桃花台線廃止問題を取り上げたところ、開設2日目のブログにトラックバックが2件もついた。ありがたいことであり感謝している。
さて、トラックバックに勢いづいてというわけではないが、この桃花台線、さらに鉄道の採算性と公共性との兼ね合いについて考えたことを書いてみる。
そもそも日本の鉄道は民営で始まったが、1906(明治39)年に公布・施行された「鉄道国有法」によって、基幹路線の大部分が国有化された。この国有化当時の鉄道の担当は逓信省帝国鉄道庁。さらに組織自体は鉄道院、鉄道省、運輸通信省、運輸省(鉄道総局)、そして日本国有鉄道(国鉄)と変わったものの、1987年に国鉄がJRに変わるまで一貫して国家管理下にあった。
エンゲルスは「空想より科学へ」の中で、資本の集積による大企業の国有化はまず鉄道、郵便、通信などの分野で最初に現れると述べ、その理由としてこれらの事業が株式会社による管理には全く不向きであるからだと指摘した。
いうまでもなくエンゲルスは社会主義者だが、日本で鉄道国有化を主導したのは軍部とりわけ陸軍であり、また同じように鉄道国有化を進めたドイツでも、その推進者はビスマルクだった。ビスマルクといえば、社会主義者鎮圧法を制定したことでも知られる保守政治家であり、このことからも、鉄道、郵便、通信といった事業の国有化に思想やイデオロギーはそれほど関係がないことがうかがえる。
クリスチャン・ウルマーもまた「折れたレール~イギリス国鉄民営化の失敗」の中で重要な点を指摘している。ウルマーは、鉄道はシステムに依存して売り上げを確保する産業であり、それゆえにより良いサービス、より多くのサービス、より質の高いサービスを提供しようとするなら必然的に新たな投資を伴うという事実を明らかにする。
これだけではわかりづらいのでもう少し詳しく説明しよう。それには他産業との比較で見るとわかりやすいが、例えば自動車産業であれば工場の生産設備それ自体は何の利益も生まない。その生産設備を通じて自動車という「商品」が生産され、それが売れたときに初めて利益が生まれる。工場の生産設備に一応、減価償却という概念はあるが、その生産能力が続く限り、新たな設備投資を必要とすることなく商品を次々と生み出すことができるから、利益もまた次々と生み出される。こうして、一定の設備投資を行った段階でいわゆる企業としての持続的成長が可能になってくる。
これに対して鉄道は、ウルマーが指摘するように、鉄道というシステムそれ自体を公衆または顧客に利用させ、そこから得た利益で食べなければならないという特殊な構造をしている。つまりシステムそれ自体が「商品」なわけで、このあたりが自動車産業と決定的に異なっている。自動車会社は生産工場それ自体は商品ではないからだ。
しかし、列車1両に乗せることのできる人数は限られているし、プラットホーム1本に停めることのできる編成両数も限られている。もちろん1本の線路の上に走らせることのできる列車本数にも限界があるから、鉄道が、例えば新しくて良質なサービスのために新たな乗客を獲得しても、その新たな乗客の発生ゆえに新たな投資を必要とし、そのために新たな乗客から獲得した利益が根こそぎ吸い取られてしまうことを意味している。無限に新たな乗客を獲得しても、無限に新規投資が必要であれば、結局全ての利益は消え、鉄道事業者には何も残らない。
昔、どこかの鉄道会社に「金を失う道と書いて鉄道と読む」と言った人がいたが、なかなか言い得て妙であり、いみじくも鉄道というシステムの特殊性を良く表した名言なのではないだろうか。
鉄道が、システムそのものに対して対価が払われる事業である以上、そこからは利益と両立した経営など望むべくもない。そして、納税者である我々国民もこのことをしっかり認識する必要がある。鉄道とは「赤字が出ても腹を決め、公的資金を流し込んででも維持する」か「建設そのものをあきらめる」かの二者択一しかあり得ない産業なのだ。
通信、郵便も、インフラそれ自体が直接使用対価の対象になる産業であるという点で鉄道と同じ構造をしている。だからエンゲルスが鉄道・郵便・通信を特別扱いし、他の産業とは別に資本集積→設備投資→資本集積のスパイラルの中から自然独占に至る過程を描き出したことにはそれなりの意味があったわけである。
さて、そもそも鉄道がイコール金を失う道であることをおわかりいただいたところで(笑)桃花台線問題に戻ってみるが、やはり廃止やむなしの結論に変わりはない。
愛知県は、桃花台線のあり方に関する提言の中で、桃花台線の利用客を1日3500人としている。この1日3500人という数字は、旧国鉄の赤字ローカル線廃止の根拠となった「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法施行令」の基準である「1日1キロあたり4000人未満」に該当し、かつ路線バス等によって代替交通手段の確保も可能だからである。やはり造ったこと自体が間違いだったと厳しい評価を下さなければならない数字であるといえるだろう。
今後の鉄道のあり方を議論するに当たっては、鉄道がそもそも上記のような性格を持った特殊な産業であるということを念頭に置く必要がある。その上で、どの程度の赤字までだったら公金投入を認めるかについて一度、全国民的な議論をしてコンセンサスを形成しておくことが必要であると言えないだろうか。
ただし、その議論をするに当たって注意しなければならないことがある。最近、巨額の財政赤字の中で「民でできることは民で」というスローガンだけが一人歩きし、「市場経済万能」「何でも自由化」で利益を生まないものはそもそもこの世に存在価値がないかのような極端な論理が幅を利かせるようになってきているが、そうした前提で議論をしないでほしいということである。何でも自由競争で、市場にまかせて万事うまくいくようであれば世の中何も悩むことはない。
それでも鉄道は利益を生むべきであり、そうでないならこの世から消えるべきだと考える人がいるならいるで構わないが、私自身はそういう人と議論するつもりはないのでご承知いただきたいと思う。
ふう、大変長くなってしまいました。
最後までお読みいただいた方々に感謝申し上げます。
さて、トラックバックに勢いづいてというわけではないが、この桃花台線、さらに鉄道の採算性と公共性との兼ね合いについて考えたことを書いてみる。
そもそも日本の鉄道は民営で始まったが、1906(明治39)年に公布・施行された「鉄道国有法」によって、基幹路線の大部分が国有化された。この国有化当時の鉄道の担当は逓信省帝国鉄道庁。さらに組織自体は鉄道院、鉄道省、運輸通信省、運輸省(鉄道総局)、そして日本国有鉄道(国鉄)と変わったものの、1987年に国鉄がJRに変わるまで一貫して国家管理下にあった。
エンゲルスは「空想より科学へ」の中で、資本の集積による大企業の国有化はまず鉄道、郵便、通信などの分野で最初に現れると述べ、その理由としてこれらの事業が株式会社による管理には全く不向きであるからだと指摘した。
いうまでもなくエンゲルスは社会主義者だが、日本で鉄道国有化を主導したのは軍部とりわけ陸軍であり、また同じように鉄道国有化を進めたドイツでも、その推進者はビスマルクだった。ビスマルクといえば、社会主義者鎮圧法を制定したことでも知られる保守政治家であり、このことからも、鉄道、郵便、通信といった事業の国有化に思想やイデオロギーはそれほど関係がないことがうかがえる。
クリスチャン・ウルマーもまた「折れたレール~イギリス国鉄民営化の失敗」の中で重要な点を指摘している。ウルマーは、鉄道はシステムに依存して売り上げを確保する産業であり、それゆえにより良いサービス、より多くのサービス、より質の高いサービスを提供しようとするなら必然的に新たな投資を伴うという事実を明らかにする。
これだけではわかりづらいのでもう少し詳しく説明しよう。それには他産業との比較で見るとわかりやすいが、例えば自動車産業であれば工場の生産設備それ自体は何の利益も生まない。その生産設備を通じて自動車という「商品」が生産され、それが売れたときに初めて利益が生まれる。工場の生産設備に一応、減価償却という概念はあるが、その生産能力が続く限り、新たな設備投資を必要とすることなく商品を次々と生み出すことができるから、利益もまた次々と生み出される。こうして、一定の設備投資を行った段階でいわゆる企業としての持続的成長が可能になってくる。
これに対して鉄道は、ウルマーが指摘するように、鉄道というシステムそれ自体を公衆または顧客に利用させ、そこから得た利益で食べなければならないという特殊な構造をしている。つまりシステムそれ自体が「商品」なわけで、このあたりが自動車産業と決定的に異なっている。自動車会社は生産工場それ自体は商品ではないからだ。
しかし、列車1両に乗せることのできる人数は限られているし、プラットホーム1本に停めることのできる編成両数も限られている。もちろん1本の線路の上に走らせることのできる列車本数にも限界があるから、鉄道が、例えば新しくて良質なサービスのために新たな乗客を獲得しても、その新たな乗客の発生ゆえに新たな投資を必要とし、そのために新たな乗客から獲得した利益が根こそぎ吸い取られてしまうことを意味している。無限に新たな乗客を獲得しても、無限に新規投資が必要であれば、結局全ての利益は消え、鉄道事業者には何も残らない。
昔、どこかの鉄道会社に「金を失う道と書いて鉄道と読む」と言った人がいたが、なかなか言い得て妙であり、いみじくも鉄道というシステムの特殊性を良く表した名言なのではないだろうか。
鉄道が、システムそのものに対して対価が払われる事業である以上、そこからは利益と両立した経営など望むべくもない。そして、納税者である我々国民もこのことをしっかり認識する必要がある。鉄道とは「赤字が出ても腹を決め、公的資金を流し込んででも維持する」か「建設そのものをあきらめる」かの二者択一しかあり得ない産業なのだ。
通信、郵便も、インフラそれ自体が直接使用対価の対象になる産業であるという点で鉄道と同じ構造をしている。だからエンゲルスが鉄道・郵便・通信を特別扱いし、他の産業とは別に資本集積→設備投資→資本集積のスパイラルの中から自然独占に至る過程を描き出したことにはそれなりの意味があったわけである。
さて、そもそも鉄道がイコール金を失う道であることをおわかりいただいたところで(笑)桃花台線問題に戻ってみるが、やはり廃止やむなしの結論に変わりはない。
愛知県は、桃花台線のあり方に関する提言の中で、桃花台線の利用客を1日3500人としている。この1日3500人という数字は、旧国鉄の赤字ローカル線廃止の根拠となった「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法施行令」の基準である「1日1キロあたり4000人未満」に該当し、かつ路線バス等によって代替交通手段の確保も可能だからである。やはり造ったこと自体が間違いだったと厳しい評価を下さなければならない数字であるといえるだろう。
今後の鉄道のあり方を議論するに当たっては、鉄道がそもそも上記のような性格を持った特殊な産業であるということを念頭に置く必要がある。その上で、どの程度の赤字までだったら公金投入を認めるかについて一度、全国民的な議論をしてコンセンサスを形成しておくことが必要であると言えないだろうか。
ただし、その議論をするに当たって注意しなければならないことがある。最近、巨額の財政赤字の中で「民でできることは民で」というスローガンだけが一人歩きし、「市場経済万能」「何でも自由化」で利益を生まないものはそもそもこの世に存在価値がないかのような極端な論理が幅を利かせるようになってきているが、そうした前提で議論をしないでほしいということである。何でも自由競争で、市場にまかせて万事うまくいくようであれば世の中何も悩むことはない。
それでも鉄道は利益を生むべきであり、そうでないならこの世から消えるべきだと考える人がいるならいるで構わないが、私自身はそういう人と議論するつもりはないのでご承知いただきたいと思う。
ふう、大変長くなってしまいました。
最後までお読みいただいた方々に感謝申し上げます。