ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

カナダの自主外交を見習おう

2013年08月31日 | 研究・書籍

『カナダの教訓』(超大国に屈しない外交)を読んでみました。
著者は外交官出身で元防衛大学校教授を務めた孫崎享氏。

『カナダの教訓』は20年前に書かれたものを文庫版として今年刊行されたもの。私はキンドルの電子書籍版を入手しました。

孫崎享さんは昨年8月に『戦後史の正体』(創元社)を出版し大きな反響がありました。今回復古版に近い『カナダの教訓』では、経済的にも地政学的にも日本以上に米国と深い関係にあるカナダが、いかにして独自の外交を展開してきたかを述べています。

自主外交を貫いてきたカナダの首相たち、そしてその外交姿勢をしっかり支えてきたカナダ国民の誇り高き道のり。私たち日本国民や日本の政治家に欠けているものをカナダの歴史が持っていました。カナダの一種、「苦悩の外交」から学ばなければならないと思いました。

北爆、イラク戦もカナダ同調せず

米国の北ベトナムへの爆撃(北爆)に対してピアソン首相が反対の演説をして、翌日ジョンソン米大統領に襟をつかまれて、つるしあげられた。それでもカナダはイラク戦争に参戦しなかった。日本ですら自衛隊を派遣したイラク戦争でしたが、米国と隣接するカナダが、その圧力をはねのけてわが道を進んだ。クレティエン首相は「大量破壊兵器の有無」「それを使う意図」「「国連の支持」の3つを参戦の条件とし、それが満たされないからと兵は送らない結論付けをした。その後の流れはカナダの主張の正しさが証明されています。

シリア攻撃も自主判断だろう

おそらく今回のシリア攻撃に対してもカナダは、じっくり情勢分析しべトナム戦争やイラク戦争の時と同じように軽々に米国に歩調を合わせることはないでしょう。カナダにとっては「大きな象」のような存在の超大国の軍事作戦といえ、自分で考え自分で判断する、という独立国なら、しごく当然の行動を選択してきました。それに対して「大きな象」の方は腹を立てて、つるしあげくらいのことは行っても最終的にはそれ以上のものではありませんでした。
カナダ外交の歩みをしっかり日本は学ばなければなりません。またそのためには国民も心して自主外交を積極的に強固に応援しなければならないでしょう。

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カナダの教訓 超大国に屈しない外交 (PHP文庫)
孫崎享 著
PHP研究所
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シリアへの軍事攻撃、間近か

2013年08月29日 | 政治

大量破壊兵器疑惑を大義にイラクを米英軍が攻撃した2003年の「イラク戦争」からちょうど10年経ちます。。今度は、化学兵器使用疑惑からシリアへ照準が向けられています。

今度の大義は化学兵器疑惑

CNNによりますと、オバマ米大統領は28日、米公共放送PBSの番組で、米国はシリア政府が国民に対して化学兵器を使用したとの結論に達したと発表した。シリアに対する限定的な軍事攻撃を実行するか、あるいは一定期間の攻撃を行うかについては「まだ決定していない」と述べている。・・・・「まだ決定していない」とはいえ、すでに攻撃前夜の戦闘モードになっていることが感じとれます。

「人道的」な兵器って?

アサド政権が非人道的な化学兵器(毒ガス)を使用したとして、それを大義にシリア攻撃をするということですが、そもそも人を殺める兵器に「人道的」と「非人道的」があるということが分かりません。人道的な兵器なら許されるとでもいうのでしょうか。これも妙な話です。まったく、わーけがわかりません。

軍人さんの時代は終わらせないと

さいごに、わが老人党の同志の言葉を紹介します。
「私は、第二次世界大戦で戦った軍人の方々には、心から「ご苦労さま」と言いたい。そして同時に、この大戦が終わった時点で「軍人さんの時代は、終わった」と思います。
 その後世界で起こった戦争の中で、個々の場面ではともかく、総じて軍人さんの倫理的役割というものを認識させられるような戦争があったでしょうか。
 イラク戦争では、兵士がさまざまな種類の薬を軍から接種され、それがもとで、疾病を抱えて帰国後、まともに生活できなくなった方々も、少なくありません。もはや兵士にとっても、戦争は、自らに害悪をもたらすものになっているのです。老人党の掲示板だけでも声をそろえましょう」
 「物事は殺し合いで解決しない、軍人さんの時代は終わった!」

【写真】シリアの化学兵器使用疑惑を調べる国連の調査車(琉球新報)

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前橋育英優勝と郷土愛

2013年08月23日 | スポーツ・健康

前橋育英の全国制覇のニュースは、ここ大泉町でも会う人会う人、誰もが感動をもって祝福しています。東毛との関連では、選手の中で捕手の小川君が館林・多々良中の出身ですが、前橋育英と直接関係のある人はそう多くはないはず。わが家でも前橋育英との関係は残念ながら何もありません。それでも同校の優勝を心から嬉しく思えるのは「群馬」という共通項からだと思います。

郷土愛、愛国心は自然な感情から

いまだ前橋育英の勝利に酔いしれることができるのも、ただ、ただ「群馬」というアイデンティティ(同一性)からでしょう。それは誰かに強制されたわけでもなく自然に湧き上がってくる温かい郷土愛です。この延長線上にあるのが真の愛国心のように思えます。家族愛、隣人愛、地域愛、郷土愛、そして愛国心、さらには地球愛・・。それは強制から生まれるものでなく、ごく自然な感情・愛情にもとづくものと思われます。

今年は、先に上武大学が「大学日本一」に輝きました。そして高校も「全国制覇」。いよいよ群馬は「野球王国」となりました。

前橋育英高校、そして上武大学、共におめでとう!!!

【写真】エースを支えた館林・多々良中出身、小川駿輝捕手(産経新聞)

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前橋育英、10年前の桐一を抜く

2013年08月21日 | スポーツ・健康

夏の甲子園高校野球。きょうも日大山形を4対1で下しついに明日、全国の頂点を目指して延岡学園と決勝戦となる。よくがんばっています前橋育英高校。準決勝ベスト4校中、組み合わせ抽選により前橋育英だけが、ここまで試合数が1つ多い。明日の決勝戦は6試合目、選手たちは、かなり疲れていると思う。

「14年前の桐一」に並べ!

わが家の一室、今春嫁いだ娘の部屋には一枚の新聞切り抜きが今も貼ってあります=写真。2003年8月22日、ちょうど10年前の桐生第一高校がベスト4に進出した時の記事。この年、準々決勝の岩国戦は5対4の大接戦だった。ゴリ君こと藤田投手の力投で勝利。しかし準決勝は常総学院に敗れてしまっている。今回の前橋育英は準決勝も突破したので、「10年前の桐一」は抜いたことになります。

「あまちゃん」マーチにまけるな

明日は全国制覇を果たした「14年前の桐一」に並ぶかどうかのたたかいになります。延岡学園の宮崎県はまだ優勝経験はない。ぜひ優勝旗を持ち帰りたいところでしょうが。延岡学園の応援マーチが良い。今、朝の連続ドラマ、岩手を舞台にした「あまちゃん」のテーマ曲を進軍調にアレンジしている。延岡学園の「あまちゃん」マーチで岩手勢の花巻東を破ったのはちょっと皮肉のようでもありました。明日も前橋育英に向かって「あまちゃん」マーチが盛んにグランドへ響き渡ることでしょう。上州健児の意気で「あまちゃん」マーチの音を止めてほしい。
頑張れ! 群馬、 頑張れ! 前橋育英.

 

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みんなワカメと同じだ! 【少年H】

2013年08月20日 | 少年P

妹尾河童(せのおかっぱ)の小説『少年H』を原作とした映画を見ました。戦時中、小学生から中学生だった少年H(Hは肇のイニシャル)が体験した妹尾河童の自叙伝です。

敗戦を知らされH少年は「この戦争はいったい何だったんだ!」と叫ぶ。また校内では軍事教練で生徒たちをシゴき殴りつけた配属将校が戦後は急に丸くなり、民主主義を口にしH少年に対しても丁寧言葉で接する。あまりの身の変わりの早さに「みんな海底で揺れるワカメだ」と時代に流され、その波に我先に乗ろうとする大人たちの態度を批判する。この二つのセリフが、私には大変心に響きました。

良い映画でした。上映時間2時間以上あったと思いますが、一睡もすることなく最初から最後まで真剣に見入る作品でした。

新聞好きの小学生

自分で言うのも気恥ずかしいのですが、H少年と私の小学生時代の感性、たとえば映画の中でH少年は新聞をよく読んでいる。実は私もオマセで新聞を1面からスポーツ欄まで目を通していました。正義感と旺盛な好奇心はダブるような感じがしてなりません。鑑賞後、隣りの席で見ていた妻も同じようなことを言っていました(笑)

【写真】少年P(ポポロのP)。小学6年。

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少年H〈上巻〉 (新潮文庫)
妹尾河童
新潮社
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タコは、なぜ元気なの

2013年08月17日 | 研究・書籍

暑い夏です。でもタコは元気ですね。『タコは、なぜ元気なのか』(草思社)

漫画の「タコの八ちゃん」から始まって、家にあった常備薬の「タコの吸い出し」。これまでタコには随分お世話になりました。タコの本を読んでみました。元気をもらおうと思って・・(笑)

タコに関する言葉やことわざは多いです。「タコ入道」「タコ坊主」「タコ親父」。さらに「まな板のタコ」「タコ足配線」「タコ配当」。恐いところで「タコ部屋」、学部があちこちに散らばっている「タコ足大学」・・
種類にもよりますがタコの寿命は1年から4年と割に短い。タコは柔軟な体で敵をかわし伴侶をみつけ子孫を残す。特にお母さんダコは絶食してまで卵を守りふ化を見届けて、さいご壮絶な死を遂げる・・。元気でなくてはタコはやっていけないんだって。なんとなく上州の“肝っ玉母さん”のイメージが浮かびます。

それにしてもタコも放射能汚染には迷惑しています。原発なんか作りやがって「このタコが!」でなくて、反対にタコ様の方から「手に負えないもの作りやがってこのヒトどもが!!」と、八ちゃん、きっと、ねじり鉢巻き姿で怒っていることでしょう。

汚染水流出問題 操業延期決めたタコ漁関係者の怒り2013.8.13

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タコは、なぜ元気なのか―タコの生態と民俗
奥谷喬司 神崎宣武 編著

草思社

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組合結成総会は役場会議室で

2013年08月13日 | 須永好 研究
 
犠牲者を出さない平和戦術  須永好(6)
今では「小作人」は死語「須永好という偉い人が昔、小作農の団結で強戸(ごうど)村に小作人組合をつくり村民を幸せにしたんだよ・・」と話しても今の若い世代には、そもそも「小作農」「小...
 

上記は1年前の「ポポロの広場」です。ご参考にしてください。
きょうの本文は以下です。

『須永好と強戸農民運動(3)』

西の山上、東の須永

須永好は単なる小作料軽減運動だけでは小作人にもたらす効果は少ないと思い、この際強力な小作人組合を設立して小作人の地位を経済的に、政治的に向上させようと考えた。大正10年(1921年)10月31日、実行委員が、柳保太郎方に情報を持ち寄った。柳保太郎は前回、警察の手入れと早合点して臭くて冷たい風呂に逃げ込んだ「太郎やん」のことかもしれない。須永好の分担は「菅塩」だった。この夜の会合が後に「西の山上()、東の須永」と日本農民運動の双璧と謳われた基因がこの夜にあるとは、本人はじめ列席した人々の知る由もなかったであろう。

組合結成の総会は役場会議室で

須永好は、強戸村役場に増田村長を訪問した。
「11月5日午後1時から強戸村小作人組合をつくりたいので役場の会議室をお借りしたい」それに対して村長は少なからず面喰った形だった。
「・・・・・・」村長は黙って天井の方ばかり見つめていた。
「別にお騒がせするのでもないし、悪い企みをするのでもないのだから、なおさら役場をお借りしたいのです」と須永は柔らかく申し出た。
須永好と言えばまじめな若者で、「優良青年」として表彰もされ、軍隊に行っても模範となり上等兵となって除隊し、その後も熱心に農業に励み村でも屈指の篤農家の聞こえが高かった。増田村長も自分の耳を疑った様子だった。
「小作人組合だねぇ」と村長は初めて口を開いた。
「えー そうです。今年のこの不作で小作人は心配しています」と須永がわるびれた風は少しもなく言うので村長は心ならずも承知したのだった。

堂々、正攻法の“須永流”

村役場を使用するということは、小作人組合というものを一般化するためだった。それまで小作人たちは寄り合いをするにしても見張りをつけて警戒していたのに白昼公然と、しかも村の真ん中の役場で、駐在所の隣の役場で、村会議員が利用する会議室で会合できることに小作人たちは驚いた。堂々と、隠れることなく公然と運動を進めていく“須永好主義”の民主化運動が開始された。(つづく) (「かぶらはん」2007年592号)


(注)「西の山上」とは山上武雄のこと。岡山生まれ。大正11年(1922年)に日本農民組合(日農)の創立に参加。小作料永久3割減要求運動を指導。妻、喜美恵もキリスト教社会運動家。助産師としてハンセン病病院、各種地域活動に従事。
 

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友人の霊を弔う 『ライオンは寝ている』

2013年08月11日 | 愛しのオールディーズ

中学時代からの親しい友、N君を2月に失いました(病気で急死)。きょうは新盆のお墓参りに前橋のお寺に参じました。彼が誘導してくれたかのように墓地の中ほどに位置していたお墓、すぐに見つかりました。なんだかN君の気持ちを感じました。

墓前でお焼香とともに、生前彼の好きな曲で休み時間に教室などでよく歌っていたザ トーケンズの「ライオンは寝ている」を歌い弔いました。「ポポロの広場」の熱心な愛読者でもあった彼・・。天国でライオンのようにゆっくり「寝ていて」ください。

A weeme weh,a weema weh ・・(ア ウィーンマ ウエッハ ウィーンマ ウエッハ・・)

合掌。

The Tokens の「ライオンは寝ている」

 

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ナガサキ もう一つの「原爆ドーム」

2013年08月09日 | 研究・書籍

きょうは長崎への原爆投下68回忌です。

『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム』高瀬毅著を読んでみました。本書は2009年に発行され直後に読んでいますので再読ということになります。

「怒り」の広島に対して「祈り」の長崎。原爆ドームのある広島に比べて、見るべき記念となる遺構のない長崎。

実は長崎にも「もう一つの原爆ドーム」に相当する遺構はあったのです。被爆した浦上天主堂。そこには顔半分が黒く焼け焦がれたマリア像。首が吹き飛んだ聖母像もあった。しかし廃墟となっていた浦上天主堂そのものも取り崩してしまった・・。市議会は全会一致で保存を可決。当初、当時の市長も保存の気持であったが、なぜか米国から帰国して心変わり・・。長崎は日本初の姉妹都市を米国セントポール市と結ぶ。それもセントポール市からの強い提案だった。
なぜ長崎原爆忌は広島に比べてインパクトが弱いのか、その謎が推測できる本でした。

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きょうの一曲はシャドウズ(英国)のビッグコンサート。眼鏡のリードギター、ハンク・マーヴィンの容貌は変わらない。夏の夜長にどうぞ。The Shadows - Instrumental Show

ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」
高瀬 毅著
平凡社
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闘う保坂展人・世田谷区長

2013年08月07日 | 研究・書籍

友人から新書を一冊いただいた。保坂展人著『闘う区長』。
当広場では、以前に「闘う市長」として南相馬市の桜井市長を紹介しましたが、闘う自治体首長としては2人目の登場になります。

3.11の原発震災直後に全国初の「脱原発首長」として当選したのが世田谷区長の保坂展人(敬称略)。

世田谷も、前橋もご当地ナンバーに

世田谷区(東京)と言えば、このほど国土交通省が10地域の車のご当地ナンバーが追加認定しましたが、その一つに「世田谷」も入りました。群馬ではすでに「高崎」ナンバーを路上で見かけますが、今回「前橋」ナンバーも導入されました。ただ世田谷区の場合、一部の住民から世田谷ナンバーに反対の訴訟が起きました。しかし「多くの住民の賛成がある」として認可に至りました。詳細はわかりませんが、もしかしたらこの一件、保坂革新区政に対しての保守派の反発、巻き返しが底流にあるような気がしています。

「民間丸投げ」見直す

保坂区長のお仕事の一例です。いまや「民間委託」があたかも時代の流れのようになっていますが、その落とし穴に区長は気がついた。電算関連分野の精査で40億円が35億円になった。本来ならば公務員が行うべき業務まで民間丸投げしていたことを改めたことによる成果です。

東京電力とも闘う。

PPS(新電力会社)導入で1億円の節約。それに対して東電が17%の値上げ要請を。区側は値上げのトリックを見破る・・。
「世田谷電力」の試みでは、群馬県太田市の取り組んだ「太陽光発電システムの一括大量購入」のスケールメリットでコストダウンした例からも示唆を得たとしています。

保坂展人、良く頑張っていると思います。次期、社会民主党リーダーとしても適任の人物ではないかと感じました。

保坂展人(ほさかのぶと)】1955年仙台市生まれ。高校進学時、自身の内申書をめぐり16年間の内申書裁判をたたかう。新宿高校定時制中退後、教育問題ジャーナリストに。衆議3期11年。2011年から世田谷区長。

脱東電 世田谷区長保坂展人に聞く

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闘う区長 (集英社新書)

保坂展人 著

集英社

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天下の義人 茂左衛門 のようには・・

2013年08月05日 | 須永好 研究
 
田中正造との相似・・東毛義人 須永好(3)
須永好という人物を調べて行くと、足尾鉱毒問題でたたかった田中正造翁と似た面がたくさん感じられる。飾らない自然な風貌も似ているかな。(写真参照=上が須永好、下が田中正造)須永...
 

上記は1年前の「ポポロの広場」です。ご参考にしてください。
きょうの本文は以下です。

『須永好と強戸農民運動(2)』

大正10年(1921年)

この年の群馬の気候は日照不足で凶作でした。水田も畑作も元気がなく9月に入っても秋晴れの良い日が幾日もありませんでした。
農民の働き場所は農地です。農地には限度があり土地価格ははね上がり、自然に小作料もぐんぐん上がる。

土地を持たない小作人(小作農民)たちは、その使用料の小作料をなんとか下げてもらおうと寄り合い(会合)を密かにもった。
「先日、地主様のところへ5人ぐらいづつ分かれて嘆願に行ったら飛び上るほど叱り飛ばされてた」と小作人たちはなげいた。そこで須永好は、「それではとてもダメだから大きな組合をつくろう」と言い、一同が賛成した。
小作人たちは寄り合い(会合)時は外に交代で見張りを立てていた。彼らは小作料軽減運動が、昔の佐倉宗五郎(注1)や磔(はりつけ)茂左衛門(注2)の時代と同じように考え、ことによれば留置所に放り込まれたり、監獄につながれたり打ち首や磔の刑を連想して恐怖していた。

(注1 佐倉宗五郎 江戸前期、下総(千葉)の義民。領主の悪税に悩む村民の代表として将軍に直訴。捕えられ妻子とともに1653年」刑死。

(注2
 茂左衛門 江戸前期、上州(群馬)沼田領下の農民。真田信利の重課税の悪政に反対し農民の先頭に立ち江戸で直訴。それによって真田氏は改易になるものの茂左衛門は妻子とともに磔(はりつけ)の刑で死亡。上毛かるたでは「天下の義人 茂左衛門」として今もしのばれています。

今も昔も組合づくりは至難の業(わざ)

組合を作るということは、たいへんな覚悟と努力です。今の時代でも同じことでしょう。たとえばブラック企業で働く若者たちが自分たちの正当な生命と権利を擁護するために新たに労働組合を結成しようとするなら相当な勇気と決意が要ります。ブラックでない企業でも組合結成に対して理解のある経営者はそう多くないと思われます。
江戸前期には、佐倉宗五郎や茂左衛門 のような立派な義人がいました。しかしこのやり方は、あまりにリーダー個人に過酷な犠牲を強いることになり一般庶民は恐怖感によって、あきらめにしかつながりません。
須永好の指導した組合運動は、味方陣営の犠牲者をほとんど最小にとどめる見事な闘いを常としました。

落語のような話ですが、ある日の成塚(太田市)での会合で、たまたま巡査(警察官)がやってきた。見張りから「それッ」と伝令が回り火鉢の周りに2、3人残し一目散にみな逃げた。ある者は納戸に、押し入れに、蔵の中にと・・。太郎やんは台所にあった風呂桶の中に飛び込んでフタをしてじっとしていた。巡査は「何か企みごとでもしているのか」とにらんだが「わしらは湯をもらいに来ただけだ、何も別に・・」とちょっと脅かして出て行った。風呂桶の太郎やんは昨夜沸かした臭くて冷たい風呂に15分も辛抱していたので出てきたときは笑い事でなく気の毒だった。太郎やんはたびたび咳をして風邪気味のようだったがその夜も、須永好の話を熱心に聞いていたといいます。(つづく)

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なぜ今また、「須永好」なのか

2013年08月04日 | 須永好 研究

 

 

 
“組合造り”の名人・・東毛義人 須永好(2)
大正デモクラシーから昭和の軍国主義に向かいつつあった時代、保守的な風土のここ上州群馬の一角で須永好は、よくぞ農民(小作農)組合をつくったものだと思う。組合は必要、つくるは至難...
 

上記は1年前の「ポポロの広場」です。参考にしてください。
きょうの本文は以下です。

『須永好と強戸農民運動(1)』

新しいシリーズを始ます。前回お話した西毛の文化誌『かぶらはん』の連載を紹介する形で、随意にピックアップして論評させていただきます。群馬県内の方はもとより県外からお越しのポポロの広場のみなさんにも興味を持っていただけるように努力いたします。

2013年7月の参院選 群馬選挙区、定数1に4候補
当選 580,144 自民現職
    123,725 民主新人
      91,905 共産新人
      11,200 諸派新人

「1強自民」を象徴するような群馬県の選挙結果です。自民以外の3候補は法定得票数にも満たず300万円の供託金は没収。何とも情けない革新・リベラル陣営の対応です。
太田強戸の農民運動家、須永好が戦後の総選挙で当選した1946年(昭和21)の22回総選挙は2名連記制でしたが以下の通り。リベラルな社会党の健闘が顕著です。

1位 当選 127,007票 野本品吉 無所属(国民協同党系)
2位 〃    71,419票 最上英子 進歩党
3位 〃    69,870票 飯島祐之 進歩党
4位 〃    67,871票 須永好 社会党
5位 〃   62,431票 鈴木強平 進歩党
6位 〃   47,787票 山田悟六 進歩党
7位 〃   46,287票 町田三郎 社会党
8位 〃   42,955票 武藤運十郎 社会党
9位 〃   40,793票 滝澤浜吉 進歩党
10位〃   36,700票 小峯柳多 自由党

果たして群馬は保守王国だからこの先どうにもならないのだろうか。しかし封建的といわれたの風土の中でも日本で初めて小作人組合を組織し、強戸村(現群馬県太田市)を“革新自治体”の解放区としたリーダーがいた。須永好その人だ。未来の状況を好転させるためにも須永好の足跡から学ぶことは少なくないと感じます。
「1強自民」の政治現状は政権党自民にとっても良くないこと。信頼できるブレーキ役が存在しないことで、今回の「ナチスの改憲手口を学ぶ」と発言した麻生副総理のような権力者のおごりや政策がこれからも醜く出てくると思えるからです。

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ヤマダ電機大泉店 オープン

2013年08月01日 | 経済

明日8月2日、ヤマダ電機テックランド大泉店が邑楽郡大泉町坂田27街区1115-3にオープンとなります。開店前夜、すでに明るく点灯していました=写真

大泉町にヤマダが入るのは初めてです。これまでヌマニウ、コジマが進出しましたが、ヤマダは高林(太田市)止まり、大泉町内には来ていませんでした。

製造メーカーに長く居たことによる習性からか電気店の開店には、毎回敏感になってしまう。ただ大型店の出店で、街の古くからの電気屋さんが受ける影響のことを考えると手放しでは喜べません。地元の電気屋さんは大切にしたいと思う一方で、安価な大型店に引きつけられてしまう消費者心理、実に矛盾です。これは電気店に限らず他の商品についてもいえること。食品・衣料、ホームセンター、給油所、書店など大規模店がどんどん入ってきて昔からのお店を次々に駆逐していく。やがて中心街はシャッター通りと化して・・。

ところでヤマダ電機大泉店。明日の新聞には、いつものようにドデかいチラシ広告が入ってくるのかな。それにしても買いたい品物が思い浮かびません。わが家で今年に入って購入した商品は、タブレットPC、プリンター、掃除機くらい。タブレット以外はいずれも買い替え。すでに電気製品は成熟商品となっていて需要は「買い替え」に頼っていることを身近に実感します。電機会社も淘汰されるわけですね。

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だからヤマダ電機で買いたくなる
 
潮出版社
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