているおうち。
N君とは、洋楽のポピュラーファン同士で何度も遊びに行っています。
可愛い妹さんたちとお祖母さんもいる温かい家庭。
「下宿してもいいよ」とN君に言われた時は、これまた本当に嬉しかった。
A君といいN君といい、この人達の情けは、一生忘れることができません。

一方、母も必死で探していました。
N君のところにお世話になろうかと思っていた矢先、母が前代田(今の
南町)に下宿専門の家をみつけてきました。
どうして見つかったのか聞いてみますと、途方にくれて歩いていると
まったく偶然に「下宿あります」の張り紙が貼った屋敷が有って、
すぐに予約をしてきたと息を弾ませての報告。まるで神様のお導きの
ようでした。

今でも外出先などで歩き、ふと古い二階屋の家が目に止まりますと、
この家に下宿したらどんな生活になるのかな、などとつい思いをめぐら
してしまいます。(つづく)

【写真】カメラ小僧だった小学生の頃からいつも一緒の愛機マミヤ35S。
私の下宿生活の“証人”でもあります。群馬のマスコットゆうまちゃんと。


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【中学下宿記】(26) 若い衆は外でおしっこを

2010年01月14日 | 中学生下宿放浪記
市之坪のお婆さんの下宿では、カレーの他にもう一つ困ったことがありました。
それはトイレのことです。いわゆるボットン便所です。水槽のようなトイレで
おつりが激しく返ってくるからなのです。トイレに入るのが憂鬱でした。
それにお婆さんは、この家のトイレで私が小便をすることを嫌います。
「若い衆(若い人)ってものは、おしっこは家の外でするもんだよ」
とへんな注意を発するのです。

母に話しましたら、同情して一緒に怒ってくれるものかと思っていましたら、
「酷く貧しい人達は、昔からそうした習慣の中で生活してきたものなのよ。
いい勉強になっているね」と少しも動じないのです。

その後、仲介役のYおばさんは次第に、私にきびしく当たるようになってきました。
最初親切だった人が、徐々に変わる、人間の感情の変化は複雑怪奇です。

日記には「僕は母と話しこの下宿でまだ頑張るといった。それがYおばさんは
気にくわないのか、親に逆らってまでも下宿を替えないわるい子といわれた」
とあります。
そのYおばさんが、修学旅行の前に日、旅行用の弁当を作ってあげる、と言って
きたのを、すでにYおばさんに不信感を持っていた私が受けなかったことが、
いっそうYおばさんの逆鱗に触れました。Yおばさんの善意に、私が素直に
従わなかった、ということです。今思うと、Yおばさんも私のことをいろいろ
気遣っての親切心からでありがたいことでした。きっとYおばさんは
その気持ちが通じなかったことへの苛立ちだったのでしょう。
ちなみに旅行用の弁当は、前日に近くの飲食店に頼んで用意して行きました。

その後のYおばさんは、味方から敵に転じたようになり、前に住んでいた下宿先
(芳町の揚げ物屋さん)のところに行って私のことを調べたり、私の実家(相生町)
の叔父のところにも“抗議”にいったという、「Yおばさん ひどい!」と日記に。

とうとう怒ったYおばさんは私に「下宿を出て行け!」と宣告してきました。
下宿に帰っても、お婆さんとは口をきかない状態になっていました。
「連続カレーライス」の件では、理解を示し他の下宿を紹介してくれたYおばさんが、
今度は「出て行け!」の一点張り。

途方にくれた私は、それでもすぐには母に連絡することができなかった。
これまでにも何回と無く母には私の下宿騒動で呼び出され、そのたびごとに
仕事を中断して前橋まで出てきてもらっている、もう心配をかけたくないと
いう気持ちでした。
Yおばさんに立ち退きを宣告された夜、私が相談に向かったのがなんと、
日ごろ不和であった担任のF先生の家。Yおばさんが同じクラスメイトの親と
言うこともあってF先生に話すのがいいと思い及んだのです。

夜遅くF先生の家の玄関先で、F先生の顔を見るなり涙がこぼれ落ちました。
「僕、下宿を追い出されそうです。。」
突然の珍客にF先生も驚かれたことでしょう。いつもは反発していたF先生で
したがこの時ばかりは、優しい母親のような存在にみえました。F先生は私の
話を聞き善後策を考えてくださいました。石田三成が、追われて政敵、家康の
屋敷に逃げ込んだ時のようでもありました。
ただ、これ以来、F先生に対し徐々に信頼感が出てきたことも不思議な
心境の変化でした。(つづく)

【写真】修学旅行(日光で)

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【中学下宿記】(25) カレー、うまいかい?

2010年01月12日 | 中学生下宿放浪記
今度の下宿は、親しい級友、Y君のお母さんの紹介でした。
市之坪(現在の前橋市南町、一中区域)の一人暮らしの行商の
お婆さんが住む家。久しぶりにまた、お婆さんとの“同棲”です。

このお婆さんは、一体何歳位だったのだろう。細面の昔話に出て
きそうな「婆様」でした。日中は時々行商に出かけて留守になり
ます。文字の読み書きはできない、いわゆる文盲の人でした。
そのため私が、遠方にいるお婆さんの親族宛に、何回かお婆さんの
発する言葉通りに代筆して郵便物にし、差し出しました。

ここでは、私用の部屋はありましたが、前のような離れの独立した
一軒の小屋ではなく、一つ屋根の下なので、来訪者は減りました。

初日にカレーライスが、出たのです。
お婆さんは私の顔を覗き込むようにして、
「うまいかい?」と聞きます。
「うまい、うまいです~!!」
「そうかい、そうかい、うまいかい、うまいかい」

実は、翌日も食卓には同じようにカレーが用意されています。
昨日と同じように、
「うまいかい?」
「はい、うまいです」
「そうかい、そうかい、うまいかい、うまいかい」
ただ私の賞賛のトーンは少し落ちています。

そして3日目、またカレーです!
「うまいかい」と同じように聞きます。
「は、はい・・」
「そうかい、そうかい、うまいかい、うまいかい」

このお婆さんは、カレーライスしか作れないのだろうかと思いました。
私の記憶では、それから1週間以上カレーが続くのです。

志村けんの「だいじょうぶだぁ」のコントの一幕に出てきそうな
お婆さんとのやり取りでした。

ついに、たまらずこのことを紹介してくれたY君のお母さん
(以降、Yおばさんと略す)に相談に行きました。
そうしましたら何とYおばさんは、私が来ることを予期していて、
「実はお婆さんの方から先に、イチローくんの悪口を聞いたよ。
ご飯を出しても最初は喜んで食べてくれたのに、このところ、
むっつりしてよく食べないんだって。態度が悪くなったって」
「おばさん、それには理由があります。毎日、毎回カレーライスなのです。
もうさすがに食べられないですよ」

一応、Yおばさんは、私の言い分を聞いてくれたかのように思えました。
Yおばさんは、それなら他の家を紹介すると言ってくれ、同じ市之坪にある
別の家を一緒に下見に行きました。しかしそこは、階段下の空きスペースの
ような部屋?で、真っ暗。窓がなく圧迫されそうなところに見えました。
ここでは、息が苦しくなると思い、はっきり断りました。
Yおばさんは、断ったことに、ひどく気分を害していたように思います。

そのうち大泉から母がやって来たので、ことのすべてを話ました。
“カレー攻め”だけが、とりあえず問題なので、ここにきて多少引越し
にも疲れが出てきていた私は、「この下宿でもう少し頑張ってみる」と
母に話しました。
母は食事に関することなので、私の健康面をとても心配していました。

当時の日記には、「食事をきちんと取れなかった」と書かれているだけ。
今のようにコンビニがあれば心配ありませんが、たしか焼き芋とソーセ
ージを買って食べていたように思います。
中学校は弁当が基本でしたが、市之坪では、朝と夜はどのようにして
いたのか、カレーのことで、早くも気まずくなったことは確かなのです。
とにかく、毎回カレーライスが続いたことは強烈に記憶に残っています。

後に、私が家庭を持って、食卓にカレーライスが出たときは、子供たちに
コントのようなこの昔話を何回も聞かせました。私がその時のお婆さんを
真似て声帯模写入りで。「カレーだよ、そうかい、うまいかい、うまいかい、
あの時パパは本当に参ったよ・・」と。

「うまいかい」の語尾は尻上がりなのが特徴です。「カレーうまいかい↑」(笑)
ただ、あれだけ食べたカレーなのに、カレーは今でも嫌いになっていません。
好物だったものが、食べ過ぎがきっかけで嫌いになる事はよくあるようです。
ちなみに私の場合は、レンコンとチーズが食べ過ぎて嫌いになりました。
なぜか、カレーライスとは、いまだに相性が良いのは不思議です。。(つづく)


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【中学下宿記】(24) うまかった天ぷら、そしてまた旅支度

2010年01月11日 | 中学生下宿放浪記
揚げ物屋の下宿だったので、美味しい天ぷらをいっぱい食べました。
テープレコーダー事件のIW家のようなひもじい空腹感はありません。
良質な油のせいか体重も増しました。弁当のおかずは、大きな天ぷらが常。
それでもH家の子供たちは、
「母ちゃん、天ぷらは飽きた。もう弁当に入れんなよ」
「何言ってんだい、もったいない事を言うんじゃない、何もなかった戦争中
 に比べたらバチが当たるよ・・」
「いつも同じじゃ食えねーよ」
「バカ!」
親子でケンカ調の話し方ですが、どこかのどかな感じの会話でした。
そうこうしているうち私もいくらか天ぷらに飽食感が出はじめたころ、
いろいろな事がありました。

H家のおばさんは、情が厚くとても良くしてくてました。赤いバイクに
乗った友人が訪ねることを親心で警戒し
「イチローさん、あの子とは付き合うのは止めな」と言って、その友人は
訪ねてきても、私の知らない間に追い返されていました。
少し不良っぽいヤツでも私にはそんなにワルには、見えません。なんせ
転校先の大泉で鍛えられいるので、その基準からすれば前橋一中の生徒は
どの子も不良の名などに値しないかわいい?ものでした。
でも親身になって守ってくれたおばさんの善意は、ありがたく思っています。
実際、来訪者が多すぎて自分の時間が少なくなっていることに焦りを感じても
いたからです。
ただ親切だったこのおばさんとも何かのことで、対立してしまいました。

私と同じ年の三男(前橋二中生)とも、ケンカになってしまいました。
彼と、小学生の四男と私、3人で町を歩いていましたが、何かの話題で
急に三男が怒り出し、
「おい!・・かかってこい!」
と路上でにらみ合いに。びっくりした弟が二人の顔を代わる代わる目を
丸くして下から見上げていました。
三男にとって、ケンカは朝飯前。日頃から騒動は常習でケンカが強いことは
近所では有名でした。彼の軽く握ったこぶしが小刻みにふるえ、不気味な
時間が流れました・・。
平和主義の私は、かろうじて睨み返してはいましたが、その場で仁王立ち。
内心はびくびくしていました。
ふだんはこの三男と仲は悪くなかった。私と二人でお揃いの朴歯(ほうば)
の下駄を履き、尾崎豊の『卒業』の歌詞と同じように、三男の悪友たちと
「夜の校舎、窓ガラス壊してまわった~♪」こともありました。

しばらくして、H家に東京で就職していた次男の人がUターンしました。
食事をする四角い掘りごたつのようなテーブルの一角に私が座っていて、
帰ってきた次男の兄さんのスペースがなく、私に遠慮してか大きな体を
弟と二人掛けにして並んでいました。
その座る陣の形からして、そろそろ私はおじゃまな存在になっているな、
と感じました。

ここの下宿での滞在期間は中学時代で一番長く、2年生後半から3学年の
夏の終わり頃まで、約半年間を過ごしました。
独立した一軒の小屋のような部屋が与えられたことで自由な空間を得ました。
この空間には、クラスの友人を始め、近くの年上の店員さん達や幼い子まで
気楽に寄ってきて“避難所”“休憩所”“保育所”のようでした。いつも
夜遅くまで来客、珍客が絶えません。
真夜中に、誰かに追われているような負傷した背広姿の渡り鳥のような人が
「頼む、泊めてくれ!」と部屋に上がりこんできてきたこともありました。

落ち着いて勉強する雰囲気には、ふさわしくない環境ではありました。
ただ、ここでの生活は、学校での教科書からとは違った多くの「世界」を
知ることができ、今でもお金で買えない貴重な体験を得たと思っています。
当時のことが、このように今も鮮明に思い出せるのは、それだけこの頃が、
私にとって毎日がこの上もなく刺激的な「15の夜」であったからなのです。

下町のこの付近には恵まれた家庭の子供たちが少なく、みなハングリーでした。
5、6才くらいの子供で、いつもオチンチンをいじっている坊やも知り合いに
なりました。
「オチンチンはさわると傷がつくからよしな」と注意しても
「うん」と返事は良いのですが、しばらくするとまたさわっています。
幼児期の性器いじりは、精神的に十分満たされていないことに原因が
あるようです。

ある日、その“オチンチン坊や”が、オチンチンをさわった可愛い手で、
紙切れを私に渡しました。その子のお姉ちゃん(中2)からの伝言です。
「勉強を教えてください」と書かれていました。近所なので顔も知って
いるし視線も気にはなっていたのです。どうしようか困りました。勉強は
教えるどころか、こちらも受験前なのに一向に捗らず余裕がないのです。

しかし、慕ってくれたその子達へロクに挨拶もせず拙者、“紋次郎中学生”
は、ほどなくしてこの下宿を後にしました。(つづく)

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H家三男とお揃いで履いていた朴歯(ほおば)


お店の横の橋で。母(左)とH家のおばさん(右)。
川の水をこの橋一帯に撒いて涼しくするのが私の“しごと”

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【中学下宿記】(23) 下町での「15の夜」

2010年01月08日 | 中学生下宿放浪記

「野球人生が終わったら中学生の指導をしたいと決めています。
中学生の時期って一番すれていたり、反抗期だったりするからです。
そういう子供たちを育てたい」とは花巻東高校から今春西武入りを
する菊池雄星君の言葉、中学時期の大切さはとても同感です。

次の下宿H家は、天ぷらなどの揚げ物屋さんでした。
私には、お店正面、少し離れたコンクリートでできたバンガローの
ような4畳半の部屋を貸していただきました。ようやく一人で自由な
空間を得て、かなり気に入った部屋でした。隣りは広瀬川の流れの音。
テープレコーダーを聞こうがレコードをかけようが騒音にとやかく
いわれることはない快適な環境でした。

クラスの友人が次から次と遊びにやって来て、羨ましがられました。
「いいな~桂は一人で。おれもこんな暮らしがしてみたい。」
“下宿渡世人中学生”の辛い面を知らない友人は、毎晩のように
代わる代わるお泊まりに。中には
「おれはもう家になんか帰りたくない、学校もいやだ、ここに一緒に
住ませてくれないか」
それには驚きました。私には自分の家の方が自由だと思っていたのに。
それなら家がいやになったら泊まっていけ、とだけ話し慰めました。
この時の追い詰められた友人の気持ちは、私が30代になって尾崎豊の
ヒット曲「15の夜」を聞いた瞬間、あの頃を思い出しジーンとくる
ものがありました。
------------------------------------------
♪・・とにかくもう学校や家には帰りたくない
自分の存在が何なのかさえ解からず震えている
15の夜ーー
盗んだバイクで走り出す行き先も解からぬまま
暗い夜の帳(とばり)の中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした15の夜ーー♪
------------------------------------------

バイクに初めて乗ったのは、私も15の夜でした。
尾崎の歌のような盗んだバイクではありませんが、ある晩、友人が
やってきて「乗ってみな」と赤いバイクを貸してくれた。
クラッチの操作もいい加減に、2速(セコンド)のギアのままで、
ずーと乗っていたのではないかと思いますが、とても爽快でした。
前橋の夜の“悲しき街角”を思う存分に走り回りました。
wa wa wa wa wonder~ を口ずさみながら・・
そうです。
自由になれた気がした15の夜でした。

この下宿の周辺の景色は、前橋の典型的な人情のある下町でした。
ここでの生活では、なんともいろいろな人との出会いがありました。
今と違って品物ごとに、専門のお店が並んでいました。
深夜になると、人恋しくなった近くの肉屋に勤める住み込みの店員
さん(18歳位)もよく遊びに来ました。若くして亡くなった俳優の
赤木 圭一郎(1939-1961 21才没)の大ファンで、
「おれも圭一郎のようにカッコ良く死にたい」
などと言っていました。四角い顔をした優しくて良い兄貴分でした。
ある時は、包丁で切ったと手に包帯をぐるぐる巻きにして痛々しく
やって現れた事もあります。仕事で生傷の絶えない彼を見て、もし
私が住み込みで働くなら危険な肉屋より、刃物を使わない八百屋派
だな、と思いました。“肉屋の圭一郎”は私の狭い部屋で横になって
いるときが一番気が休まるとも。疲れている彼を見て、私の下宿生活
以上に「住み込み生活」も大変なのだろうなと思いました。

豆腐屋の息子(20歳)ともよく話をしました。
その頃、ソ連が50メガトンの核実験を発表したころで、豆腐屋の
兄貴とは、日本の防衛論争になりました。武力に訴えるのは良くない
という私に、豆腐屋の彼は
「もし人からオメー(お前)は殴られてもは黙ってんのか、
ヤラれたらヤリ返すだんべ?」
「うん」
「そういうことだよ。核も武力も絶対必要だ」
ヤリ返すことにはうなずいたが、力と力では最後は解決しない、と
いうと、その“豆腐兄貴”は、こぶしを振って今にも私に殴りかかって
きそうな気配になりました。怖くなって
「わかった!」
と叫んで、この“論争”は私の負けでした。

下宿のH家には食卓前にテレビがあります。弘田三枝子の元気な歌声や
FBI映画「アンタッチャブル」の記憶があります。
ただH家のおばさんは、戦争映画や戦闘シーンがあると必ず
「チャンネルを換えて!」
と大きな声で命じました。先の大戦では、前橋の人達も空襲の被害に
遭いました。きっとおばさんも苦労されたのでしょう。それだけに戦争は
絶対にいけない、もうあのような(戦争)体験は二度とこりごり、という
強い庶民的な反戦感情をおばさんの言動から見ることができました。
(つづく)

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 尾崎豊 - 15の夜

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【中学下宿記】(22) 女子寮での年越し、正月

2009年12月30日 | 中学生下宿放浪記
本当は、母のいる女子寮から毎日、中学校に通えたら、と思っていました。
男子禁制の女子寮、出入るするだけが許容範囲。それは十分承知でしたが。

それでも正月は、気持ちを抑えきれず毎年、下宿を出て母の元に向かい
女子寮に潜伏しました。
男子の宿泊は厳禁と聞いていただけに、母には申し訳ないなあ、迷惑を
かけるなあと思い、ちょっと悪いことをしているような気持ちでした。
すぐに何かあったら下宿に舞い戻る覚悟で年の瀬は、女子寮に入らせて
もらいました。

年末年始の長期休暇に入った女子寮は、大半の人が故郷に帰った後で、
閑散としています。
しかし帰省しない寮生もいました。母は帰省しない寮生の世話もあり
交代勤務体制の中にいました。

大きな白黒テレビが一台、寮の1階、西端の娯楽室にありました。
そのテレビを前に、残留組の寮生たちと一緒に紅白歌合戦を見ます。

半纏(はんてん)姿の寮生のかたまり最後方で、なるべく目立たぬように。
そうはいっても少年一人、私の存在は十分に目立っていたことでしょう(笑)
紅白のステージでは、ロカビリー歌手の平尾昌晃が熱唱していました。

食事の時は、寮の食堂を、これまた目立たないように隅の席を選んで
静かに座っていました。
ところがある時、食堂のテレビにドラマが流れていて、出てきた子役の
坊主頭の中学生が、見ると私にそっくり。みんなが一斉に私の方をみて、
「あっ、イチローちゃんに似てる!!」
確かに、私が見ても殿山泰司を子供にしたような、よく似た顔の少年が
画面いっぱいに映っていました。
自分では、息を潜めて食事していたつもりなのですが、ここでもすっかり
注目されてしまって・・

こんなこともありました。
母のところに、これから相談事がある寮生が部屋に訪ねてくると言うのです。
急なことで、とっさに私は「新日本研究所」の本部と名づけていたお気に入り
の部屋のロッカーに身を隠しました。

相談事は、恋の悩みでした。
「私がこんなに好きなのに、彼はこっちを向いてくれないのです。
こういう人って観賞用男性と思って諦めるべきでしょうか・・」

どうやら同じ職場の人同士の恋愛問題のようでした。
それに対して母は何かとアドバイスをしていました。
しばらくして相談の寮生が帰って、真っ暗なロッカーから出てきた私は
早速、母に尋ねました。
「かんしょうよう男せい、ってどういう人?」
「花のように美しくながめているのにぴったりな素敵な人のこと」
「へえ~ そんなに綺麗な男の人?」
「私から見ると普通の人のようだけど(笑) 人を好きになると、アバタも
エクボということわざがあるように、すべて良く見えてしまうものなのね」
「・・・・」

お正月、事情があって帰省しない寮生たち。
そして事情があって“寄生”している僕。
女子寮、親和寮の中は、さまざまな人模様が息づいていました。(つづく)



【写真】餅つきの後、みんなで丸めて伸ばして・・
   (「東京サンヨー」1961年新春号)


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【中学下宿記】(21) 先生との不和

2009年12月25日 | 中学生下宿放浪記
ここの中学校では生徒間のいじめはまったくなかったのですが、
一難去って又一難。
今度は、担任のF先生(女性)との折り合いが悪くなっていきました。

2年生の11月。日記には「誕生以来最高ともいえる大注意を受けた」とある。
A君と一緒に呼ばれ、A君はF先生から顔をぶたれた。原因はA君が掃除を
逃げ、それを見て一緒に帰ろうとした私も怒られた、とのこと。
「お前は生活委員で注意しなければいけない立場なのにそんな事でいいのか
最近どんどん悪くなっている。私はだんだん責任をもてなくなってきた。
授業中やHRも野次みたいな不平ばかりを言って、小泉に帰すよ!」

日記には「30分くらい頭をたれて下を向いていたので首がいたくてたまら
なかった・・」とある。なぜA君を見逃し、自分も帰ろうとしたのか不思議で
ならない。A君は同じ剣道部で、のんびりとしたそれはそれは性格の良い
大仏様みたいな生徒でした。今では、なぜ掃除をサボろうとしたのか真意は
わからないのですが、とにかく私も悪かったのだろうと思います。
それにしても「小泉に帰すよ」の言葉には複雑でした。
母親の元を指して「小泉」と言われたのでしょうが、ここではすでに自分は
「大泉(小泉)の人」と思われていることに妙な気持ちにさせられました。

この様子を始終見ていた友人の一人(自称不良)が下校時、駆け寄ってきて
「(Fは)桂が不良と言っていたけど、それなら(本物?の不良の)この
俺は何なのだ(笑)。だいたいFは親がPTAの役員をやっているヤツなんか
何をやっていても注意しない。俺やお前はなめられているのさ」と慰めてくれた。
中学2年生ともなると、時には教師に対してもするどい観察力をもつ。
そうか、私の家庭環境が良く思われていないのだ。それが容赦ない叱責にも
表れているのか、その時初めてそんなことを思いました。

F先生は、3年生になると、生徒を叱るとき「そんなことをしていると内申書に
悪く書くよ」と言った。
内申書は、高校入試のとき重要な中学校からの資料であることは皆知っている。
これは中3受験生を黙らせるには効果のある“宝刀”でした。

さっきまで、陰でF先生の悪口を激しく捲し立てていたものが遠くからF先生に
呼ばれる声がすると、急に可愛く「ハイ!」と変身して先生の元に飛んでいく。
ゴマすりの二面性を級友たちに見て取れました。

ただ、先生との確執くらいでは、転校したいとまでは思いません。多くの級友
たちが、同情してくれているのを感じられたからです。
「枕草子」の「ありがたきもの=めったにないもの」にも「主そしらぬ従者」
とあります。つまり主人(上)を悪く言わない使用人(下)はいない。

会社などどんな組織でも同じことですが、上への不満や対立、これはほぼ宿命
みたいなものです。
それより水平、つまり同僚(同級生)や仲間内の攻撃(いじめ)の方がつらい。
私のサラリーマン生活でも上司よりも、同僚との不和に気が休まらなかった。
さらに年下の後輩社員から反発された時期が一番辛かったことを思い出します。

担任のF先生とは対照的に、当初受け持たれる予定だった隣組のN先生は、
時々私に声を掛けて励ましてくださった。F先生に叱られるたびに始業日の
あの日、N先生の組でなければイヤだ、と強く言えなかったことが悔やまれて
ならなかった。

実は、もう一人教頭のS先生も私の母校、若宮小学校から移って来られ、
これまた優しく心配していただいた。S教頭先生は、私の成績の乱調を
案じて下宿生活のことも詳しく尋ねられた。
S教頭と親しく話した後、担任のF先生から「私の事を何か告げていたのか」
と邪推され問い正された時はなんとも情けなくなりました。
「何も言っていません、うそだと思うならS教頭先生に聞いてください!」

下宿でもめて、担任の先生とも。。
24時間、気持ちの落ちつかない時が少なくなかった日々でした。(つづく)


【写真】元気な中学生たち。(「邑楽町広報」の表紙より)


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【中学下宿記】(20) テープレコーダー事件

2009年12月20日 | 中学生下宿放浪記
今から思うとリール式のおもちゃのような録音機(テープレコーダー)を
ある時、前橋市内の電気店ではなく、設備屋さんのようなお店で買い
ました。偶然、店頭の張り紙を見て。
サンヨーでなくメーカー名は「サンウェーブ」。

今、サンウェーブ工業のホームページで確かめてもテープレコーダーの
ことは何も記されていません。しかし確かにブランドはサンウェーブ
でした。同社は今も住宅設備、流し台などで有名な会社ですが1960年代に
一時期、録音機も手がけたのだろうと思います。

テープレコーダーを持つと、なんでも録音したくてたまりません。ちょうど
教科書サイズの大きさでしたので、週一回のラジオの音楽番組を録音して、
こっそりカバンに入れポップスの好きな友達と一緒に聞きました。
ジーンピットニーの「ルイジアナママ」などを何回も流しました。
「レコードを買うより安い」と友人からも好評でした。

さて、このテープレコーダー、嫌な思い出も“記録”してしまったのです。
ある晩、下宿の旦那さんと奥さんの夫婦喧嘩を録音してしまったのが、
ことの発端です。

晩酌でいい気持ちの旦那が、奥さんに向かって小言を並べ始めました。
いつものことなのでしょう、言われている奥さんは、最初はしかたなく
聞いていましたが、長々つづく文句に呆れ、しばらくして席を外し
てしまいました。旦那は半分目を閉じ酔っ払ったろれつの怪しい声で
「お前は俺と離縁をするか、それとも・・・しか道はないぞ」
いたずら小僧の私は、すばやく旦那さんの声を録音していました。

翌日、私の部屋で遊びに来た友人と、昨夜の模様を再生して聞きクスクス
笑っていた。ところがそのことを、廊下を挟んで前の部屋の新潟の浪人生が
旦那さんに告げ口していたのです。終始ポーカーフェイスの浪人野郎に
してやられました。

次の日、急に母が訪ねて来て、事の重大さを知らされました。
私は旦那さんにひたすら謝り言われた通りテープを差し出す。しかし旦那は
それでも収まらない。「人権侵害だ!すぐ出て行け!」と怒り心頭。
この下宿に来た時も最初は「うちの子と同じと思って預かる」といわれた。
しかし他人の家では一度でも失敗は許されない。「すぐに出て行け!」には
辛かった。特に、母には心配掛けて申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

母の話では、
「いきなり電話が来て、すぐ出て行ってもらいたい」と言われびっくりして
飛んできたという。母は私の話を聞くと、旦那が奥さんをいびったセリフに、
「それにしても、ずいぶんひどいことを(妻に向けて)いうものだ」と
意外なところに反応をしてくれて、内心ほっとする。母からもかなりきつく
叱られるものと覚悟していただけに。

奥さんの方は、私にはきつい視線を向けることもなく気にしていない様子。
「なにも(夫が)追い出すとまでいうことはないのに」と母にすまなそうに
語っていたと後から聞きました。

さて、善でなく「悪は急げ」。即どこかに引っ越さなくては、と私が心配顔で
いると、そこは母。手回しよく次の下宿先を決めていた。
やはり頼りになるのは三洋女子寮の力。今度の下宿先は前橋出身の寮生、
Hさんのご実家と決まる。
こちらもすばやく旅支度。またもや“引越し助っ人”四中のH君のリヤカーで、
早々に寮生のHさんの実家めざして引越ししました。(つづく)


【写真】サンウェーブ製と同じオープンリール式録音機、
    三洋MR-530。今も健在です。

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