ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

広場の「芽」を育てます

2009年12月31日 | Weblog
「ブログの平均寿命は3年(休刊)」という説があるそうです。
「ポポロの広場」は、只今開園から3年半になります。その説は
なんとか越えることができました。

最初の1年目は入園者数、1日1ケタから始まりました。
2年目が平均2ケタ。
そして3年目の今年、遂に3ケタに届くようになりました。
これは、なんといっても地域がヒートアップした太田市
との合併問題、大泉町長選が契機でした。

それまで、当方もブログの影響力を過小評価していました。
新聞投稿とも、また違ったものを感じます。
新聞、テレビ報道は一過性のものですがブログは、記事を
遡ってカテゴリー別にアーカイブ(圧縮蓄積)でき、常時
閲覧することが簡単に可能という永続性をもっています。

本日現在、開設以来ちょうど25,000を超えた訪問者をお迎え
できました。今年、途中からカウンターをつけてみましたが、
累計数字ではないので外しました。

本年を振り返りますと、「政権交代、変革の芽を育てたい。
まだコップに水はある」(毎日新聞12/31社説)

当ファミリーにとりましては、歌姫が9月に東京・恵比寿での
コンサートに出演し幅を広げました。
You Tubeにも活動の一端を紹介し、少々認知度を高めました。
10月にはファミリー内では、初めての結婚式もありました。

新しく生まれた、いろいろな「芽」を、来年はさらに伸ばすこと
ができるよう努力を重ねたいと思います。
そうですね。少年、少女時代の夢と正義感を忘れずに、です。
引き続き、当ひろばへのご来園、お待ちしています。

どうぞ皆さま、良いお年をお迎えください。


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【中学下宿記】(22) 女子寮での年越し、正月

2009年12月30日 | 中学生下宿放浪記
本当は、母のいる女子寮から毎日、中学校に通えたら、と思っていました。
男子禁制の女子寮、出入るするだけが許容範囲。それは十分承知でしたが。

それでも正月は、気持ちを抑えきれず毎年、下宿を出て母の元に向かい
女子寮に潜伏しました。
男子の宿泊は厳禁と聞いていただけに、母には申し訳ないなあ、迷惑を
かけるなあと思い、ちょっと悪いことをしているような気持ちでした。
すぐに何かあったら下宿に舞い戻る覚悟で年の瀬は、女子寮に入らせて
もらいました。

年末年始の長期休暇に入った女子寮は、大半の人が故郷に帰った後で、
閑散としています。
しかし帰省しない寮生もいました。母は帰省しない寮生の世話もあり
交代勤務体制の中にいました。

大きな白黒テレビが一台、寮の1階、西端の娯楽室にありました。
そのテレビを前に、残留組の寮生たちと一緒に紅白歌合戦を見ます。

半纏(はんてん)姿の寮生のかたまり最後方で、なるべく目立たぬように。
そうはいっても少年一人、私の存在は十分に目立っていたことでしょう(笑)
紅白のステージでは、ロカビリー歌手の平尾昌晃が熱唱していました。

食事の時は、寮の食堂を、これまた目立たないように隅の席を選んで
静かに座っていました。
ところがある時、食堂のテレビにドラマが流れていて、出てきた子役の
坊主頭の中学生が、見ると私にそっくり。みんなが一斉に私の方をみて、
「あっ、イチローちゃんに似てる!!」
確かに、私が見ても殿山泰司を子供にしたような、よく似た顔の少年が
画面いっぱいに映っていました。
自分では、息を潜めて食事していたつもりなのですが、ここでもすっかり
注目されてしまって・・

こんなこともありました。
母のところに、これから相談事がある寮生が部屋に訪ねてくると言うのです。
急なことで、とっさに私は「新日本研究所」の本部と名づけていたお気に入り
の部屋のロッカーに身を隠しました。

相談事は、恋の悩みでした。
「私がこんなに好きなのに、彼はこっちを向いてくれないのです。
こういう人って観賞用男性と思って諦めるべきでしょうか・・」

どうやら同じ職場の人同士の恋愛問題のようでした。
それに対して母は何かとアドバイスをしていました。
しばらくして相談の寮生が帰って、真っ暗なロッカーから出てきた私は
早速、母に尋ねました。
「かんしょうよう男せい、ってどういう人?」
「花のように美しくながめているのにぴったりな素敵な人のこと」
「へえ~ そんなに綺麗な男の人?」
「私から見ると普通の人のようだけど(笑) 人を好きになると、アバタも
エクボということわざがあるように、すべて良く見えてしまうものなのね」
「・・・・」

お正月、事情があって帰省しない寮生たち。
そして事情があって“寄生”している僕。
女子寮、親和寮の中は、さまざまな人模様が息づいていました。(つづく)



【写真】餅つきの後、みんなで丸めて伸ばして・・
   (「東京サンヨー」1961年新春号)


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普天間移設、5月までかかって当然

2009年12月26日 | 政治
沖縄・普天間移設は来年5月までに決定。
これについてマスコミや、国民の一部から新政権に対して
厳しい批判が多く、ちょっと目に余るものを感じます。

考えてみますと、1996年4月の日米返還合意からなんと13年、
この間の前政権の責任は重い。
これまでの歩みを思えば5月までなど、ほんのわずかな期間。

日本国の全面積、0.6%の沖縄の地に在日米軍基地が75%ある。
ちなみに北方領土は1%で沖縄より広い。

町の、ど真ん中に基地を抱える現地、宜野湾市長の主張を
ご覧ください↓↓(ちょっと長めですが、ぜひクリックを)
http://www.news24.jp/articles/2009/12/11/04149543.html

米軍側は、環境評価済で既に海兵隊のグアム移転の心積もりでいる。
それなのに、「辺野古移設を普天間返還の前提とする考えはおかしい」
と伊波市長。すでに日本政府は高額な建設費を投じてしている、とも。
ぐずぐずしていることによって無駄な投資を重ねる=「ダム建設」とも
なんだか似ていませんか。

沖縄経済を憂いて、「沖縄カジノ」案を持ち出す人がいます。
私も沖縄経済は昔から米軍基地依存度は高く現在も30%以上かと
思っていました。これはもう過去の数値なのですね。
沖縄選出の下地幹郎議員(国民新党)の話ですと、今ではなんと
依存度はわずか3%!!に過ぎない、ということです。
沖縄経済はすでにしっかり自立していて、基地には頼っていない。

ここはじっくり検討して、沖縄県民を始め日米両国民が知恵を
出し合いましょう。

がんばれ!鳩山新政権。


【写真】伊波洋一宜野湾市長と小西美穂キャスター


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【中学下宿記】(21) 先生との不和

2009年12月25日 | 中学生下宿放浪記
ここの中学校では生徒間のいじめはまったくなかったのですが、
一難去って又一難。
今度は、担任のF先生(女性)との折り合いが悪くなっていきました。

2年生の11月。日記には「誕生以来最高ともいえる大注意を受けた」とある。
A君と一緒に呼ばれ、A君はF先生から顔をぶたれた。原因はA君が掃除を
逃げ、それを見て一緒に帰ろうとした私も怒られた、とのこと。
「お前は生活委員で注意しなければいけない立場なのにそんな事でいいのか
最近どんどん悪くなっている。私はだんだん責任をもてなくなってきた。
授業中やHRも野次みたいな不平ばかりを言って、小泉に帰すよ!」

日記には「30分くらい頭をたれて下を向いていたので首がいたくてたまら
なかった・・」とある。なぜA君を見逃し、自分も帰ろうとしたのか不思議で
ならない。A君は同じ剣道部で、のんびりとしたそれはそれは性格の良い
大仏様みたいな生徒でした。今では、なぜ掃除をサボろうとしたのか真意は
わからないのですが、とにかく私も悪かったのだろうと思います。
それにしても「小泉に帰すよ」の言葉には複雑でした。
母親の元を指して「小泉」と言われたのでしょうが、ここではすでに自分は
「大泉(小泉)の人」と思われていることに妙な気持ちにさせられました。

この様子を始終見ていた友人の一人(自称不良)が下校時、駆け寄ってきて
「(Fは)桂が不良と言っていたけど、それなら(本物?の不良の)この
俺は何なのだ(笑)。だいたいFは親がPTAの役員をやっているヤツなんか
何をやっていても注意しない。俺やお前はなめられているのさ」と慰めてくれた。
中学2年生ともなると、時には教師に対してもするどい観察力をもつ。
そうか、私の家庭環境が良く思われていないのだ。それが容赦ない叱責にも
表れているのか、その時初めてそんなことを思いました。

F先生は、3年生になると、生徒を叱るとき「そんなことをしていると内申書に
悪く書くよ」と言った。
内申書は、高校入試のとき重要な中学校からの資料であることは皆知っている。
これは中3受験生を黙らせるには効果のある“宝刀”でした。

さっきまで、陰でF先生の悪口を激しく捲し立てていたものが遠くからF先生に
呼ばれる声がすると、急に可愛く「ハイ!」と変身して先生の元に飛んでいく。
ゴマすりの二面性を級友たちに見て取れました。

ただ、先生との確執くらいでは、転校したいとまでは思いません。多くの級友
たちが、同情してくれているのを感じられたからです。
「枕草子」の「ありがたきもの=めったにないもの」にも「主そしらぬ従者」
とあります。つまり主人(上)を悪く言わない使用人(下)はいない。

会社などどんな組織でも同じことですが、上への不満や対立、これはほぼ宿命
みたいなものです。
それより水平、つまり同僚(同級生)や仲間内の攻撃(いじめ)の方がつらい。
私のサラリーマン生活でも上司よりも、同僚との不和に気が休まらなかった。
さらに年下の後輩社員から反発された時期が一番辛かったことを思い出します。

担任のF先生とは対照的に、当初受け持たれる予定だった隣組のN先生は、
時々私に声を掛けて励ましてくださった。F先生に叱られるたびに始業日の
あの日、N先生の組でなければイヤだ、と強く言えなかったことが悔やまれて
ならなかった。

実は、もう一人教頭のS先生も私の母校、若宮小学校から移って来られ、
これまた優しく心配していただいた。S教頭先生は、私の成績の乱調を
案じて下宿生活のことも詳しく尋ねられた。
S教頭と親しく話した後、担任のF先生から「私の事を何か告げていたのか」
と邪推され問い正された時はなんとも情けなくなりました。
「何も言っていません、うそだと思うならS教頭先生に聞いてください!」

下宿でもめて、担任の先生とも。。
24時間、気持ちの落ちつかない時が少なくなかった日々でした。(つづく)


【写真】元気な中学生たち。(「邑楽町広報」の表紙より)


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【中学下宿記】(20) テープレコーダー事件

2009年12月20日 | 中学生下宿放浪記
今から思うとリール式のおもちゃのような録音機(テープレコーダー)を
ある時、前橋市内の電気店ではなく、設備屋さんのようなお店で買い
ました。偶然、店頭の張り紙を見て。
サンヨーでなくメーカー名は「サンウェーブ」。

今、サンウェーブ工業のホームページで確かめてもテープレコーダーの
ことは何も記されていません。しかし確かにブランドはサンウェーブ
でした。同社は今も住宅設備、流し台などで有名な会社ですが1960年代に
一時期、録音機も手がけたのだろうと思います。

テープレコーダーを持つと、なんでも録音したくてたまりません。ちょうど
教科書サイズの大きさでしたので、週一回のラジオの音楽番組を録音して、
こっそりカバンに入れポップスの好きな友達と一緒に聞きました。
ジーンピットニーの「ルイジアナママ」などを何回も流しました。
「レコードを買うより安い」と友人からも好評でした。

さて、このテープレコーダー、嫌な思い出も“記録”してしまったのです。
ある晩、下宿の旦那さんと奥さんの夫婦喧嘩を録音してしまったのが、
ことの発端です。

晩酌でいい気持ちの旦那が、奥さんに向かって小言を並べ始めました。
いつものことなのでしょう、言われている奥さんは、最初はしかたなく
聞いていましたが、長々つづく文句に呆れ、しばらくして席を外し
てしまいました。旦那は半分目を閉じ酔っ払ったろれつの怪しい声で
「お前は俺と離縁をするか、それとも・・・しか道はないぞ」
いたずら小僧の私は、すばやく旦那さんの声を録音していました。

翌日、私の部屋で遊びに来た友人と、昨夜の模様を再生して聞きクスクス
笑っていた。ところがそのことを、廊下を挟んで前の部屋の新潟の浪人生が
旦那さんに告げ口していたのです。終始ポーカーフェイスの浪人野郎に
してやられました。

次の日、急に母が訪ねて来て、事の重大さを知らされました。
私は旦那さんにひたすら謝り言われた通りテープを差し出す。しかし旦那は
それでも収まらない。「人権侵害だ!すぐ出て行け!」と怒り心頭。
この下宿に来た時も最初は「うちの子と同じと思って預かる」といわれた。
しかし他人の家では一度でも失敗は許されない。「すぐに出て行け!」には
辛かった。特に、母には心配掛けて申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

母の話では、
「いきなり電話が来て、すぐ出て行ってもらいたい」と言われびっくりして
飛んできたという。母は私の話を聞くと、旦那が奥さんをいびったセリフに、
「それにしても、ずいぶんひどいことを(妻に向けて)いうものだ」と
意外なところに反応をしてくれて、内心ほっとする。母からもかなりきつく
叱られるものと覚悟していただけに。

奥さんの方は、私にはきつい視線を向けることもなく気にしていない様子。
「なにも(夫が)追い出すとまでいうことはないのに」と母にすまなそうに
語っていたと後から聞きました。

さて、善でなく「悪は急げ」。即どこかに引っ越さなくては、と私が心配顔で
いると、そこは母。手回しよく次の下宿先を決めていた。
やはり頼りになるのは三洋女子寮の力。今度の下宿先は前橋出身の寮生、
Hさんのご実家と決まる。
こちらもすばやく旅支度。またもや“引越し助っ人”四中のH君のリヤカーで、
早々に寮生のHさんの実家めざして引越ししました。(つづく)


【写真】サンウェーブ製と同じオープンリール式録音機、
    三洋MR-530。今も健在です。

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【中学下宿記】(19) 腹ペコ“悲しき中学生”

2009年12月17日 | 中学生下宿放浪記
医学生の部屋からは、高尚なクラシック音楽が流れていた・・
そっと近づくと、「シーッ。静かにしているなら聞かせてやる」

そんなI下宿でしたが、急に待望の一部屋が空きました。
てっきり私が入れるものかと思っていましたら、新しい学生を
迎えてしまいました。お婆さんとの“同棲生活”には飽きて
いましたので、私はとてもがっかり。

またまた、四中生のH君からリアカーを借りて引越しました。
今度は天川大島町のIW家(五中区域)。
なぜこの下宿先を選んだのかは、記憶がありません。母の知り合い
だったのかもしれません。ここでは専用の自分の部屋がありました。

IW家も奥さんが副業的に私以外に2人の学生に部屋を貸していました。
新潟・小千谷市出身で医者の息子の浪人生と北毛からの前橋工の生徒。

部屋は与えられたのですが、ここでも中学生は半人前扱いでした。
食事の時のおかずがいつも少ないのです。大好きなシャケが出たときも、
私のお皿にはみんなの半分。
日記には、シャケの大きさが図入りで書いてあります(笑)
腹が減ってしかたがない。浪人生は小食で、いつも余し気味でしたが
反対に、食べ盛りの私は、食事の量が足りない、その嘆きでした。
もっと食べたい、と言い出せないところが実家と違うところでしょう。

ここでは、薄暗い裸電球の下にある木桶製の五右衛門風呂が印象に
残っています。釜ゆでの風呂近くには、家のラジオがかけっぱなし。
ある時、軽快な曲が耳に入りました。週一回のヒットパレード番組。

若者が悲しそうにせつなく怒鳴っているような声と金属性のギター音。
それがデル・シャノンの「悲しき街角」でした。
意味はわかりませんが、
wa(ワー)wa(ワー)wa(ワー)wonder(ワンダー)の節が気に入りました。

風呂から出ても、それからは、しばらく学校でも下宿でもどこにいっても
ワーワーワー ワンダー状態で、この曲を口ずさんでいました。

当時好きだった洋楽のメモがあります。

(1)悲しき街角(デル・シャノン)
(2)コーヒールンバ(ユウーゴ・ブランコ楽団)
(3)小さい悪魔(二ール・セダカ)
(4)ポケットトランジスタ(アルマコーガン)
(5)悲しき片想い(ヘレンシャピロ)
(6)ライオンは寝ている(ザ・トーケンズ)
(7)ハウンド・ドック(エルヴィス・プレスリー)
(8)戦場の陽は落ちて(リトル・リチャード)
(9)オンリーユー(ザ・プラターズ)
(10)夢のデート(コニー・フランシス)

曲名に「悲しき」が付くものが多かったですね。
これ以外にも「悲しき少年兵」「悲しき雨音」「悲しきインディアン」
「悲しき足音」「悲しき恋の物語」「悲しき60歳」,etc・・

クラスの中で、私の席の列一番前、お下げ髪の小さな可愛い女の子が
気になりだしたのもその頃でした。思春期に入りました。(つづく)



【写真】衝撃的だったデル・シャノン「悲しき街角」のジャケット

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冬のソナタ「最初から今まで」in狛江

2009年12月13日 | 音楽
桂 宏美 冬のソナタ「最初から今まで」


音楽の街、東京・狛江市主催の「駅前ライブ」報告です。
上州のようにきょうは風が強く、日差しもなく寒い中でした。
噴水が効果音の一役を担うこれも野外のライブならでは(笑)

私は昔、狛江に住んだことがありますが、すっかり町並みは
変わりました。地元の方にお聞きしましたら駅近くにあった
小学校は、全面移転し今、この広場と化したということでした。

新進のピアニスト、寺岡大悟氏の和の調べ「桔梗」も披露しました。
いつ聞いても和むまさに倭国の曲です。
ヴィオリラとのコラボが、これまた良くマッチします。
YouTubeにアップしておきましたので、ぜひお聞きください。
http://www.youtube.com/watch?v=ZKFrqAi01mk


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東京・狛江市ライブ

2009年12月12日 | 音楽
お知らせです。

東京・狛江駅北口交通広場でフリーライブ
「駅前ライブ2009」
ピアニストの寺岡大悟、ゲスト:桂宏美 出演予定。
狛江駅前に鳴り響く、美しいピアノ&ヴィオリラの
音色を是非ご堪能ください。

●日 時:12月13日(日)午後1時から(雨天中止)
●会 場:狛江駅北口交通広場(噴水前)
●出 演:寺岡大悟(ゲスト:桂宏美)
●その他:無料(会場に直接お越しください

ご参照:狛江市ホームページ
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休眠の『大泉小唄』

2009年12月11日 | 音楽
『前橋音頭』1956年(昭和31年)が作られてから6年後の1962年
(昭和37年)同じく三橋美智也の唄で『大泉小唄』が誕生しました。
これは、小泉町大川村合併5周年を記念しての発表曲。良い民謡で、
町民に広く親しまれました。ただ最近では、すっかり姿を潜めています。

歌詞にある「社日祭り」は、「大泉祭り」に主役の座がとって代わり
四番の「昔、中島(飛行機)、今、三洋(電機)・・」も次第に遠くなり
「昔、三洋 今、サンバ?」になってしまったような感があります。
ただ小唄としては、うきうきした調子の傑作なので、歌詞を手直しして、
なんとか前橋音頭のように、よみがえらせてほしいものです。

--- --- --- --- --- ---  --- --- --- ---

    『大泉小唄』

徳井勇作詞 細川潤一作曲

(一)
 利根の大川 水かがみ~
 純なこころで 君の手を
 とれば遥かな 浅間山
 情三筋(なさけみすじ)の 火がもえる

 どんと おいでおいで よかんべえ よかんべや♪

(二)
 さくら並木を 城の内
 肩で散る散る 花吹雪
 月もぬれます ほんのりと
 恋の逢う瀬の 春がすみ

 どんと おいでおいで よかんべえ よかんべや♪

(三)
 社日祭りを 二人づれ
 嬉しはずかし 人の波
 神楽ばやしに 寄り添えば
 熱いおもいの 胸がなる

 どんと おいでおいで よかんべえ よかんべや♪

(四)
 むかし中島 いま三洋
 つきぬ名残りに 咲いた花
 回る浮世の ゆめのせて
 若さあふれる 大泉~

 どんと おいでおいで よかんべえ よかんべや♪



【写真】大泉小唄ができた頃の通勤風景(三洋電機北専用門)
    (本文とは直接関係ありません)

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生きていた『前橋音頭』

2009年12月10日 | 音楽
古い手帳を整理していましたら、『前橋音頭』の歌詞のメモがありました。
私が小学生の頃、よく聞き歌った『前橋音頭』ですが、その後しばらく
忘れ去られていたように思います。
10年以上前になりますが、前橋市内のレコード店を何軒か廻り『前橋音頭』
の音源探しをしましたがレコードもCDもなく、お店の人の応対も要領を
得ません。すっかり市民からも忘れられたのだとばかり思っていました。

ひさしぶりに今年10月の前橋祭りで『だんべい踊り』を聞きびっくり。
かなりアップテンポのモダンなサンバ調にアレンジされてはいるももの
基調は、はっきり『前橋音頭』です。
良かった!しっかり引き継がれていました。
たしか、原曲の『前橋音頭』は、大泉町の『大泉小唄』と同じように当時の
人気歌手、三橋美智也の歌によるものでした。

忘れないように以下、歌詞を書き残しておきます。

--- --- --- --- --- ---

    『前橋音頭』 

(一)
 ♪ハア~ 山は赤城よ 流れは 利根よ
 おらが前橋 エーエー 上州前橋 良いところ

 そうだんべー そうだんべー ほんとだんべー
 うそをなら来てみろ寄ってみろ

(二)
♪ハア~ 言葉荒いが 情けは深い
 前橋育ちは エーエー 製紙場(いとば)育ちは
 器量よし

 そうだんべー そうだんべー ほんとだんべー
 うそをなら来てみろ寄ってみろ

(三)
♪ハア~ カカア天下は むかしのことさ
 今じゃ 後生楽(ごしょうらく)エーエー男後生楽
 よい女房

 そうだんべー そうだんべー ほんとだんべー
 うそをなら来てみろ寄ってみろ



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【中学下宿記】(18) 医学生たちと

2009年12月08日 | 中学生下宿放浪記
今度のI家は、旦那さんは勤め人、奥さんとお姑さんが副業的に経営する
下宿屋さんでした。部屋が5つほどあり全員、群馬大学の医学部の学生。
場所は才川町(現、若宮町)で私が長く住んでいた国領町とも近かった。

中学生の私はここでは半人前扱い。自分の部屋は無く、朝夕は食堂と
化する6畳の部屋で、お姑さんと一緒です。部屋が、ちょうど満室で
どこか空いたら私に与えるということでした。無理に押しかけたわけで、
それは当然のことでありました。

お婆さんとの“同棲暮らし”は、実家でも経験し2度目。
夜になると家族の居る隣りの部屋は、電気を消してさしずめ映画館だ。
今思えば、なんとも小さな画面の白黒テレビを囲んでの鑑賞会。
「ローハイド」を一緒に見たのを思い出します。「ヒャーッ、ピシッ!」
の鞭の音のテーマ曲とロディ役の若きクリント・イーストウッドの姿が
焼きついています。

大学生のお兄さんと親しくなりました。広島市出身の医進1年生。
名前は最初の文字しか思えだせない・・仮に「K兄」としておきます。
静かに勉強する館(やかた)でした。このK兄も毎晩、夜遅くまで勉強
していました。新入学生の名簿をみせてもらったことがあります。
群馬県内では、高女、前高、太高の出身者がいた。このころになると
東毛の「太田」の文字がなんとも懐かしさと親しみを感じるようになって
いました。
K兄に何の科目が一番大変か尋ねると、「ドイツ語」だという。いずれ
ラテン語も学ぶようなことも言っていました。ノートを使ってのドイツ語の
単語の暗記方法を教わった。私はこの時のK兄の影響でドイツ語は難しい
語学という先入観念を抱いてしまいました。

K兄と前橋の街を歩きました。
「広島より田舎でびっくりした。関東だというからもっと都会かと思った」と
とても残念そう。広島の高校入試は、成績1番がA高、2番がB高、3番C高
そして4番がまたA高と、均等に振り分けられるのだと聞き、なんだか広島の
方が進んだ方式だなと感心しました。とにかくK兄は、前橋の文化、民度の
低さなどにも失望しているようでした。このとき前橋と大泉しか知らない私には
K兄が文明の進んだ土地からやってきた人間にみえました。

ある時部屋の隅に、私がテストの答案用紙を不用意に落としてしまった。
それを拾い上げてくれたのが偶然K兄で「君は成績が悪いんだな」と暗く
しみじみと悲しい目でぽつんと。それは美術の教科、85点だった。K兄の
レベルの高さを改めて知る思いでした。

レベルの高さといえば、医学部生たちのガールフレンドたちが、時々下宿に
やって来る。どの女性も可愛らしく華麗でした。
まだ私は異性を意識しない時期でしたが、「美人の彼女が多い。医学生は
モテるな」と子供心に思いました。

お婆さんと私の部屋は、朝と晩は食堂を兼ねています。大きな円卓に
食事が用意され学生たちの会話も耳に入ります。
いつか産婦人科を専攻する学生の人物タイプが話題になった。居合わせた
学生たちは、別の科志望だったのでしょう。意外な学生が産婦人科に進む
のを驚いたというような話。何科に進むかは医学生たちの強い関心ごと
だったようです。
私なら内科がいいな、などと勝手な想像をして聞いていました。

広島に帰省したK兄に暑中見舞いハガキを出しましたが「暑」が「著」に
なっているなど誤字だらけの拙文をしっかり添削され、あとでこっぴどく
叱られたました。
私の下宿生活の中で、知的水準の高い環境という点では、このI家の経験が
一番だったように思います。(つづく)


【写真】修学旅行の列車の中で。中2の筆者。

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『ぼくたちが聖書について・・』を読んで

2009年12月05日 | 研究・書籍
ぼくたちが聖書について知りたかったこと
池澤 夏樹
小学館

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温かなほんわかした感じの表紙イラストと題名に惹かれて
新刊書『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』を読んだ。
「信仰は魂に属するが、宗教は知識である」のまえがきから始まる。

「聖書はなぜ今日まで残ったか?」「なぜイスラエルは共和国なのか?」
「科学とキリスト教の役割」など興味深いテーマが、たくさんあった。
しかし、私の貧しい読解力では及ばない。難解でどうにもわからない。
あきらめてかけていると、天はすべてをお見通し。
「矛盾は矛盾のままに」の見出しが・・

私は小、中学生のころ、日曜学校に通っていた。
しかし、次から次と疑問が湧き出て、中1の時は“質問魔”のように
なっていた。私に優しくしてくださった教会の女の先生の口から、
私の愚問? の数々にはあきれられ、とうとう
「あなたはゴーマンです」
とさえ言わせてしまった。その時は、「傲慢」の意味が判らず、それを
復唱しながら帰りすぐに辞書を引き、その意味を知るやがっかりした。

元祖ゴーマン、小林よしのり氏よりも早く、
「少年ゴーマニスト」だったのかもしれない(笑)

聖書は、今もそばに置いている。その言葉には重みを感じるからだ。
しかし本書を読んでもやはり「知りたかったこと」は、十分に理解する
には至らなかった。。


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【中学下宿記】(17) 帰ってきた転校生

2009年12月03日 | 中学生下宿放浪記
今思うと、1年も満たない大泉町での生活でしたが、その間はとても
長く感じられ、変化に富んだものでした。そして、何よりも自分でも
驚いたのは、あれほど母が近くにいない生活は涙が止まらず、考えられ
なかったことなのに今度は自ら、母の元から離れて行くことになるとは。

12~3才頃の少年の自立への成長過程は、実にすごい速さです。
大泉でのひとり生活が、それをさらに促したのかもしれませんが。

生家でもある祖母、叔父の住む相生町(現、本町)に住所は置いたものの
そこには住まず、他人の家での下宿生活を選びました。

新しい住まいは芳町のK家。母の知人のツテでした。奥さんと娘さんが2人
旦那さんは、たまに訪ねてくる程度。玄関に大きなオスの洋犬がいました。
番犬にぴったりの容貌でしたが大人しく私にもすぐになつきました。

4月の2年1学期、始業式の日から、前橋一中に戻りました。
この日は、クラス替えで全員が校庭に集まり、新担任の下に再整列をする。

「あれ?桂じゃねーか!どうしたん」

顔見知りの友だちは、とても驚いた表情で私を見た。ただここは県下一の
マンモス校、ベビーブーム世代で1学年15組、1クラス50人、総勢約750人が
再編されるわけで、元級友の大半の生徒も一緒になる確率は少ない。
それだけに再転校の私の存在は目立たなく、誰もが自分のことでいっぱいで、
新しいクラスに関心が向けられている状態。その辺は私の計算どおりでした。

私は10組に入ることにほぼ決まっていた。担任はベテラン男性のN先生。
先生は偶然私の出身の小学校からこの日、転任し初めて中学生を受け持つ
ことに。
小学校では担任ではなかったものの、私のことをよく知っていてとても
好意的で、私も信頼できる先生と思っていました。もしかしたら事前に
組替え案で同じ組に入るようN先生の尽力があったのかもしれません。
新しい組の列に並んでいると、N先生が急にやってきました。「実は隣りの
9組の人数が足らないんだ。できたら誰か移ってくれないか」と私の方を
向いて申し訳なさそうにしている。断ることもできた雰囲気でした。
担任がN先生だと聞き、喜んでいた私には正直、とても迷いました。。

しかし困っているN先生を思い、小さくうなずいた。
N先生と私は同じ若宮小学校以来の再会を喜んでいた直後だっただけに、
N先生も本当に残念そうにしていました。こんな些細と思いえるクラス
編成の話なのですが、その後の私にとってはこれが少なからず禍根になる
とは、このときはまだ気付いていませんでした。

戻ってみても当時の一中はいじめや非行の話はまったく聞こえてこない。
雰囲気は都会的で、改めて見る生徒たちは、みな大人びているようでした。
学校生活の方はこれでやっと安住を得た心地でした。
部活は念願の剣道部に入りました。
前橋のキリスト教会にも久しぶりに通い始めました。
すべてが、リセットされ晴れ晴れしい気持ちの毎日がつづきます。

不思議と母恋しさの感情は、まったく消えていたのです。

下宿では大きな番犬とはすぐに仲良しになったのですが、犬に負けない?
大柄な市内の女子高に通うバレー選手の長女とはケンカをしてしまった。
どんな理由かは思い出せないのですが、口ゲンカでした。私が劣勢で
一方的にやられて小さくなっていた。その時、私より1歳年上の小柄で
可憐な次女さんが、姉に向かって「そんなに強く言わなくてもいいのに」
と制止してくれた。嬉しかったが、なぜ同じ姉妹でもこうも違うのかと
の思いでした。

「よし。引越しだ!」私は心の中で叫んだ。

前橋に戻ってからは、学区が異なり第四中学校に進んだ小学校時代の友人
たちとも交流が再開していました。
1年ぶりで会った才川町(現、若宮町)に住む四中生、H君が「近くに良い
下宿屋があるよ」と教えてくれた。
さっそくその家をH君と一緒に訪れた。すぐ承諾を得て、引っ越しが決定!
この転居は、母の手を借りず下宿探しから引越しまで自分で進めてしまった。

引越しはH君がリアカー(荷車)を借りてきてくれ、一緒に運んでもらった。
荷台には机と本と布団、それに宝物はカメラ(マミヤ)とラジオ(6石トラン
ジスタ東芝の一号機)だけ。もちろん三洋のメーター付き自転車もお供です。
なんとも身軽でわずかな“所帯道具”。

H君といえば、小学生のころから新聞配達や豆腐売りをして家計を支えていた。
私は、夕方の豆腐売りをよく手伝った。はにかみ屋の彼に代わって、独特の2音
ラッパをプープー吹いたり、豆腐がいっぱいで重い箱付自転車の後を押しました。
今度の引越しでは、すっかりH君に助けられました。リアカーで後押されている
のは私の方でした。 (つづく)

【写真】前橋市立第一中学校の徽章


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