ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

Happy Halloween 2012

2012年10月30日 | 愛しのオールディーズ

1年経つのは実に早いですね・・。

昨年3.11以降、人類は時限爆弾を抱えた状態であることを認識しました。

私のハロウィンは、“地獄(Hell)の使者”Helloweenの曲を聞くのが定番です。

「クリスマス、寺も神社もケーキ食い」(乱鬼龍)のよろずの神のこの国では、

“ハロウィン”もがっぽがっぽ食べちゃいましょう(笑)

【写真】玄関には今年も。 

【愛しの曲】娘の部屋からよく流れていた80年代、ドイツのバンドHelloween。

Helloween - Future World

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NHK朝ドラが映らない?

2012年10月27日 | IT関連

今朝は、「1チャンが映らないよ~!」の家族の声で始まった。そういえばNHKから今月初めに封書で「お知らせ」が届いていたはずだ。さっそく中味を確認して家の中のテレビを総点検してみた。

チャンネル設定(初期スキャン)を必要としたテレビ】(1)古いデジタルテレビ(2005年製)(2)デジタル変換チューナーを付けたアナログテレビ。

チャンネル設定(初期スキャン)が不要だったテレビ最近購入したデジタルテレビ(2011製)

レコーダーの方にも影響がありNHK(1チャンネル)の録画予約は消えてしまっていた。そこで再度、予約設定を行う。確認が必要なのは、群馬がきょう10月27日から、栃木は12月1日~。理由は4月から開始した県域放送によるための識別信号変更だという。作業としては「メニュー」ボタンから「設定」「初期スキャン」へと選択しむずかしくはなかった。

 【写真】いにしえの三洋アナログ(地デジ変換)TVはチャンネル設定が必要だった。

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土に産れ土に還えり先覚の・・須永好 (15)

2012年10月23日 | 須永好 研究

他界の年となった昭和21年(1946年)の須永好の日記からご紹介します。

1月1日 マッカサー元帥の声明・・要すると自由と責任、権利と義務を明らかにしたものである。民主主義国家建設の重大責任を銘記しなければならない
1月4日 戦争犯罪人の追放令が出る。敗戦以来急に民主主義顔した偉い人が慌てる。
2月6日 野坂参三、伊藤律の両君、日農(日本農民組合)結成に就いて懇談する。「和」に徹するなら何事も問題ないと言ってやる。
3月23日 小泉映画劇場にて各派立会演説会。
5月31日 円形の脱毛症にかかり治療を始める。

健康だった須永好が円形脱毛症になる。7月5日には名刺入れや鉄道パスを車中でスリに盗まれる。決して隙のある人物ではない彼が盗難に遭うとは、次第に体調に変化があったとしかおもわれない。

9月10日 国会で農地制度改革案について代表質問、その直後に倒れる。
9月11日 午前4時、東京の寄宿先で死去(死因:脳溢血)

地元、上毛新聞などにはポポロ(人々)の追悼歌が掲載されました(完)

●一すじに農民の為に戦いし 五十三の生の尊さ
●死の前に議政檀上に「農革」を 本気やれと迫りたる声
(菊池養三輔)

●土地に産れ土と戦い土にかえる 一すじの道を行きし君はも
(中村高一)

●同志等とふと覗いたる食堂に 君の讃える乙女の居たるも
(吉川兼光)

●農民の父と仰がれ幾年を 苦闘に満ちし君ぞ今はなし
●土に産れ土に還えり先覚の 墓標ぞ仰ぐ秋風たちて
(川島金次)

【写真】須永地蔵尊(群馬県太田市立生品小学校のホームページから

ご参考:「まんが太田の歴史」(太田市のホームページから)

  【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。

 

    未完の昭和史

元衆議院議員 (須永好の孫)須永徹著

日本評論社

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中道を貫くは困難な道 須永好 (14)

2012年10月20日 | 須永好 研究

野田政権はいつ解散するのか、その是非を問うことがまるで最大の関心事になってしまっているかのようなお粗末きわまりない政治状況。米国の圧力で脱原発政策の閣議決定さえできない日本の政治。ここで総選挙したとしても自民が復活し自民亜流の「維新」が勝ったところで何も改善されない。むしろ現状よりも後退し悪化するのが関の山。1年前、菅政権をマスコミらが総叩きにして生まれた野田政権は、果たして菅内閣より優れているだろうか。賢明なる有権者諸氏にその説明は不要でしょう。

今、東毛の誇る農民政治家、須永好がこの政局を天国からご覧になってどのようにお感じになっているだろうか。

人が何人か集まれば、好き嫌いや考えの違いが生じ派閥ができる。大正昭和の農民組合の系統図=写真=をみてもそのことがよくわかる。開戦前後の1940から1942年にかけて農民組織はすべて解散に追い込また。日本農民連盟、大日本農民組合、皇国農民同盟、日本農民組合総同盟、日本農民組合、北日本農民組合、主要6団体は1940年内に解体。土佐農民総組合が1941年、さいごは農地制度改革同盟が1942年3月いずれも解散命令を受け全滅した。それにしても農民組合の派閥は多岐にわたっていた。

「須永好が人間解放の希望を託した社会党、農民組合も好の死後も何回となく分裂を繰り返している。分裂するにいたる理由はそれぞれあるだろうが、人間の情念や欲望が大きな要素を占めている。それをコントロールすることは、人間にとって永遠の課題なのかもしれない。」(『未完の昭和史』306ページ)

わかりづらい中道だが

息子で太田市議を長く勤めた須永城次は父、好の政治信念について次のように話している。「仏教と深い関係があったと思う。父は、『不苦不楽の中道』を信じ中道は正しい道であると信じていた。父が歩いた政治の道をふりかえってみると右に偏せず左に偏せず、つねに中間派とよばれる党に所属していた。この信条があったからみんなが(大政)翼賛会体制に走ったとき独自の道を守り節操を保つことができたのである。しかし『中道はわかるようでわかりづらい道だ』ともいっていた。めったに自分の内面を他人にみせたことのない人だったが・・」

好翁は民の先頭で脱原発

私の勝手な推測ですが今、須永好が生きていれば、原発事故を足尾鉱毒事件の公害禍の延長と捉え、激しい脱原発運動のリーダーになっているのではないかと思う。仮に民主党に所属していたとしても3.11以降は脱原発を標榜する党派にシフトされたのではないだろうか。中道の精神は「維新」や公明ではなく、社民・小沢新党らの第3極に見出しているのではないかと想像する。左右の全体主義を超えて、前衛でも後衛でもない「中衛の道」。須永好的な中道は、時代が極右に向かった軍国主義下では、左派と目され活動を規制された。そして平成の今日は政党政治が腐敗し悪臭を放ち与野党がほぼ右ならいになってしまった閉塞状況下。今こそ須永好的な社会民主主義=中道理念の再来が強く求められているように思えてならない。

  【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。

 

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おとなはなぜ戦争をするの?

2012年10月17日 | 研究・書籍

小学校の高学年の頃、私もぼんやり考えていた。おとなはなぜ戦争をするのだろう?
具体的にはソ連の核実験が子どもながらにショックでどうしても理解できなかった。残像としては前橋の若宮小学校木造校舎の暗い教室の中で、ポツンと独りで考えていた・・。おとなはなぜ戦争をするのだろうか?核兵器に正義はあるのだろうか?

西部劇やチャンバラごっこは大好きで、ゼロ戦や米グラマン機などはカッコいいと思っていた。正義のケンカならやってもいい。将来は警察官になってワルい奴を懲らしめてやる。でもどうして国と国の戦争は止まないのだろうか・・。

子どもの心に戻って『おとなはなぜ戦争をするの?イラク編』を読みました。大人たちが始めた戦争で世界でどれだけ子どもたちが迷惑を被っているか。戦争は敵も味方も苦しめる。

帰還米兵の健康もむしばむ

イラク戦争ではアメリカ兵も被ばくしてる。イラクの戦災で損傷した建物には劣化ウランの弾痕の跡が多数ある。破壊され放置のままの戦車は子どもたちの格好の遊び場。しかしそこはウラン弾によって汚染された高濃度の放射能危険エリアなのだ。だが子どもたちも市民もアメリカ兵でさえそのことは十分に知らされていなかった。

劣化ウランの半減期は45億年

1991年の湾岸戦争のときには300~400トンの劣化ウラン弾が使われた。戦車も貫通する威力を持つ核のゴミで作られた劣化ウラン弾。その影響は白血病、小児がん、先天性奇形児が戦争前後の比較で4倍になったことで表れるいる。2003年開戦のイラク戦争では2200トン(湾岸戦争の7倍)の劣化ウラン弾が使われた。微粒子となって空気中に飛散する劣化ウランの半減期はなんと45億年。これは地球が誕生してから今日までの時間にひってき。そのほかイラク全土には地雷が2700万個。さらにクラスター爆弾の不発弾も地雷の数を超えている。不発弾の被害の4分の1は子どもだという。

9歳の少女、スハッドちゃんが2003年「イラクを攻撃したら世界は平和になりますか?」と未来形で問いかけたポスターを書いた=写真。そして5年後14歳になった彼女は「イラクを攻撃して世界は平和になりましたか?」と完了形で再び問いかけている。

おとなはなぜ戦争をするの? 解決の見えない重い問いかけは今もつづく・・

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【We are the world】

おとなはなぜ戦争するの イラク編
佐藤真紀・本木洋子 著

新日本出版社

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久々、東京三洋電機の記事

2012年10月13日 | 経済

今月号から月刊誌になった小学館発行『サピオ』。新シリーズとして「ビジネスリポート」が始まった。初回は「パナソニック33万人再生への苦悩全証言」と題してジャーナリスト永井隆氏とサピオ取材班が担当している。

東京三洋の文字に郷愁

低迷しているパナソニックの経営の問題点とその理由、さらには復活のカギとなる新戦略によっての逆転劇を励ますように書かれている。そんな記事の中で東京三洋電機に触れた記述がいくつかある。「東京三洋」の文字を数えてみたら全稿中5カ所あった。記事内容の前に懐かしさがこみ上げてきた。それというのもリポーターの永井隆氏は、群馬県桐生市の出身、記者として過去東京三洋電機(大泉町)にはしばしば来社し取材された。今回のリポートも往年の三洋通の同氏ならではの力作リポートだ。

電工と東京三洋の合併秘話

1983年に松下電工と東京三洋電機の合併話が、松下幸之助と井植薫との間であったという。その頃だったと思うが、大泉の三洋保健センターで開かれた何かの展示会で私は、自分と同世代の松下電工の社員2人と懇談したことがあった。「御社(東三)と弊社(電工)は業容も業務用製品が多く、対松下電器、対三洋電機(大阪)との立ち位置も良く似ていますね。微妙な関係ですね」と共感を求めるように語りかけてきた。利発な感じの良い電工社員たちだった。もし30年前に松下電工と東京三洋が合併していたらその後はどんな展開になったものだろうか・・。

黒物家電戦略が後手

記事中、“黒物家電”という言葉が出てきた。テレビ、デジタルカメラ、DVDなどを指す。白物(冷蔵庫、洗濯機など)に対して黒物。スマートフォン時代になって、この黒物製品の機能がすべてスマホに内蔵されてしまった。このことへの対応の遅れを本誌取材班は指摘している。詳しいことはどうぞ本文で。ともあれ旧東京三洋関係者には、ぜひ一度目を通していただきたい記事です。

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SAPIO (サピオ) 2012年 11月号 [雑誌]
パナソニック33万人再生への苦闘証言
小学館
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第3極は「維新」でなく・・

2012年10月12日 | 政治

どの党に投票して良いやら

友人知人と話していると「次の選挙はどこに投票していいのかわからない」という声が圧倒的。確かに2009年9月に政権交代を果たし国民の多くは新政権に期待した・・。しかしその後の顛末はいうまでもない。ただそれでも国鉄の長きに渡った清算事業団(JR不採用)問題や最近ではカネミ油症救済法成立などそれなりに努力した面も全然ないわけではなかった。しかし国の根幹をなす原発、基地、領土、拉致、ダム、TPP、消費課税など大きな政策では、減点こそあれ、いずれも成果をみるには至っていない。

馬脚みえてきた維新の会

この既成政党の体たらくな政治状況に、威勢よく割って入ってきたのが維新の会だった。しかしじっくり耳を傾けると、カリスマ的な首班の橋下氏の言動からは、原発再稼働容認、普天間基地は辺野古へ、TPP賛成など旧来の自民党流の政策となんら変わらない。これでは自民党を看板替えしただけのコピー政党でしかない。自民党がAなら、民主党はもはや「自民B」、新しさを売り物にしているものの維新の会は内実は「自民C」だ。有権者にとって「自民A,B,Cどちらになさいますか」と問われても・・

山内議員のバランス感覚に注目

興味深いブログを発見しました。以下、青色部分は山内康一氏(衆院議員、みんなの党)の「蟷螂の斧」から。
8月28日【社会民主主義の5党派連合】

小沢一郎代表の「国民の生活が第一」や社民党、地域政党「減税日本」、新党大地、新党きづなの5党派が集まって連合体結成を目指すそうです。
柱は「反消費税」と「脱原発」だそうです。基本的に社会民主主義、大きな政府、再分配重視でまとめられる政治的グループのように思います。もっとも「減税日本」だけが異質な印象を受けます。

こういった動きは、政界再編に向け歓迎すべきです。先進民主主義国には、健全な社会民主主義の政党が、最低でもひとつは必要です。

これまで社民党がその役割を果たしてきましたが、今の社民党では弱体過ぎて十分に機能していません。より規模が大きい社会民主主義の政党が必要です。
民主党がそうなってもおかしくなかったはずですが、野田総理や前原政調会長は社会民主主義とは真逆です。民主党が社会民主主義政党になるのは難しいでしょう。

この5派連合に民主党の一部(旧社会党系)が合流し、社会民主主義勢力の結集を図ることが、選択肢を増やし、国民の意思を国政に正しく反映するために必要です。

みんなの党と「反消費税」と「脱原発」は共通しますが、基本的な政治哲学が5派連合とまったく異なります。したがって、この5派連合と選挙協力はないでしょう。

みんなの党とは、政治的な立ち位置が大きく異なるものの、「政策や理念を軸とした政界再編」は必要だと思います。みんなの党が闘う相手ですが、健全なライバルは必要です。社会民主主義勢力の大同団結に拍手したいと思います。

山内康一氏?神奈川、みんなの党?よく知らない人物でしたがなかなか見識のある意見と感心しました。私はこの5党派連合に「緑の党」も加え、真の第3極を形成してほしいと願います。ところで山内氏の所属するみんなの党はどこに向って漂流するのだろうか。

南極(民主)、北極(自民)、そして地球の第3極はヒマラヤ山脈=写真。さて日本の政界の第3極にふさわしいのは、果たして「維新」か、それとも社民6派連合か。

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フェイスブックの季節?

2012年10月09日 | IT関連

ピンキーとキラーズのピンキーこと今陽子さんの『60歳からのフェイスブック』を読んでみました。

学生時代、下北沢の銭湯でまだ客も少ない早い時間、二人の若い男が私の横で、大きな声で歌い出した。

忘れられないの~あの人が好きよ~青いシャツ着てさ~海を見ていた~♪

けっこういいメロディだなと思って聞いていたら、まもなく大ヒットになった。それが「恋の季節」です。私はピンキー本人の声ではなく風呂屋で男たちから聞かされたのがこの曲の最初の出会いでした。

幼顔のデカベイビーといわれたピンキーも還暦。でも名前のように陽性で気持は前向き。スマートフォンでNOTTV(ノッティビー)を見てSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)のフェイスブックも利用している。「世代を超えて若い人たちとも交流できるフェイスブックで勇気をもらっている」と話し「自分からカミングアウトしないとなかなか友だちはできません。現実もフェイスブック同じ」と話す。彼女は離婚し今は独身。ほどよい距離を保って大人の生き方、恋はしている。「若い人からITを教わり、若い人にマナーを教えましょう」とピンキー、実によい年齢のとり方をされいると思った。

私ごとですがフェイスブックについては、最近も2人の友人からお誘いを受けましたが参加していません。実は2008年から3年ほどフェイスブックには登録していましたが、どうもなじめず今年に入って退会しました。SNSは、2006年から日本製の「ミクシィ」には参加しています。こちらの方が性に合いアクティブメンバーをつづけています。

懐メロでなくスタンダード? ピンキーとキラーズ「恋の季節」

60歳からのフェイスブック ~今からはじめるソーシャルライフ~
今陽子 著

マイナビ新書

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「無産村」から「社会党村」へ 須永好 (13)

2012年10月05日 | 須永好 研究

終戦の年(1945)の初秋、10月の今頃の須永好の様子をのぞいてみましょう。

10月1日 前橋公園での演説会に出席した。野外での演説は初めてである。政治の自由とはこれであるか、天高く、空気よし。(須永好日記)

10月18日 太田町の太田会館で新田郡農民組合結成大会が参加者500名を集めてひらかれた。強戸村農民組合旗を木箱に封印してから5年が経っていた。

10月20日前橋の群馬会館で日本社会党群馬県支部連合準備会が開かれた。

10月21日須永好のもとに旧自治会(地主派)幹部、岡部周治氏(後の社会党衆議)ら数名が社会党への加入を申し込んできた。その後は次第に強戸村全体が社会党勢力一色となっていく。かつての「無産村」は「社会党村」として再び全国に知れ渡るところとなる。

今、米国に進言できる政治家は・・

農民にとっては、食糧危機、インフレ、失業の脅威の中で一刻も早く農地改革問題を解決するという差し迫った課題があった。須永好は農村民主化の実現のためにGHQにしばしば足を運び提案をしている。それはやがてマッカーサー指令として有名な「農民解放に関する指令」の形となって日本政府に指示された。今、わが国の政治家で、須永好のように米国に進言できる政治家は果たして何人いるだろうか。ダメな指導者は「自分には権限がない」と言い逃れる。「権限」はなくとも「提言」することはできるはずなのだが。米国からの「指示待ち」政治家は、もうこの辺でお引き取り願いたいところだ。

上位当選の須永好、泡沫の伯父

ここで終戦解散を事由に行われた1946年(昭和21)の22回総選挙を見てみよう。群馬県は全県1区。2名連記制、定数10名。立候補者54名。有権者の関心は高く投票率76.75%。私は『県政風雲録』(自民党県連監修)を手元に参照にしていますが、ネットでも確認することができます。

1位 当選 127,007票 野本品吉 無所属(国民協同党系)
2位 〃    71,419票 最上英子 進歩党
3位 〃    69,870票 飯島祐之 進歩党
4位 〃   67,871票 須永好 社会党
5位 〃   62,431票 鈴木強平 進歩党
6位 〃   47,787票 山田悟六 進歩党
7位 〃   46,287票 町田三郎 社会党
8位 〃   42,955票 武藤運十郎 社会党
9位 〃   40,793票 滝澤浜吉 進歩党
10位〃   36,700票 小峯柳多 自由党


この時の選挙は「東毛は断然、須永好が強かったよ」という亡母の証言通りの結果を確認することができる。余談ですが、わずか1,488票の泡沫候補に私の伯父、遠藤良平(弁護士)が保守系の会派から立候補していました(苦笑)


農民衆も多数参加の大メーデー

さて総選挙直後の5月1日メーデーは1936年に禁止されて以来、実に10年ぶり。須永好もこの日は地元に帰ってメーデーに参加している。5月1日8時半、太田駅に労働者農民大衆が集結。今では農民の人たちの姿は極めて少なくなりましたが・・。10時にデモ行進に移る。須永好が先頭に立ち太田駅、呑龍さま、中島飛行機八幡寮、強戸国民学校(強戸小)のコースを歩く。強戸の社会党員、農民組合員、新田開拓農民、官公労、民間企業の労組が思い思いのノボリやプラカードを持ち威勢が良かった。先頭が強戸に着いたというのに後部はまだ太田駅前にいたぐらいだった。(『未完の昭和史』P285)

【写真】未完の昭和史を手に太田市新田市野倉町・須永地蔵堂で

 

  【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。

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