ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

大人の補習ー魅せる大人に

2010年01月31日 | 研究・書籍
「出版ダイジェスト」1/21号の特集タイトルは「大人の補習ー魅せる大人になろう」
子どもや学生の学力低下が叫ばれ中で、大人も学び直しが必要・・。まったく同感です。

それにしても出版業界へもデジタル化の波が押し寄せています。グーグル訴訟問題、「電子図書館構想」、アマゾンの新しい読書端末「キンドル」の普及、そして3月にはアップル社から多機能携帯端末「iPad」が登場します。

私はまだ「キンドル」も手にとってみていませんが、デジタル化した電子書籍が、ますます利便性を向上させてくれることは、身近になった電子辞書の使いやすさから想像ができます。
著作権の保全などの問題はあっても電子化の進展には期待します。

ただ、書籍や出版の形は如何に変わろうと、要は豊かになった中味(コンテンツ)をどのように選択して「大人の補習、補修?」に活用し役立てて行くことが重要なのではないかと思います。

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大人のための近現代史 19世紀編

東京大学出版会

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イー・モバイルにも注目

2010年01月28日 | IT関連
転居に伴って、通信環境を見直したいという子供のノートPC購入と
通信契約に同行しました。

最新のOS、Windows7、HDDに代わるSSDなどの組み込まれたノートPC
のラインアップに目を見張ります。それも超破格で並んでいる。
ただし移動体通信会社イー・モバイルとの契約セット販売が条件。

一昔前、ケータイ電話が急速に広まった頃に、0円、10円のケータイ電話が
店頭を賑わせました。ケータイ各社が加入者獲得をねらって端末価格を
度外視した販売方法の再現が今、イー・モバイルの売り方に見て取れます。
利用者は2009年3月現在で150万人、まだまだこれから成長することでしょう。
通信可能な範囲の日本地図を店頭でみせてもらいましたが、山間部は空白
地帯が目立つ。こうした地図の分布の状況も、かつてのケータイが出始め
のころに良く似ています。

工事もプロバイダーも不要。ワイヤレスでどこでも快適ブローバンド、と
いい事づくめですが基本料金は、月額最高6,880円と、一般ADSLなどに
比べると安くはありません。ただPCとデータカードの端末機が無料に近い
価格なので、その点を加えての総合判断になります。

PC、ケータイともにイー・モバイルの利用料金がさらに下がり、受信地域が
拡大するなら、新規加入者や切り替え需要が期待できそうです。
どんな使い勝手になりますか、子供の感想が楽しみ

Twitter社(2006年)同様、イー・モバイル社(2005年)も若い会社ですね。

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ツイッターの世界へ

2010年01月25日 | IT関連
15年前、ホームページってなんですか?と言っていた自分。
5年前、ブログっておもしろいですか?とも。
そして今年、「ツイッター」って?
と考えながらも始めてみました。

Twitterの日本のユーザー人口は、現在500万人超。
年齢層では30代が多いという、いずれシニアの参加も増える
こと間違えないでしょう。
SNS大手のユーザー数は約1800万人ですから、まだまだ
それには及びませんが、この成長の著しさからして、かなりの
速さでの普及になることを感じさせられます。
いづれSNSを抜くことは確実でしょう。

ツイッターは、政治家の利用が話題となっています。
鳩山首相、オバマ大統領・・
著名な政治家の参加は、その人柄となり信条なりが、日常の
「つぶやき」を介して大衆とつながります。政治家との距離を
縮める上でツイッターは手短かなツールで、それだけに「政治」
には適しています。「つぶやき」とはいえ、うっかり失言でも
したら一瞬にして公衆に知れ渡るリスクはあるものの持論思い
をリアルタイムで訴え、理解を得られるメリットがあります。

企業にとっても今後、市場に向けての新しいメディアとして
重要な戦略ツールとなりましょう。
すでに、三洋電機もWEB委員会のアカウントがありましたが、
まだフォローしている人数は87。これからですね。

それにしても
彗星のように現れた会社、Twitter社そのものにも驚きです

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【中学下宿記】(31) 下宿生活から学んだこと

2010年01月22日 | 中学生下宿放浪記
中1の大泉町仙石の農家W家から始まり中3の前橋市前代田のO家まで、
実に中学時代に9軒の下宿を経験しました。3学期制でしたから単純に
3年の間に「1学期1下宿」というような割合になります。転校は3回。
リヤカー1台、めまぐるしい引越しの繰り返しでした。

下宿は、いわゆるホームスティともよく似ていますが、私の場合は親元が
「女子寮」で、そこは認知されていない、帰れない「ホーム」でした。
それだけにしばしば突きつけられた「出て行け!」の最終通告には辛い
ものがありました。

高校時代になると、すっかり落ち着き、大泉町坂田のS家(大東館)に
下宿し、長く留まりました。
ここ大東館も9番目の前代田O家と同じように、奥さんがお膳を部屋に
運んでくれました。食事は部屋で一人。その家の人達との接触する時間は
少ない。これは、感情的な対立が起こりにくいベターな方式でした。

人間関係は、友人、恋人、師弟、上司部下でも当てはまりますが、最初は
急速に親密になります。しかし時間が経つと、互いの欠点が目に付き次第に
失望へと変わることが多い。密着し過ぎるとそれだけその反動が大きい。

初めは、どこも「ウチの子と同じように預かります」と言ってくださる。
これは誠、まったくその時点では、ありがたいほど善意なことなのです。
しかしそこの家の子とはちがい、日ごろから気に入らない事があっても、
どうしてもお互いに遠慮し合って感情を抑えている。真の親子の場合は、
その時、その時で、叱ったり反抗したりして言い合う分だけに鬱積した
ものはなく、コミュニケーションの免疫もできあがっています。

しかし下宿人の子はちがう。それが何かひとつの過ち(テープレコーダ事件)
をきっかけに爆発し「こんな子とは思わなかった」「さあ出て行け!」と
いうことになります。これは、他人の家に嫁いだヨメの立場にも共通した
ものを感じます。下宿人もお嫁さんも立場は弱い。

ただ、真の親子でないので、もしハズレだと判断したら直ちに退去し関係を
解消することが可能です。本当の親子は選べないし、簡単に縁を切れない。
下宿の子は、互いに選び選ばれた関係なのでいつでも離れられます。

基本的には、下宿人は「客人」であり「他人」なのです。
それを無理に「うちの子」と同じと思うと摩擦が起きるのです。
まさに嫁・姑の関係ですね。

私の推薦する格言です。
凧を飛ばして雷が電気と発見した米人、B・フランクリンの言葉。
-------------------------------------------------------
「結婚前は両目を大きく開き、結婚後は半分に閉じよ」

Keep your eyes wide open before marriage,
             and half shut afterwards.
-------------------------------------------------------

私の下宿生活の失敗ケースを倒置的に転じて考えてみますと

「下宿前は目を半分閉じて、良い子だ、良い子だ。
 下宿後は両目を大きく開いて、こいつ本当は悪い子だ。出て行け!」

このことわざは「結婚」の他にも、広く人間関係一般についても当てはまる
のではないかとかと感じます。職場や学校などの様々な人との交わりの場で。

「人」と「人」、そして「人」と「組織」。
そこに生まれる「期待」と「失望」・・

その様なことを、中学時代の下宿生活を通して感じ取ったような気がします。

「中学生下宿放浪記」は今月に入り、後半分を一気に書きつづけました。
元になる「日記」はありましたが、当時のことが今でもはっきり一つひとつ
思い出されるのは、それだけ中学生だった私にとって下宿生活が、刺激的な
出来事の連続であったからなのではないかと思われます。

母が亡くなった1986年は、まだ長子が小5でした。
生前、「子供たちが中学生になったら、お父さんの中学時代は大変だった、
ということを、しっかり聞かせるといいよ」と話していました。
つたないこのブログが、父から子へのささいやかな伝承になっていれば
幸いです。

当ブログ左側「カテゴリー」欄に、「中学生下宿放浪記」の過去ログが
(1)から収められています。ぜひさかのぼってご笑読ください。

最後は、前橋市内の映画館で母と見た「シェーン」の名場面とともに
終了にいたします。
当放浪記シリーズ、永らくのご閲覧、ありがとうございました。
(おわり)


【写真】12~13才ころの筆者。横の火鉢が懐かしい。

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Shane, come back!


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【中学下宿記】(30) “下宿道”を指南

2010年01月21日 | 中学生下宿放浪記
ちょうど時が3年経過して・・
高校3年の時、前橋一中の友人、離れた別のクラスでしたが、ハンサムで
学校一の美男と言われた“ミスター・一中”ことM君のお母さんが、前橋
から、わざわざ私の下宿先(大泉町坂田S家)までやって来られました。
主に母親同士で親密に話しをして帰りました。当のM君は現れていません。

M君については、こんな思い出があります。
彼とは時々一緒に下校しました。あるとき、校舎2階の窓から女子下級生達が
身を乗り出すようにてキャーキャー叫けびこちらを見て、さかんに手を振って
いるのです。最初、不覚にも私は、まけずに愛想良く手を振り返していました。
横のM君は、はにかんでうつむきかげん。すぐに気がつきました!
彼女たちの視線は横にいる美男M君に対してであって中学下宿人の方ではない。
なんとも気恥ずかしい限りの一場面でした。

その美男M君のお母さんの突然の来訪目的は、春から理科大に入学するM君が
初めて親元を離れて下宿をすることになるという。そこで事前に下宿の探し方、
下宿人の心得、ノウハウ?など下宿全般に関して当方から聞いて参考にしたい
ということでした。

母も最初びっくりしましたが、これまでのつたなくも豊かな?苦い経験の数々を
M君のお母さんに語っていました。

こうしてみますと3学年15クラスあった前橋一中の校内で、私の下宿珍生活は
けっこう“有名”になっていたのかもしれません。卒業後も、こうして未経験者の
方が訪ねて来られ、下宿道を指南するまでに至った私とは・・果たして何者・・
下宿スペシャリスト?下宿マニア?下宿道の達人??
そう思いますと、なんだか顔におヒゲがはえてきそうな気分になりました。(つづく)


【写真】下宿人の必須アイテム、お引越しの“友”、リアカー。

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【中学下宿記】(29) 母子家庭激励会

2010年01月19日 | 中学生下宿放浪記
前代田(現前橋市南町)のO家は、奥さんが部屋にお膳を運んでくれて、
下宿人や家族の人達と一緒に食事をしない。これはこれまでの下宿には
なかったパターン。済んだ食器は、廊下にある大きな共通の机に置きます。
それぞれ自室で食事をすることで人との交流はありません。いわばクール
な関係の仲に時が過ぎていきます。やや大人びてきた中3の私にはぴったり
の下宿でした。
庭には井戸があり、そこで洗濯をします。まともに自分で洗濯をした記憶は
このO家の下宿だけの気がします。

これまでの喧騒の中にいたような生活が一変し落ち着きました。
生活環境というものは、精神状態へも大きく影響を与えるものです。

部屋でレコードを聴いていました。仏映画主題歌「太陽はひとりぼっち」。
僕も独りぼっちか・・などと感傷に浸っていましたら、接近している隣の
家から男の人の声がします。
「おーい、それレコードかい?もっと音を大きくして聴かせてくれ~」
「は~い、もう一回かけますよ~」
レコードをかけていてうるさがれたことはあっても、アンコールがあった
ことは初めて。この下宿の居心地の良さを象徴するような思い出です。

進路の迷いもありましたが、よくよく考えますと自分には贅沢な悩みとも
思いました。
3学期に入りますと早くも就職の内定が決まります。卒業後は上京し就職
する友もいます。自ら働きたいというなら良いのですが、どうも親の経済力
によって進路の選択が制約されている生徒が多いように思い、世の中の
不合理さを感じました。

最近では考えられないことです。今は親世代に余裕ができ、高学歴化が
進んでいます。親が進学を勧めても子が応じないケースまであります。

卒業近くのある日、校庭に十数人が集められ、目的も告げられず引率する
先生の後について、県庁前の群馬会館に行きました。そこは前橋市が主催
した「母子家庭激励会」会場でした。3学年750人中、わずか十数人でした
から、いかに母子家庭の家が少なかったかが分かります。女性が子供を
抱え自立して生きるには困難が多すぎました。帰路、お互いに話をすると、
高校の普通科に進むのは、私しか見当たりません。顔見知りの秀才のNG君
がいましたが、彼は高校卒業後は就職するので商業高校に進むという。
優秀な生徒が、経済的な理由で、思ったようには進学できない時代でした。

母に聞いても母子家庭への福祉施策はほとんど何もない状態。そうすると
激励会の会場でいただいたアルバムが、唯一の“公的援助”ということに
なりそうです。(つづく)

【写真】前橋市主催の母子家庭激励会で贈呈されたフォトアルバム。


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太陽はひとりぼっち

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【中学下宿記】(28) 《進路問題》 親の立場、子の立場

2010年01月18日 | 中学生下宿放浪記
前代田のO家は、数えると9番目の下宿先、時は12月師走でした。
この時期になりますと、卒業後の進路をめぐって各家庭では親子
で将来を話し合うことになります。私と母も進路について意見を
たたかわせました。これまで転校、転居については、私の意のままに
追認してきた母ですが、ここで初めて自身の希望を述べました。
それは前橋地区の高校ではなく、東毛地区の高校を選ぶことでした。
私は、前橋での進学を考えていました。。

ふと省みますと私は、再び前橋に来てからは母の存在を忘れてしまった
かのようでした。何か騒動があった時だけ母にすがりついているような。
要所要所では、常に親の力で軌道修正してもらっているのに。
追い出されたのは、テープレコーダ事件、揚げ物屋、カレーばあさんの
3件、さらに母はなんといっても食事、洗濯、それに不規則になりがちな
生活習慣を案じていました。

母は進路については、最終的には子の私の判断だ、とは言っていました。
ただ親としては、東毛の高校を勧める、といつになくきっぱりと意見を
示しました。

前橋に来てからは、時々大泉で過ごした生活の日々が夢に出てきました。
社日様、S家のあばさんの涙、キリスト教会、壮大な米軍基地の景色、
そして女子寮のお姉さんたちの温かさ・・
この先の下宿放浪の中で、次の騒動でもう母に心配は掛けたくはないし・・

前代田のこの下宿の住人は、学生と社会人の混成。
隣りの部屋の群馬大学の学生と親しくなりました。一緒に市内の風呂屋で
話しもしました。学芸学部(今の教育学部)体育教師志望の人でした。
私の進路についての迷いを話すとその大学生からは、
「君はお母さんのことを、もっと考えなければいけない。きっと心配している。
お母さんの近くに帰って安心させるべきだ」と教育者の卵らしい助言でした。

この人と同じようなアドバイスは、雑誌「中学時代」を買いに行っていた
前橋駅前にあったT書店のおじさん(叔父と旧制中学の友人で脱サラ店主)
からも頂きました。
「ぜひ大泉に帰ってお母さんの近くに住み心配をかけないで親孝行しなさい」
又、信頼していた隣りのクラスのN先生も大泉に戻ることには賛成でした。

親子が人生で初めて対立するのは、どの家庭でも子の進路をめぐってでは
ないでしょうか。

進学か就職か?
進学先はどこか?
就職先はどこか?
そして究極は結婚相手でしょうか。
------------------------------------------------------------
親のスタンスは・・
(最初)長い経験からの自説は堂々と述べる、但し押し付けでなく。
(最後)子本人の判断を容認し応援する(折れる)。
-----------------------------------------------------------
子のスタンスは・・
(最初)親の忠告、体験談は、十分聞き参考にする。
(最後)自分の人生は自分で決める。
------------------------------------------------------------

もし大泉に戻るには、前橋と東毛地区では学区が異なり住所変更を
しなければなりません。早々に決断をしなければならない時期に
来ていました。
母とも激しい討論をする中で、私は再び東毛(大泉)に戻る選択を
しました。(つづく)

【写真】1960年代の前橋一中


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【中学下宿記】(27) 下宿探しで知る人の情け

2010年01月17日 | 中学生下宿放浪記
「逆境の時こそ真の友」ということわざがあります。
ほんとうに自分が追い詰められた時、人の情けのありがたさが
身にしみました。

Yおばさんは、市之坪のお婆さんの代理人、不動産屋さん役。
「出て行け」といわれたからには、長居は無用、また旅支度です。

時は、3年2学期後半のころでした。自分でも積極的に下宿探し
をしました。
まずは、身近なクラスの親しい友人から。
その一人がF先生から「小泉に帰すよ!」とひどく叱られた時のA君。
彼の家は廃品回収を営んでいました。事情を知ったA君は、
「うちに来てもいいよ、家族もオーケーだよ」
ありがたかった。早速彼の家に行きました。しかし家の中は、外から
見るよりも狭く、とても私の部屋を確保することはむずかしいし迷惑
がかかると思いました。弟(中1)も出てきて、嬉しそうでした。
困っていた私にとって、A君の友情、A家の人達のご好意は、本当に
ありがたいものでした。

今風にいうならさしずめ“宿活”(下宿探し活動)とでもいいましょうか。
次は、大きな屋敷に住む別のクラスの友人S君の家に狙いを定めました。
外観からして広そうで一部屋くらい貸してもらえるだとうと見当をつけ
直接、S君のお父さんの姿をみつけ、庭から声をかけて頼み込みました。
「S君のおじさん、こんにちは。こちらに下宿させていただけませんか」
「なに?下宿?ダメダメ、ウチは下宿屋じゃない」
「今、住んでいる下宿から追い出されるのです。なんとかお願いします」
「ダメダメ、ダメ」

断られても当然なのですが・・元軍人の偉い将校さんだったと言われている
S君のお父さんのなんとも冷めたかった反応・・。
大きなお屋敷をしみじみ眺めながら引き返しました。

今度は同じクラスのN君。家では日本舞踊や三味線を教えているおうち。
N君とは、洋楽のポピュラーファン同士で何度も遊びに行っています。
可愛い妹さんたちとお祖母さんもいる温かい家庭。
「下宿してもいいよ」とN君に言われた時は、これまた本当に嬉しかった。
A君といいN君といい、この人達の情けは、一生忘れることができません。

一方、母も必死で探していました。
N君のところにお世話になろうかと思っていた矢先、母が前代田(今の
南町)に下宿専門の家をみつけてきました。
どうして見つかったのか聞いてみますと、途方にくれて歩いていると
まったく偶然に「下宿あります」の張り紙が貼った屋敷が有って、
すぐに予約をしてきたと息を弾ませての報告。まるで神様のお導きの
ようでした。

今でも外出先などで歩き、ふと古い二階屋の家が目に止まりますと、
この家に下宿したらどんな生活になるのかな、などとつい思いをめぐら
してしまいます。(つづく)

【写真】カメラ小僧だった小学生の頃からいつも一緒の愛機マミヤ35S。
私の下宿生活の“証人”でもあります。群馬のマスコットゆうまちゃんと。


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【中学下宿記】(26) 若い衆は外でおしっこを

2010年01月14日 | 中学生下宿放浪記
市之坪のお婆さんの下宿では、カレーの他にもう一つ困ったことがありました。
それはトイレのことです。いわゆるボットン便所です。水槽のようなトイレで
おつりが激しく返ってくるからなのです。トイレに入るのが憂鬱でした。
それにお婆さんは、この家のトイレで私が小便をすることを嫌います。
「若い衆(若い人)ってものは、おしっこは家の外でするもんだよ」
とへんな注意を発するのです。

母に話しましたら、同情して一緒に怒ってくれるものかと思っていましたら、
「酷く貧しい人達は、昔からそうした習慣の中で生活してきたものなのよ。
いい勉強になっているね」と少しも動じないのです。

その後、仲介役のYおばさんは次第に、私にきびしく当たるようになってきました。
最初親切だった人が、徐々に変わる、人間の感情の変化は複雑怪奇です。

日記には「僕は母と話しこの下宿でまだ頑張るといった。それがYおばさんは
気にくわないのか、親に逆らってまでも下宿を替えないわるい子といわれた」
とあります。
そのYおばさんが、修学旅行の前に日、旅行用の弁当を作ってあげる、と言って
きたのを、すでにYおばさんに不信感を持っていた私が受けなかったことが、
いっそうYおばさんの逆鱗に触れました。Yおばさんの善意に、私が素直に
従わなかった、ということです。今思うと、Yおばさんも私のことをいろいろ
気遣っての親切心からでありがたいことでした。きっとYおばさんは
その気持ちが通じなかったことへの苛立ちだったのでしょう。
ちなみに旅行用の弁当は、前日に近くの飲食店に頼んで用意して行きました。

その後のYおばさんは、味方から敵に転じたようになり、前に住んでいた下宿先
(芳町の揚げ物屋さん)のところに行って私のことを調べたり、私の実家(相生町)
の叔父のところにも“抗議”にいったという、「Yおばさん ひどい!」と日記に。

とうとう怒ったYおばさんは私に「下宿を出て行け!」と宣告してきました。
下宿に帰っても、お婆さんとは口をきかない状態になっていました。
「連続カレーライス」の件では、理解を示し他の下宿を紹介してくれたYおばさんが、
今度は「出て行け!」の一点張り。

途方にくれた私は、それでもすぐには母に連絡することができなかった。
これまでにも何回と無く母には私の下宿騒動で呼び出され、そのたびごとに
仕事を中断して前橋まで出てきてもらっている、もう心配をかけたくないと
いう気持ちでした。
Yおばさんに立ち退きを宣告された夜、私が相談に向かったのがなんと、
日ごろ不和であった担任のF先生の家。Yおばさんが同じクラスメイトの親と
言うこともあってF先生に話すのがいいと思い及んだのです。

夜遅くF先生の家の玄関先で、F先生の顔を見るなり涙がこぼれ落ちました。
「僕、下宿を追い出されそうです。。」
突然の珍客にF先生も驚かれたことでしょう。いつもは反発していたF先生で
したがこの時ばかりは、優しい母親のような存在にみえました。F先生は私の
話を聞き善後策を考えてくださいました。石田三成が、追われて政敵、家康の
屋敷に逃げ込んだ時のようでもありました。
ただ、これ以来、F先生に対し徐々に信頼感が出てきたことも不思議な
心境の変化でした。(つづく)

【写真】修学旅行(日光で)

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【中学下宿記】(25) カレー、うまいかい?

2010年01月12日 | 中学生下宿放浪記
今度の下宿は、親しい級友、Y君のお母さんの紹介でした。
市之坪(現在の前橋市南町、一中区域)の一人暮らしの行商の
お婆さんが住む家。久しぶりにまた、お婆さんとの“同棲”です。

このお婆さんは、一体何歳位だったのだろう。細面の昔話に出て
きそうな「婆様」でした。日中は時々行商に出かけて留守になり
ます。文字の読み書きはできない、いわゆる文盲の人でした。
そのため私が、遠方にいるお婆さんの親族宛に、何回かお婆さんの
発する言葉通りに代筆して郵便物にし、差し出しました。

ここでは、私用の部屋はありましたが、前のような離れの独立した
一軒の小屋ではなく、一つ屋根の下なので、来訪者は減りました。

初日にカレーライスが、出たのです。
お婆さんは私の顔を覗き込むようにして、
「うまいかい?」と聞きます。
「うまい、うまいです~!!」
「そうかい、そうかい、うまいかい、うまいかい」

実は、翌日も食卓には同じようにカレーが用意されています。
昨日と同じように、
「うまいかい?」
「はい、うまいです」
「そうかい、そうかい、うまいかい、うまいかい」
ただ私の賞賛のトーンは少し落ちています。

そして3日目、またカレーです!
「うまいかい」と同じように聞きます。
「は、はい・・」
「そうかい、そうかい、うまいかい、うまいかい」

このお婆さんは、カレーライスしか作れないのだろうかと思いました。
私の記憶では、それから1週間以上カレーが続くのです。

志村けんの「だいじょうぶだぁ」のコントの一幕に出てきそうな
お婆さんとのやり取りでした。

ついに、たまらずこのことを紹介してくれたY君のお母さん
(以降、Yおばさんと略す)に相談に行きました。
そうしましたら何とYおばさんは、私が来ることを予期していて、
「実はお婆さんの方から先に、イチローくんの悪口を聞いたよ。
ご飯を出しても最初は喜んで食べてくれたのに、このところ、
むっつりしてよく食べないんだって。態度が悪くなったって」
「おばさん、それには理由があります。毎日、毎回カレーライスなのです。
もうさすがに食べられないですよ」

一応、Yおばさんは、私の言い分を聞いてくれたかのように思えました。
Yおばさんは、それなら他の家を紹介すると言ってくれ、同じ市之坪にある
別の家を一緒に下見に行きました。しかしそこは、階段下の空きスペースの
ような部屋?で、真っ暗。窓がなく圧迫されそうなところに見えました。
ここでは、息が苦しくなると思い、はっきり断りました。
Yおばさんは、断ったことに、ひどく気分を害していたように思います。

そのうち大泉から母がやって来たので、ことのすべてを話ました。
“カレー攻め”だけが、とりあえず問題なので、ここにきて多少引越し
にも疲れが出てきていた私は、「この下宿でもう少し頑張ってみる」と
母に話しました。
母は食事に関することなので、私の健康面をとても心配していました。

当時の日記には、「食事をきちんと取れなかった」と書かれているだけ。
今のようにコンビニがあれば心配ありませんが、たしか焼き芋とソーセ
ージを買って食べていたように思います。
中学校は弁当が基本でしたが、市之坪では、朝と夜はどのようにして
いたのか、カレーのことで、早くも気まずくなったことは確かなのです。
とにかく、毎回カレーライスが続いたことは強烈に記憶に残っています。

後に、私が家庭を持って、食卓にカレーライスが出たときは、子供たちに
コントのようなこの昔話を何回も聞かせました。私がその時のお婆さんを
真似て声帯模写入りで。「カレーだよ、そうかい、うまいかい、うまいかい、
あの時パパは本当に参ったよ・・」と。

「うまいかい」の語尾は尻上がりなのが特徴です。「カレーうまいかい↑」(笑)
ただ、あれだけ食べたカレーなのに、カレーは今でも嫌いになっていません。
好物だったものが、食べ過ぎがきっかけで嫌いになる事はよくあるようです。
ちなみに私の場合は、レンコンとチーズが食べ過ぎて嫌いになりました。
なぜか、カレーライスとは、いまだに相性が良いのは不思議です。。(つづく)


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【中学下宿記】(24) うまかった天ぷら、そしてまた旅支度

2010年01月11日 | 中学生下宿放浪記
揚げ物屋の下宿だったので、美味しい天ぷらをいっぱい食べました。
テープレコーダー事件のIW家のようなひもじい空腹感はありません。
良質な油のせいか体重も増しました。弁当のおかずは、大きな天ぷらが常。
それでもH家の子供たちは、
「母ちゃん、天ぷらは飽きた。もう弁当に入れんなよ」
「何言ってんだい、もったいない事を言うんじゃない、何もなかった戦争中
 に比べたらバチが当たるよ・・」
「いつも同じじゃ食えねーよ」
「バカ!」
親子でケンカ調の話し方ですが、どこかのどかな感じの会話でした。
そうこうしているうち私もいくらか天ぷらに飽食感が出はじめたころ、
いろいろな事がありました。

H家のおばさんは、情が厚くとても良くしてくてました。赤いバイクに
乗った友人が訪ねることを親心で警戒し
「イチローさん、あの子とは付き合うのは止めな」と言って、その友人は
訪ねてきても、私の知らない間に追い返されていました。
少し不良っぽいヤツでも私にはそんなにワルには、見えません。なんせ
転校先の大泉で鍛えられいるので、その基準からすれば前橋一中の生徒は
どの子も不良の名などに値しないかわいい?ものでした。
でも親身になって守ってくれたおばさんの善意は、ありがたく思っています。
実際、来訪者が多すぎて自分の時間が少なくなっていることに焦りを感じても
いたからです。
ただ親切だったこのおばさんとも何かのことで、対立してしまいました。

私と同じ年の三男(前橋二中生)とも、ケンカになってしまいました。
彼と、小学生の四男と私、3人で町を歩いていましたが、何かの話題で
急に三男が怒り出し、
「おい!・・かかってこい!」
と路上でにらみ合いに。びっくりした弟が二人の顔を代わる代わる目を
丸くして下から見上げていました。
三男にとって、ケンカは朝飯前。日頃から騒動は常習でケンカが強いことは
近所では有名でした。彼の軽く握ったこぶしが小刻みにふるえ、不気味な
時間が流れました・・。
平和主義の私は、かろうじて睨み返してはいましたが、その場で仁王立ち。
内心はびくびくしていました。
ふだんはこの三男と仲は悪くなかった。私と二人でお揃いの朴歯(ほうば)
の下駄を履き、尾崎豊の『卒業』の歌詞と同じように、三男の悪友たちと
「夜の校舎、窓ガラス壊してまわった~♪」こともありました。

しばらくして、H家に東京で就職していた次男の人がUターンしました。
食事をする四角い掘りごたつのようなテーブルの一角に私が座っていて、
帰ってきた次男の兄さんのスペースがなく、私に遠慮してか大きな体を
弟と二人掛けにして並んでいました。
その座る陣の形からして、そろそろ私はおじゃまな存在になっているな、
と感じました。

ここの下宿での滞在期間は中学時代で一番長く、2年生後半から3学年の
夏の終わり頃まで、約半年間を過ごしました。
独立した一軒の小屋のような部屋が与えられたことで自由な空間を得ました。
この空間には、クラスの友人を始め、近くの年上の店員さん達や幼い子まで
気楽に寄ってきて“避難所”“休憩所”“保育所”のようでした。いつも
夜遅くまで来客、珍客が絶えません。
真夜中に、誰かに追われているような負傷した背広姿の渡り鳥のような人が
「頼む、泊めてくれ!」と部屋に上がりこんできてきたこともありました。

落ち着いて勉強する雰囲気には、ふさわしくない環境ではありました。
ただ、ここでの生活は、学校での教科書からとは違った多くの「世界」を
知ることができ、今でもお金で買えない貴重な体験を得たと思っています。
当時のことが、このように今も鮮明に思い出せるのは、それだけこの頃が、
私にとって毎日がこの上もなく刺激的な「15の夜」であったからなのです。

下町のこの付近には恵まれた家庭の子供たちが少なく、みなハングリーでした。
5、6才くらいの子供で、いつもオチンチンをいじっている坊やも知り合いに
なりました。
「オチンチンはさわると傷がつくからよしな」と注意しても
「うん」と返事は良いのですが、しばらくするとまたさわっています。
幼児期の性器いじりは、精神的に十分満たされていないことに原因が
あるようです。

ある日、その“オチンチン坊や”が、オチンチンをさわった可愛い手で、
紙切れを私に渡しました。その子のお姉ちゃん(中2)からの伝言です。
「勉強を教えてください」と書かれていました。近所なので顔も知って
いるし視線も気にはなっていたのです。どうしようか困りました。勉強は
教えるどころか、こちらも受験前なのに一向に捗らず余裕がないのです。

しかし、慕ってくれたその子達へロクに挨拶もせず拙者、“紋次郎中学生”
は、ほどなくしてこの下宿を後にしました。(つづく)

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H家三男とお揃いで履いていた朴歯(ほおば)


お店の横の橋で。母(左)とH家のおばさん(右)。
川の水をこの橋一帯に撒いて涼しくするのが私の“しごと”

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デジカメDSC-X1250

2010年01月09日 | IT関連
久々に自社ブランドで登場。
昨年末発売の三洋のデジカメDSC-X1250を買いました。
激しい低価格、高画質化競争がつづくこの業界ですが、
1210万画素で実売1万円は、いまのところ最先端でしょう。

OEM(相手先ブランド製造)がもっぱらの三洋電機は、元来
技術的には優れたものがあります。悲しいかな足りないのは
ブランド、実力への認知度。
デジタルカメラを略して「デジカメ」と誰もが呼んでいますが、
「デジカメ」と呼べる商標権は三洋が所有しています。
他社のカタログ、宣伝媒体には「デジカメ」は使われていません。
というより無断では使えません。
それだけ三洋の参入が先鞭をつけていたことを意味しています。

これまで500万画素のカシオ(三洋のOEM)のデジカメを使って
いましたが、今回買ったものと比べますと明らかに液晶の鮮明度
解像度に格段の違いを感じます。
面白いのは、笑顔のシーン撮影。その人が笑った瞬間を写すという。
末っ子を相手に試してみました。笑わないとシャッターが切れない。
わずか4、5年ですごい技術革新ですね。
購入動機にはブランドへの"“郷愁”もありました。。

自分へのお年玉です

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【中学下宿記】(23) 下町での「15の夜」

2010年01月08日 | 中学生下宿放浪記

「野球人生が終わったら中学生の指導をしたいと決めています。
中学生の時期って一番すれていたり、反抗期だったりするからです。
そういう子供たちを育てたい」とは花巻東高校から今春西武入りを
する菊池雄星君の言葉、中学時期の大切さはとても同感です。

次の下宿H家は、天ぷらなどの揚げ物屋さんでした。
私には、お店正面、少し離れたコンクリートでできたバンガローの
ような4畳半の部屋を貸していただきました。ようやく一人で自由な
空間を得て、かなり気に入った部屋でした。隣りは広瀬川の流れの音。
テープレコーダーを聞こうがレコードをかけようが騒音にとやかく
いわれることはない快適な環境でした。

クラスの友人が次から次と遊びにやって来て、羨ましがられました。
「いいな~桂は一人で。おれもこんな暮らしがしてみたい。」
“下宿渡世人中学生”の辛い面を知らない友人は、毎晩のように
代わる代わるお泊まりに。中には
「おれはもう家になんか帰りたくない、学校もいやだ、ここに一緒に
住ませてくれないか」
それには驚きました。私には自分の家の方が自由だと思っていたのに。
それなら家がいやになったら泊まっていけ、とだけ話し慰めました。
この時の追い詰められた友人の気持ちは、私が30代になって尾崎豊の
ヒット曲「15の夜」を聞いた瞬間、あの頃を思い出しジーンとくる
ものがありました。
------------------------------------------
♪・・とにかくもう学校や家には帰りたくない
自分の存在が何なのかさえ解からず震えている
15の夜ーー
盗んだバイクで走り出す行き先も解からぬまま
暗い夜の帳(とばり)の中へ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした15の夜ーー♪
------------------------------------------

バイクに初めて乗ったのは、私も15の夜でした。
尾崎の歌のような盗んだバイクではありませんが、ある晩、友人が
やってきて「乗ってみな」と赤いバイクを貸してくれた。
クラッチの操作もいい加減に、2速(セコンド)のギアのままで、
ずーと乗っていたのではないかと思いますが、とても爽快でした。
前橋の夜の“悲しき街角”を思う存分に走り回りました。
wa wa wa wa wonder~ を口ずさみながら・・
そうです。
自由になれた気がした15の夜でした。

この下宿の周辺の景色は、前橋の典型的な人情のある下町でした。
ここでの生活では、なんともいろいろな人との出会いがありました。
今と違って品物ごとに、専門のお店が並んでいました。
深夜になると、人恋しくなった近くの肉屋に勤める住み込みの店員
さん(18歳位)もよく遊びに来ました。若くして亡くなった俳優の
赤木 圭一郎(1939-1961 21才没)の大ファンで、
「おれも圭一郎のようにカッコ良く死にたい」
などと言っていました。四角い顔をした優しくて良い兄貴分でした。
ある時は、包丁で切ったと手に包帯をぐるぐる巻きにして痛々しく
やって現れた事もあります。仕事で生傷の絶えない彼を見て、もし
私が住み込みで働くなら危険な肉屋より、刃物を使わない八百屋派
だな、と思いました。“肉屋の圭一郎”は私の狭い部屋で横になって
いるときが一番気が休まるとも。疲れている彼を見て、私の下宿生活
以上に「住み込み生活」も大変なのだろうなと思いました。

豆腐屋の息子(20歳)ともよく話をしました。
その頃、ソ連が50メガトンの核実験を発表したころで、豆腐屋の
兄貴とは、日本の防衛論争になりました。武力に訴えるのは良くない
という私に、豆腐屋の彼は
「もし人からオメー(お前)は殴られてもは黙ってんのか、
ヤラれたらヤリ返すだんべ?」
「うん」
「そういうことだよ。核も武力も絶対必要だ」
ヤリ返すことにはうなずいたが、力と力では最後は解決しない、と
いうと、その“豆腐兄貴”は、こぶしを振って今にも私に殴りかかって
きそうな気配になりました。怖くなって
「わかった!」
と叫んで、この“論争”は私の負けでした。

下宿のH家には食卓前にテレビがあります。弘田三枝子の元気な歌声や
FBI映画「アンタッチャブル」の記憶があります。
ただH家のおばさんは、戦争映画や戦闘シーンがあると必ず
「チャンネルを換えて!」
と大きな声で命じました。先の大戦では、前橋の人達も空襲の被害に
遭いました。きっとおばさんも苦労されたのでしょう。それだけに戦争は
絶対にいけない、もうあのような(戦争)体験は二度とこりごり、という
強い庶民的な反戦感情をおばさんの言動から見ることができました。
(つづく)

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 尾崎豊 - 15の夜

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使ってみます「群馬県民手帳」

2010年01月04日 | Weblog
毎年気になっていましたが、今年は「群馬県民手帳」を買ってみました。
薄いセロファンにおおわれて店頭では中が見えませんでしたが、手にとり
よく見ました。

日ごとに、過去10年間の前橋市における お天気マークが並んでいます。
官庁仕事始めの今日は、この10年で一度だけ数年前に雪、それ以外は晴れ。
たしかに今年も晴れていますね。これは面白い。

県内の温泉の所在地、泉質が分かります。藪塚温泉はメタケイ酸含有など。
衆参、国会議員氏名、党派、会館の部屋番号が記されています。県会議員も
わかりにくい党派名が注釈入り。県の組織や専門機関も一望です。
国の機関の中に群馬大学がありますが「国立大学法人 群馬大学本部」と。
高崎病院も「独立行政法人国立病院機構 高崎病院」・・落語のじゅげむの
ようですね(笑)

1冊500円、安い!
使いやすそうに感じました。


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賀正2010年

2010年01月02日 | 教育・文化
新年おめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします。

年末ジャンボ宝くじは、ぜんぶハズレ。
今年も甘くない一年の予感です。

3年前(2007)の1/15の当ブログと同じことを思いました。
年賀挨拶文の事です。
年々「新年あけまして・・」派が多くなってきたことです。

年賀挨拶は「あけましておめ・・」「新年おめ・・」が正しい。
「新年あけましておめでとう」は重複で禁じ手、と小学生の頃、
年賀状を書く横で亡母からきつく指導を受けました。

「新年あけまして・・」が、語感の響きと「新しい年になりました」
の意味に通ずるような感じで広まってきたのでしょう。

似た例で、クリスマスはXmasが正しく、X'masは正しくないのですが、
[']が入った方が、省略好きの日本人に好まれているのでしょう。
まあ、言葉は通じれば役目は果たすわけで、用法は厳密でなくても
放免することといたしましょう。

補足ですが「A Happy New Year」は「A」が近年、省略されています。
これは、どちらが正式なのか分かりません。


昨年は、政権交代が実現し、変化の芽が生まれました。
今年はこの芽をしっかり育てることが課題かと思います。

一年の計は元旦にあり。
計を考えているうち早2日になりました・・(初笑)


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