ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

病気になったら・・  (唄 桂 宏美)

2012年09月28日 | 音楽

病気になったら とことん泣こう 痛くて眠れないと・・

手術がこわいと 言っては 涙ぐみ 死にたくはないよと・・

恥も外聞も やせ我慢も 見栄もすてて かっこ悪く・・

またとないチャンスを もらったのだ 

自分の弱さをただそのまま 受け入れる・・ 

 

先日、デモテープ録音をしたものです。YouTubeにアップし試聴いただいています。

カトリックの神父さま(晴佐久昌英氏)の『だいじょうぶだよ』(女子パウロ会)の原詩に嶋田富美子さんが補作詞をし曲を付けました。歌うは当広場の歌姫、桂宏美です。

ご感想をお聞かせいただければ幸いです。

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だいじょうぶだよ
晴佐久 昌英(神父)
女子パウロ会出版

 【病気になったら】 唄 桂 宏美 

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郷土太田の学習副読本にみる須永好(12)

2012年09月26日 | 須永好 研究

『太田に光を与えた先人たち』(太田市教育員会発行 2003年・平成15年)には新田義貞、呑龍上人、大谷休泊、中島知久平など50余人の先人たちの中の一人として須永好も紹介されている。

変化の時代には先人に学ぶ

発刊に寄せて、正田喜久教育長が「時代が大きく変化するとき、人間は進路を見失い、疑心暗鬼になります。しかしそんなとき、その不安を解消してくれるのが、歴史の持つ羅針盤としての役割です。過去の太田の先人たちが危機や困難にどう対処したかを知れば、いたずらに不安を抱く必要もなくなるわけです。先人が何をもとめ、どう行動したかを知ることにより我々の進むべき方向を明確に見定めることができるものなのです」と述べていますが、まったくその通りと思います。

日本初の“無産村”強戸に注目

昨年の3.11原発大震災の後、混迷する日本社会のなかで、政権交代は果したもののその内容たるや、これまでと変わらず「政治3流」の域からは一歩も出ず保守、革新の違いも不明確で色あせてしまっている。私が須永好に、再び関心を持ったのも日本で初めて小作農・貧困大衆の主導による進歩的な無産(革新)自治体(村)を実現したこと、それも平和的な合法手段を積み重ねることによって築いた。そんな先駆的な指導者の精神に、政党政治が危ぶまれている今こそ学習し直したいと思ったからに他なりません。

開墾開拓し失業者を救済

小学高学年から中3対象に作られた副読本『太田に光を与えた先人たち』では、須永好は「農民運動のリーダー 地蔵様にまつられる」と題してその生い立ち、業績が記述されている。戦時中、強戸村の隣り生品(いくしな)村小金井には、中島製作所で造られた戦闘機の飛行テストを行う陸軍の生品飛行場があった。終戦になり陸軍の将校一団が須永宅を訪れ、飛行場跡をソ連の集団農場のように農民の一大理想郷にしたらどうかと持ちかけてきた。戦争から帰ってきた復員兵や失業者であふれ返っていたご時世だっただけに、須永好はさっそく「新田開拓農民組合」を結成。まずは190人の入植者の開墾作業から着手する。彼にとっては戦後初の大仕事となる。さすが組合づくりの名人須永好は、農民組合をフルに活用し農林省や群馬県と交渉。人々の住宅問題、資材入手などの課題にも率先して当たり、あらゆる悩みごとの相談相手となって入植者たちを勇気づけた。そんな須永好は人々から父のように慕われたといいます。全開拓地は375ヘクタール(378町歩)に及ぶ。須永好が亡くなった時は皆が深く悲しみ、「須永さんはお地蔵さんのような人だったから地蔵様をつくろう」ということになった。(つづく)

【写真】須永地蔵尊(太田市新田市野倉町・ヨシカワ新田工場西)

  【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。

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悲しき衛生兵 (面高春海展の残像・・)

2012年09月21日 | 教育・文化

深い闇夜の中を列車が走る・・ 気がつくとそこはテント張りの野戦病院の中。周りを見渡すと包帯をぐるぐる巻きにした傷病兵で溢れかえっている。どうやら私は日本陸軍の衛生兵のようだ。白装束の兵士たちに囲まれ正装姿は自分だけでやや不安な面持ちでいたところ、やがて上官らしき人物が現れた。

上官「お前は移送列車の中からここに到着するまでよく眠っていた。これからは不眠不休の激務になることを思い起こさないでいた」

私「ありがとうございます!ところで自分の任務は何でありますか?」

上官「負傷兵の看護、治療」

私「はッ!」

上官「それから本日第一の命令は、全軍にこれより食糧支給は一切ない旨を伝えよ!」

私「えっ 食糧なしですか!」

上官「そうだ!お前ならその連絡をうまく広報でき反発も少ないだろうと見込んでだ」

私「食糧なし、ということは、現地調達しろということですか」

上官「そうだ!!」

上官への視線をそっと顔全体を包帯で覆っている兵士の一人に向ける。彼の眼には怒りと絶望がみなぎっていた。これが追い詰められた負け戦の軍隊の現地調達命令というものか、現地調達するということは現地で略奪も可ということではないか・・これを全軍に報知せよとは・・途方にくれている悲しき衛生兵・・

お読みいただきありがとうございます。以上は私が今朝見た夢なのです。この歳まで、ここまではっきり兵士になった夢は見た記憶がありません。少年の頃はよく戦争の夢をみましたが、ここ最近は戦さものの夢とは無縁でした。思うにこの夢をみた契機は、8月末、「面高春海展」の作品の影響のような気がする。面高春海さん(三洋OB)のいくつかの絵には上部分に日本兵を連行したソ連軍のシベリア行き夜行列車が描かれている。過日の大泉町文化むらでの作品展では、来場者の一人にシベリア行を免れた旧日本兵の方がいらしたという話を聞きそれには強く印象に残った。今朝の夢の舞台は、温暖な南方戦線のようであり矛盾はありますが、夜行列車で前線に着いたということは、面高さんの絵画の強烈なインパクトだと思う。

【写真の絵画】面高春海さんの「世界のどこかで(生きる)2012年(作)」

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トロイカ(ロシア民謡) Людмила Зыкина: Вот мчится ТРОЙКА почтовая

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シャープ 創業百年目の苦悩

2012年09月18日 | 経済

本日のシャープの株価203円。私の経済ノートをみると2002年5月某日、シャープ1821円(三洋602円)。2006年3月某1985円(三洋315円)。ちなみに三洋が200円台に落ち込んだのは2006年末のこと。

マスコミの家電序列で攻防

1980年代までは「関西家電3社」というとマスコミの記事序列は、「松下・三洋・シャープ」それがいつ頃からか「松下・シャープ・三洋」に変わった。顕著になったのは90年代に入ってからだったと思う。シャープの躍進に大阪の営業マンが嘆いていた。旧東京三洋の群馬は比較するところが身近になく、マスコミ発序列には差ほど気には留めていなかった。ただ、三洋電機にとってシャープは第一のライバル企業だったことは確か。それも敵意のようなものは全くなく、よきライバル関係だったと思う。

シャープペンから家電に

シャープは創業者、早川徳次(1893-1980)が早川電機工業としてスタート。早川氏はシャープペンシル(早川式繰出鉛筆)の発明家。私が小学校高学年の頃から「シャーペン」の愛称で普及され学用品の仲間入りをしたのを思い出す。そのシャープペンに早川氏がクリップを取り付けたのは、時代が和服から洋服に変化することを読んでのこと。早川氏の言葉「事業家は常に明日に懸けていかなければなりません」

外国企業に負けるな

まさかシャープが台湾の鴻海精密工業(1974年創業、IBMパソコン生産から始業。ブランド名FOXCONN)に多額に出資されるとは予想できなかった。鴻海(ホンハイ)の目覚ましい成長ぶりと正反対にシャープは急降下してしまった。原因は「液晶テレビAQUOSブランドの信仰から自社への供給を優先させたことで顧客拡大は後回しになった」(週刊ダイヤモンド6/9)、「堺工場の大型パネル約4千億円投資」(朝日新聞9/15)などが挙げられているが、果たしてそれだけが主要因なのだろうか、真相はわからない。

国内リストラは再考の時

シャープには頑張ってほしいと思う。外資系の会社に買収されるようなことは何としてでも踏ん張って避けてもらいたい。日本企業が激しいリストラを断行することで、優秀な早期退職者が、これ以上に外資企業へヘッドハンティングされ流出しまうことは国益にも反する。理由はともあれ日系企業を襲い略奪をするふとどきな中国暴徒のふるまいを見ていると、現地法人のご苦労もさることながら、電機各社は自動車産業界のように国内生産に再び切り替えるべきではないだろうかと思う。仮にコスト高で採算がきびしくも、ものづくりの原点に立ち返って「日本製」で真っ向勝負するべき時ではないだろうか。

【写真】わが家にあるシャープ製品 亀山モデルの液晶TVとMDラジカセ。

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離脱者、とがめず励ました須永好 (11)

2012年09月15日 | 須永好 研究

『未完の昭和史』(須永徹著)で涙が止まらない場面があった。

時代は1932年(昭和7)、前年の柳条湖鉄道爆破事件を契機に満州事変に突入し次第に軍部ファッショが強くなりだしたころ。強戸村自治会(地主側)が村当局(小作側)の課税措置に反対して決起。地主が小作農に対して行う常とう手段「立毛差し押さえ」(生育中の稲を差し押さえること)を、ここ強戸村では、逆に小作農が主導権を握った村当局が、税金滞納の形で抵抗する有産階級の地主に向けた。小作人と違い稲を押さえるのではなく、地主の家の物品を徴収した。やがて地主側は行政訴訟を起こした。世の流れもあって村当局(小作側)は敗訴し、次第に地主側の猛反撃が始まっていった。

脱退する小作人たちの涙

地主からの土地取り上げ告知書や裁判所からの呼び出し状を持って組合長の須永好を訪ねる小作人が目立って多くなってきた。中には農民組合脱退を強要されている小作人もかなりあった。須永好は、個々の事情を量り争っても勝ち目のない場合は、地主にいうべき釈明の言葉まで教えて帰した

「農民組合を脱退すれば土地はそのまま貸しておくというなら遠慮なく脱退して安心しなさい。組合の精神は小作人が幸福になればそれでいいのだよ。いいからじょうずに脱退して、土地を確保してくれよ」
小作人たちは涙ぐんで須永組合長の慈悲に感謝し、ついには泣きだして12年間の指導に別れを告げ去っていった。(『未完の昭和史』P168)

須永好と大石内蔵助

「忠臣蔵」の赤穂藩家老、大石内蔵助を思い出す。主君の敵討ちを達成するまでの過程では、同じ志をもつものであっても次々に脱盟し、最後は、わずか47人(四十七士)までになってしまった。しかしその間、家庭の事情等の理由で離脱者は数多く出たものの敵に内通するような裏切りは一切無かった。それだからこそ討ち入りという大願が成功したといえる。組合長・須永好も家老・大石内蔵助もともに去るものを追わない。むしろ去る者に理解さえ示し励ました。

戦後、強戸村(太田)のみならず東毛地域で須永好が絶大の支持を得たのもこうした彼の「慈悲」的な指導力を民衆が忘れていなかったということではないだろうか。

【写真】須永好菩提寺「永昌寺」(太田市成塚951)の碑の前で。

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。

 

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    未完の昭和史
元衆議院議員 須永徹著
日本評論社
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グアム住民の苦悩を知る

2012年09月12日 | 政治

What will Happen to my Generation and the next. They keep taking OUR LANDS ?

(ぼくらの世代か次の世代に何が起こるだろう。かれらはぼくらの島々を守ってくれるだろうか?)グアムの先住民チャモロの少年が掲げるボード=写真。2010年のアメリカ海兵隊グアム移転計画の公聴会では激しい議論があったという。8月26日放映のNHK ETV特集「オキナワとグアム」は私に欠けていたグアムの現状認識を補う良い機会となった。

グアムへ移転でいいのか?

基地は沖縄からグアムに行けばそれで解決という問題ではないことがよく分かった。何よりも驚いたのは、グアムはいまだに国連作成の「非自治地域」のリストに入っていることだ。グアムの住人たちには市民権が完全には保障されていない。大統領選挙の投票権がない。グアムから米下院に議員は送っているものの、その代表には肝心な議決権が与えられていない。島の代表は単なるオブザーバー、傍聴人でしかない。これでは植民地状態と言っても過言ではないだろう。

土地奪われたグアム人

グアムは沖縄と同じ観光と基地の街。土地の3割がアンダーセン空軍基地=写真=などの軍用地で占められている。人口は16万人。グアム知事は失業率13%(うち10代38%)を憂い雇用と経済効果を期待して米海兵隊の誘致には積極的だ。しかし僅かな補償金で土地を買い取られた(事実上奪われた)先住民チャモロの人たちは、沖縄の人たちと同じように、戻れない土地を前に苦悩がつづいている。これからさらに基地が拡大することは本当に島の人たちのためになるのかどうか悩みは果てしない。

西、米、日、米と領主が変わる

グアムは19世紀末、米西戦争でアメリカがスペインに勝ち米国の植民地になった。1941年12月10日日本軍が占領。グアムは「大宮島」と名付けられた。先の大戦で日本が唯一獲得した有人領土でもあった。しかし1944年に米軍が奪還。その後は対日攻撃の前線基地と化した。先住民は米軍に土地を奪われたが、言語(チャモロ語)も禁じられたと老グアム人が語る。

自己決定権ない「遠隔地」

沖縄の基地の中には、先祖の墓がある。これと同じことがグアムにも。グアムは、旧琉球と違って島民には、米国本土と同じ権利を有しているとばかり思っていた。その上での積極的な基地誘致活動をしているのかと。
「グアム」と「オキナワ」、どちらも自己決定権をもっていない。また「原発誘致」と「基地誘致」、いずれも国策に翻弄される悲しい運命を感じさせられた。

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差別をバネに 強い『座頭市』が魅力

2012年09月11日 | 映画・芸能

当広場2012.6.4「座頭市は上州人だった」は、アクセス数が多く好評だったようです。ドラマの中では、市さんの生まれ故郷は「上州笠間」・・群馬県内のどのあたりでしょうか(笑)

「座頭市は残照の男だ。暮れかかる道を去る後ろ姿が小さくなって映画が終わる。いつも独り。おぼつかない足取りで。現代社会ではヒーローでいられない。市は盲目やくざ。住所不定の犯罪者だ。なりわいはおもに人殺し」(朝日新聞 土曜別紙「be」2012.9.8)

朝日新聞(鈴木繁氏)の人間、市に対しての描写記述はおおむね的確ですが、「な りわいはおもに人殺し」は、正しくないように思います。物語の成り行きで結果的に、常に人を殺めることになってしまってはいるものの彼のなりわいは「あんま」もしくは「博徒」でしょう。「殺し屋」ではありません。

私は勝新太郎の座頭市の全巻、さらにビートたけしの『座頭市』(2003年)と香取真吾主演の『座頭市 THE LAST』(2010年)、すべてを鑑賞しました。そこから感じ取れたことは、20余の勝新太郎の座頭市の作品に一貫して流れている精神、ポリシーがあります。残念ながら勝新太郎以降のビートたけしや香取真吾の作品はそれをしっかり継承していません。外れてしまっています。朝日の「なりわい」と同じように。

正当防衛を無視したビート作品

ビートたけしの『座頭市』は、立ち合いの場面がとても少ない。勝座頭市は全巻を通じて決して自分から刀は抜いていない。市の本来の性格は優しく、殺傷を好まない設定だ。しかし相手が問答無用で襲いかかってくることでやむを得ず、いわば正当防衛で敵を斬り倒す。ところがこの「鉄則」をビートたけしの作品は破ってしまった。最終場面では、なんと自分から刀に手をかけ相手を殺してしまう。こんな座頭市ってあるのだろうかと後味の悪さ、この上ないものでした。

弱い“真吾座頭市”で幕

一番新しい2010年の香取真吾の『座頭市』は、なんとも軟弱な主人公。会話も現代風でミスマッチ。軽侮され、差別され、それに対して果敢に義憤し抵抗する座頭市本来のもつ魂、パワーが少しも感じられない。驚いたことに結末は殺され死んでしまう。題名の「THE LAST」とはそうういう意味だったのか・・。ビートたけしの邪道、香取真吾の終焉、きっと草葉の陰で正調座頭市、勝新太郎は歯ぎしりしているに違いありません。もう一度やり直してよ、勝さん!

『座頭市』シリーズは1960年代、初期の作品に傑作が並んでいます。舞台に赤ちゃんが登場する『血笑旅』などの作品がいくつかありますが、赤子を抱く市は、また格別の味を感じさせてくれます。

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勝新太郎  座頭市の唄

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印象派 ドビュッシーを聴く

2012年09月08日 | 音楽

暑さも少し和らぎ始めた晩夏のこの時期、地元の関東短期大学公開講座が面白い。2008年から受講を続け今年で通算5年目。今日は「見える音楽!聞こえる風景!ドビュッシー生誕150周年 感じる音楽」がテーマ。講師はこども学科守田ちひろ助教。

ドビュッシーの代表曲は『月の光』。彼は印象主義音楽派といわれるが、確かにモネやルノワールの絵画にも通じる「見える音楽、聞こえる風景」的な曲々だと感じた。

【アシル・クロード・ドビュッシーの生涯】

1862年8月22日 フランス、パリに近いサン・ジェルマン・アン・レイで生まれる 9歳の時からピアノを習う。この年、磁器店を営んでいた父親が市民革命蜂起のパリ・コミューンに参加、投獄。父が刑務所内で音楽家と知り合い息子に紹介。10歳パリ音楽院に入学・・。その後、4人の女性と交際しのちに1児の親に。女性関係が賑やかな人だなと思う程度で特に興味を引くこともないので以下省略。
1918年3月25日 パリにて死去(大腸ガン)享年55歳

ドビュッシーの音楽的特徴は、これまでのクラシック音楽の長調・短調の和声的関係を超えてコーヒーとミルクのようにゆらりゆらりと全音階的に自由に行き来するところ。ドビュッシーの言葉 「音楽は多かれ少なかれ自然を再現するようにできていない。自然と想像力との間の神秘な一致に向いている」 

まったく予習せずに出席しただけに、突然ドビュッシーに遭い、よくわからないままのお別れになってしまった(笑)。しかし曲の調べはどれも「印象」的で良い出遭いであった。

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ドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」 Debussy "La fille aux cheveux de lin"

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茂呂村(伊勢崎)に現れた須永好 (10)

2012年09月06日 | 須永好 研究

労働争議より小作争議が多かった

大正から昭和にかけて農民運動の形態は小作争議が中心であった。私の認識では、当時の国内では労働争議件数よりも小作争議のほうが少なかったのではないかと思っていたが、史実は逆だった。満州事変(1931)後の労働争議件数は不明。

1920年(大正9)小作争議 408件 34,650人
          労働争議 282件 16,371人
1921年(大正10)小作争議 1,680件 145,898人
          労働争議 333件 54,506人
1926年(昭和元)小作争議 2,751件 151,061人
          労働争議 495件 67,234人
1931年(昭和6)小作争議 3,419件
1935年(昭和10)小作争議 6,824件

小作・農民組合側は「小作料3割減額の実現」を主要闘争目標としていた。対して地主側は時には官権力の力も借りて、生育中の農地の稲を差し押さえる「立毛差押え」や土地立ち入り禁止で抵抗した。

話を現代に戻すと、小作争議は今日では皆無。労働争議も1974年の5,200件をピークとし、その後急激に減少。2010年では僅かに38件(半日以上のスト争議換算)。もし終戦直後、須永好らが尽力した農地改革が進んでいなければ、労働運動と農民運動の「労農連携」によって日本の社会は別な方向を歩んだかもしれない。

茂呂村争議は不戦勝ち

こんな逸話があります。郷里の茂呂村(現伊勢崎市)の小作争議を指導した菊池重作氏の証言。「それは私が初めて経験する争議でした。私は強戸村に須永好を訪ねて指導を受け応援を求めました。須永好が私達の茂呂村に姿を現すと、たちまち地主はこれまでの頑固な態度を一変して、小作側の要求をそのまま受け入れました。私達の勝利によって争議は解決したのです」
相撲でたとえれば、相手力士が土俵に上らず不戦勝ちの結果。それだけ須永好の存在感は世間に知れ渡っていたといえる。

参考書籍:『小作争議の時代』渡邊正男編著 みくに書房(1982)

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身近な"黒い放射性物質"に注意

2012年09月04日 | 原発震災・原発問題

ジャーナリスト、志葉玲氏の「黒い物質」取材レポートを見て驚きました=動画。福島3号機核爆発説のアニー・ガンダーセン博士(米)がさかんに「ホット・パーティクルの飛散が心配」と言っていましたが、黒い物質もその一連のものでしょう。

原爆映画『黒い雨』を連想します。原子爆弾炸裂時に放出された泥やほこり、ススなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨と、今回レポートさられた「黒い物質」、非常に良く似ています。

身近になってきた「黒い物質」

「黒い物質」は福島県南相馬市議の大山こういち氏が、発見し命名したものだという。動画の中では総武線の平井駅(東京・江戸川区)付近の様子が取材されています。このような雨の降った後の黒いシミなら、どこでも目にすることができます。危険を知らない子どもたちが転んで口に入れることは十分あり得ます。子を持つ親は、簡易測定器は必携で黒い物質には要注意です。これからは私も周辺で黒い物質らしき物を見つけたら、放射線測定器を向けてしっかり計測していきたいと思います。

法治国家が「放置国家」に?

JR原宿駅前で採取された「黒い物質」からは約2万ベクレル/kg、皇居外苑付近では同11万、葛飾区内の路上で同29万もの高い数値が検出されています。「1万ベクレル以上あれば放射性物質として厳重に管理しなければいけないと法律で定められている(小出裕章京大助教)」。小出先生はこの現状が法治国家かと嘆かれています。法治国家?・・いやはや、この国は悲しいことに放置国家と化してしまったのかと思ってしまうほどです・・。

2012.7.12東日本ガンマー線空間放射線量地図

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黒い物質"を追う:ジャナーリスト志葉玲、小出裕章(京大助教)

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