ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

水道水をそのまま飲むことに

2020年10月29日 | スポーツ・健康
家の水道の利用環境を見直すことにしました。
これまで永い間ペットボトルを持参し利用していた大型店のお水のサービスが、なぜか今月20日で終了となってしまいました。これを機に水道管からのお水に回帰です。

水道水を飲むことに気持ちが変わったのは勝間和代さんの動画の影響です。
(1)安全性(2)省スペース性(3)経済性(費用)などを理由に水の有利性を説明されていたからです。


内閣府の家庭の水使用に関してのアンケートによりますと(複数回答で)

水道水のまま使用 37.5%
浄水器を装備して 32.0%
ミネラルウォータ 29.6%
水道水沸騰して  27.7%

当家も健康のためを考え、水にはそれなりに腐心してきました、長いこと水道の蛇口には浄水器を付いていましたが、このたび取り外しました。フィルターを定期的に交換しないとどうしても小さな水アカが浮遊します。それでもその効果はいかほどかは半信半疑でした。

かつては健康に良い水があるよ、という評判を耳にするとその自然のお水(有料)を求め、遠方の奥地まで往復した時期さえありました。

世界でも水道からの水をそのまま飲むことができる国は決して多くないといいます。
あらためて日本ならではの水道の良さを信じ直したいと思います。

でわーでわーでわ


【木工さんの写真】矢嶋秀一作 フォト 田口大輔

勝間和代の、水道水飲用の勧め。そのミネラルウォーターは本当に必要ですか?
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降りかかる不条理に抗す(13)

2020年10月24日 | 研究・書籍
今こそすべてはよい


オランの町を襲ったペスト。4月に始まり12月までは猛威を振るったものの年明け1月には、医師たちの処置がにわかに功を奏しはじめ1月25日には疫病の終息の宣言が出されるところまでに至った。

しかしこの流れに反するように旅人タルーは発熱し寝込む。本来なら隔離するべきなのだが、青年医師リウーはこの友人を自分の家で自分の母親とともに看病をする。


壮絶だった少年(判事の息子)の死とは対照的に、ここではすべてを悟っているかのようなタルーの静寂な闘病の様子。だが、やがてその時が来た。臨終のタルーの言葉は「今こそすべてはよい」

「今こそすべてはよい」とは、なんとも肯定的な言葉でしょう。「よい」のフランス語「ビヤン=bien」は、ペストには負けたが「人間」として最後まで闘ったことを肯定した、とは『マンガで読むアルベール・カミュ「ペスト」』での解説。

たとえ運命としては結果、敗北であったとしても、それに抗し闘った姿勢は全面的に肯定できるものと言えるでしょう。悲観的でニヒルなようにも見えた不条理文学の見事な最終回、逆転の有終の美でした。

タルーはペスト禍の人々の行動や談話を克明に記録し文書に残した。メモ魔の彼がペストとの闘いで勝ち得たものは「認識と記憶」だった。たぶんこれこそがタルーの執念だったのではないでしょうか。

「あきらめない」「忘れない」「記録する」

少し飛躍しているかもしれませんが当方はここで「赤木雅子さん」を感じてしまった。

『私は真実が知りたい』(文藝春秋 刊行)の森友学園事件で公文書改ざんを強要され自殺に追い込まれた財務省職員の妻、赤木雅子さん。

組織のために泥をかぶったものが評価され異例の出世を遂げる。「うそをついていると偉くなれるというなら、この国から正義がなくなってしまう。卑怯者とうそつきの世界になってしまいますよ」(同書 相澤冬樹氏)。

今の世の中、矛盾と理不尽なことが後を絶ちません。それでいて正義を振りかざしている人の側にも怪しいものがあります。国家、官僚、企業、団体、機関すべてが不条理な病理を抱えているようにしか映らないのですが・・・。

本シリーズは今回で終わります。
さいごにもう一度、「降りかかる不条理」とのたたかいを綱領に掲げている
「れいわ新選組」の檄文の一節をご紹介してお開きとさせていただきます。


決意(綱領)・規約
<私たちの使命>

日本を守る、とは
あなたを守ることから始まる。


あなたを守るとは、 あなたが明日の生活を心配せず、
人間の尊厳を失わず、
胸を張って人生を歩めるよう全力を尽くす政治の上に成り立つ。


あなたに
降りかかる不条理に対して、
全力でその最前に立つ。
生きているだけで価値がある社会を、
何度でもやり直せる社会を構築するために。


(おわり)

【木工さんの写真】矢嶋秀一作 フォト 田口大輔

 
 


エデイット・ピアフ『愛の讃歌』♪ この曲は『世界残酷物語』の主題歌でもありました。中学3年生の時、近くにあった今は無き洋画専門映画館「文映」(群馬県前橋市)でこの曲を耳にしました。当時は映画館の前のスピーカーからは上映中の音声が小さく流れていました。
訂正:世界残酷物語の主題歌は『モア』でした。ずっと『愛の讃歌』と勘違いしていました。失礼いたしました。



愛の讃歌 エディット・ピアフ
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降りかかる不条理に抗す(12)

2020年10月21日 | 研究・書籍
子供の死をどう解釈?



『ペスト』では判事のオトンの息子がペストにかかり死を迎える場面があります。少年の悲痛な病気との闘いの様子。

パヌルー神父に対して医師リウーは「子供たちが苦しめられるように創造されたこの世界を愛するなんて、私は死んでも拒否します」と。キリスト教の来世での救済を求めず、悲観的ではあっても、現世であくまで闘い続けることを選ぶカミュの考え方がここに表れています。

「しかし私たちは自分の理解できないことを愛さなければならない」とパヌルー神父。さらに神父は「人間の尺度を超えた神の意志による救済はどこかに用意されているかもしれない」それは「神への愛とは困難な愛です。自分自身を全面的に放棄し自分の人格を無視できることを前提にしてます。しかし、ただこの愛だけが、子供たちの苦しみと死を消し去ることができるのです」と説く。

しかし、無信仰者のカミュは子供たちが苦しめられるように創造されたこの世界には納得することができない。純真な子供たちが死んでいくことの不条理さを嘆く。現世で苦しんでいる子供たちをなんとか救わなければならない。この場面の対話からは、ふと安富歩(東大教授・れいわ新選組)氏の「子供を守れ!子供を守ることが社会の目的」の主張を連想しました。

「魯迅の『狂人日記』にも「子供を救え」という言葉が出てきます。これは「人が人を食う」かのごとき恐ろしい社会のなかで、まだそれに毒されていない子供たちに希望を託そうという痛切なメッセージですが、カミュにもまた、無垢な子供たちを救いたいという、切実な思いがありました」(中条省平
『果てしなき不条理との闘い』NHK出版)

安富歩氏は「未来の社会システムは子供たちに考えてもらうしかない。むやみに子供を叱ることはできない」それだけに「世界を救えない奴(大人)が、未来を救うかもしれない人(子)を叱ったりするな」と笑う
(『あなたを幸せにしたいんだ』山本太郎とれいわ新選組集英社)。同氏は、子供を守ることが政治判断の基礎、それは社会の生きづらさからの解放であり救い出す唯一の道とまで述べています。

ペスト(感染症)は老若男女、誰でも襲う。そしてその肉体を無惨に蝕む。とくに子供たちが絶命していく残酷な闘いを前に、「不条理哲学」とキリスト教(宗教者)の解釈の違いが浮き彫りになって行く。


もう一度アンドレ・グラヴォーの『パパと踊ろう』を聴きたくなりました♪


 
 


Andre Claveau - VIENS VALSER AVEC PAPA
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降りかかる不条理に抗す(11)

2020年10月14日 | 研究・書籍
人間中心から構造重視へ


昨年の台風19号上陸は各地に被害をもたらし暴れまわった。利根川も氾濫危険水位に達するおそれがあるとし緊急速報が発せられヒヤッとさせられた。あれから1年・・

宮城県の女川原発2号機の再稼働が決まる。自民党会派が多数を占める同県議会で承認された。隣接県の福島であれほどの制御不能の原発惨事があったにもかかわらず、あれから9年・・

私たち人間の存在を大きく超える災害や原発事故そして今、感染症の拡大。それらとのたたかいは「果てしなき敗北です」の青年医師リウーの言葉を思い起こす。

私たちは、この地球上で人間こそが主人公だなどと思いあがってはいないだろうか。
カミュの『ペスト』では、「天災は人間の尺度で測れない。人間は天災を非現実的なものだと見なし、まもなく過ぎ去る悪夢だと考える。だが、天災は相変わらず過ぎ去らないし悪夢から悪夢へと、人間の方が過ぎ去っていく」

『果てしなき不条理との闘い』(中条省平著 NHK出版 2020年9月20日第1刷発行)はカミュの『ペスト』にみる思想体系を分かりやすく解説してくれた。現下のコロナ禍との対比も実に的確にとらえている。

「不条理とは、カミュが世界と人間の関係に見た根本的な特質であり、ひとつの哲学的な概念です」(中条省平氏)
「カミュは人間は世界の一部に過ぎないということをたえず考えた人でした」(同氏)この考えに近い作家にカフカがいるという。「君と世界との戦いでは、世界を支援せよ」と。ここでカフカの言葉は、人間はそれを超える世界の大きさに畏敬の念を持て、「君」とは「人間」のこと。

人間中心主義のヒューマニズムの「限界」を、人々ポポロは自覚すべき時を迎えています。こうした世界観は構造主義に通じるもの。「実存主義に続いて世界の思想に根源的な変革を迫ったのは、いわゆる構造主義です」(中条氏)この思想は人間の理性中心主義を徹底して懐疑する。中条氏は「そうした観点から見るときカミュは実存主義と構造主義を橋渡しする巨大な思想家に見えてくる」と評します。


台風に限らず環境汚染の核実験、ましてやコントロールもできずに起こす原発禍。いずれも愚かな人間様のおごりでしょう。台風は人間が被害者ですが、原発や核実験の方は地球を痛めつけている人間が加害者ですから始末に負えません、困ったものです。

従来の人間中心主義を見つめなおし「人間は世界のシステムの一部にすぎない」とする構造主義に話が及ぶ。構造主義は、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースをはじめ、哲学においてはミシェル・フーコー、批評ではロラン・バルト、小説でアランロブ=グリエ、精神分析はジャック・ラカンといった人たちの名が並ぶ(『果てしなき不条理との闘い』から)なぜがフランス人が目立ちますね。

なにやら構造主義の方法論は、不条理の迷路からの脱出口をわずかながらも切り開きそうな予感がします。



 

【サン・トワ・マ・ミー】 アダモ
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降りかかる不条理に抗す(10)

2020年10月11日 | 研究・書籍
『ペスト』で不条理哲学を理解


当方がカミュを知ったのは20代の頃、映画『異邦人』だった。てっきりフランス映画かと思っていましたら今確認するとイタリア映画でしたね。

主人公ムルソーのなんとも空虚な独善性には妙に惹かれるものがあった。映画館を後にし街中を歩き出すと頭がクラクラしていたのを覚えています。その時の印象は10代の夏、太宰治の小説に出会い衝撃を受けた、あのダダイズムの臭いと似ているものだったような記憶でした。

『異邦人』のムルソーの不条理な行動はなぜか十分に同情できた。しかしこれでは出口のないニヒリズムに陥ると思った。再び高校時代の太宰文学に傾倒した時のようになるのではないかなと。カミュの「不条理」は自分をダメにしてしまう、ムルソーのような運命をたどるのはまずい、と直感した。

「革命か反抗か」のサルトルとカミュの論争では、ここでもカミュの孤立主義的なニヒリズムでは社会の進歩と改良は成り得ないように感じていた。

そして今回の『ペスト』。
この作品を読みカミュへの見方はすっかり変わった。カミュの哲学を正確に把握できていなかったのだ。不条理な敵(感染症)を相手に「保健隊」という組織を結成して抵抗している。これはもはや孤立主義ではない。個性あるそれぞれのキャラクターが協力し連帯する。それは『異邦人』には見られないひたむきな健康さを感じ取ることができる。

「不条理」を前にして、それに飲み込まれた青年ムルソー、対照的にそれにめげず、たとえ勝ち目はなくとも抗しつづける医師リウーとその仲間たち。

『ペスト』の舞台はオラン、ここは当時フランスの植民地アルジェリアの一都市。カミュに批判的な識者からは、現地住民(被支配者のベルベル人、アラブ人)の生活実態が描かれていないとの指摘が挙がる。しかし私はあえてそこまで求めなくて良いと思う。

ダニエル・デフォーの『ペスト』は英国ロンドンでのほぼ実録を基にしたものだが、それとは異なりカミュの『ペスト』は、感染症禍もロックダウンとも無縁の町だったオラン。ただ、それはそれで物語は成り立つ。植民地支配の描写までに気を回す必要はないでしょう。あくまでフィクションであり小説のモチーフはしっかり伝わっているわけですから。


 

アダモの生まれもフランスでなくイタリア(シチリア島)であることを知りました♪

夜のメロディ / アダモ
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降りかかる不条理に抗す(9)

2020年10月07日 | 研究・書籍
労働することの意味

カミュは『異邦人』と『シーシュポスの神話』の二冊で「不条理の哲学」をうち立てたといわれています。(中条昌平氏『果てしなき不条理との闘い』)
『異邦人』では主人公は極刑の運命になりますが、『シーシュポスの神話』では自殺は否定している。人はあくまでも不条理に抗しながら生きる。

ギリシャ神話の『シーシュポスの神話』では人間の存在と世界との関係を不条理ととらえ、これを不断に意識して行動することで初めて人間の存在の意味が生まれてくる。

『コロナ論』(小林よしのり著)の最終章でも、カミュの『シーシュポスの神話』が登場する。よしりんは「経済=人命」の観点からこの神話の労働観に着目していた。


シーシュポスは神々から山の頂まで岩をころがして運び上げる刑罰を科せられた。やっとてっぺんに到着するものの、すぐに岩のそれ自体の重量で、岩は再び転がり落ちてしまう。それでも彼はめげずに何百回も岩を山頂に運び続け、そして転がり落してしまう。まったくの不条理な刑ではあるが、彼は自分こそがおのれの日々を支配するものだと信じ、この不条理をすべて良しと判断し受け入れているかのようだ。諦めでも絶望でもなく。

カミュはシーシュポスの果てし無き奮闘を労働者たちの日常にたとえている、ともいわれている。

これは労働を苦役ととらえる欧米の宗教的感覚への別回答なのだろうか。シーシュポスは転げ落ちる岩をシーっと見つめる。そしてまた立ち上がる・・。カミュは単純かつ過酷な労働の中にもある種の幸せ感が生まれるとしているかのようです。

「頂上を目がける闘争、ただそれだけで人間の心をみたすのに充分たりうるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ、とカミュは結ぶ」(『コロナ論』)

決して終わることのないシーシュポスの険しい岩運びの連続労働。しかしこの不条理との闘いにおいて人間の生きる意味を感じ取ることができる。そのことは『ペスト』では、保健隊で頑張る公務員グラン、医師リウー、旅人タルー、そして組織的な行動に当初は懐疑的だった新聞記者ランベールもやがて、それぞれの役割を意識し連帯の輪に加わっていく。得体の知れないいつまで危険な細菌を撒き散らしき続けるか分からないペストを相手に。

コロナ禍の私たち、シーシュポスのような闘いに果たして幸せを見出せることができるのでしょうか・・。



 
 


「悲しき天使 Le Temps des fleurs」ヴィッキー Vicky Leandros
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降りかかる不条理に抗す(8)

2020年10月04日 | 研究・書籍
理念と感情の相克


聖戦(革命)の大義(理念)のもとに人は兵士となり人を殺(あや)める。

疫病ペストによるロックダウン(都市封鎖)の町オランから脱出を試み失敗を重ねる新聞記者のランベール。疲れ果てた彼が医師リウーと旅人タルーを自分の部屋に招く。

「僕もあなた達の保健隊のことはずいぶん考えました。僕が一緒にやらないのはそれなりの理由があるのです。僕もスペイン戦争(内戦)に参加しましたから」。タルーが尋ねる「どちらの側で?」。ランベール「負けた方の側で」。

負けた側というのは反ファシズムで戦った人民戦線のことだ。ランベールは理念の世界に反発し自分の感情の世界にこだわる。それはスペイン内戦でヒーローが理念のために人を殺すのを目にしたから。負けた左派の人民戦線側も勝った右派のフランコ側もたくさんの兵の命を奪っている。

ランベールは言う「僕はヒロイズムは信じません。それが人殺しをすることだと分かったからです。僕が心を惹かれるのは愛するものために生き死ぬことです」それに対して医師のリウーは「今回の問題はヒロイズムの問題ではない。問題は誠実さということです。こんな考えは笑われるかもしれないがペストと戦う唯一の方法は誠実さです・・私の場合、自分の仕事を果たすことだと思っています」

「人間の行為を美醜で判断し、それを善意の問題に還元するのは危険だということ。たとえ善意から発していても結果として悪く結びつく行為はあるし、その逆もある。『ペスト』は決して勇敢な美談ではないし特別に強い精神を持った主人公による美しいヒロイズムの物語ではない、ということが分かります」(中条昌平氏100分で名著「ペスト」)

理念か感情か、本当の幸福は感情にあるのか。ヒロイズム(英雄主義)に対して疑問を常に抱く著者カミュの不条理に抗する姿勢が強く感じられる名場面の一幕と思います。



 
 


お父さんとこどもさんの明るい笑い声『パパと踊ろう』♪
1956年?これほど昔の曲とは思いませんでした。

Andre Claveau - Viens valser avec papa パパと踊ろうよ - アンドレ・クラヴォー
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降りかかる不条理に抗す(7)

2020年10月01日 | 研究・書籍
記録すること、記憶すること


10月に入りました。相変わらず『ペスト』を読み直しています。

“副読本”として『マンガで読むアルベール・カミュ「ペスト』(宝島社)も加えました。
これはビジュアル編集で分かりやすい。登場人物紹介では青年医師リウー、旅行者タルーら6人を代表的に選んで、それぞれの異なる性格スタンスを端的に寸評している。これで一層理解が深まり整理された。

マンガ描写の一方、カミュが伝えたかったことは『ペスト』では何かを探り解説している。

リウーがペストとの闘いで勝ち得たもには、認識と記憶であったと言う。ペストのような事態が起きた時、大切なことは立ち向かった人を記録し、忘れないことなのだ。戦争も同じ。勝ち負けどちらの側にあっても、忘れてはならない。カミュが作家としての使命はそこにあると考えたであろう、と。

奇しくも今週月曜で最終回となったデフォーの『ペストの記憶』NHK 100分de名著でも、「記録すること、記憶すること」がテーマだった。

カミュの『ペスト』もデフォーの『ペストの記憶』も疫病や自然災害を描いた「災害文学」とされる。

ものごとを都合よく勝手に解釈する「ポスト・トゥルース」は良くない。現実を直視せず科学的な検証とは無関係に、時には政権を維持するために公文書を改ざんしても構わないとするような風潮は決して許されるものではありません。『ペストの記憶』でも死亡週報における数値の改ざんへの言及があった。

『ペストの記憶』100分de名著の著者、武田将明先生は「“記憶に訴える”ということこそ文学の可能性、忘れられた災厄の記憶を思い出す。グロテスクな無意識のような形のまま遭遇する。これは、未来の私たちも含めたあらゆる時代の都市に暮らす人々にとって、意味を持つことになるでしょう」と。

引用が多くなりましたが、現下のコロナ禍でも「記録すること、記憶すること」の大切さを忘れてはならないでしょう。不幸にも希薄な認識力しか持ちえないリーダーを仰いでいる私たちポポロは、自らも各自が記録し記憶することが必要に思えます。状況を観察し手帳にまとめていた旅人ジャン・タルーのように。

(つづく)


 


ジュリエット・グレコ ムーランルージュの歌 with ロートレック
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