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【福島原発事故刑事裁判第15回公判】長期評価を肯定しながら東電の対策先送りは容認、それって何なの?

2018-06-14 22:14:16 | 原発問題/福島原発事故刑事訴訟
福島原発事故をめぐって強制起訴された東京電力旧3役員の刑事訴訟。6月1日の第14回公判に続き、第15回公判が6月12日(火)、第16回公判が6月13日(水)が相次いで行われた。そして第17回公判は6月15日(金)に行われる。これらの公判の模様を伝える傍聴記についても、福島原発告訴団の了解を得たので、掲載する。執筆者はこれまでに引き続き、科学ジャーナリスト添田孝史さん。

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第15回公判傍聴記~崩された「くし歯防潮堤」の主張

 6月12日の第15回公判の証人は、今村文彦・東北大学教授だった。今村教授は、東北大学の災害科学国際研究所長。津波工学の第一人者で、原子力安全・保安院、地震調査研究推進本部(地震本部)、土木学会、中央防災会議で専門家の委員として関わっていた(注1)。福島第一原発事故に関わるすべての津波想定の審議に加わっていた重要な証人だ。

 証言のポイントは三つあった。 

 1)「事故は防げなかった」とする被告人側の主張の柱を、今村教授の証言が崩した。今村教授は、地震本部の長期評価(2002)の15.7m津波に備えようとすれば、福島第一1号機から4号機の建屋の前に、ある程度の高さの防潮壁を設置することになり、それが設けてあれば、東日本大震災の津波も「かなり止められただろう」と述べた。

 被告人側は、15.7m対策として防潮壁を設置するならば敷地南側、北側など一部に限られるため、それでは今回の津波は防げなかったと主張していた。

 2)一方で、「福島沖でも津波地震が発生する」とした長期評価の信頼性について、今村教授は、「どこでも発生するとする根拠はわかりませんでした」「少し荒っぽいという感じをうけていた」「直ちに対策をとるべきとは考えなかった」と述べ、津波の予見可能性については、東電側の主張に沿った証言をした。

 3)安全審査を担当する今村教授が、規制を受ける側の東電と、何度も一対一で、審議の進め方などについて非公式の場で話し合っていたことが明らかになった。その場で今村教授は、津波対策の先送りに「お墨付き」を与えていた。本来は公開の審議会で、多様な分野の専門家で議論されるべきテーマだ。

◯「15.7m対策で、311の津波も止められた」

 今回の公判で一番注目されたシーンだろう。検察官役の久保内浩嗣弁護士の「長期評価の試算にもとづけば、どの場所に鉛直壁(防潮壁)を設置するか」という質問に、今村教授は、敷地の北側と南側の一部だけでなく、1号機から4号機の建屋前の全面に設置が必要だと、赤ペンで書き入れた(イメージ図)。


手書きの赤線は、法廷で今村教授が引いた線を海渡弁護士が再現したもの


 そして、そこにある程度の高さの防潮壁があれば、311時の津波も「かなり止められたと考えられる」と証言した。

 これまで被告人側は、長期評価の津波対策として建設するならば、敷地南側と北側を中心とした一部だけにクシ歯のように防潮壁を配置したから、事故時の津波は防げなかったと主張していた。15.7m想定は敷地南側が最も津波が高く、1号機から4号機の建屋前からは、津波は敷地を超えないので防潮壁は作る計画にはならなかった。東日本大震災の時の津波は襲来する方向や高さが異なっていたから、それでは防げなかったという理由だ。

 ところが今村教授は、津波の周期によっては、防波堤の内側の港の中で津波が増幅される可能性があるので、15.7m想定の場合でも、1号機から4号機の前に全面的に、防潮壁を検討しなければならないと述べた。

 被告人側が主張していた「事故は避けられなかった」とする根拠が、津波工学の第一人者によって崩されたことになる。

◯「長期評価の根拠、わからない」

 長期評価の信頼性については、弁護側の宮村啓太弁護士の質問に、以下のように否定的な意見を述べた。

 宮村「長期評価で、津波地震が日本海溝沿いのどこでも発生する可能性があるとしたことについて」

 今村「非常に違和感がありました。根拠はわかりませんでした」

 宮村「日本海溝沿いは、同じ構造を持っていると言えるか」

 今村「難しかったと思います」

 ただし、今村教授は、事故前に土木学会が実施したアンケート(2004)では、次のように地震本部の見解に近い側に回答していた。

「過去に発生例がある三陸沖と房総沖で津波地震が活動的で、他の領域は活動的でない」0.4

「三陸沖から房総沖までのどこでも津波地震が発生するという地震本部と同様の見解」0.6

 土木学会が2009年に実施したアンケートでも同様に、福島沖でも津波地震が発生しうるとする見解に重きを置いていた。

「三陸沖と房総沖のみで発生するという見解」0.3

「津波地震がどこでも発生するが、北部に比べ南部ではすべり量が小さい(津波が小さい)とする見解」0.6

「津波地震がどこでも発生し、北部と南部では同程度のすべり量の津波地震が発生する」0.1

 また、今村教授は2007年3月から地震本部地震調査委員会のメンバーになっており、長期評価(2002)の改訂作業にも加わっていた。この改訂は2011年の事故直前まで進められていたが、改訂版でも津波地震は福島沖を含むどこでも起きるとされていた。これについて、議事録等を見ても、今村教授が「根拠がない」と異議を唱えていたことは記録されていない。

 今村教授は、アンケートについて「答えにくい選択肢だった」と述べたが、福島沖での津波地震が、後述するように「1万年に1回も起きない」と考えていたようには見えない。

◯津波工学の専門家だが、原子力規制の専門家ではない

 2008年7月31日に、武藤栄元副社長が長期評価の対策を先延ばしし、土木学会の審議に委ねた、いわゆる「ちゃぶ台返し」の妥当性について、今村教授は以下のように証言した。

 宮村「まず土木学会で審議するのは妥当な手順か」

 今村「合理性がある」

 宮村「土木学会の議論を経ずに、直ちに対策工事を行うべきだと考えたか」

 今村「考えていませんでした」

 宮村「運転を停止すべきとは考えたか」

 今村「そこまでの根拠、データ、知見はありませんでした」

 また、裁判官の質問に対しても

「(長期評価を取り入れる)切迫性は感じていませんでした。現地での調査も重要と考えていて、少し時間がかかると思っていました」と答えた。

 このやりとりを傍聴していて、今村教授の判断、行動には理解しにくい点がいくつもあった。

 一つは、東電から「土木学会で時間をかけて審議し、そのあと対策をする」という説明を受け、保安院の審議会に諮ることもなく了承したことだ。

 バックチェックでは「施設(原発)の供用期間中に極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波を想定する」と定められていた(注2)。ここで「極めてまれ」とは、1万年に1回しか起きないような津波のことを指すと解釈されていた(注3)。

 さらに、津波想定の見直しを含む、古い原発の耐震安全性のバックチェックは、耐震指針が改訂された2006年9月から3年以内が締め切りだった。当時、指針を担当する原子力安全委員会の水間英樹・審査指針課長は、電力各社に対して「3年以内、(13か月に1回行う)定期検査2回以内でバックチェックを終えてほしい。それでダメなら原子炉を停止して、再審査」と強く求めていた(注4)。

 福島沖の津波地震は、「1万年に1回以下のまれな津波」と判断される可能性はほとんどなかったのに、土木学会で審議しなければならないと判断した根拠は、今村教授からは示されなかった。長期評価について専門家で議論が分かれていることを今村教授は主張したが、1万年に1回も起きないとするだけの強い証拠は無かった。そして、それは土木学会で検討するテーマではなく、地震学者の領域だ。

 二つ目は、すぐに対策を始めず、土木学会で2012年までかけて審議しても良いと了承したことだ。「切迫性がなかった」「現地での調査が必要と考えた」と今村教授は述べたが、バックチェックで想定すべきと定められた津波は「極めてまれな津波」で、「切迫している津波」ではない。また2007年には、原発から5キロ地点で、東電の従来の想定(土木学会の手法による)では説明できない、大津波による津波堆積物がすでに見つかっていた。

 そんな状況のもとでも、時間をかけて土木学会で検討し、バックチェック期限を破っても「合理性」があったとする根拠は何か。バックチェック期限を破って運転を続ける間、原発に一定の安全性は確保されていたのだろうか。

 それらを判断するのは、津波工学が専門の今村教授だけではなく、公開の保安院の審議で、多様な専門家で話し合って決めるべきだったはずだ。

 今村教授は、規制対象の東電と、非公開の場で接触して、安全審査の方向性についてアドバイスしたり、先延ばしを了承したりしていたことが、公判で示された東電社員との面談記録から明らかになった。

 このような不透明な手続き、専門分野から踏み越えた領域での今村教授の「判断」が、事故につながっている。そのような形で専門家を使った東電の狡猾さに、まんまと引っかかったとも言える。

注1)原子力安全・保安院で福島第一原発の耐震バックチェックの審査をする委員会に所属。地震調査研究推進本部(地震本部)の地震調査委員会委員(2007〜)で、同委員会の津波評価部会長。中央防災会議の日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会(2004〜)で委員。土木学会の津波評価部会委員(1999〜)

注2)新耐震指針に照らした既設発電用原子炉施設等の耐震安全性の評価及び確認に当たっての基本的な考え方並びに評価手法及び確認基準について(2006年9月20日 原子力安全・保安院)のp.44

注3)政府事故調 水間英城(元原子力安全委員会審査指針課長)聴取結果書

注4)鎭目宰司「漂流する責任:原子力発電をめぐる力学を追う(上)」岩波『科学』2015年12月号p.1204

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生命力尽きたJRグループ~新幹線殺人事件から見えたJRの「最終章」

2018-06-13 22:15:25 | 鉄道・公共交通/交通政策
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 物心ついたときから鉄道ファンとして、人生と同じ年数だけ国鉄~JRをウォッチし続けてきた私の目から見ると、最近のJRはもう完全に生命力が尽きたと感じる。耐用年数が切れたという表現はふさわしくない。耐用年数が切れても元気に働き続ける家電製品などいくらでもあるからだ。最近のJRグループに関しては、とてもではないがそんな生やさしい表現では足りず、まさに「生命力が尽きた」という表現こそふさわしい。死臭が漂い始めた、という表現でもいいのではないだろうか。

 国労所属というだけで1047名もの労働者の首を切り、おびただしい自殺者を出した国鉄「改革」によって発足してから31年。多くの労働者の屍の上に社屋を建ててスタートした会社に輝かしい未来などあるはずがないことはわかりきっていた。支社長方針のトップに「稼ぐ」を掲げた挙げ句に107名が死亡する事故を起こし、流量計を改ざんしてまで信濃川から不正取水をするなどの悪や愚行をさんざん重ねてきた企業グループ。ただそれらはいずれも(表現としては不適切だが)日本企業なら程度の差はあれどこにでもあるような企業悪の一類型の中に、何とか押し込めようと思えば可能であるような、「頭で理解できる程度には普通の悪」だった。しかし、ここ5年ほどのJRグループは、そんな領域も私の理解もはるかに飛び超え、社会の荒廃を拡大再生産させる装置として文字通り「最終章」に入ったように見える。JRグループ唯一の稼げる路線にして、旧国鉄から引き継いだ中では最も輝かしい宝物だったはずの新幹線で立て続けに起きる不気味な事件は「死滅」への明らかな予兆である。

●「1時間20分の空白」が持つ意味

 2015年6月、下り新幹線「のぞみ」で高齢男性が車内にガソリンをまいて放火した事件の記憶もまだ醒めやらないというのに、大勢の乗客を無差別に巻き込み、犠牲者を出す事件がまた新幹線車内で起きてしまった。刃物を振り回し、止めに入った男性乗客を死亡させた男がこの凶行に及んだのは新横浜~小田原間の車中。またも下り「のぞみ」で、新横浜発車直後というのも2015年とまったく同じだ。だがこれは決して偶然などではない。無差別に乗客を巻き込んで凶行に及ぼうとする者たちが「のぞみ」のこの区間を選ぶのには、ちゃんと理由があるのだ。

 東京~名古屋間で頻繁に新幹線を利用する方はご承知と思うが、新横浜を発車した「のぞみ」が次に停車するのは約330kmも離れた名古屋だ。その間、約1時間20分にわたって停車駅がない。車内は極端に人の動きが少なくなり、密室状態に近くなる。他の乗客が走行中の車内から外に逃げることも、高速道路を使って警察がパトカーで追いつくことも不可能だ。凶行を計画している者にとって、これだけの条件が揃っている場所は他を見渡してもそうそうあるものではない。「のぞみ」のこの区間が選ばれるのは当たり前すぎるほど当たり前なのだ。

 「当列車は、ただいま、三河安城駅を定刻通り通過致しました。あと10分ほどで名古屋に到着致します」。下りの「のぞみ」車内では、三河安城駅通過時にこのような車内アナウンスが流される。1時間20分の時間を利用して車内で眠りこけている人が多いことがこのアナウンスからうかがえる。空いた時間でちょっとした仕事や勉強をしたり、不足気味の睡眠を補うには好都合だが、昨年の年末に起きた上り新幹線「のぞみ」の台車亀裂事故では、完全な破断まであと3センチというところまで大きな亀裂が台車枠に入っていたことが後になってから判明した。名古屋で車両の異常に気付いて列車の運行を打ち切っていなければ、新横浜まで1時間20分。走りっぱなしの区間のどこかで台車枠は完全破断し、前代未聞の大事故につながっていたかもしれないのだ。こうなると、1時間20分もの長期間の空白時間帯が、列車運行や乗客の安全を守る上で本当によいことなのか考えなければならない時期に来ているといえよう。

 そこで、当面、今すぐにできる対応策として、犯罪の温床となりやすく、また車両の異常が起きても対処を困難にさせる1時間20分もの長時間の走りっぱなしを解消するために、途中に停車駅を増やしてはどうだろうか。列車がいったん止まり、ドアが開いて乗り降りのために乗客に動きができるだけでも、凶行を計画している者にとって心理的ハードルはかなり高くなるからだ。車両に異常が起きた場合に対処が容易になるメリットもある。

 新たな停車駅としては、断然、静岡がふさわしい。名古屋~新横浜のほぼ中間地点にあり、また政令指定都市、県庁所在地でもあるからだ。現在、日本国内に政令指定都市は20あり、そのうち東海道・山陽新幹線の駅があるのは横浜、静岡、浜松、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、広島、北九州(駅名は小倉)、福岡(駅名は博多)の11市。このうち「のぞみ」が停車しないのは、静岡県内の2駅(静岡、浜松)だけだ。この両市は、市町村合併によって後から政令指定都市に加わったという事情があるにせよ、福岡県内の2市(福岡、北九州)の両方に「のぞみ」全列車が停車しているのと比べると、明らかにバランスを欠く。もし今、政令指定都市の中で静岡、浜松にだけ「のぞみ」が停車しない理由は何か、と尋ねられても、JR東海はおそらく「開業当時からそうだったから」以外の回答を持ち合わせていないのではないだろうか(もっとも、福岡県内両市の「のぞみ」全列車停車駅としての地位は当分、安泰と思われる。博多駅は九州新幹線開業まで長く新幹線の終点駅だったという事情があり、また北九州市の政令指定都市指定は1963年で、地方自治法改正(1956年)によって政令指定都市制度ができた当初からの「指定5市」(横浜、名古屋、京都、大阪、神戸)を除けば最も古い政令指定都市として、停車駅から除外するのが容易でないというのがその理由である)。

 このような提案をすると、「1964年の開業当初から半世紀、新横浜~名古屋間を走りっぱなしで何の問題もなかったではないか」との反論が返ってきそうだ。だがこの間、まったく問題がなかったわけではなく、1964年10月1日の開業初日、早くも車内で急性盲腸炎の患者が発生し、「ひかり」が静岡に臨時停車、救急車で搬送されたというエピソードもある。当時は「車内からでも救急通報ができる新幹線のハイテクノロジー」として肯定的に報じられたが、急患本人にしてみればとんでもない話だ。開業初日からこのようなアクシデントが発生したこと自体、「1時間20分もの無停車走りっぱなし」に根本的な無理があったことを物語っている。「静岡が政令指定都市に昇格するなど、新幹線を取り巻く外部環境の変化」など適当な理由でかまわないので、このあたりで停車駅を増やしてはどうだろうか。

●死体遺棄場所としてのJR~進む先は80年代のNY地下鉄か

 私にとって、最大の衝撃を受けた事件がもうひとつある。これもつい最近だが、新潟県で7歳の女児が殺害され、遺体がJR越後線の線路に棄てられた事件である。7歳女児の命が残酷に奪われたことはもちろんだが、それよりも死体遺棄場所としてJRの線路が選ばれたという事実に対して私は大きな衝撃を受けた。これは、遺棄した者が、他の場所と比べてJRの線路上に遺体を棄てるほうが発見が遅れ、逃走しようとする自分自身にとって有利になる、と考えていたことを示すものだからである。軌道自転車などの手段で、保線担当の職員が日常的に線路上を巡回していた国鉄時代では考えられなかった話だ。国鉄時代なら、たとえ殺害という結果は変わらなかったとしても、警察より先に保線担当の国鉄職員によって発見され、遺体はもっと早く家族の元に帰ることができたであろう。

 鉄道駅は大勢の人が集まる場所だけに、その時代時代を象徴する事件事故の舞台になってきた。新宿駅が学生に占拠された新宿騒乱事件や、相次ぐ労働組合のストに怒った乗客による上尾駅での暴動、国鉄分割民営化反対運動の中で起きた通信ケーブル切断など、昔の事件は(もちろんそれ自体はあってはならない犯罪行為であり肯定はしないが)エネルギーにあふれており、誰が誰に何のメッセージを発したいのか明確なものが多かったように思う。ところが最近の事件からは昔のようなエネルギーも希望も、メッセージ性も感じない。代わりに感じるのは陰惨さと絶望だ。

 自暴自棄になった人が、社会に対する怨念を爆発させるための最後の場所としてJRを選ぶ――ここ数年でこうした傾向がはっきりと出てきた。1980年代、米ニューヨークの地下鉄では、落書きされ、破壊された列車が修繕もされず薄暗いまま走行し、ありとあらゆる犯罪が横行。世界一危険な公共空間といわれた。今でこそニューヨークの地下鉄はよみがえったが、女児殺害や焼身自殺、刃物殺人を意図する者たちが次々とJRに吸い寄せられていく現状を見ていると、いずれJRが当時のニューヨーク地下鉄のような状況になるのではないかという暗い予感が最近、私の脳裏から離れない。

●線路があるのに列車が来ない

 JRの荒廃ぶりを象徴する路線がもうひとつある。北海道のJR日高本線だ。2015年1月に発生した「高波災害」でこの路線の鵡川(むかわ)~様似までの区間がもう3年半近くも運休になっている。驚くことに、途中の日高門別までは線路がまったく被災しておらず、列車を走らせようと思えば明日といわず今日にでも運転を再開できる状況にある。ところがJR北海道は、復旧経費が出せないなどと言い訳を並べた挙げ句、運行再開にすら応じようとせず、地元に廃止~バス転換を提案している。

 事故にも災害にも遭っておらず完全な状態、しかも法的に廃止・休止いずれの手続も取られていない線路の上で、JRの「資金不足」のため勝手に列車が運行されなくなってしまう。戦時中、軍事的に重要でない地方路線が「不要不急路線」として一時的に列車の運行を中止させられた例はあった。しかしこのときですらほとんどの路線では鉄道省によって休止の手続がきちんと行われていた。今、JR北海道で起きていることは、戦時中でさえなかったような異常事態なのである。玉音放送を聞きながら、多くの国民がうちひしがれた敗戦の日にも、休むことなく列車を動かし、そのことを誇りに思っていたあの鉄道員魂はどこに消えてしまったのか。 

●弱体化で人もカネもない

 いつまで経っても解消しない首都圏の超満員列車と、何の手も打たれないまま「安楽死」に仕向けられているとしか思えない地方の在来線。極限までの人減らしで駅にも列車にも線路にも巡視の目が行き届かなくなった結果、JR最大の看板だったはずの新幹線までが犯罪の巣窟化し始めた。関西では、カーブ上にホームがある片町線・鴫野(しぎの)駅でホーム要員の配置がなくなり、ただでさえ多い転落事故がいっそう増えるとして、ホーム要員の復活を求める署名活動まで行われているが、JR西日本がホーム要員を復活させる気配は見られない。

 私たちはJR発足直後から、事あるごとに現場に人を増やせ、安全投資にこそ資金を回せと何度も繰り返し要求してきた。しかし最近はもう何を求めても「人がいない」「カネがない」で終わってしまう。空前の利益を上げている本州3社、株式上場で意気上がるJR九州こそ表向き大成功しているように見えるが、一皮むけばその実態はお寒い限りだ。合理化のやり過ぎで弱体化してしまったJRは新しい営業政策や安全対策を打ち出そうにもそのエネルギー自体まったく失われている。私がJRを「生命力が尽きた」と評するのにはこうした理由もある。例えは悪いが、ダイエットをやり過ぎて栄養失調で倒れた人が、担ぎ込まれた病院のベッドの上で、身長と体重の比率を示すBMI値だけを見て「痩せた! ダイエット成功!」と喜んでいるのに近い。JR北海道に至っては、人間に例えるならもう末期状態だろう。

●鉄道40年寿命説

 「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり」。鉄道唱歌の歌詞が示す通り、新橋~横浜間に日本初の鉄道が開業してから今年で146年。もうすぐ150年の節目がやってくる。この150年間の日本の鉄道を歴史面から見ていくと、面白いことに気付く。

 1872年、日本の鉄道は民間事業として始まった。その輸送力の大きさに目をつけた篤志家が私財をなげうち、あるいは投資を募って線路を敷き、列車を走らせた。東海道から始まった鉄道会社はあちこちで作られ、路線網は拡大していったが、各地で過当競争が起きる一方、鉄道会社同士の境界駅では荷物が何日も運ばれずに放置される事態となった。これに危機感を抱いた軍部、特に陸軍の主導で鉄道国有法が成立したのが1906年。これ以降、大部分の鉄道会社は国に買収されて官営鉄道に再編される。

 この体制のまま戦争に突入した日本で、次に大きな鉄道の組織改革がやってきたのは敗戦直後だ。鉄道が軍主導の体制で戦争に突入した反省から、GHQ(連合国軍総司令部)は民主化政策の一環として、国が鉄道の経営方針に介入できないよう、官営鉄道の経営を政府から切り離すよう指示する。だが日本政府が目指した民営化は頓挫し、やむなくGHQの提案によって米国式公共企業体制度を導入する。1949年、こうして日本国有鉄道は誕生した。そして、まだ記憶に新しい国鉄分割民営化が行われたのは1987年のことだ。

 民間事業としての鉄道開業から国有化までが34年、官営鉄道から公共企業体への改革までが43年、国鉄時代が38年。平均すると38.3年だ。日本の鉄道はほぼ決まった周期で大きな組織再編の波に洗われてきた。鉄道を取り巻く社会情勢の変化に、既存の鉄道会社組織が耐えられなくなるのがだいたいこれくらいなのだろう。私はこれを「鉄道40年周期説」または「鉄道40年寿命説」と名付けたいと思う。

 JRは何年経ったのだろう。1987年から数えてみると、……今年で31年、早いものだ。私の提唱した40年周期説が正しいとするなら、もうすぐ寿命も尽きる。JRを舞台とした最近のおかしな事件事故の続発が死滅の予兆かもしれないと冒頭で書いた私の感覚は正しかったのだ。

●寿命尽きたJR、そろそろ「次」へ

 「日本の鉄道の歴史を見ると、だいたい30~40年で大きく組織の姿は変わっている。一番長く保った官営鉄道でさえ43年。全国レベルの鉄道を運行する企業の組織でこれ以上長く維持できた例はこれまでにありません。JRだけがこれより長く、50年も60年も保つと考えるのは楽観的すぎます。鉄道行政の所管官庁として、そろそろJRの次を構想することもあなた方の新しい仕事に加えたらどうでしょうか」。

 年末の慌ただしさも増していた昨年12月中旬、私は国交省鉄道局の若手官僚と向き合っていた。JR北海道のローカル線維持のために国費を投入するよう、要請書を提出した際のことだ。「今ある制度を手直ししながら、維持していくのが私たちの仕事ですから」。将来を約束された若きエリート官僚は、将来、国会で答弁する立場になることを見越した予行演習のような、そつのない回答で私の質問をかわした。JRが弱体化する自分自身を上手くコントロールしながらどこかに軟着陸できるようには、私にはとても思えない。だが、官僚の役割は制度を維持することで改革や変革は自分の仕事ではないとする彼の回答は「官僚としては」正しい。これ以上この点を追及するなら相手は政治家にすべきであり、私は矛を収めた。

 2年後の東京五輪までは、青息吐息になりながらもJRはなんとか現状の7社体制を維持するだろう。だがその先は予断を許さないと私は見ている。線路に棄てられた幼い遺体を発見することもできず、被災していない普通の線路に列車を走らせることすら予告なく勝手にやめてしまう「弱体JR」が、押し寄せる内外の乗客を前に、果たして東京五輪を無事に乗り切れるだろうか。諸外国が日本の鉄道に対して漠然と抱いていた信頼を根底から壊すような出来事が、おそらく五輪期間中かその前後に起きると私は思う。そのことをきっかけに、一気にJRグループは再編に向かうだろう。

 JR再編が避けられないとして、それはどの方向になるのだろうか。今はまだはっきりと予測することはできない。だが歴史を丹念に検証すると、おぼろげな輪郭は見えてくる。

 民営事業として始まった鉄道が国有化に向かったきっかけは、儲かる区間での鉄道会社間の不毛な過当競争と、鉄道会社の境界駅における貨物の放置だった。当時の政治家の中にも、鉄道は経営規模が大きくなるほど有利になることを理解する者がいて、全国を1企業に再編する方向に議論が収斂していった。戦後、官営鉄道が公共企業体に変わった際には、鉄道が政治によって翻弄される事態に終止符を打ちたいというGHQサイドの強い意思があった。

 38年間続いた公共企業体の国鉄が命脈を失ったのは、企業会計原則の導入で独立採算制を要求されながら、一方では運賃を認可制から法定制に改める国有鉄道運賃法の制定によって、経営自主権を奪われたことが原因と見ていい。運賃を自分で決める権利を奪っておきながら「国費は出さない、赤字も許さない、黒字になれ」などという制度でまともな経営が成り立つほうがおかしい。このシステムの下でローカル線廃止問題が起きたのも当然で、黒字にするには他に方法がなかったからだ。この問題を解決するためだというのが分割民営化推進派の主張だった。少なくとも法定制でなくなれば運賃値上げのハードルは下がる。値上げとローカル線整理を上手く組み合わせ、これ以上納税者に迷惑はかけるな、というのが分割民営化の狙いだった。

 だが問題は何も解決しなかった。鉄道の車内や線路で焼身自殺や殺人、死体遺棄が行われても人員削減でなすすべもなく、ローカル線では理由もなく勝手に列車が来なくなる。国鉄時代、牛や馬、豚などの家畜を生きたまま輸送する「家畜運搬車」という種類の貨車があったが、首都圏で朝のラッシュ時間帯を走る列車はもう何十年も昔から「社畜運搬車」状態だ。国鉄が独立採算制の導入で作り出した問題はJRでさらに拡大し、そのまま私たちの前に放り出された。その歴史の上に今の惨劇がある。

 民間鉄道事業者の乱立による輸送効率の悪さを解決するために全国一律の国有化が行われ、政治に鉄道が翻弄される誤りを正すために公共企業体への再編が行われた。目の前の問題に無力な組織を、解決能力を持つ別の存在へ改めることを目的に、過去の鉄道の再編は行われてきた。だとすれば、JRの「次」に何が来るかのおおまかな予測はできる。弱体化した鉄道事業の再建、そして儲かりすぎの会社と瀕死の会社にくっきり二極化した地域分割の弊害を改めることこそ次の組織再編の最大目標になるに違いない。

 それがどのような形態に移行するかの予測は今は控えておこう。だがこれだけははっきり言っておきたいと思う。「10年後のJRが、今と同じ形をしていることだけは絶対にない」と。

(黒鉄好・2018年6月13日)

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【金曜恒例】反原発北海道庁前行動(通算293回目)でのスピーチ/新潟県知事選を迎えるに当たって

2018-06-08 20:49:32 | 原発問題/一般
レイバーネット日本の報告はこちら→新潟県「脱原発知事」の椅子を守ろう!/北海道の反原発金曜行動レポート

通算293回目となった今日の北海道庁前は、5月18日に引き続き、雨の降るなかでの行動となった。当ブログ管理人が行ったスピーチを紹介する。

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 みなさんこんにちは。

 今日は、投票日があさってに迫った新潟県知事選についてお話しします。北海道庁前で、遠い新潟の話をしても仕方ないと思われる方も、あるいはいらっしゃるかもしれませんが、私はそうは思いません。

 この選挙は、原発という国政レベルのことが争点になっている大変珍しい地方選挙です。その意味では沖縄とよく似ています。オール野党が一致結束して自公に対抗しようとしている点も沖縄と同じです。脱原発知事の椅子を守るために闘っている国政野党にとって、米山知事がプライベートな問題で辞任した後の選挙だけにゼロどころかマイナスからのスタートですが、野党統一候補である池田千賀子さんはよく頑張っています。原発地元、柏崎市選出の新潟県議を辞職して、まさに背水の陣の選挙だけに、なんとしても勝ち、脱原発知事の椅子を守り抜かなければなりません。

 今度の選挙では、画期的な出来事がひとつあります。米山知事が誕生した2年前の選挙では自公政権の与党に相乗りした連合新潟が、今回は池田千賀子さんを推薦しています。連合から共産党まで、自公以外のすべての勢力がひとつになったのです。

 前回、連合新潟がオール野党に協力せず、自公政権の与党系候補に相乗りしたのは、原発が廃止になることで仕事がなくなり、経済が悪化することを電力総連などの労働組合が恐れたからだといわれています。そこで、今の通常国会に立憲民主党が提出している「原発廃止・エネルギー転換を実現するための改革基本法案」には、原発廃止後の立地自治体に対する支援策を国に義務づける内容が盛り込まれました。法案にはこのようにあります――『国は、原発廃止・エネルギー転換を実現するための改革を推進するに当たっては、原子力発電所等の周辺の地域の経済に及ぼす影響に十分に配慮しなければならない』『原子炉等を廃止し、又は使用済燃料の再処理の事業を廃止しようとする者に対し、必要な支援を行うものとすること』『新たな産業の創出、電気事業者の事業の継続等により、原子力発電所等の周辺の地域の経済の振興及び雇用の確保を図るものとすること』。

 立憲民主党は、全国各地で市民との対話集会を開催し、市民と議論する中からこの法案を作り上げ、提出しました。連合新潟はこの内容を見て、原発を廃止しても雇用と地域経済が守られるなら、自分たちが反対する理由がないとして、今回、脱原発をよりはっきりと打ち出す池田さんを推薦することに決めたのです。政府の政策にただ反対を叫ぶだけでなく、脱原発を実現する上で障害となっているものは何か、その障害を取り除くために何が必要かを市民がきちんと議論するなら、その障害を取り除くことができる。新潟県には、住民投票で原発を拒否した巻町の例もあります。これこそまさに市民が作る民主主義であり、こうした民主主義こそが原発のない新しい時代を創るのです。

 『福島で事故が起きても日本が原発政策を変えられないのには理由がある。“拒否権を発動できる者”がいるからだ』。こう指摘するのは、米国の政治学者リチャード・サミュエルズさんと、南カリフォルニア大のジャック・ハイマンズさんです。原発から利益を受けるたった数百人の関係者が『拒否権』を発動すれば、たとえ10万人の市民が脱原発に賛成しても決められない。これが知日派米国人による日本社会分析なのです。福島でさえ、脱原発を主張すれば後ろから矢が飛んでくるという悲しい現実があります。

 こうした状況を解決するには、彼らが拒否権を発動できないようにするしかありません。立地自治体のために新産業創出支援を行い、雇用の確保を約束することは、この拒否権を発動させないために必要な政治的、経済的コストとして割り切る以外にありません。

 この狭い日本列島に、福島第1を含めて原発が54基あります。このうち福井に14基、福島に10基、新潟に6基です。54基のうち30基がこの3県に集中しています。日本が脱原発を実現できるかどうかは、事実上この3県にかかっているといえるでしょう。福島の原発はもう動かせません。そうなると、福井と新潟こそが最も重要な闘いなのです。

 私は6年前、新潟県十日町市の信濃川沿岸地域を訪れたことがあります。ちょうど、JR東日本による信濃川からの不正取水事件が起き、川は干からびてドブのような臭いがするという惨憺たる状況でした。流量計を改ざんしてまで不正取水していたJR東日本が糾弾され、謝罪と賠償を行って川への流水量を毎秒7トンから60トンにまで戻した結果、信濃川はようやく川らしくなり、今ではラフティングもできるようになったとのことです。しかしまだ魚は戻っていないと聞きました。痛めつけられた自然が元に戻るには長い時間がかかります。せっかく水が戻り、魚を取り戻そうと歩み始めた信濃川が、今度は放射能で汚され再起不能になる――そんな事態は絶対に避けなければなりません。

 新潟に知り合いがいる皆さんにお願いです。ひとりでも多く電話をかけ、池田さんへの投票依頼をしましょう。私も、たった2人だけですがしました。夜8時以降や投票当日の選挙運動は禁止ですので、知り合いがいる人はぜひ、明日(土曜日)の昼にかけてください。1票でも2票でも池田さんの票を増やし、新潟の大自然と美味しいお米、そして何よりも地域の未来を守りましょう。

 今日は以上で終わります。ありがとうございました。

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【福島原発事故刑事裁判第14回公判】あいまいなものは理解できない? 被告弁護士=東大法学部卒の「天才」の態度は、地震学者の懸命な努力を侮辱するものだ

2018-06-03 12:52:55 | 原発問題/福島原発事故刑事訴訟
第14回傍聴記~100%確実でなくとも価値はある

 6月1日の第14回公判は、前々日に続き都司嘉宣・元東大准教授が証人だった。反対尋問を担当した岸秀光弁護士は、歴史地震研究の「不確かさ」を際立たせようとした。それに対して都司氏は、100%確実ではない、ぼんやりした部分も残る古文書から、地震についての情報を引き出していく学問の進め方を説明。「1611年、1677年、1896年の3回、三陸沖から房総沖にかけての日本海溝沿いに津波地震が起きた」と長期評価が判断した理由を、前回に引き続いて補強していった(注1)。

◯悩ましかった「宮古の僧が聞いた音」

 都司氏は、1611年の大津波の原因を「現在は津波地震だと考えている」と証言したが、正断層地震や海底地すべりが引き起こしたと考えた時期もあったと述べた。どれが原因なのか、都司氏を悩ませたのは、『宮古由来記』に書かれた常安寺(岩手県宮古市)の僧の行動だったらしい。

 1611年10月28日午後2時ごろ、常安寺の和尚は、法事のため寺から約1キロ離れた家にいたが、海の沖の方から鳴動音が4、5度聞こえ、異常を感じてあわてて寺に引き返した。ここで大津波に襲われ、過去帳を取り出すまもなく高所に逃げてようやく助かった(注2)。この時の津波で宮古の中心市街はほとんど壊滅した。『宮古由来記』によると、宮古では民家1100戸のうち残ったもの6軒、水死110人とされている。

 「音がしたというのは、正断層型の昭和三陸地震(1933)の時にも報告されていて、太平洋プレートが日本海溝付近でポキンと折れて生ずる正断層型地震の特徴」と証言した。

 一方で、1611年が本当に正断層型の地震であれば、揺れによる被害も古文書に残されているはずだ。「ところが、陸上の被害に注目しながら、もう一回、多くの文献を読み直して見たが、陸上での被害が全くない」。これは津波地震の特徴である。

 1998年にパプアニューギニアで海底地すべりが大津波を引き起こし、このときも「海で大きな音がした」という証言があったことから、地すべり説も考えたが(注3)、そうすると津波が明治三陸津波より広範囲を襲ったことと矛盾する。

そこで、津波地震がもっとも可能性が高いとの結論が導かれたという。

 「いろんなデータがはいってくるごとに自然科学の研究者は考えを改めることはある。変化しなきゃおかしい」とも述べた。

◯「精度が悪い=情報ゼロ」ではない

 機械でしか観測できないような小さな地震まで含めると津波地震が福島沖を含む日本海溝沿いにずらりと並んでいることを示した渡邊偉夫氏の論文(2003、注4)についても、岸氏は都司氏に質問した。



 岸「地震の起きている場所が、日本海溝より陸地に寄っているように見える」

 都司「まだ全国に地震計が数台しかなかった明治時代の地震観測記録も含まれており、位置の精度が悪いものも入っている」

 岸「なぜ精度が悪い論文を(法廷に)出してきたのですか」

 この岸氏の質問に、都司氏は猛然と食ってかかった。

 「まったく情報ゼロというわけではない」

 「ぼんやりではあるが、一定の情報が引き出せる」

 「あいまいさが含まれていれば全部消しちゃえ、とはやらない」

 その迫力に負けて、岸弁護士は話題を切り替えたように見えた。

 理想的な観測機器が使えず、精度が高い記録が得られない状況でも、その限られた手段を用いてしぶとく自然の姿の手がかりを捕まえようとするのが、最先端の科学者の「営み」だ。正解の固まった学校理科を習ってきた岸弁護士(法学部出身)には、そんな科学者の生態を理解するのは難しかったのかもしれない。

注1)都司嘉宣「歴史上に発生した津波地震」月刊地球 1994年2月

注2)都司嘉宣「慶長16年(1611)三陸沖地震津波の発生メカニズムの考察」歴史地震 第28号(2013)

注3)都司嘉宣「慶長16年(1611)三陸津波の特異性」月刊地球 2003年5月

注4)渡邊偉夫「日本近海における津波地震および逆津波地震の分布(序)」歴史地震 第19号

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【福島原発事故刑事裁判第13回公判】バカにできない「古文書」のチカラ~これぞまさに温故知新?

2018-06-03 12:32:45 | 原発問題/福島原発事故刑事訴訟
第13回公判傍聴記~「歴史地震」のチカラ

 5月30日の第13回公判の証人は、元東京大学地震研究所准教授の都司嘉宣(つじ・よしのぶ)氏だった。都司氏は古文書の記述を読み解いて昔の地震の姿を解き明かす「歴史地震」分野における数少ない専門家の一人だ。「三陸沖北部から房総沖までの日本海溝寄りのどこでも津波地震は起こる」という長期評価(2002)をまとめた地震本部の海溝型分科会にも加わっていた。

 検察官役の久保内浩嗣弁護士の質問に都司氏が答える形で、都司氏の原著論文までたどり、長期評価がまとめられた過程で歴史地震研究がどんな役割を果たしたか明らかにしていった。

◯近代地震学でわかるのは過去130年分ほど

 地震計を使った近代的な地震観測が始まってから、まだ130年ほどしか経っていない。それより古い時代に起きた地震の姿を知るには、古文書や石碑に残された揺れや津波の記録が不可欠になる。

 古文書の記述から、揺れの様子、どこまで津波は到達したのか、被害はどのくらいだったのかを読み解き、地震学の科学的な知識と照らし合わせて、地震の姿を解明するのが歴史地震学だ。都司氏は自ら毛筆体の文書を読み、日本史の研究者とも協力して文書の記述内容を精査すると同時に、津波の数値計算などの専門知識も生かして、古い時代の津波の姿を復元してきた。それによって浮かび上がる地震の法則性を、防災に生かすことができるというのだ。

 都司氏の証言によれば、東北地方で地震の記録が豊富に残っているのは約400年前からのことだ。江戸幕府の支配で戦乱が起こらなくなり古文書が逸失しなくなったことや、寺子屋教育のおかげで字を書く人が増えたことが要因という。

 長期評価をとりまとめた海溝型分科会の専門家たちの間でも、当初は歴史地震の知識は限られている人が多かったと都司氏と述べた。都司氏が、過去の地震について最新の研究成果を他の海溝分科会メンバーに提起。議論を重ねるうちに意見は収束し、1611年(慶長三陸沖)、1677年(延宝房総沖)、1896年(明治三陸)の3つの地震が津波地震であるという結論が、最終的に承認されたと証言した。

◯古文書が東海第二を救った

 「1677年の地震は、津波地震であることがはっきりしている。津波が仙台の近くから八丈島まで到達した記録があるので、陸地に近いところで起きたという考え方では説明できない」

 こう証言した都司氏は、今村文彦・東北大学教授らと共同で1677年の延宝房総沖地震について論文(注)を発表しており、それも法廷で紹介された。まず古文書から福島県〜千葉県沿岸の村における津波による建物被害の記述を選び出す。それと当時の建物棟数と比べて被害率をはじき出す。建物被害率50%以上の場合、浸水深さ2m以上と算定し、村の標高も勘案して各地に到来した津波の高さを求めた(表)。



 その結果、浸水高さは千葉県沿岸で3〜8m、茨城県沿岸で4.5〜6m、福島県沿岸で3.5mから7mなどと推定され、1677年延宝房総沖地震は、従来考えられていたより高い津波をもたらしていたことがわかった。

 調査の成果を生かして、茨城県は2007年に津波想定を見直した。それによると、日本原電東海第二原発(茨城県東海村)では、予想される津波高さが5.72 mとなり、日本原電が土木学会手法(2002)で想定していた4.86mを上回った。

 日本原電は海辺の側壁を1.2mかさあげする工事を始め、工事が終了したのは東日本大震災のわずか2日前だった。襲来した津波は、かさ上げ前の側壁高さを40センチ上回っており、工事が終わっていなければ非常用発電機が動かなくなるところだった。

 歴史地震の研究成果が、東海第二を救ったと言える。一方、歴史地震の成果をとりこんだ長期評価を東電は軽視し、大事故を引き起こしたのだ。

注)竹内仁ら「延宝房総沖地震津波の千葉県沿岸〜福島県沿岸での痕跡高調査」歴史地震 2007年

第13回公判法廷画(吉田千亜さん)

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【福島原発事故刑事裁判第12回公判】「いろんな意見があるからわからない」では現在進行形の問題には一切対策は取れないということになりますが? そういうのを「無責任」っていうんですよ!

2018-06-03 11:47:04 | 原発問題/福島原発事故刑事訴訟
福島原発事故をめぐって強制起訴された東京電力旧3役員の刑事訴訟。5月9日に行われた第11回公判以降、2週間の休みを挟んで、5月29日に第12回、翌30日に第13回、そして1日置いて6月1日には第14回公判が相次いで行われた。これらの公判の模様を伝える傍聴記についても、福島原発告訴団の了解を得たので、掲載する。執筆者はこれまでに引き続き、科学ジャーナリスト添田孝史さん。第15回公判は6月12日(火)、第16回公判は6月13日(水)、そして第17回公判は6月15日(金)に行われる。

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第12回公判傍聴記~「よくわからない」と「わからない」の違い

 5月29日の第12回公判は、前回に引き続き島崎邦彦・東大名誉教授の証人尋問だった。

 弁護側の岸秀光弁護士の反対尋問で始まった。「三陸沖北部から房総沖の海溝寄りのどこでも、マグニチュード(M)8.2程度の津波地震が起こりうる」という長期評価(2002年)がまとめられた過程について、地震本部の長期評価部会や海溝型分科会の議事録(注1)をもとに、岸弁護士は島崎氏に議論の様子について細かく質問を続けた。特に、1611年の慶長三陸沖(M8.1)、1677年の延宝房総沖(M8.0)を津波地震と判断した根拠が、あいまいであることを示そうとしていた。

 議事録の中にある「三陸沖よりもっと北の千島沖で発生した津波ではないか」「房総沖の津波地震は、もっと陸よりで起きたのではないか」などの専門家の発言を岸弁護士はとらえ、「長期評価に信頼性は無い」という東電幹部らの主張を裏付けようと試みた。しかし、原発が無視してよいほど信頼性の低いものだと示すことは出来なかったように見えた。反対尋問は予想より早く終わった。

◯「活発な議論がある=信頼度は低い」?

 岸弁護士は、専門家たちが活発に議論していた様子から、長期評価は唯一の正解である科学的評価ではないと言いたかったようだ。

 これに対し、島崎氏は、専門家の議論の様子を、「右に行ったり、左に行ったりしながら収束していく過程」と説明した。

 「文字に残すと荒い、雑駁で不用意な発言に見えますけれども、みんなの意見が出やすいようにしている」

 「1611年、1677年、1896年(明治三陸地震)と3回、津波が起きたのは事実。場所については議論が分かれているところもあったが、だからといって長期評価から外してしまっては防災に役立てられない」

 こんなふうに反論した。

◯津波地震とハルマゲドン地震の違い

 「証人自身も、歴史地震(地震計による観測がない1611年や1677年の地震)のことは、よくわからないと思っていたんじゃないですか」

 岸弁護士は、こんな質問も島崎氏に投げかけた。

 島崎氏が会合でこう述べていたからだ。

 「やはり歴史地震の研究が不十分なところがあって、そこまでは未だ研究が進んでいない。現在のことがわかっても昔のことがわからないと比較ができない。今後いろいろな人が興味を持っていただければと思っている」

 島崎氏は岸氏にこう説明した。

 「(歴史地震の研究は)重要なのに、地震学者の間でさえその認識が行き渡っていないことが問題だという意味」

 「『よくわからない』と、『わからない』は違う。震源域(断層がずれ動いた場所)が図にかけるほどわかっているわけではない。しかし全体的に見ていくと、津波地震である」

 本当にわかっていなかったことの例として島崎氏が説明したのは、津波地震とは全く別の、ハルマゲドン地震だ。天変地異を引き起こす超巨大地震のため、こう呼ばれていた。

 東北地方の日本海溝沿いでは、歴史上知られている規模をはるかに超える、陸地を一気に隆起させてしまうようなハルマゲドン地震が発生する可能性があることは1990年代後半から論文で指摘されていた。それは、東日本大震災を引き起こしたM9の地震の手がかりを、おぼろげながらつかんでいたとも言える。長期評価では「しかし、このような地震については、三陸沖から房総沖において過去に実際に発生していたかどうかを含め未解明の部分が多いため、本報告では評価対象としないこととした」というコメントの記載にとどまっていた(注2)。

 一方、島崎氏は、M8クラスの津波地震については地震のイメージを持てていたと述べた。それを超える、理学的に可能性があるが姿が見えないハルマゲドン地震に比べると、津波地震のことはわかっていた。だからこそ、長期評価は津波地震については警告していたわけだ。

◯「異常な動き」を見せた専門家

 この日の最後は、検察官役の久保内浩嗣弁護士からの質問で、大竹政和・東北大学教授(当時)と長期評価の関連について、島崎氏が証言した。大竹氏は、そのころ原子力安全委員会原子炉安全審査会委員や、日本電気協会で原発の耐震設計に関わる部会の委員を務めており、原発と縁の深い地震学者だ。

 大竹氏は、長期評価が発表された直後の2002年8月8日に「1611年の地震は津波地震ではなく、正断層の地震(太平洋プレートが日本海溝付近で折れ曲がることによって生ずる)ではないか、今回の評価はこれまでに比べて信頼度が低い」などとする意見を、地震本部地震調査委員会委員長宛に送っていた(注3)。

 そして、2002年12月から始まった日本海東縁部のプレート境界付近で起きる地震の長期評価の議論に、委員ではない大竹氏がずっと出席したことを「異常なことだと思いました」「地震の評価を巡って大竹氏が突然激昂されたこともあった」と証言。このプレート境界に近く、長期評価の影響を受ける東電柏崎刈羽原発との関連を示唆した。

注1)地震本部長期評価部会海溝型分科会の第7回(2001年10月29日)から第13回(2002年6月18日)までの論点メモ

注2)地震本部「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価について」2002年7月のp.22

注3)島崎邦彦「予測されたにもかかわらず、被害想定から外された巨大津波」科学、2011年10月



第12回公判法廷画(吉田千亜さん)

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