ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

興亜建国パンを食べる(邑楽町平和展)

2018年09月15日 | 地域・一般

きょうのお昼は興亜建国パン雑炊(ぞうすい)。
いずれも戦時中の食料です。

興亜建国パン(こうあけんこくパン)は、日本の戦時体制下の節米運動時(1940年昭和15年~)に、米に代る食料として大日本帝国陸軍が考案したパン。「興亜パン」とも呼ばれる。

小さなビスケットのようなパンです。。
味もビスケット風。一つや二つでは足りないな。


邑楽町(群馬)の平和展では、2年前に戦時食「すいとん」をいただきました(2016年9月3日ポポロ通信舎お昼は戦時食のすいとん)参照

「今年の内容としては紛争地や貧困国に暮らす地域の写真展、スタンプラリー、戦時中の食事再現、戦争に関するアニメ映画の上映、絵本の読み聞かせ、平和への願いを込めた風船飛ばしなど、親子ずれ、特に次世代を担う子ども達に平和について考えてもらえるよう意識しています」(実行委員会発行『あゆみ』の委員長挨拶から)


実に良い企画です。今年で35回目、1982年からの催しもの。たいしたものですね。


邑楽町職員労働組合の皆さんたちのご尽力に感謝します。

 

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西小泉駅、新装完成間近か

2018年02月24日 | 地域・一般

東武西小泉駅前、ブラジルのイメージに(日経新聞サイト)

 

西小泉駅(群馬・大泉町)が改装中です。公衆トイレの部分、完成です。

新しく生まれ変わる駅のカラーはブラジル国旗の黄色と緑色をイメージしたもの。

ラテンな人たち、サンバの曲が流れる街です。

『群馬県ブラジル町に住んでみた』(中川学著)をまた開いてみました。
「大泉町には第二次大戦前大きな飛行場があり、戦後三洋電機と富士重工業の工場になりました。もはやここは群馬じゃないGUNMAだ!」の一節(笑)

1990年に入国管理法が改正され、労働ビザが取得しやすくなったのをきっかけに日系のブラジル人やペルー人を中心に他国籍の人びとが日本で自由に働けるようになり、街にはさまざまなお国柄のお店でにぎわっています。

駅の新装でまた話題が増えそうですね。


 

群馬県ブラジル町に住んでみた ラテンな友だちづくり奮闘記 (メディアファクトリーのコミックエッセイ)
中川 学
メディアファクトリー

 

イパネマの娘 小野リサ 

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群馬の森追悼碑訴訟 新聞各紙

2018年02月15日 | 地域・一般
新聞5紙を読み比べてみました。

上毛】処分は違法、県敗訴。裁量権逸脱----1面トップの見出し。さすがに地元ネタだけにこれまでの訴訟に至る経緯や争点を詳細に解説している。
朝日】評者に千葉大、独協大の学者。問題の本質は「表現の自由」と。
毎日】処分取り消しを評価。原告団「表現の自由」には不満。
読売】一瞬本件どこに報じられているのか、写真なしの小さい扱いが印象に。もし結果が違っていたら扱いも異なったものになったのかと記事内容でない点に目が向いてしまった。
産経】歴史問題に向き合わず玉虫色の判決。「強制連行」は政治的な発言。わかりやすい解説だ。

「一部勝訴」の垂れ幕が掲げられたが、「一部勝訴」は「一部敗訴」でもある。今回の前橋地裁の判決は「なるほど」と思わせるものだった。「表現の自由」とともに、いやそれ以上に根底で問われていたのは、実は歴史問題だったのではないだろうか。ただ歴史ものを司法が決するというのはむずかしいし、それを求めるのは酷なような気がする。まさに玉虫色であったとしても、これで良かったのだと思わずにはいられない。。
 
いつまでも「追悼碑」=写真=にこだわることなく、それに賛成の人も反対の人も未来志向に切り替えて進まなければならない時を迎えていると思う。Change The Worldです。

  

Eric Clapton - Change The World

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西小泉駅がブラジル風に改装中

2017年09月30日 | 地域・一般

一時、東武小泉線の西小泉駅は廃止されるとのウワサが街に流れていて、どうなるものかと心配していましたが、ただいま駅舎はリニューアル工事中。来春には「リトルブラジル」の玄関駅としてふさわしいブラジルカラーでまとめた西小泉駅として生まれ変わるようです。

『Response』さんのサイトが詳しい。

https://response.jp/article/2017/09/26/300279.html
東武鉄道が「ブラジル」に…西小泉駅の新駅舎が完成

工事現場では、エンブレム?らしきデザインが顔をのぞかせています。色づかいがどことなくブラジル国旗のイメージですね。

完成が楽しみです。 (完成予想図は「Response」から)

 

70年代のヒット曲『悲しき鉄道員』。オランダのバンド、ショッキング・ブルー。本文とは関係ありません。

悲しき鉄道員   ショッキング・ブルー

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ぐんまの鳥めし食べられる幸せ

2017年09月04日 | 地域・一般
きょうは群馬では人気のある「登利平の鳥めし」をいただきました。
群馬人でこれを食べたことのない奴はモグリだと言われるほどの郷土食ポジションだとは『群馬ルール』の解説。
 
昨年のブログでは邑楽町の平和展で戦時食の「すいとん」を試食たことをお話ししています。質素な戦時食は、とてもおかわりをする気になれませんでした。
 
「竹」が定番の鳥めし
 
平和な時代に登利平の鳥めしを食べられる幸せを感じます。ちなみに登利平の鳥めしは「竹」が定番の説に納得です。「松」も美味しいですが、『群馬ルール』ブックにも書かれている通り「多くの群馬人が好むのは行事食などで食べなれた竹。710円とお財布にやさしい価格もツボだ」と。
すいとんではなく郷土の鳥めしを食べられることに感謝し両手合わせ

いただきま~す!

 

群馬ルール
都会生活研究プロジェクト
KADOKAWA/中経出版

 



(1年前の記事ご参考:「お昼は戦時食のすいとん」)
きょうは邑楽町(群馬)の平和展に行ってみました。内容は講演会、映画、被災地チャリティ物産、オバマ大統領広島スピーチ原稿などいろいろ。戦時食再現(無料配布)コーナーですいとん......
 

 

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曇り空の太田メーデー

2017年05月01日 | 地域・一般

以下は昨年の太田地区メーデーの様子。

一年経つのがほんとうに早く感じられますね。

 
晴れた五月の太田メーデー
きょうは五月晴れ。「晴れた五月の青空に~♪」の歌にふさわしいメーデーびより。87回太田地区メーデーに参加しました。熊本・大分地震で亡くなった方々を悼んで黙祷からの次第進行で......
 

「メーデーは1886年5月1日アメリカ合衆国カナダ職能労働組合連盟が、シカゴを中心に8時間労働制要求の統一ストライキを行ったのが起源です」(メーデー宣言の一部から)

太田は労働・農民運動の輝かしい歴史のある町です。敗戦翌年1946年5月1日の太田地区のメーデーは8時半には太田駅前に労働者農民の人たちが多数集結。今では農民の人たちの姿を見つけるのは大変ですが・・。今日のメーデーと同じように10時過ぎにデモ行進に入る。農民運動の名指導者須永好を先頭に。一行は太田駅、呑龍さま、中島飛行機八幡寮、強戸国民学校(強戸小)のコースを歩いたといいます・・。

「強戸の社会党員、農民組合員、新田開拓農民、官公労、民間企業の労組が思い思いのノボリやプラカードを持ち威勢が良かった。先頭が強戸に着いたというのに後部はまだ太田駅前にいたぐらいだった」(須永徹著『未完の昭和史』)

その頃の勢いこそなくなってはいますが、少数とはいえ働くものの祭典に集うポポロ(人々)の情熱は今もしっかり受け継がれていることには変わりありませんでした。

 

  【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中学校を経済的理由で中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へ、と農民たちを組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。

 

きょうの一曲はメーデー発祥の地シカゴにちなみ前回につづき『Sweet Home Chicago』
ドラムスとブルースハープはわれらがシルバー世代のご同輩、がんばれよ♪

The Sad Sam Blues Jam ~ Sweet Home Chicago


 

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カメラのキタムラ大泉店 閉店

2017年03月26日 | 地域・一般

1999年4月24日から2017年3月12日
約18年の営業期間でした。

開店のときは当時鳴り物入りだった新発売のAPSカメラを買いました。
今のデジタルカメラとフィルムカメラの過渡期に位置したAPSカメラ。
開店の日に歓迎ご祝儀のつもりで購入。富士のEPiON3000=写真。

以来、カメラのキタムラ大泉店はずいぶん利用しました。最近はもっぱら七五三、お宮参りの記念写真でした。
このたびカメラのキタムラは全国店舗の15%、100店以上を閉鎖したといいます。総務省からのスマホ0円販売規制、デジカメ不振、写真プリントなどの減少で市場が冷え込んでいたようです。大泉店もその一つだったのでしょうか。
お店の看板は旧国道354(県道142号)の分かりやすい道案内の標識にもなっていました。

なんとも寂しいですね。

 

きょうの曲は先日亡くなったチャック・ベリーを偲んで、彼のヒット曲「ジョニー・B・グッド」を女性バンドSad Sam Blues jam のヴァージョンで。森の奥に住む田舎の青年ジョニー・B・グッド君。読み書きは苦手だけれどギターの腕は抜群さ、ベルをかき鳴らすように弾く。母さんは、お前はいつか立派な演奏家になるだろう・・と。ジョニー・B・グッド君とは若い日のチャック・ベリーのことで「B」はベリーのことかと今になって気付かされました。黙祷。

 

ベスト・オブ・チャック・ベリー
 
ユニバーサル ミュージック

Sad Sam Blues Jam Johnnie B Goode

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新陰流剣聖 上泉伊勢守信綱

2017年03月05日 | 地域・一般
生きたくとも生きられなかったものが大勢いた
おぬしは何をしているのだ!
大義に向かってなぜ進まんのだ!




仕えていた長野氏の箕輪城が落ち、自害をするかどうか迷っていた上泉伊勢守信綱に天の声が・・
「生きたくとも生きられなかったものが大勢いた」これは今を生きる者、誰しも心にしなければならないこと。だからこそ迷わず大義に向かって進むのだ。
BS朝日(3月3日)で放映されたスペシャル時代劇「新陰流 上泉伊勢守信綱」をみました。(村上弘明主演)
ユニークな上州生まれの剣豪だ。
もし「上毛かるた」に入っていれば知名度もあったと思いますが、名前が長いのも覚えにくい。上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみ のぶつな)。
群馬馬県前橋市上泉町の生まれ。(1508-1577年)柳生・新陰流の創始者。江戸時代の剣客で有名な荒木又右衛門も新陰流だった。。
2009年9月26日のここ「ポポロの広場」でも上泉伊勢守顕彰会の宮川勉氏の大泉町での講演会の模様をまとめています。

>講演中に竹刀より柔軟な革袋に包まれた「袋竹刀」を手に
>講師の宮川氏(当時上毛新聞太田支社長)とお手を合わせることができました。
>私は中学時代、剣道部で竹刀は少々なじみがあります。
>宮川氏の指示の通り面とコテを狙って二回、袋竹刀で向かった。
>面、コテとも双方見事に外された。
>コテを打つより早く、氏の“剣先”が当方の右コテを射った。
>お見事!

上泉伊勢守の剣法、新陰流は、型にこだわらない「活人剣」。活人剣(かつつじんけん)とは人を殺めるのでなく生かす剣の道。なかなか人道的な奥の深い魅力的な剣の作法です。
せめて群馬県民には、この独特な剣術「新陰流」と「上泉信綱」の名前だけでも知って
おいていただきたいものです。


上泉信綱 (人物文庫)
永岡 慶之助
学陽書房

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新陰流を創った男!上泉伊勢守とは!?



 
 
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地名の読み方 坂田は?高林は?

2017年01月04日 | 地域・一般

正月元日のニューイヤー駅伝の実況で、太田市の「高林」をランナーが通過するときTBSのアナウンサーが「ここは高い林と書いてタカハ(ha)ヤシと呼びます」と解説していました。そうか。たかバやしでなく「たかはやし」が正しいのかと教えられました。

改めて三洋電機(商標パナソニック)や当方宅のある大泉町の「坂田」の読み方は「さかた」か?「さかだ」か?

正解は「さかだ(da)」です。

地元の長老は、さすがに「さかだ」と正確に呼びますが、一般には「さかた」と言っている人がだんぜん多い気がします。坂田育ちでも若い世代は、その区別があることすら意識していないのではないかと思います。信号機の英字は、古くからある県道「坂田」の信号機と、新しくなった国道354号に設置された「坂田北」とでは表示が異なりました。(写真参照)
だからといって、いちいち訂正するほどのことはないでしょう。パスポートや住所表示など英文ではほとんど「Sakata」と書いてきました。

同じような呼び方のむずかしい地名の例はたくさんあります。あまり神経質になることはないと思いますね。のんびりとした正月ならではお話となりました。お粗末でした。

 

きょうの曲は「ジョニー・B・グッド」♪
チャックベリーの名曲を女性バンドSad Sam Blues jam がカッコ良く決めています。歌の内容は、森の奥に住む田舎の青年ジョニー・B・グッド君。読み書きはそれほどできないけれどギターの腕は抜群、ベルを鳴らすように弾く。お母さんは「お前はいつか立派な演奏家になるだろう」といった素朴なものです。


Sad Sam Blues Jam Johnnie B Goode

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お昼は戦時食のすいとん

2016年09月03日 | 地域・一般

きょうは邑楽町(群馬)の平和展に行ってみました。
内容は講演会、映画、被災地チャリティ物産、オバマ大統領広島スピーチ原稿などいろいろ。

戦時食再現(無料配布)コーナーですいとんを試食しました。
きょうのお昼ご飯は、すいとんでがんばりました。

終戦の年に生まれた人が71歳。
質素な戦時食を実際に知っている人はますます少なくなっていますね。

「邑楽町平和展」、第33回とありました・・。
これからも続けてほしいナイスな展示会です。

実行委員会のみなさん、お疲れさまでした。

 

『戦争を知らない子供たち』 ジローズ

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可憐でパワフルな館林女子

2016年08月27日 | 地域・一般

「朝日ぐんま」8/26 紙 子育て応援特集号に仕事&育児に活躍する女優のあらいすみれさんが紹介されていました。
あらいすみれさん、館林女子高出身なんですね。高校時代はダンス部、写真部に入っていたといいます。

朝ドラ「とと姉ちゃん」では取材を受けた主婦役で先週放映の中で登場、「花燃ゆ」でも養蚕農家の女性役だったそう。存在は地味ですが、きりりとして明るく好感がもてます。

Wikiでは「館林女子高等学校在学中17歳の時に「ミス日本」となり、これは当時最年少記録であった。受賞後にスカウトされ、芸能界入りする」とあります。

ところで館林女子高校はもうすぐ100周年。街でポスターを見かけました=写真

 

群馬県立館林女子高校ボクシング部

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晴れた五月の太田メーデー

2016年05月01日 | 地域・一般

きょうは五月晴れ。「晴れた五月の青空に~♪」の歌にふさわしいメーデーびより。

87回太田地区メーデーに参加しました。

熊本・大分地震で亡くなった方々を悼んで黙祷からの次第進行です。

来賓の清水聖義・太田市長のお話から太田にも断層があることを知りました。

太田断層」・・熊原康博・広島大学准教授が発見されたそうです。

こうしてみますと日本はどこもかしこも「地震列島」。明日はわが身と思って日頃から災害に備えなければならないと思いました。

せめて原子力発電所事故のような人為災害だけでも、事前に不安要素を取り除いて置きたいものです。

 

労働歌・しあわせの歌 (1955年:映画「浮草日記」より)

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社日まつりの賑わい今いずこ

2015年09月28日 | 地域・一般

三橋美智也が歌っている『大泉小唄』の中では、

「社日祭りを 二人づれ 嬉しはずかし 人の波 神楽ばやしに寄り添えば~♪」

社日祭りの様子が歌われています。昨日は秋の社日。朝は7時に景気の良い花火の音が聞こえましたが、人出の方はとても少ない・・。
昔の賑わいを知っているだけに寂しい限りです。

農業の神様のお祭りには欠かせない農機具の展示。貴重な専門家のかじ屋さんの店が出ていたのにはほっとしました。

舞台では邑楽町の里神楽の皆さんが、楽しそうに演じていました。
わがファミリーのれんたろうくん(1歳9カ月)は獅子舞から“洗礼”。でもお菓子をいただきご機嫌に。「やっぱり邑楽の神楽の音は、とても心地良いな」と里帰り中の娘が横でしみじみつぶやく。


すっかり夏の「大泉まつり」に、主役の座を奪われてしまった「社日まつり」。

ここでもまた諸行無常を感じます。

 

大泉小唄 三橋美智也

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三洋クラブハウス、遂に解体

2015年09月23日 | 地域・一般

新春1月5日号の「三洋クラブハウス」ご参照ください。

「三洋クラブハウス」(群馬県大泉町)、ついに姿を消しました。武家屋敷風の造りで海外からのお客様には、ずいぶん喜ばれました。

オープン当初は、群馬ロイヤルホテル(前橋市)と提携し、県内一流の迎賓館の趣を感じさせられたものです。

諸行無常・・。

 

 

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会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから
 大西康之
日経BP社

   

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旧陸軍桶川飛行学校を知る

2015年05月09日 | 地域・一般

ドキュメンタリー映画(2012年DVD作品)『熊谷陸軍飛行学校桶川分教場』を観ました。

昭和10年(1935年)に開校した熊谷陸軍飛行学校(現在の航空自衛隊熊谷基地)は有名ですが、その分校の桶川分教場(桶川飛行学校)存在はよく知りませんでした。昭和12年(1937年)6月埼玉県北足立郡川田谷村に学校開設。写真は訓練風景。現在も守衛所、車庫、営庭、本部兵舎、弾薬庫などが残されている。

戦時中、陸軍の飛行場、飛行学校は日本全国に、なんと100以上あったとも。昭和20年(1945年)2月の閉校までに卒業した飛行学生は約1,600名。昭和20年2月以降は特攻隊の訓練基地となり陸軍初の練習機による特攻、第79振武特別攻撃隊12名が鹿児島の知覧基地に向け出発した・・。

優秀な学徒から特攻に

DVDを見ながら昔、工場見学した後に懇談した来客の紳士の話を思い出しました・・。
「私は戦争中、学徒動員(早稲田大学)で御社(東京三洋電機)の前身、中島飛行機(小泉製作所)で勤労奉仕をしていました。私の本当の志望は、ここ(小泉)ではなく熊谷の飛行学校に入りたかったのです。同期生で熊谷飛行学校に入学したものがいて、とても羨ましかった。彼は私よりも成績は良く運動神経にも長けていた模範生だった。しかしその彼は特攻隊となり帰らぬ人となってしまった。彼よりもすべてに劣っていた私は小泉製作所に配属になったことで生き残ったのです・・」はるか遠くを見つめるようにして応接室の椅子に深くもたれ力なく語ってくださった。

さらに特攻隊要員の選抜は、命中率を考え操縦技術の優れているものから順に指名されたのだ、とも説明された。

もしかしたら知覧基地に向けて出発した振武特攻隊の一人がその方のご学友だったのかもしれません。古い記憶がなんとなく結びつきました・・。

 

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