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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■「ハレルヤ」って何? / 岩井基雄

2011年11月18日 | Weblog
2011/11/18放送


 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 私は時々、「キリスト教会で耳にする分からないことばは専門用語なのですか?」と聞かれます。確かにキリスト教会で使われている用語には分るようで分りにくいことばがありますよね。今日もシリーズ「分りにくいキリスト教用語」を学んでみましょう。3回目は「ハレルヤ」です。

 「ハレルヤ」って聞いた事がある人は多いかもしれませんね。雨の日に叫ぶことばではなくて、ヘブライ語で「神を誉めたたえよ」という意味です。最初の「ハレル」は「誉めたたえよ」で、次の「ヤ」は神様を表すことばです。キリスト教会の讃美歌によく用いられますし、ヘンデルが作曲した『メサイヤ』の中にも「ハレルヤ、ハレルヤ!」と始まるハレルヤコーラスがありますね。歓喜または感謝を表す表現とも言えるでしょうか。またこのハレルヤは旧約聖書の詩篇に多く出てきます。一つお読みします。

 「ハレルヤ。主はまことにいつくしみ深い。主の御名にほめ歌を歌え。その御名はいかにも麗しい。まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。
 旧約聖書詩篇135篇3節から5節

 ここでは神様は慈しみ深く私たちをご自分の宝として扱ってくださる。どんな存在よりも勝る方だと歌われています。それは彼が目に見えるすべてのものまた見に見えないすべてのものをも創造された唯一の存在であるからです。時間も空間もすべてのいのちあるものも心も愛も真実も、すべて神様が創造されました。この神様を私たちが心から賛美し誉めたたえる時、私たちの心の奥底から喜びが泉のように溢れます。それは私たちが神様に向けて創造されたからです。神様にしたがい、誉めたたえる時、花々が太陽に向かって輝くように、いやそれ以上に私たちの人生は美しく輝くことができるのです。あなたもどんな時にも「ハレルヤ!」と賛美し、感謝する人生へと変えられていきませんか? あなたの人生や存在が根底から愛へと向かう歩みへと変えられていきますよ。

   (PBA制作「世の光」2011.11.18放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■新しいぶどう酒は新しい皮袋に / 福井 誠

2011年11月17日 | Weblog
2011/11/17放送
 

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」です。それではマタイの福音書9章17節から読んでみましょう。

 「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。

 聖書のことばというのは以外にも身近なところに沢山ある者で、私達も知らずに使っていることがあるものですねえ。たとえば、「目には目を、歯には歯を。」(出エジプト記 21章24節参照)「人はパンだけで生きるのではない。」(申命記8章3節、マタイ4章4節、ルカ4章4節参照) 他にもいろいろあると思いますね。しかし意外ともともとの意味は分かられていない。もともとの意味と違って用いられていることもある、ということもありますねえ。

 今日読みました「新しいぶどう酒には新しい皮袋を」というのもよく知られていることばだと思います。けれどもその聖書が語っている意味を正確に捉えているかというと、よく分からないという人も多いと思いますね。当時は山羊の皮を用いて皮袋を作りました。胴体の中身を取り除いたあと、首の部分を除いて全部を縫い合わせるのです。そこで新しいぶどう酒は長く入れておくと醗酵して膨張しますので、皮が伸びやすい新しい皮袋に入れます。古い皮袋は乾いて伸びきっていますから、醗酵して膨張すると皮袋の一部分が裂けて皮袋もぶどう酒もだめになってしまう、というわけですねえ。

 イエスはこのたとえをキリスト教の新しい真理をユダヤ教の古い制度ん中に入れることはできないのだということを教えるために用いられました。確かに新しい真理というのは、古い制度には合わないものです。真理が新しくなれば制度も新しくする必要があります。新しい真理である神のことばも新しい心でもって聞く必要があるものです。古い偏見や先入観を捨てて新しい思いで神のことばに耳を傾けていきたいものですね。

  ( PBA制作「世の光」2011.11.17放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■長寿は幸せか? / 板倉邦雄

2011年11月16日 | Weblog
2011/11/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 平均寿命が伸びて日本は長寿国の仲間入りをしました。しかし長寿と共に様々な問題も出てきています。今日は「長寿は幸せか?」という題でお話しましょう。旧約聖書の創世記5章のアダムの系図の続きです。 

 まずアダムから始まって、アダムの家系はみな長寿です。アダムの一生は930歳でした。あとに続く子どもたち5人は、一人を除いて900歳以上の生涯・長寿を全うして死んでいます。それにしても1000年近い10世紀も生きているのです。初め読んだ時は、嘘だ、信じられない、と思いました。でも神様が最初に造られたこの世界は今以上の環境が整っていたでしょう。緑も水も豊かで紫外線も少なく、病原菌も少なかったはずです。しかもアダムとエバは死ぬべき者ではなかったのです。それが罪を犯し、堕落したので、死ぬべき者となりました。アダムとその子孫たちが10世紀近く長寿だったとしても不思議はありませんね。しかしアダムを含めどんなに長寿でありましても、みな死んだのです。人はなぜ死ぬのか、これは私たち人間のテーマです。この現実を避けて通ることはできません。私たちは永遠のいのちを希求しているのではないでしょうか。私たちは永遠の神様のかたちに創造されているからです。しかし現実は死の恐怖のために一生涯奴隷のように苦しみながら死を迎えなくてはなりません。この相反する現実を私たちは自分の中に抱えながら生きてゆくのです。

 では死ぬべき私たちの救いはどこにあるのでしょう。それは永遠の神様が人となってこの罪の世界に住み、罪となって人の身代わりとなって死を味わい、ご自分の永遠のいのちを死ぬべき私たちに与える以外にはなかったのです。愛と義と聖なる神様はそのことを決意し、この世界で実行してくださいました。

 聖書のことばです。
 「神はそのひとり子(イエス・キリスト)を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3章16節

 ( PBA制作「世の光」2011.11.16放送でのお話より )

 

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■恵みの受け取り方 / 山中直義

2011年11月15日 | Weblog
2011/11/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。
 
 せっかくの神様からの恵みも受け取り方を間違ってしまうと台無しになることがあります。旧約聖書創世記29章に、夫に嫌われて苦しんでいたレアという女性が登場します。聖書は、主はレアが嫌われているのをご覧になって彼女の胎を開かれた、と言います。こうしてレアは身ごもって男の子を産むのですが、残念なことが起こります。彼女はその子をルベンと名付け言いました。「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。」(創世記 29章32節) このルベンという名前には「息子を見て」という意味があります。神様からの恵みをいただいたレアでしたが、恵みを受け取るやいなや夫の愛を手繰り寄せることだけに関心が向けられ、恵みを与えてくださった神様には目を向けようとしなかった、そのことが示されています。

 そしてこのあとレアには三人の子供が生まれるのですが、彼女は同じ失敗を繰り返します。二度目に子供が与えられた時には、恵みを恵みとして感謝することもなく当然の権利のように考えてしまいました。三人目の時には「神様」とも「主」とも口にすることさえなく、まるですべて自分の功績であるかのように自分を誇ってしまいました。そして四人目の時には少しだけ夫の関心を得ることができたので、「今度は主を誉めたたえよう」と言いました。ですが、自分の願いが叶ったから主を誉めたたえるというこの姿は本当の喜びや満足に満ちたものなのでしょうか。実際この後レアは再び不平不満で心がいっぱいになり、喜び満足を失った日々を過ごすことになりました。

 せっかくの神様の恵みも受け取り方を間違うと台無しになってしまいます。では一体どうすれば本当の喜び・満足に満たされて生きることができるのでしょうか。それは神様が必要な恵みを与えてくださった時には神様ご自身にしっかりと目を向け、神様に耳を傾け、神様に結びついて生きることだ、と聖書は教えています。

 神様は今もあなたを見つめておられます。そして必要な恵みを与えてくださいます。神様の恵みをしっかりと受けとめ、神様と結びついて歩んでください。

    (PBA制作「世の光」2011.11.15放送でのお話しより )

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■礼拝とは何?  祈る / 関根弘興

2011年11月14日 | Weblog
2011/11/14放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。

 今月はキリスト教会で毎週日曜日に行われている礼拝ということについてご一緒に考えています。今日は、礼拝それは神様への祈りの時なのだという事をお話したいと思います。

 祈るという経験をしたことのない人は殆どないと思うんですね。でも誰に向かって祈っているのかと問われると、「いやそんな事は考えた事がないなあ」とおっしゃる方がいます。祈りは一体何でしょうか。

 聖書が教えている祈りとは、単にこれしてください、あれしてください、お願いしますというものではありません。まず最初に誰に向かって祈っているのかを明確に教えています。イエス様は弟子たちにこのように祈りなさいと教えられたお祈りがあります。それは主の祈りというものですが、最初の祈りのことばは「天にいます私たちのお父さん」と呼びかけから始まっています。私たちは天にいますお父さんすなわちすべてのものの創られた万物の創造者である天のお父さんに向かって祈るということなんですねえ。

 そして祈りはもちろんあなたの願いもありますけども願いだけが祈りではないんです。祈りの中には「神様。こうして生かされていることを感謝します。この命をありがとうございます。この朝を、この夕をありがとうございます。」というように沢山の感謝がその中に捧げられていくんです。感謝のない生活はそれは何と冷たい味気ない生活でしょう。あなたの人生に潤いをもたせたいなら感謝を溢れさせることです。今まで当たり前と思っていたことに感謝を神様に向かって捧げるんです。

 また祈りはあなたの正直な神様への告白でもあるんですね。「神様。私は今辛い状況の中にいます。助けてください。」 正直に自分の思いを打ち明けることができます。

 また「神様。私は神様に背を向けるようなことをしてしまいました。ごめんなさい。」と正直に悔い改めこともあるでしょう。

 また「神様。あなたを心から信頼し生きていきます。」というように信仰の告白もありますよね。

 正直な思いを神様に打ち明けること、それが祈りなんです。ですから祈りはあなたの願いを、感謝を、正直な告白を、神様にお伝えすることなんです。

 そして救い主なるイエス・キリストは「わたしの名前によって祈り求めなさい」と言われました。私たちは「天のお父さん」と呼びかけ、最後に「イエス・キリストのお名前によって祈ります」と祈るんです。礼拝は讃美を捧げ、そしてあなたの祈りが捧げられる時です。あなたの毎日の生活の中でいつでもどこでも祈ることができます。イエス・キリストの名前によって「天のお父さん」と祈ってみてはいかがでしょうか。

 (PBA制作「世の光」2011.11.14放送でのお話しより)

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■なぜ死ななければならないの? / 羽鳥頼和

2011年11月12日 | Weblog
2011/11/12放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。

 ロンという子が神様に手紙を書きました。「かみさま、もし しんだあとに いきるんなら、どうして にんげんは しななきゃいけないの?」 神様はロン君に何と答えるでしょう。

 ロン君は人はみんな死んだ後にまた生きることができると思っているようです。神様はまずこのことについて答えてくださるでしょう。「ロン君、すべての人が死んでも生きられるのではないんだよ」と。

 神様のことばである聖書は、人は誰でも一度死ぬことと死んだ後に神様のさばきを受けることが決まっている、と教えています(ヘブル9章27節参照)。すべての人が死んでさばきを受けるのはすべての人が罪を犯しているからです(ローマ 3章23節参照)。罪とは神様の教えを守り行わないことです。例えば聖書は「人を憎む人はみな、人殺しです」と教えています(1ヨハネ 3章15節参照)。人を憎んだことのない人はいないでしょう。このこと一つとっても神様の基準ではすべての人が罪人であり、死んで神様のさばきを受けなければならないのです(ローマ3章10節、1ヨハネ 1章8節参照)。

 こんな事を聞いたらロン君はショックでしょう。そこで神様はロン君を安心させるために答えを続けるでしょう。「ロン君、心配しなくてもいいよ。死んでも生きることができる方法があるんだ。それを教えてあげよう。」と神様は言うでしょう。

 ではその方法とは何でしょうか。それはイエス・キリストを自分の救い主であると信じることです(ヨハネ 11章25節参照)。信じた人にはイエス・キリストがその人の内に住んでくださいます(ヨハネ 14章23節参照)。そしてそのことによって心安らかに生きることができるのです。イエス・キリストを信じることによって、神様はその人に永遠のいのちを与えてくださいます(ヨハネ 3章15節、3章36節、4章16節、6章40節、6章47節、1ヨハネ 5章11節参照)。永遠の生命とは単に永遠に生きることではなく、神様と共に生きるということです(ヨハネ 17章3節参照)。イエス・キリストは人の罪のために十字架にかかって死んでくださいました。この十字架によって人の罪は神様に赦されたのです(エペソ 1章7節、ヘブル 9章22節参照)。

 神様はロン君にこう言うでしょう。「ロン君、私はあなたと一緒に生きたいと思っているよ。君がイエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、私は君の罪を赦し、永遠のいのちを与えよう。そうすれば私はあなたといつも一緒にいることができるんだ。」

 神様はあなたにも同じように語りかけておられます。イエス・キリストを信じ、神様と共に生きる素晴らしい人生を歩みましょう。

 聖書のことば
 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」イザヤ章41章10節

  ( PBA制作「世の光」2011.11.12放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■聖書を読んだ侍たち / 岩井基雄

2011年11月11日 | Weblog
2011/11/11放送

世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 今日は2011年11月11日ですね。11を漢字で縦に書く形から11のことを士(さむらい)とも呼びますが、今日は『聖書を読んだ侍たち』という本を紹介しましょう。実は幕末の多くの侍たちが世界の文化に触れる中で聖書と出会っているのです。本だけではなく DVD 版も出ていて、そちらでは「龍馬を巡る五人の男たち」という副題がつけられています。その中に坂本龍馬を切った男とされる京都見廻組の今井信郎が出てきます。

 彼は幕府崩壊後の明治2年に逮捕され、裁判の中で龍馬の殺害を自供します。それまで命をかけて守ってきた幕府が崩壊し、生きる意味や目的を失った彼は絶望の中で聖書と出会い、イエス・キリストと出会いました。くだらないと思っていた聖書の中に求めていた本物の生き方を見い出したのです。

 私たちもまた人生の歩みの中で生きる意味や希望を見失うことがありますね。失望や絶望の連続の中で私たちの心もまた本物の生き方を求めて渇いてはいないでしょうか。

 聖書にこんなことばがあります。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 新約聖書 ヨハネの福音書14章6節

 聖書はイエス・キリストのうちにこそ私たちが求めている生きるべき道、人生をかける真理、希望を与えるいのちがあると言っています。そしてイエス・キリストを通しでなければ誰一人神の元に行くことはできない、というのです。
 
 なぜでしょうか。それは彼が命がけであなたを愛し、十字架上の死で罪の赦しを完成してくださったからです。

 今井信郎は自分の罪と向き合いました。正しいと思って突き進んできた道が曖昧であることに気づき、自分の罪を神の前に認め、キリストが自分の罪のために十字架についてくださったことを信じたのです。殺気立っていた彼の人生は、晩年には愛と平安に満ちたものへと変えられていきました。神の愛は人を根底から変えていくのです。

 あなたも愛されています。イエス・キリストの命がけの愛を、あなたも御自分のものとなさいませんか? そのためにあなたも神の愛が記されている聖書を読んでみませんか?

   (PBA制作「世の光」2011.11.11放送でのお話しより)

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■わたしについて来なさい / 福井 誠

2011年11月10日 | Weblog
2011/11/10放送
 

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「わたしについてきなさい」です。それではマタイの福音書9章9節から読んでみましょう。

 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

 マタイという人がイエスの弟子になったいきさつが語られています。この話を読むと私はある人を思い出します。昔アフリカの国で駐在員として働いていた人です。

 その人は日本のように遊ぶところもない小さな田舎町で過ごし、暇潰しに絵を描くことを覚えたと言います。毎日仕事が終わると、大自然を眺めながら絵を描く。そしてタバコをくゆらしながら一日を終える。少々人生に味気なさを感じながら、ぼんやり時を過ごしていたそうです。

 そんなある日その町にキリスト教の宣教師がやってきました。宣教師たちはその町からさらに奥地へと向かいました。交通の便も食糧事情も悪い奥地になぜ苦労して出かけていくのか。宣教師たちの後ろ姿を見ながら不思議に思ったそうです。そしてそれをきっかけに近くの教会に通うようになって、やがてイエスの十字架の愛を知り、信仰を持ったのです。奥地へ向かう宣教師の後ろ姿を眺めて救われた人というのはこの人ぐらいかもしれませんね。

 ともあれイエス様はぼんやり仕事場で座っていたマタイに目を留められました。マタイも先の人と同じように味気のない人生を感じながらぼーっとしていたのかもしれませんね。そんな心の空洞を見抜くかのようにじっと自分を見つめている人にマタイは気づくわけです。そしてマタイは「ついてきなさい」というイエス様の声に従います。

 皆さんはどんな思いで毎日を過ごしていますか? パチンコ、タバコ、アルコールの毎日で、目的もなくぼんやり時を過ごしていることはないでしょうか。そんな空っぽの私たちに神は新しい人生を与えようとされておられます。「わたしについてきなさい。あなたの人生を全く違うものにしよう。」と語りかけておられます。あなたも自分の人生を変えてみませんか?

  ( PBA制作「世の光」2011.11.10放送でのお話より )

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■神と共に歩み / 板倉邦雄

2011年11月09日 | Weblog
2011/11/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は、神と共に歩み、神に取られた一生を送ったエノクという人物のお話をしましょう。

 エノクはアダムの系図の中で一番年は若く一生を終わります。365歳とあります。他の人は900歳、700歳、600歳でした。他の人から比べたら三分の1あるいは二分の一の生涯でした。人生は長く生きたか短いかということではないようですね。

 次にエノクは神と共に歩む一生だったということです。神と共に歩む一生とはどんな人生だったと思いますか? 一言で言うなら、天の神様を信じて仰ぐ人生でしょう。この世界を造られた神そしてこの私を造られてこの私を喜んで受け入れてくださっている神様を信じきる人生です。嬉しい時も悲しい時もどんな時も神様と自分を結びつけてゆく人生、喜びも悲しみも神が満たされるままに受けとめてゆく人生ではないでしょうか。神様がまず自分(私)のことを心配してくださる。だから自分の思い煩いを一切神様に委ねてゆこう、と思うのです。

 イエス・キリストの約束のことばです。

 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ 28章20節)
 「いつも」とはすべての日々にということです。神の子・救い主イエス様がすべての日々に私と共にいてくださるのです。

 そして第三にエノクは神と共に歩みましたが、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記 5章24節)と書かれています。エノクの一生は神様信仰の生涯でした。神様を喜ぶ一生でした。ですから生涯の終わりも神様が取り上げられるような終わりだったようです。突然、人々の前からいなくなるような生涯の終わりだったのです。聖書はエノクの終わりについてこのように書き記しました。
 「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。 」 ヘブル人への手紙11章5節 (口語訳聖書)

 ( PBA制作「世の光」2011.11.9放送でのお話より )

 

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■自分の願いに欺かれる / 山中直義

2011年11月08日 | Weblog
2011/11/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。自分の願いを叶えようとやっきになっていると本当に大切なことを見失うことがあります。旧約聖書創世記29章にヤコブという人物の失敗談が記されています。

 ヤコブはある時、二人の女性と出会います。それはヤコブのおじラバンの娘達で姉がレア、妹がラケルと言いました。ヤコブはラバンに、妹のラケルと結婚させてくれ、とお願い出ます。ラケルの姿顔立ちが特に美しかったからだ、と聖書は説明しています。そこでヤコブは、私は妹ラケルのために7年間あなたに仕えましょう、とラバンに申し出ました。自分の願いを何とかして叶えようと、7年間自分のすべてをそのために捧げようと申し出たのです。そしてヤコブは実際に7年間ラバンに仕えました。

 しかしこともあろうにラバンはヤコブを欺くのです。約束の7年が過ぎた結婚式当日の夕方、闇に包まれたヤコブの天幕にラバンが遣わしたのは妹のラケルではなく、姉のレアでした。そしてヤコブはレアと寝てしまうのです。翌朝騙されたことを知ったヤコブは激怒してラバンに抗議します。ですがラバンは、(長女より先に下の娘を嫁がせることはしないという)土地のしきたりを曲げることはできない、と言い放ち、レアに加えて妹のラケルも妻として得たいのであれば、もう7年間私に仕えるように、と話を持ちかけたのです。ラケルの美しさに心を奪われていたヤコブはこうして仕方がなく、14年もの長きにわたってラバンに仕えることになりました。

 このエピソードは自分の願いを叶えようと躍起になることの危うさを私たちに示しています。ヤコブと同じように私たちも目先の事柄に目も心も奪われやすいものです。だからこそ、本当に大切なことをしっかりと心に留めておきたいと思うのです。すなわち私たちを誰よりも深く愛し私たちを祝福しようと誠実を尽くしていてくださる神様にしっかりと心を向け、その教えに耳を傾けていたいと思うのです。
 
    (PBA制作「世の光」2011.11.8放送でのお話しより )

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