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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■イエス様の栄光 / 関根弘興

2019年10月18日 | Weblog
2019/9/13放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス様はすべての人を救いに導く救い主として来てくださいました。そしてついにイエス様は「わたしが栄光を受ける時が来ました。」(参照ヨハネの福音書12章23節 )と弟子たちに語られたのです。
 
 弟子たちは自分たちの国をローマの圧制から解放する救い主を求めていました。ですから遂にイエス様が大きなことを行う時が来た、と考えたのでしょう。
 しかしイエス様が言われた「栄光」とは、弟子が考えていた栄光とは全く違っていました。イエス様が「栄光を受ける時」とは何と壮絶な苦しみを受ける十字架によってもたらされる栄光だというのです。それは罪のないイエス様が人々の罪をすべて背負って、罪の罰を十字架の上でお受けになるということでした。

 罪のない神の独り子なるイエス様が人々の罪を背負うということ、これはどうして栄光なのでしょう。それは栄光ではなく屈辱ではありませんか。ですからそんな不条理はありません。イエス様もこうおっしゃっています。
 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」(ヨハネの福音書12章27節 )と。
 ま、これは十字架の苦しみを前にしたイエス様の苦悩のことばでもあるんですね。イエス様は十字架の苦しみを前にして、できればその苦しみを受けずに済むようにしてください、と祈らずにはいられませんでした。罪なき方が人々の罪を背負うわけですから、そこには私たちの想像をはるかに超える苦悩があったのです。

 しかしイエス様は続けて、「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。」と言われ、十字架の道をまっすぐに進んで行かれました。イエス様は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(ヨハネの福音書 12章24節) とお語りになりました。これは単なる一般論ではありません。イエス様ご自身が一粒の麦となり、ご自分のいのちを懸けて救いのみわざを成し遂げることによって私たち一人ひとりに豊かな実を結ばせくださるという壮絶な約束のことばなのです。

 イエス様の栄光は、自分のいのちを捨てることによって成し遂げられる永遠の救いを完成する、という事でした。それほどまでに一人ひとりはイエス・キリストによって愛されているということなんですね。
     (PBA制作「世の光」2019.9.13放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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