ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

忘れえぬ満州の想い  面高春海展

2012年08月31日 | 教育・文化

作品の一つひとつがまず、大きのに驚きました。描かれた絵は、その大きさが表すように見る者に強い衝撃を与えました。

サラリーマンから画家に

会社退職後から画家に転身した面高春海さん。8月30日31日に群馬県大泉町・文化むらで「面高春海 作品展&トーク」を開きました。会場には面高さんが講師を勤めた「東京三洋女子高等学院」のOGの方々をはじめ旧東京三洋電機の関係者も多数訪れました。

ソ連軍の侵攻で悪夢が

面高さんは小学校3年まで満州国(現中国東北部)がふるさと。五族協和(日、朝、漢、満、蒙人の王道楽土をめざした満州国建国理念)のもと満州の地で平和に過ごしていましたが、ソ連軍が中立条約を破って侵攻してからすべてが一変した。面高少年は満州北部から命からがらに逃走してきた悲惨な日本人開拓団の人たち(黒い集団)がやってきたのを見て驚いた。作品の一つにこの時の様子がしっかり描かれている=写真下。

 

整然としていた日本人避難民

面高家は食堂を営んでいた。お母さんが黒い集団の人たちが差し出す空き缶にご飯やおかずを入れてあげた。「頑張って。元気を出してね」とお母さんも黒い集団の人たちも、ともに泣きながら。。

「北満州からの黒い集団は、日本人の整然とした態度が海外から高評価を受けた3.11東日本被災者と同じように、いがみ合ったり物を奪い合うようなことはなかった」(面高さん談)。

いつの時代も民衆は国策に翻弄され

危機的事態が迫っていることを知る関東軍(日本軍)が血相を変えて「ここから早く逃げろ!」といって食料品の入った袋を面高少年に投げて寄こした。これを聞いた時、福島の飯館村付近で、異常に高い放射汚染を知る白い防護服集団が、まだ事態の深刻さを理解していない住民達に対して「早くここから離れろ!」と言ったこととダブってしまった。「原発」も「移民」も国策。その国策が破綻した時は常に犠牲となるのは民衆、民間人・・

シベリア行逃れたご来場者

本文最上の写真の絵は2009年作『世界のどこかで(生きる)』。赤い矢印(白シャツ姿)の座っている子供が作者、面高少年。路上でお菓子を売っていたが、おつりの用意がなく叱られたという。絵の上側には列車が走っている。貨車に日本兵を詰め込みシベリアに連行するソ連の軍用車両だ。大泉町文化むらでの展示初日、見学者のご老人が、この絵を見て「自分はシベリア行きのこの汽車から軍服のまま命がけで逃げて乗らなかった」と話されたといいます。
トークタイムでは、説明される面高さんが、悲しい過酷な想いに堪え切れずおもわず言葉が詰まることが・・・。

面高さんはこの展示会を「8月」に開催することの意義を強調されている。終戦・敗戦の8月の内に。当広場も8月の意義に合わせてアップしました。

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面高春海(おもだか はるみ】(昭和11年(1936)- )満州国大連生まれ。東京三洋電機入社、同社を57歳で退職。以後画家の道に。独立美術協会 所属

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なぜか見てます 米TVドラマ 「Glee」

2012年08月29日 | 映画・芸能

4月からNHK ETV(毎週土曜22:55~)で始まったアメリカの高校青春ドラマ『Glee(グリー)』。気がつけば毎週見ています。GleeファンをGleek(グリーク)というらしいですが、連続で見ているということはわたしもすでにグリークなのかな。

舞台はオハイオ州の小さな町のマッキンリー高校。Gleeはグリークラブ(合唱部)のこと。グリー部員は校内では皆から落ちこぼれ扱い。予算も取れず廃部寸前。そんな苦境の中で奮戦するのが部活顧問の熱血教師、ウィル先生。物語の間には新旧の曲が入りミュージカル調のドラマ仕立てになっています。

マッキンリー高校では、アメリカンフットボール部とチアリーダー部が横綱格。最底辺に位置するのがグリー部。露骨にグリー部を負け組とさげすむのは、いかにも厳しい競争社会の反映とも感じられる。しかし面白いことにアメフト、チアの有力選手達が、いつしかグリー部を掛け持ちすることになって・・

車イスのギタリストも

出演キャラクターがそれぞれ個性があります。車イスのギター名手、アジア黄色系の女の子、太った黒人の子、ゲイの男子など、これまで余り主人公にはならなかったようなタイプの生徒が毎週、交代でメインになる。車イスが毎回登場するドラマはこの「グリー」くらいでしょう。

韓国ドラマ『冬のソナタ』では前編で韓国の高校生の様子が描かれていましたが、この『グリー』では現代の米国高校生の背景が面白い。それにしても性があまりに開放的で、不特定セックスや未婚妊娠も平然と扱われているところなど、正直とてもついて行けません。もちろんこれはドラマであって、すべてがアメリカ青年たちの現実のまる写しではないとは思う。かなりドラマ用に誇張されていると思いたい。ただ、むしろこれを見た日本の高校生たちが、この価値観を“直輸入”してしまわないかがちょっと心配になります。

すべてが自由なアメリカのようですが、絶えず戦争の渦中にある国であることも感じられる。ハンサムな好青年フィンは母子家庭。父親は湾岸戦争で亡くなった。体育会系の長身女性教師、スー先生は「パナマ侵攻では特殊部隊にいてシェパード犬を放っていた」と豪語する。戦争の影は時々セリフに現れている。

どうした?孤独なフィーリング♪

エンディング曲の「Don't stop believin 」は良い曲だと思います、歌詞も。ただ私には「Don't stop believin’ Hold on to that feelin'」の部分が「どうした?ビリでも?孤独なフィーリング」と聞こえてしまいます(笑)

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悩むウィル教師、生徒達から元気もらう Glee - Don't stop believin

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GHQに農地改革案を提言・・義人 須永好(9)

2012年08月26日 | 須永好 研究

農地改革は社会党のおかげ

高3の夏休み、勉強道具を持って友人K君宅を訪ねる。「受験勉強が大変だなんて贅沢過ぎる。この炎天下、外で労働している人のことを思おう」などと話していると、いつしかK君のお母さんも会話に入ってこられ「世間のみんな今は(恩を)忘れてしまっているようだけれど、農地解放ではなんと言っても社会党が頑張り農民はお世話になったんだよ。私はその恩は決して忘れてないよ。でも参院選だけはいつも市川房枝(1983-1981)を支持だけどね・・」。半農家だったK君のお母さんの強い信念を感じた。

婦人参政権運動家、市川房枝を知ったのはこの時が初めて。K君の家は太田市でも強戸地区からは大分離れた九合地区。話題には出なかったがK君のお母さんもきっと須永好のことは、よく存じていたにちがいない。ちなみに私が「須永好」の名を知ったのは亡き母(1919-1986)からだった。

マッカーサーに進言した須永好

1946年に結成された日本農民組合の最大の課題は農地改革であった。徳川時代以来、明治、大正、昭和と延々につづいた地主制度を解体し土地を農民に再分配するというのだから並大抵ではない。その成否はすべて日農組合の須永好の双肩にかかっていた。

マッカーサー元帥は農地改革に熱心だった。しかし日本政府の改革案にGHQ(日本を占領した連合軍総司令部)は不満だった。須永好はGHQに何度か出向いている。農民の解放に関して箇条書きを置いてきた。後日、新聞発表をみて、彼の提出した提言案とそっくり同じだった。GHQも日本の農村民主化を指導する第一人者として須永好を認めていたといえる。(須永徹『未完の昭和史』)

鈴木安蔵も忘れてはならない

同じころ憲法改正案も検討されていたが、GHQがすすめてきた民主改革指令の総括として主権在民、象徴天皇、交戦権の放棄を骨子とした案が出されていたが日本政府側はこれに抵抗。しかし極東委員会作成の共和制案を強制されるよりはまだまし、という判断でGHQ案を受け入れ最終案になったといわれている。憲法論議については今日、様々な見解があるが、唯一つ、GHQ案に大きな影響を与えた人物がいたことを忘れてはならない。「憲法草案要綱」をまとめた鈴木安蔵(1904-1983)、その人だ。日本国憲法の間接的起草者ともいわれている。

「農地改革」では須永好、「日本国憲法」では鈴木安蔵。起草の影の立役者はれっきとした日本人であったことを記憶に留めておきたいものです。

 
【写真】空襲で家族を失った戦災孤児。路上で靴磨き(日本戦災遺族会提供)

 

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。

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須永好日記 (1968年)
編者 石井繁丸(元前橋市長)他
光風社書店

 

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必読コミック よしりんの脱原発論

2012年08月24日 | 研究・書籍

本日発売のよしりんこと小林よしのりの『脱原発論』をさっそく読んでみました。

「脱原発で 原発がなくなっても 新たな 日本は江戸時代にも戻らないし 経済成長が 人類はサルにもならない。 “脱原発の先にある“新しい国の姿”を共に見よう・・。」

小林よしのりが原発に対して明確な発言をしたのはちょうど1年前、3.11福島原発事故から4カ月を経た月刊『Will』の誌上マンガからであった。当広場でも「2011.8.9小林よしのり、原発即時停止へ」に記しています。

この1年、さらに細部にわたって精査された内容になっている。自身がHIV薬害問題、カルト集団オウム真理教とのたたかいの経験から、今回の原発事故との共通性も見ている。これまでの事件のように脅迫も受けている。すでに放火予告もあったという。

研究者、小出裕章の誠実さを評価

小林よしのりは、歴史観を異にしても個々のケースで是々非々に評価するところが特徴だ。『脱原発論』では、しばしば小出裕章(京都大助教)が登場する。思想的には小出氏を「ガチサヨク」と評しているが、小出氏自身の専門分野での誠実な研究、発言態度には偏見を持たずに高く評価している。これはかつて『沖縄論』で、瀬長亀次郎(沖縄人民党)の占領軍に対して不屈に抵抗した行動を賞賛したときと同じだ。仮に主義主張は対極にあっても、こと個々の「正義」に対しては率直に認め評価する、そんな小林よしのりらしさが今回の新刊書でも随所にみることができた。

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ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱原発論
小林よしのり
小学館
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山本美香記者の“取材魂”に敬畏

2012年08月22日 | 政治

シリア北部アレッポでジャーナリスト山本美香さん(45歳)が銃撃され亡くなった。シリアの情報はとても少なく、国際社会は有効な手立てをなにも打ち出せないまま、無慈悲な時間がだけが過ぎている。シリア政府軍側からの報告はあるものの、反政府軍(自由シリア軍)からのレポートはこれまた少ない。それでも6月末から5週間、反政府軍側と行動をともにしての取材内容を安田純平氏が帰国し現地の模様を報道していた=写真右人物

戦闘と死が日常になっている現実。国家間の戦いは「前線」がはっきりしているが、内戦は「前線」が無数にあり区分ができない。政府軍の空爆で重傷を負った母子、深夜に稼働するパン工場、20歳から2年間の徴兵制があるため、反政府軍の市民も武器(戦車も含め)使用は心得ている。政府軍からの離反兵士もいる。自由シリア軍の司令部はトルコの難民キャンプにあるらしいが、それぞれ現場の判断で作戦は行われていると言う。日本から見ているとどう解釈したらいいのかとても判断に苦しむ。(TBS「報道特集」8/11)

山本美香さんの死について、同業者でもある神保哲生氏が適切なコメントをしていた。

危険な取材を敢行していたジャーナリスト魂には頭が下がる。「死んだらどうするの?そんな危ないところになぜ行くのか」と言う人がいるが「そんな危ないところ」ということはこれまでに誰かが報じたから判ること。原発事故でもなぜそんな放射線量の高いところに行くのか、と言われるが行って線量を実際に測ったから、真実が判るわけ。行ってみないと判らないのが、この職業の宿命。行って初めて判り、それが次の行動、判断につながっていく・・

神保哲生氏の言葉をともにかみしめ故人への鎮魂とお悔やみに代えさせていただきたい。

山本 美香(やまもと みか)1967-2012。山梨生まれ。山梨・桂高、都留文科大学(英文)卒。ジャパンプレス所属ジャーナリスト。世界の紛争地を取材。8月20日、シリア政府軍の砲撃により死亡。

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(全録)山本美香さん最後の取材映像(ジャパンプレス提供)(12/08/22)

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前橋の敗戦禍に驚く  義人 須永好(8)

2012年08月21日 | 須永好 研究

昭和20年(1945)8月15日の終戦を境に日本の社会は新たな胎動が感じられた。『須永好日記』を引き続きのぞいてみましょう。

8月19日 人心動揺、軍人は尚、戦うべしと言い、弱きは死なんと言う。そのうち目覚めたものは慾心、軍人は官給品を持ち出し、工員は工具を持ち出す。

8月21日 敗戦処理が始まる。大中島(工場)及び生品飛行場は人の渦が巻いて物品が持ち出される。世は挙げてかっぱらい次第と言うことになった。ラジオは天気予報を始める。連合軍が来ても怖くないと頻りに放送する。

9月7日 言論、集会、結社の自由となりで政治運動も活発となるだろう。

9月16日 前橋に行く。中央前橋駅をはじめ前橋中央部は大部分焼けていた。戦争の惨禍、今更言うまでもないことだが、終戦後初めて見る前橋の敗惨な姿に驚く

さらに先、10月10日の日記には、太田駅前で旧太田署長が社会運動の演説をしているのを須永好は見て、改めて時勢の変化に驚いている。

読書2時間、できないことはない

同志の一人神垣積善は、「須永さんはつねに社会運動をするものは、まず信頼される人間であること、農民運動をするからには、よき農民であり村人であれ。それが出発点だと青年に説いていた」と話す。「須永さん自身がりっぱな精農家であったのはだれでも知っている。股引きを高くまくりあげ、真っ白いすねを出して田植えをする百姓姿が目に残る」また、どんなに忙しい中でも1日最低2時間の読書を皆にすすめたという。朝1時間、夜1時間できないことはないというのだった。実際、神垣が須永家に泊まると、翌朝はいつも「須永さんはきちんと火鉢の前に座って、本を読んでいるのだ、なんのことはない、無言の教えである」と。


【写真】米軍の空襲で戦禍も痛々しい前橋の市街地(共愛学園提供)

 

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。

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須永好日記 (1968年)
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終戦前後の日記  東毛義人 須永好(7)

2012年08月14日 | 須永好 研究

今年67回目の終戦記念日。お盆の8月中旬のこの時期、昭和20年(1945年)の頃の『須永好日記』から一部抜粋させていただきます。

8月13日 朝、艦載機の来襲があり藪塚地内で疎開の飛行機が次々と破壊された。
8月14日 午後9時からB29が襲来して生品、毛里田、宝泉、太田、伊勢崎周辺に
      爆弾、焼夷弾が落ち火災が起こり寝ることができなかった。

8月15日 昨夜の近村爆撃で午前3時まで寝られず、朝眠りを破ってまた艦載機の襲来で
     ある。その退避中に重要放送が正午に行われるとラジオが放送する。
     艦載機はだんだん立ち去った。
     正午が来た。ポツダム宣言受諾の玉音を拝す。
     戦争は負けたのである。戦争は終わったのである。
8月16日 今日は送り盆。人気(ひとけ)は不安、悲観のどん底に陥り・・
     鈴木内閣総辞職、東久邇宮殿下に大命降下。

8月18日 東京の伯母が来て不安な状況を話した。決して不安はない。
     日本の軍閥がなくなってかえって住み良い日本になると教えてやった。

それにしても敵機の来襲は終戦の15日午前中まであったことが日記で確かめられる。埼玉県熊谷市も同じように玉音放送直前まで空襲があったという。

地主側の人々も入党、ノーサイド

終戦後に、強戸小学校の校庭で須永好の時局講演会があった。そこでポツダム宣言の説明をし、「これからは言論、集会、結社の自由は保障され民主主義の世の中になり平和が訪れる。当面は食糧の増産開墾が急務だ」と村民たちに話して聞かせる。誰もが敗戦でお先真っ暗、希望もてない精神状態の中で、須永好の演説には、聴いた皆が感銘を受けた。その後なんとこれまで対立していた地主側の人たちまでも続々、社会党に入るようになったといわれている。

須永好は、大局的に世界情勢を見ていた。そのため早々に日本の敗戦を悟っていた。昭和18年(1943年)に門下生の高橋徳次郎へも軍から徴用が来たとき「この戦争は負けだな。お互い命を大切にしよう」と彼に話したという。高橋徳次郎は開戦時の昭和16年(1941年)反戦主義者として予防拘束されただけに、その彼が必要となるような戦況ではと思ったのだろう。

『須永好日記』の閲覧を

『須永好の日記』、歴史の証言として一度は読む価値があります。古書市場では10万円以上の値がついています。それだけの価値はあるかもしれません。同日記は群馬県内では県立図書館(前橋)と太田市中央図書館で閲覧できます。私は太田の図書館を利用しました。(つづく)


【写真】大型爆撃機B29 日本にはのべ1万7千機が16万トンの爆弾を投下。広島、長崎の原子爆弾もこのB29から。

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。

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須永好日記 (1968年)
編者 石井繁丸他
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日本版海賊党なら津田大介か

2012年08月13日 | 政治

メディアジャーナリスト、津田大介(敬称略)はもっとも「海賊党」らしい人物に思う。著書の『Twitter社会論』で、ツイッターのもつ先見性をいち早く述べている。ツイッターの世界では、イベントや審議会等で参加者の発言などを実況中継する手法を津田大介から文字って「tsuda(つだ)る」と呼ばれ一般語にもなっている。

マスメディアだけでは不十分

政治が何年かに1度の投票だけで終わるのでなく、もっともっと政治が日常化しなくてはならない。原発報道でも明らかなようにマスメディアだけでは大事な情報が抜け落ちていて十分ではない。市民が情報発信して新しいソーシャルメディアをどう生かして行くかだ。津田は、「ソーシャルは双方向性」と言っている。社民党の福島瑞穂党首との対談で話す彼をみて、ますます「海賊党」の雰囲気を感じる=動画参照。

議員秘書の家庭で

津田大介のお父さんは、高沢寅男(1926-1999 元日本社会党衆議院議員)の秘書だった。彼の家には労働組合の人たちが友人のような感じで出入りしていたという。かといって彼が大学に入った1993年頃には学生運動はほとんど消えていた。高校では新聞部に所属。

津田はジャスラック(著作権協会)のシンポジウムに招かれそこで文化庁の著作権分科会の委員になる。政治に関わるのは投票だけでなく政策提言できる団体をつくって審議会に関わるやり方があると感じた。インターネットをつかい共鳴する人たちに声をかけグループを立ち上げる、その重要なツールにツイッターもある。

社民党もバージョンアップを

「今どんどん若者が切り捨てられている状況なのに、若者が若者のために声を上げる方法がなくて受け入れ先がない・・」と語る津田はまぎれもなく日本型ロストジェネレーション(失われた世代)の一員、そして一方“IT寵児”でもある。福島党首との対談では「市民政党としての意識のある社民党も、インターネットやソーシャルメディアを使いながらバージョンアップしていく必要があるのではないか」と指摘している。(「月刊社会民主」2012年8月号)

【写真】福島瑞穂と対談する津田大介 

動画参照 福島瑞穂X津田大介「ソーシャルメディアと脱原発」

【津田大介(つだ だいすけ)】1973年東京生まれ。早稲田大学社会科学部卒。メディアジャーナリスト。

 

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ドイツ海賊党躍進  

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「緑の党」につづいて「海賊党」も出番

2012年08月11日 | 政治

ACTA(模倣品海賊版拡散防止条約)の問題解決は、著作権法を現代のインターネット時代に合わせたものにしていくべき、ということではないだろうか。著作権保護もネットの自由も保障する体制をめざす、そう主張をしている政治集団があった!「海賊党」だ。

情報の自由を標榜する海賊党

バイキングの国、スウェーデン王国で2006年1月に結成された「海賊党」。ファイル共有ソフトやブートレグ(海賊版)CDの合法化を主張。政治信条は「情報の自由」「プライバシー著作権、特許改革」「政治の透明性」「教育重視」。30代のネット世代を中心に現在56カ国に存在。(日本は国際組織に未加盟)。

ドイツでは支持率第3党に

主張には急進的過ぎる部分が感じられるものの興味深い流れです。インターネットの公開性は政治浄化に貢献する。もちろんそれを阻もうとする支配層との対立は必定、そこで新党が出現する。ドイツでは海賊党が2006年9月にスタート。スウェーデンもドイツも2006年に新党が誕生。まさにWeb2.0時代に呼応した政党と感じられる。ドイツ海賊党は今年(2012年)4月、ドイツ国内で支持率13%、第3党までに躍進する勢いだ。直近のノルトラン州選挙では得票7.8%、20議席を獲得。ただ欧州議会ではまだ2議席。

多党制こそ民意を反映

海賊党(Pirate Party)の名前は、北欧などのゲルマン向きではあるが日本ではそのままの直訳では受け入れがたいように思う。もっとも「海賊」のもつインパクトは強いが・・。「パイレート党」か「インターネット自由党」、「情報民主党」などはいかがだろうか。いずれにしろ日本版「緑の党」は7月28日に誕生、この辺でもうひとつ日本版「海賊党」の誕生があっていい。閉塞した2大政党制では民意はとても反映されない。多様な価値観に基づく「多党制」にこそ、あるべき政党政治の望ましい姿があるように思えてならない。

【写真】海賊党のロゴマーク


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ACTA ドイツ海賊党の女性政治家の主張

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ACTA 著作権保護かネットの自由か 

2012年08月10日 | 経済

すでに参議院を通過したACTA(アクタ)が、政局混乱のさなかで法案可決されようとしている。

ACTA(アクタ)って悪太?

ACTAとは、「模倣品・海賊版拡散防止条約」Anti-Counterfeiting Trade Agreement=ACTAの通称。8月7日TBSラジオ「Dig」が取り上げたのはタイムリーだった。テーマは「オリンピックの裏側で・・・。法案通過間近、 ACTA(アクタ)って何?」

ACTAは日本が提唱して世界に呼び掛けている条約だが、すでにEU(欧州)議会は478対39の大差で反対が決まっている。このはっきりした反応はなぜだろう。

ACTAは違法ダウンロードや海賊商品販売を規制して著作権を守るということを狙いとした条約で、たしかにこれは一見もっともに思える。しかし同条約は知的財産権保護のためにはインターネットの規制が恣意的に及ぶことが危惧される。

(1)インターネットサービスプロパイダ(ISP)への監視義務の強化(2)著作権侵害が疑われるウェブサイトの強制シャットダウン(3)ISPから捜査当局への情報提供など。

今や真実はネットから

国民の多くは、3.11以降の原発事故の真実を主にマスメディアからでなく、ネット情報を通して知ったのではないでしょうか。私もその一人です。ネットの情報は玉石混合で気をつけなければなりませんが、御用学者のコメントでまとめられた大手メディアからだけではとても真実は把握できない。年間20ミリシーベルトや100シーベルトまで「安心」「ただちに影響はない報道」を鵜呑みにしてしまうところだった。

動画サイト、ツイッター、SNSや個人ブログ(群馬大・早川教授、福島被災者の声など)、ドイツ気象局のホームページからの放射能汚染速報、これらすべてインターネットから得るものでその影響は大きかったし、もちろんこれからも同じだろう。しかし、ACTAによってこれまでのような自由な発信・公開が画像、動画、引用文のコピーなどコンテンツが、場合によっては細部にわたって検閲規制にかかることが懸念される。

ACTAの検討は2005年、小泉政権の時代に始まっていたが、その条約作りの過程は秘密裏に進められてきた。なぜ「秘密交渉」のかたちをとってきたのだろうか。これはTPPの一括パッケージ方式の決め方にもよく似ているという。中に入ってみないとわからない??
国会議員でさえもよく知らなかった・・。

条約そのもの是非の前に、事が秘密的にことが進められてきたことにも大きな疑いがもたれている。その延長でACTAが通過された参議院の様子を、三宅雪子議員が街頭で説明している=動画参照。国会議員がACTAをよく知らないまま可決している現状を素直に報告しているところは好感がもてる。

中国の批准なしでは意味がない

ACTAの主旨からいえば、海賊品問題を起こす中国が加わらないことには話にならない。ところがそこに中国はいない!
ACTAの著作権保護とネット規制は別々に考えなければならないと思う。それに本当に実効性を考えるなら6カ国とか8カ国の協定で成り立つものではない。こんなことではボーダレスなネット世界では抜け道だらけになってしまう。すでにEUが反対した時点でこの条約は意味がない。
それにしても国民の周知度がきわめて低いACTAを、このどさくさ紛れの時に可決するな!と強くいいたい。

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参考動画:欧州議会が否決したACTAを日本が推進する理由(神保哲夫VS宮台真司) 

2012 8 7 首相官邸前 ACTAデモ。「署名段階で和訳なしの条約」と訴える三宅雪子議員(群馬4区)

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犠牲者を出さない平和戦術  須永好(6)

2012年08月08日 | 須永好 研究

今では「小作人」は死語

「須永好という偉い人が昔、小作農の団結で強戸(ごうど)村に小作人組合をつくり村民を幸せにしたんだよ・・」と話しても今の若い世代には、そもそも「小作農」「小作人」というが、死語になっていて理解できていないことを知りました。そこで復習です。小作農=小作人とは地主から土地を借り使用料(収穫物)を払って農業を営むお百姓さんのこと。

小作料は収穫の50%以上

1947年(昭和22年)まで日本の農地は、地主・小作制度による所有形態でした。自分の所有する土地を耕して生活する者は「自作農」、自分の土地だけでは足らずさらに地主から借りていたものは「自作兼小作農=自小作農」すべての土地を地主から借りていたものを「小作農」と呼びました。
明治中期から終戦まで、全農地の約半数近くが小作地でした。全国農家総数の30%が小作農、同40%が自作兼小作農、同30%が自作農の構成でした。ちなみに強戸村では全675戸中、小作農335戸(50%)、自小作農241戸(36%)、自作農99戸(14%)で全国平均よりも小作農の占める比率は高かった。(1921年強戸小作人組合結成当時)。

土地を持たない小作農は、収穫物の50%以上を地主へ小作料(土地使用料)として納め、その生活はそれはそれはひどく惨めなものでした。

初戦から平和裏に要求実現

強戸村に小作人組合が誕生して、最初の交渉は「小作料3割減」の要求だった。しかし地主側は「1割減」からは一歩も譲らず話し合いは難航した。行司役には太田警察署長が間に入る。条件として小作人組合側が予定していた大物労働運動家・鈴木文治講演会を中止することで「3割減」を地主側が承諾。この後に地主側も激しい反撃がありましたがまずは初戦、小作人組合側の勝利となりました。(「小作争議の時代」:みくに書房)

懲役・実刑者はゼロ

強戸村の小作争議では、一時的に検束されたケースはあるものの、組合員が裁判にかけられたり懲役、実刑に処されたものはなんとゼロ。これは驚くべきことです。
強戸村では農民組合(小作人組合)が地主組合を団体交渉の場に招き、小作法による調停に持ち込む遵法作戦をとり、小作料3割減要求もその形で実現した。実力行使の闘争はとらず、村議会で絶対多数を占め、村長も獲得していった。全国の多くの小作争議では残念なことに犠牲者続出、しばしば流血もともない悲惨な結果で終わるところもあった。

正当防衛であっても逮捕実刑

お隣の栃木県の様子を見てみよう。同県塩谷郡阿久津村での小作争議(1931年、昭和6年)では地主側が右翼団体、大日本生産党の黒シャツ隊(イタリアのムッソリーニの民兵組織を連想してしまう)約100名を雇い入れ農民組合に対抗。しかし地主・生産党側に5人の死者と12人の重傷者が出たという。正当防衛で果敢に応戦した農民組合側は衝突では負傷者はでなかったもののすぐに騒擾罪(そうじょうざい)で109人が逮捕され1年~15年の実刑を受ける。獄中で亡くなった人もいたという。(「小作争議の時代」:みくに書房)

結束、固かった強戸村民

強戸の争議では、いつも犠牲者を出さなかった。良く考え錬られた平和的、合法的な交渉術が功を奏していた。全国レベルの上部組織では農民組合、また無産政党も多岐に分裂し離反・集合を繰り返し混乱していたが、ふしぎと強戸村は、その波に飲まれることはなかった。村の組合組織や党支部が左右に割れることは一度もない。これも須永好の人間的な魅力が、地元警察署長の仲裁にみられたように、敵味方を問わず広く人々に受け入れられ信頼されていたことによるものだったからではないだろうか。(つづく)

【絵】(「田中正造」:さ・え・ら書房から)

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民(小作人)組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議当選2回。

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小作争議の時代―農民運動者20人との対談 (1982年)
渡邊正男編著 回想の須永好と無産村「神戸」他
みくに書房
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霞ヶ関文学で原発はどうなる

2012年08月06日 | 経済

「に」一文字で別解釈に

過去に政策金融改革では当初案「日本政策投資銀行は完全民営化するものとし・・」が「日本政策投資銀行は完全民営化するものとし・・」と「完全」、「民営化」の間に「に」の文字を入れただけで意味が大きく変形してしまった。=YouTubeご参聴。
事実その後、完全民営化は遠のいた。岸博幸氏(元経産官僚、慶大教授)の解釈の通りに進んだ。ふつうの感覚をした国民にはとても理解が及ばない、これが霞が関文学=官僚文学のマジックなのだ。

“野田文学”も霞ヶ関仕込み

同じように野田総理は、近頃さかんに「原発の依存度を可能な限り低くしたい」という。素直に聞けば、できるだけ原発依存をしないように努力するのだろうと思ってしまう。
しかし霞ヶ関文学ではそうではない。全く反対に「もし可能でない(不可能)と思ったら何もしなくてよい」という意味だと古賀茂明氏(改革派元経産官僚)=写真=は解説してくれる。同氏によると「おそらく民主党は次の総選挙の公約に「脱原発」と読み取れるフレーズを盛り込んでくるはず。だけどそれは言葉が躍っているだけ。真意は別にあるのだ。「原発ゼロ」の4文字をマニフェストに入れられるかどうか、そしてその時期を明記できるかだと話す。(古賀政経塾!!)

「原発ゼロ」明記できるか

古賀氏の指摘には同感です。しかし「原発ゼロ」の文字は民主党に限らずその他の政党にも試されていることではないだろうか。次の選挙では各党の、この4文字及び、時期の明記をしっかり確認して投票判断の参考にしたいと思います。

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元通産官僚が明かす「霞ヶ関文学」という名の官僚支配の奥義

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女子・農民教育に尽力  須永好(5)

2012年08月05日 | 須永好 研究

組合青年部は全国で初めて

須永好自身は涙をのんで旧制太田中学校を退学したが、村人の教育には熱心だった。前段として農民(小作人)組合の中で青年部を組織した。青年部創設は全国でも強戸村が一番早かった。青年部は若い農民の知識向上と組合の前進のためにと「農民学校」を1922年に開設した。校舎は治良衛門橋駅前の民家の二階。学科は社会学(国内世界情勢)、文学、農学(品種改良、土壌肥料など)政治学、法律(地租条例、森林法など)、経済学(プロレタリア経済)、農民問題の7教科。

農民学校では警官も教育?

須永好も講師陣に加わった。生徒は80余名。しかし1930年頃になると官憲の監視が次第に厳しくなり、農会技術員だった菊池光好の話では「須永さんの講話の後に麦の黒穂病予防について講義しに行ったら生徒13人であったのに警官が8人も臨席していたのには驚いた」という。

女子にも経済・政治学の講座を

明るい話題を呼んだのは女子教育だった。1928年(昭和3年)農民組合婦人部が「強戸共愛女塾」を開校した。当時は男子は軍事教育、女子は貞操教育が政府の施策だったが、無産政党はこぞってそれに反対していた。募集人員80名、修学年限は3年だった。(前橋の共愛学園・共愛女学校とは関係ありません)。学科は和洋裁、家事普通学を主として、社会、経済学、政治学も勉強した。当時女子の教育に経済学や政治学を置いたところは、全国的には明治大学専門部女子部(1929年開校法律科商科設置=後の明治大学短期大学部(女子のみ)、現在は同大情報コミュニケーション学部に改組)しかなかった。ここでも強戸村共愛女塾の先見性がうかがえる。

さらに「強戸農村問題研究所」も開く。農民解放の立場から農村問題を研究するいわば、村の図書館の役割を果たした。農民への教育を重視した無産村強戸の試みは広く話題を呼んだ。(つづく)

 【写真】共愛女塾の塾生たち(前列左から3人目が須永好。須永の自宅前)

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷に、と農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。終戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議当選2回。

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太田高校を中退、独学の義人 須永好(4)

2012年08月04日 | 須永好 研究

どんなにか悔しかったことであろう。人一倍向学心の強い児童だった須永好は家計を支えるため明治42年(1909)9月太田中学校(現在の太田高校)を2年時途中で退学している。

戦前は(尋常)小学校6年間までが義務教育。小学校卒業後は、2年制の高等小学校(高小)か、5年制の中学校(男子)、高等女学校(女子)、実業学校に進んだ。しかし多くのものは三洋電機の創業者がそうであったように小学校を卒業して職に就き実社会で働いた。中学校や女学校に進むものは1学年で数えるほどの僅少。進学できるのは裕福な家庭の子どもたちに限られていた。

父の放蕩で学業断念

須永家は貧農ではなく、祖父の代から農業の他に機織業も手がけていて有力な自作農家だった。ただ父親、伊平が家督を守れなかった。伊平は新田郡会議員にまつりあげられそれなりに有能ではあったが、酒と色に溺れ家を捨て放蕩生活に明け暮れた。祖父が病気になってから機織業は破産し家は傾きかけてきた。

須永好は強戸尋常小学校で成績は良く、憧れていた叔父、須永城一郎(太田中第1回卒、陸軍士官学校ー中国大陸で戦死)と同じ太田中学校に進む。しかし父親不在の困窮してきた家の中には、まだ幼い弟、妹たちがいた。一家の面倒を見るためは退学しなければならなかった。以来、一家の支柱となって農業に精を出す。須永好15歳、試練の秋だった。

退学後の好は、気持ちを切り替え持前の探究心と骨身を惜しまない努力で農業に立ち向かった。2年後(明治44年)、強戸村農会長から「品行方正、業務勉励」と善行表彰を受けている。

強戸の篤農家、“須永金次郎”

学校は去っても須永好は終生、どんなに多忙の日でも朝1時間、夜1時間の読書を欠かさなかったという。朝は霜柱をくだき、夜は月をいだいて帰る。そして日々寝る間も惜しんで勉強した。農業改良の研究にも熱心で、須永家の作物は良質な出来栄えだった。人々は「二宮金次郎の再来」とまで評したという。

【写真】須永好が進学した太田中学校の校旗(左)

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事する。郷里の強戸村を理想郷に、と農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党で活躍、衆議当選2回。

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田中正造との相似・・東毛義人 須永好(3)

2012年08月03日 | 須永好 研究

須永好という人物を調べて行くと、足尾鉱毒問題でたたかった田中正造翁と似た面がたくさん感じられる。飾らない自然な風貌も似ているかな。(写真参照=上が須永好、下が田中正造)

須永好(1894-1946)は、大正から昭和に活躍した人で、田中正造(1841-1913)は天保から大正を生きた人、両人は50歳以上の年齢差がある。

北関東(両毛)で農と生きた抵抗の代議士たち

須永は上州群馬、田中はお隣の下野栃木県の人だ。両人とも生涯を農民の立場で小作農、被害農民の生命と生活を守るために捧げ義を貫いた。ともに農に生まれ農に生きた政治家、衆議院議員であった。

須永好が誕生した1894年、田中正造は54歳で足尾鉱毒問題に取り組み地元代議士として盛んに質問書を作成し提出していた時期である。
被害農民が大挙して政府に請願行動(俗に言う「押しだし」)を起こし、群馬県明和町の川俣(かわまた)の地でこれまた大勢の警察官に阻止され農民と官憲が大激突した「川俣事件」は須永好、6歳の時の事件だった。

正造の葬儀に強戸村民も参列

田中正造は享年72歳、胃がんが悪化して亡くなった。強戸村からの正造の葬儀には好をはじめ強戸の村人が参列している。「予は下野の百姓成り」と近代文明の暗部とも言うべき公害問題に生涯をかけた正造に、好も上州のおなじ百姓として共感していたにちがいない。渡良瀬川の水源も利用していた強戸村の農民たちは足尾鉱毒の被害者でもあった。強戸は下流であったため上流地域ほどの被害ではなかったが、村民は早くから足尾鉱毒反対の陳情活動に参加している。今日の原発事故被害に至る日本の公害問題の原点は、まちがえなく足尾鉱毒事件がルーツである。

足尾の同志石山を信頼

須永好は、農民運動を進めていく中で特に信頼していた同志が足尾の石山寅吉だといわれている。石山寅吉・・とは、1890-1937新潟出身、須永より4歳年上。足尾銅山の精錬工から大日本鉱山労働同盟会の創立者の一人。足尾銅山の争議を指導したびたび投獄される。須永好と同じ日本労農党の結成に参画。この人も衆議院議員も務めたが48歳の若さで他界された。

好、正造の共通点は強い人間主義

須永好は、小作人組合を組織し小作人の生活向上のためにたたかったが、自身は自作農であった。田中正造も本百姓で名主の家に生まれた。二人とも出自に関係なく「小作農も人間である」「被害農民も人間である」といった人間主義に強い共通性がみられる。あらためて良く似た二人を義人と感じたのは、もっともな気がしてならない。

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