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安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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続・ポスト・コロナの新世界を展望する 変わり始めた世界、変われない日本、そして希望

2020-05-25 22:13:49 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年6月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 新型コロナウィルスの世界的大流行が始まって、3か月以上が経過した。この間のめまぐるしい世界の動きを追い切れなくなり、疲れ果てて「情報収集戦線」から離脱気味の読者諸氏も多いと思うが、それは当然のことである。人間は無限に情報処理能力を上げられるコンピューターではないからだ。こんなときに有効なのは、あえて情報を遮断し、様々な人や組織の検証もされていない言説や細部の動きからは距離を置くこと、地球儀を少し離れた場所から眺めるくらいの俯瞰的な視点で世界を展望しながら、思索にふけることである。

 「家を出て、人に会って、仕事をするという普通の生活の形が壊れてしまった」――筆者の地元紙・北海道新聞(2020年4月21日付)に作家・池澤夏樹さんが寄せた論考である。池澤さんは続ける――「子供の頃、悪いことをすると押し入れに閉じ込められた。今、監禁が刑罰として効果があることを世界中の人々が実感している」。

 日本には禁固刑が今でも存在しているし、世界にも類似の刑罰がある。犯した罪に対する償いとして、一定期間、行動の自由を差し出す禁固や懲役などの刑罰は、法律学の世界では自由刑と呼ばれる。原発事故を起こした日本やCO2の大量排出を長期間にわたって続け、反省のそぶりも見えない世界の100億人類に対し、地球が監禁の刑罰を与えた。今回のコロナウィルス禍をそのように読み解くことも、科学の世界ではともかく哲学や宗教の世界では十分可能だろう。

 ●世界は「禁固刑」に疲れ、自由を渇望

 人間同士を会わせないようにするために、ロックダウン(罰則を伴う強制的な都市封鎖)を続けてきた欧米各国、強制力の伴わない「自粛」要請を続けてきた日本、いずれにおいても人々は長引く「禁固刑」に疲れてきている。「刑」を解き、自由にするよう求める人々の意思は、5月に入って以降、以前のような日常に向かって世界を急速に逆流させ始めたかに見える。この疫病が、感染者の致死率50%という数字とともに世界を震撼させたエボラ出血熱と異なり、震撼するほどのものではないという認識が広がってきたことも「自由への渇望」の背景として見逃すことができない。

 一方、世界的変化への希望が後退するにつれ、本誌前号の記事の冒頭で述べた筆者の「異様な高揚感」は急速にしぼみつつある。「思ったほど世界というのは変わらないものなのだ」「もしこれほどの危機でも世界が変われないとすれば、世界を変えるためにはどれだけ巨大なエネルギーを必要とするのだろう」という思いが急速に強くなっているのである。

 すでに世界で100万人単位の死者数を出しているこの疫病を決して軽視できないことはもちろんだが、実際、前述したエボラ出血熱など破局的な死亡率の疫病に比べると、新型コロナウィルスの感染者に占める死亡率はそれほど高いわけではない。WHO(世界保健機関)が公表している国・地域別の感染者数・死者数データを基に、筆者が感染者数に占める死者数の割合を算出した結果、表の通りとなった。



 ●感染者数、死亡率データから見える「社会のかたち」

 この表から見えてくるのは、欧州諸国だけが15~20%近い死亡率で突出しており、それ以外の国においてはおおむね4~6%の範囲に集中しているということである。国民の20人に1人、学校の1クラスで1~2人が死亡する程度の率ということになる。欧州以外の各国政府にとってはいわゆる社会的マイノリティ(少数派)対策に注入する程度の予算と政治的エネルギーで十分対処できる事態であり、それだけにこれら各国市民は「対策に割く政治的、社会的、経済的リソースがない」という言い訳を自国政府に許してはならないというべきである。

 この結果を額面通りに受け取ることはもちろんできない。衛生状態、人口密度、貧富の格差をはじめとする経済情勢などさまざまな要素を加味しなければならないし、そもそも非民主主義国、情報公開が十分でない国も含まれている。一部の国に関しては、WHOに提出している資料・データが正確かどうか再検討の余地もあろう。

 欧州諸国に関しては、民主主義とともに、検査や治療などの医療体制、医療保険制度などの国民福祉体制にも長い歴史がある。手厚い検査や治療、正確な情報公開が行われているがゆえの高死亡率だとすれば、悪いことだとする評価はむしろ誤りとして排除しなければならない。一方、欧州諸国以外と同じ「低死亡率」グループに属している米国には国民皆保険制度がない。貧困層のほとんどが医療費を払えず、通院もできない現状で多くの貧困層が「コロナによる死亡」とされないまま統計がまとめられている可能性を否定できないと考えられる。ロシアやサウジアラビアに至っては、地域による偏りをなくすためデータを掲載したものの、両国の医療水準やプーチン独裁、絶対王政という政治的非成熟性を考えると、1%に満たない死亡率というデータ自体の信頼性を疑わざるを得ない。

 日本に関しても事情は同じといえる。「37.5度以上の発熱が4日以上継続」という検査の要件を満たすのにPCR検査がほとんど行われず、「接触者・帰国者センター」へのアクセスもできない状況では最も基本的なデータである正確な感染者数すらつかみようがない。実際、新型コロナに感染しながら、検査もされないまま軽症で自然治癒していった人も多いとみられる。政府の打ち出す対策が「アベノマスク」のようにことごとくピント外れなものばかりの状況の中で、この程度の死亡率に抑えられているとすれば、一般市民の高い防疫意識に基づいた自主的で積極的な感染拡大対策(手洗いの励行など)の賜物だろう。

 東日本大震災のときにも見られた現象だが、日本人の「ガバナビリティ」(被統治能力と訳されることが多いが、筆者はあえて「奴隷化能力」という新たな訳語を提起したい)はこのような危機的状況のときに極大化される。政府が頼んでもいないのに、元から地域社会を支配していた相互監視体制と同調圧力が自然強化され、大多数の国民が向かうべきと規定した路線から逸脱した者は徹底的に叩かれる。「元のレールに戻る」よう警告を受け、従わなければ抹殺される。市民社会の論理というより、どちらかといえば「ムラ社会」の論理に近い日本社会のありようが、死亡率を最小限にとどめたというのが筆者の現在の推論である。だが一方で、このありようこそが日本社会を息苦しくさせ、技術革新を停滞させ、社会そのものの変化の芽も摘んでいる元凶にほかならないのである。

 ●リモートワークとエッセンシャル・ワーカー、対照的な風景の中で

 とはいえ、急激に人類を襲ったコロナ禍は、日本社会の本当の危機をまたも浮かび上がらせた。9年前の東日本大震災でも日本社会の危機が浮かび上がったが、見えた風景はまったく異なる。9年前は、巨大地震、津波、相次ぐ原発の爆発により、破局的事態が一気に訪れたものの、そうした事態は東日本という一部地域に限定され、北海道や西日本はほぼ無傷で残った。それに対し、今回は破局的事態ではあるものの、そのピークがいつになるかの予測が難しく、また全世界が一気に危機的状況を迎え、地球上のどこにも逃げる場所がないという意味で、9年前とはまったく様相が異なるのである。

 9年前も、日本での原発事故を見て、脱原発に舵を切る国がいくつか現れた。立法院(国会)で電気事業法を改正し脱原発を方針化した台湾、2022年までの原発からの撤退を決めたドイツ。韓国も文在寅政権発足以降、脱原発の方針を決めている。察しのいい読者諸氏はすでにお気づきかもしれない。韓国、台湾、ドイツ――福島原発事故を受けて直ちに脱原発の方針を決めたこれらの国々こそ、今まさに新型コロナ対策でも最も成功しているグループなのである。

 一方で、9年前と今回の危機には共通点もある。人口が密集する大都市のあり方、エッセンシャル・ワーカー(9年前にはこの言葉は今以上に知られていなかった)の重要性などが再び浮上した点である。このうち前者に関しては、9年前を上回る規模で世界に変革を迫る原動力になりつつある。準備もないまま、人間同士の接触を減らすため、なかば強制的に移行を余儀なくされたテレワークなどのリモートワーク(オンラインでつながりながら離れた場所で仕事をする働き方)が、試行錯誤を経ながらも、事務職など一部職種の人々にとって、すし詰めの通勤電車や無駄な会議の連続といった非効率を排除できるとわかった点は大きい。これらは今後、「禁固刑」が解かれ社会が日常を取り戻したあとも続けるべき改革であろう。全員が事務所に集まって仕事をする形態でなくなると、研修や業務評価といった点をどうするか懸念されているが、全面リモートワークではなく希望者限定、あるいは業務の一部のみリモートワークに移すなどの中間的形態であれば弊害も少ない。ただその場合、単に大都市の通勤電車の混雑率が若干下がる程度にとどまり、リモートワークによる改革が目指した効果のほとんどは失われることになる。大半の労働者が月のほとんどを結局、事務所に出勤しなければならないのであれば、最大の改革になるはずだった企業の地方移転に向けたインセンティブは働かず、東京一極集中が今後も続くことになるからである。感染の危険が下がれば「全員事務所に出勤せよ」となり、リモートワークはまたも壮大な実験のままで終わる危険性がある。日本はこの道を進みそうな悪い予感がしている。

 対照的に、対人サービス業、接客業を中心に、リモートワークなどそもそもしたくてもできない業種も多い。医療、福祉、公共交通、運送・物流、生活必需品を扱う販売店の従業員などである。どんなに感染が怖くても、生活必需品・必需サービスを取り扱っているために閉店も休業もできず、接客も続けざるを得ない人々である。今回、エッセンシャル・ワーカー(直訳すれば「必要不可欠な労働者」)という英語から直輸入された単語とともに、これらの業種の人々に少しだけ光が当たるとともに、彼らに対する差別も行われるなど功罪両面が明るみになった。従来、これらの業種の労働者は、社会的に必要不可欠な仕事をしているにもかかわらず、日本でも世界でも低賃金・長時間重労働に苦しめられてきた。やや極端な表現をすれば、使命感だけが彼ら彼女らを支えており、それをいいことに政府も自治体も消費者も、全員が彼ら彼女らに甘え、「使命感搾取」という状態に置き続けてきたのである。これらエッセンシャル・ワーカーに対して必要なのは、その仕事の重要性に見合う待遇を保障することであり、気休めに過ぎない「頑張れ」横断幕やライトアップなどでは決してない。そのような小手先のごまかし自体が、彼ら彼女らの新たな怒りを引き起こしつつあることに、私たちの社会はもっと敏感でなければならない。

 ●大打撃を受けたサービス業、飲食店はどうなるか

 ロックアウトや外出自粛によって最も打撃を受けたのは、人の移動自体を商売にしている観光、ホテル、交通、飲食店といったサービス業である。このうち観光、ホテル、交通に関しては外出自粛が解かれない限りいかんともしがたいが、若干様相が異なるのが飲食業界である。

 仮にこの新型コロナの感染拡大がなかったとしても、飲食業界は曲がり角にあり、早晩、大幅な改革は避けられない運命にあった。「すき家」などのチェーン店で5年ほど前から顕在化した極端な人手不足、相次ぐ24時間営業の打ち切りなどに見られるように、高度成長期からデフレ時代に築いた経営手法が行き詰まり、壁につき当たっていた。牛丼一杯が300円~500円あれば食べられる吉野家は日本の安売りの象徴といわれ、長く続いたデフレと人余り時代の寵児としてもてはやされた時期もあった。賢明な本誌読者のみなさんには説明不要かもしれないが、労働者を店舗に24時間拘束し続け、賃金も光熱費も24時間、365日分ずっと支払い続けながら顧客に提供される牛丼と、1日8時間だけ労働者を拘束して、その分だけの賃金を支払い、光熱費も8時間分だけ支払いをすればすんでしまう工場で製造され、スーパーやコンビニに並べられる弁当が、ほとんど同じ価格であること自体がそもそもおかしいのである。

 日本の飲食店の異常な安さを指摘する海外からの訪日客の声を幾度となく筆者は耳にした。海外では麺類などの軽食であっても、食べ物を注文すれば2000~3000円程度かかることがほとんどだが、人件費などのコストを考慮すれば海外のほうが適正価格であることは言うまでもない。ただでさえ低賃金、長時間重労働という労働者の犠牲の上に薄氷の上で踊っていた日本の飲食業界は、コロナという未曾有の危機の前に脆くも瓦解した。たとえ今後、外出自粛が解かれ、飲食店に客足が戻り始めるとしても、こうしたばかげた業界構造まで「すべて元通り」でいいわけがない。日本の飲食業界は、コストの適正な価格への転嫁をはじめ、これまでの悪慣行を見直し、ゼロベースであり方そのものを見直すくらいのことをしないと、コロナ後もおそらく生き残れないであろう。

 ●「先見の明」あった先月号予測~あらゆるメディアが「新自由主義の死」を予測

 最後に、新型コロナ禍をきっかけに大きく変わった重要な点がある。多くの有識者・メディア・政治家など、社会の支配層を占める人々によって「新自由主義の死」が公然と語られ始めたことである。

 みずからも新型コロナに感染し、長期の入院を経て生還したボリス・ジョンソン英首相は、NHS(国民皆保険制度)の下で献身的な治療を尽くしてくれた病院スタッフの個人名をひとりひとり挙げた上で、謝意を表明。「確かに社会というものはあるのです」と述べた。かつて新自由主義の時代の幕開けを告げたマーガレット・サッチャー英首相(当時)は「社会など存在しない。あるのは自立した個人だけ」だと言い放ち、自己責任と自助努力による「英国病」克服を訴えたが、同じ保守党出身のジョンソン首相がやんわりとそれを否定してみせたのである。もしかすると後の時代、英国における新自由主義への「死亡宣告」として振り返られることになるかもしれない重要な転換点だろう。

 水道民営化にかねてから反対してきた岸本聡子さん(在オランダNGO「トランスナショナル研究所」研究員)は、ヨーロッパの実例を基にこう警告する。「(水道が民営化された国々・地域では)企業が利潤を獲得するだけ、水道料金は高くなる。料金の支払いができない世帯は、それを禁止する法律がなければ水道を止められる。感染症予防のために手洗いは必須だが、手洗いのできない世帯が先進国でも増えている」。感染症予防と衛生対策のための最も基本的な社会資本である水道が民営化で企業に売られたことが新型コロナ禍の拡大につながっている可能性を示唆する注目すべき指摘である。世界で最も水道民営化が徹底し、先行していたのはフランスだ(なお、首都パリは高い代償を払い、すでに水道を再公有化している)。なるほど、フランスの感染者数に対する死者数の割合は世界一で、感染者の5人に1人が死亡しているのだ!

 疫病は確かに人類共通の敵ではあるが、人々を平等には襲わない。富者よりも貧者、資本家よりも労働者、テレワークのできる恵まれた知識労働者よりも逃げ場のないエッセンシャル・ワーカー、強健な若者よりも病弱な高齢者、指導的立場にいる白人よりも被支配的立場を強いられている有色人種などのマイノリティに集中的に襲いかかる。それゆえ、感染症との戦いは疫学的対処ももちろん必要だが、それ以上に人々の平等と「生活水準の全体的な底上げ」が重要なのである。

 人間は弱い生物であり、自分ひとりで解決できることには限りがあり、それには「社会」と連帯、助け合いを必要とする。新型コロナが明らかにしたのは、そんな当たり前の現実だ。貧困家庭に生まれたこと、不慮の事故に遭い障害を背負ったこと、社会の支配的な人たちと異なる皮膚の色や性別に生まれてきたことが、果たして自己責任だろうか。新自由主義を信奉してきた人々は、今こそ思い知るときだろう。今日は成功を謳歌しているあなたが明日も成功者で居続けられる保障などどこにもないのだ。多くの新自由主義者が自分の誤った考えを捨て、「社会」と連帯、助け合いの輪に加わるなら、世界をよりよい明日へとつなぐことができる。新型コロナがピークを過ぎつつある現在、見えてきたおそらく唯一の、そして最大の「希望」といえる。

(2020年5月24日)

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【悲報】アベノマスクがついに届いてしまいました

2020-05-20 23:47:43 | その他社会・時事
アベノマスクがついに届いてしまいました。腹立たしいので写真を晒しあげておきます。gooブログサービスがこのままずっと続いていれば、私の死後も安倍政権の世紀の愚策として燦然と輝き続けるはずです。

このマスクの配布にかかった経費は466億円、JR北海道が先日公表した2020年3月期決算での赤字額が426億円です。アベノマスクにかかった経費でJR北海道の1年分の赤字を埋めることができます。

正直、当ブログとしては、アベノマスクのようなクソつまらないことに使うカネがあったらJR北海道を救済してほしい、とだけ言っておきます。

なお、北海道では連合札幌が要らないアベノマスクを回収し、必要な人に再配布する事業を始めました。しかし、なぜ政権の失政の尻拭いを労働組合がやらなければならないのか、まったくわかりません。

このまま使われずに埋もれるよりはいいので、明日回収箱に入れに行きます。欲しい人がいるかどうか、というツッコミはなしの方向で。1か月後くらいに「引き取り手がなくて困っている(連合札幌コメント)」なんて記事が北海道新聞紙面を飾らないか心配ではあります。

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不要な「アベノマスク」寄付を 地下鉄さっぽろ駅と大通駅に回収ポスト 連合札幌、18日から(北海道新聞)

 連合札幌は18日、新型コロナウイルス感染防止対策として、政府が全世帯に配布する布マスクについて、不要な人からマスクを回収する「寄付ポスト」を、札幌市営地下鉄のさっぽろ駅と大通駅に設置する。布マスクは子どもや高齢者の施設・団体に配る。

 連合北海道が6月末まで道内各地で行う取り組み。市内では18日午前10時にさっぽろ駅2番出口付近、大通駅8番出口付近にそれぞれポストを設置し、6月末まで募る。

 対象は政府からのマスクのほか、市販の未利用、未開封のマスクとなる。手作りマスクや使用済みマスクは対象外となる。連合札幌は「本当に必要とする人に届けたい」としている。(久保吉史)

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黒川弘務・東京高検検事長の定年延長問題の背景~市民を見下し、管理統制しようとしてきた「戦後検察暗黒史」

2020-05-17 23:47:35 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」に発表した記事をそのまま掲載しています。)

 2020年の年明けに通常国会が開会してから4か月。BC(ビフォー・コロナ;コロナ前)には政治的無関心層にはまったく届いていなかった検察庁法「改正」問題が、広範な国民の注目を集め始めている。新型コロナウィルス感染拡大の影響で多くの人を集めての集会・デモなど既存の運動手法の多くが使えず、再考を迫られる中で、ネットを使った新しい市民運動の形としても驚くべきできごとだ。ネットを活用した闘いは、これまでの運動手法では決して手の届かなかった新たな層を獲得できる「起爆剤」になるかもしれない。

 現在、日本社会を騒がせている、いわゆる「黒川検事長問題」とはなんなのか。本題に入る前に、これまでの経過を簡単に振り返っておこうと、筆者が検察庁法、国家公務員法の条文を詳細に調べた結果、いきなり衝撃的な事実が判明した。

 検察庁法では「検事総長は、年齢が六十五年に達した時に、その他の検察官は年齢が六十三年に達した時に退官する」(第22条)と定めており、これ以外の規定はない。シンプルでわかりやすい条文である。黒川弘務検事長は1957年2月8日生まれで、今年2月7日をもって63歳に達している(「年齢計算に関する法律」により、すべて日本国民は誕生日の前日をもってその年齢に達したものとみなされる)。検察庁法の規定に従えば、とっくに辞めていなければならない。

 しかし、さすが「朕こそ法律なり」の皇帝アベ3世は、これくらいのことでは動じない。すかさず国家公務員法の条文に目をつける。「職員は、法律に別段の定めのある場合を除き、定年に達したときは、定年に達した日以後における最初の三月三十一日又は第五十五条第一項に規定する任命権者若しくは法律で別に定められた任命権者があらかじめ指定する日のいずれか早い日(以下「定年退職日」という。)に退職する」(国家公務員法第81条の2)、「定年は、年齢六十年とする」(同法第81条の2第2項)と原則を定めつつ、「任命権者は、定年に達した職員が前条第一項の規定により退職すべきこととなる場合において、その職員の職務の特殊性又はその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分な理由があるときは、同項の規定にかかわらず、その職員に係る定年退職日の翌日から起算して一年を超えない範囲内で期限を定め、その職員を当該職務に従事させるため引き続いて勤務させることができる」とした同法第81条の3の規定を「活用」したのだ。黒川検事長の定年だけを、これによりさらに延長することにしたのである。しかも、法的根拠のない閣議決定で、だ。

 それでも、「法律に書いてあるならいいではないか」と思う人がいるかもしれない。しかし国家公務員法の条文をよく読み返してみてほしい。同法の定年規定は「法律に別段の定めのある場合を除き」適用されるのである。検察官には、検察庁法という「別段の定め」がある。国家公務員法の定年規定は適用の余地自体がなく、黒川氏の定年を規定するのはあくまで検察庁法第22条だけ、ということになる。

 閣議決定でいくら黒川氏の定年延長を決めたところで、法律を超えることなどできない。いずれにせよ、今年2月8日以降の黒川氏はなんの法的根拠もなく閣議決定だけで東京高検検事長に不法に居座っていることになる。労働裁判でよくある地位確認の逆、つまり黒川氏の「地位不確認」を求める訴訟を今、もし市民の誰かが起こしたら、司法はどんな判断を下すだろうか。

 検察官だけに検察庁法という「別段の定め」があるのはなぜなのか、不思議に思う人もいるかもしれない。検察官以外に、国家公務員法の枠組みと異なる「別段の定め」がされている国家公務員の例としては、警察法の規定がある警察官や、自衛隊法に規定がある自衛隊員らの例がある。これらに共通しているのは、いずれも逮捕、押収、拘禁などの権限を与えられた「暴力装置」であるという点だ。暴力装置に対しては、一般の国家公務員以上に厳しい市民による統制(シビリアン・コントロール)を必要とする。だからこそこれら暴力装置としての機能を持つ公務員に対し、「俺が気に入ったからお前だけ定年延長」なんてやり方は言語道断といわざるを得ない。このニュースを見た一般市民が「アベ3世に対して文句を垂れるだけで即逮捕、という専制政治に日本社会を変えたいのね」という懸念を持つのは当然である。

 ●武田良太行革担当相の「法務省に聞いてくれ」は正論だった!?

 先週、衆院内閣委員会での検察庁法改正問題の審議では、武田良太行革担当相の「本当は私の担当ではない」「法務省に聞いてもらったほうがいい」という答弁のために紛糾。森雅子法相の支離滅裂な答弁も加わり、与党が狙った先週中の衆院通過はいったんはお預けとなった。武田担当相のこの発言を聞いて、その無責任さに憤り、呆れた人も多いだろう。だが筆者にいわせれば、実はこの武田担当相の発言は「正論」であり、法律の所管省庁が違うはずの国家公務員法改正案と検察庁法改正案を、一括のいわゆる「束ね法案」としたことの問題点がまともに出た形である。

 そもそも、国家公務員法の改正案と検察庁法の改正案はまったくの別物である。前者は、少子高齢化を踏まえ、新規採用年齢に達する若者世代が毎年減っていき、従来の制度を維持したままでは国家公務員の数が減る一方となる事態を防ぐため、60歳に達した国家公務員が役職を降りることと引き替えに、本人が希望すれば一律に定年を65歳に延長できるようにしよう、というものである。一方の検察庁法は、極論すれば「官邸の覚えめでたい検察官に限って定年延長を例外的に認める」というものである。公務員「本人の意思」で「一律」に定年延長を認めるのと、「官邸の都合」で覚えめでたい検察官だけに「一本釣り」的に定年の延長を認めるのとではその性質がまったく異なることは、ほとんどの方にご理解いただけるだろう。

 検察庁は、法務省の外局であり、検察庁法も法務省所管の法律だから、本来、国会では法務委員会に付託されなければならない。一方、国家公務員法は、内閣直属でどの省庁にも属さず、「強い独立性を有する」とされる人事院が所管する法律だから、法案の付託先は内閣委員会となる。今回、アベ3世、もとい安倍首相は、検察官の定年も国家公務員法に基づいて決められている「ように見せかける」ため、意図的に両法案を束ね、一括して内閣委員会に付託するという暴挙に出たのである。

 武田担当相は、「本当は法務省所管で審議も法務委員会のはずの法案(検察庁法改正案)までこっち(内閣委員会)に押しつけられ、迷惑きわまりない」と本音では思っていて、それが思わず口をついて出てきてしまったのだろう。

 ●GHQ「検察民主化改革」の衝撃的内容と検察の「暗闘」

 そもそも、戦前から戦時中にかけて、思想検事たちは特別高等警察(特高)と並んで治安維持法の下、市民の思想や社会運動の弾圧に関わった。太平洋戦争開戦の年、1941年に「改正」された新治安維持法の施行によって、思想検事たちは司法省刑事局に結集、反戦思想の取り締まりに徹底的に関わっていく。

 敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は特高警察や思想検察の解体に着手するが、作業は警察が先行した。特高警察を解体し、戦前の国家警察を自治体警察に移行させる警察改革をGHQはなんとか成功させた。だが思想検察の改革は、GHQ内部の意見対立と権限拡大を狙う司法省、内務省の思惑も絡まって難航を極め、日本国憲法施行に間に合わなかった。

 マッカーサーが1945年11月、幣原喜重郎内閣に示した「5大改革指令」で、刑事司法・検察改革は重要な柱の1つだった。マッカーサーは、「国民ヲ秘密ノ審問ノ濫用ニ依(よ)リ絶エズ恐怖ヲ与フル組織ヲ撤廃」することを掲げたが、その中でGHQが示した検察改革案は、「天皇の官吏」としての官制(公務員制度)しか経験していなかった当時の日本側にとって衝撃的な内容だった。国民が直接選挙で検事を選出する「検察官公選制」と、国民の中から選ばれた陪審員が起訴・不起訴を最終決定する「起訴陪審制度」が盛り込まれていたのだ。このうち検察官公選制については、「検事は各都道府県及北海道の四地域毎に其の地域の住民によって議会の制定した選挙法に準拠して選挙される」という先進的かつ画期的なものであった。

 この2つが実現すれば、公訴権を独占してきた従来の日本の検察制度は根底から覆される。GHQによる公職追放令によって、市民弾圧に関わった特高警察や思想検事の多くは追放されたが、幹部ではない中堅以下にはパージされずに残った者も多かった。このラディカルな改革案を見て、当時の検察関係者がどれだけ震え上がったかは想像に難くない。危機感を露わにした司法省・検察当局一体となった、猛烈な骨抜き・巻き返し工作が始まった。

 ●市民を見下していた検察 「我が国民意識の現段階」では無理と言い放った司法省

 結論からいうと、公職追放によってパージされた者も、パージを免れ検察内部に残った者も、一般市民に対する認識には大きな違いがなかった。当時、パージを免れ検察官公選制と起訴陪審制度に猛烈に抵抗した検察幹部が、一般市民をどのように捉えていたかを示す貴重な資料がある。

 GHQの提案に慌てた司法省~法務省は、検察官公選制と起訴陪審制度を葬り去るために策動を始める。鈴木義男・司法大臣が1946年8月、GHQに提出した独自改革案「司法省の改組と司法手続の改革」は、検察官公選制はもとより、市民から選ばれた委員たちが、検事に起訴・不起訴についての勧告を行う、とした「検察委員会」制度についても「わが国民意識の現段階では弊害を免れない」として、これを拒否する姿勢を明確にしたのである。それどころかこの独自改革案は、マッカーサーが地方自治制度の創設に伴って、地方自治体への移管を考えていた警察までをも司法省の下部組織としてしまう「検察・警察一体化」をうたっていた。身の毛もよだつような恐ろしい内容だ。

 マッカーサーはこの提案に激怒。「司法省の手のなかに、逮捕、取調、裁判、量刑、判決、収監に至るまでの、国民に対する権力の過度の集中がもたらされる」としてこれを一蹴。「そのようなことはルイ14世の統治に等しい」とまで言い放ち、検討に値しないとの姿勢を明確にした。

 事務方で検察制度改革に当たっていた佐藤藤佐・司法次官に対しても「現在司令部内において、検事も選挙によって任命す可(べ)しとする意見が強い」とするGHQ内部の意向が伝えられた。日本側がこれを避けたいならば「何等(ら)かの形で検事に対する国民のコントロールを考える必要がある。検事が起訴す可き事件を起訴しなかった時、検事をして起訴せしめる強制力を与える」ための「国民の代表による委員会の如きもの」を制度として創設するよう求める通告だった。しかしこれに関しても佐藤司法次官は「一般日本人をして委員会の委員たらしめる事は、大陪審制度と同様、現在の日本においては無理である」として否定。GHQは、検察に対するシビリアン・コンロトールの導入が「司令部として動かすことの出来ぬ政策」であり、検察委員会が「国民の代表により構成されること」を必要条件として重ねて伝えたが、佐藤次官はまたも「此のやうな実質上大陪審の如き制度を採用することは時期尚早」として、改革をあくまで拒む姿勢を崩さなかったのである。

 結局、GHQは日本側の激しい抵抗を制しきれず、「委員を選挙人名簿より選ぶ」ことを条件に、諮問機関としてその決定に拘束力を与えない形で「検察審査会」を設けるとした日本案を飲まざるを得なかった。検察官公選制、起訴陪審制という先進的でラディカルなGHQによる検察改革案は、結局「拘束力のない不起訴不当の決定によって検察に不起訴の再考を求める委員会を作るだけ」のところまで後退させられてしまった。実質、改革は骨抜きにされたといってよい。

 戦後日本は新憲法を制定し、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を基本方針に再出発した。皇国臣民として、軍国主義的な価値観をすり込まれた「少国民」が日本人の大半を占めているという時代の制約は確かにあったのかもしれない。しかし、そうした時代的・社会的制約があることを知りつつ、それでもGHQは、今は「少国民」に過ぎない日本人もいずれ成長し、平和・人権・民主主義を担う主権者としての自律的思考力と行動力を備えた近代市民社会の主人公となるであろうことに期待をかけて、日本国憲法を送り出した。日本の司法官僚たちにもGHQと同じように、将来の日本人の成長を信じ、近代的な民主主義に基づく統制にみずから服する意思を示して新しい検察と司法制度を世に送り出す道もあったはずである。だがGHQによって再三求められたその道を彼らは徹底的に拒否した。「有罪率99%」「取調中の弁護士の立ち会いも許されない人質司法」「中世以下」といわれる日本の非民主主義的検察制度のほとんどは、日本の市民の将来の可能性を信じず、「わが国民意識の現段階」では検察の民主的統制など無理と根拠もなく決めつける特権検事たちの抵抗の上に残された。黒川問題もこうした「非民主主義的検察」の延長線上に位置している。固く閉じられていた歴史の箱を開けるとき、私たちは、単なる1人の検事の定年延長というわずかばかりの特権でさえ、こうした連中には決して与えてはならないことに気づくはずである。

 ●市民の願いを無視して東電を免罪し、強制起訴訴訟でも東電を弁護する「ヤメ検」

 不起訴不当の決定をしても、検察が形ばかりの再捜査で再び不起訴にして終わりという冬の時代が長く続いた検察審査会は、2000年代に入って日本人自身が行った司法制度改革の中、思わぬ形で権限を与えられることになった。検察審査会が起訴相当の議決をした後、再度検察が不起訴とした事件でも、検察審査会が2回目の「起訴相当」の議決をすれば強制起訴になる「起訴議決」制度の導入である。

 この事件による強制起訴第1号となったのが、警察の警備上のミスにより、花見客が将棋倒しとなり死者を出した「明石歩道橋事故」であり、それに次ぐ第2号がJR福知山線脱線事故となった。国家権力や巨大国策企業による事故や不祥事のように、みずからも国家権力の一部である検察が不問に付したい事件事故の多くが強制起訴に持ち込まれたことは、市民が主役として事件を審査する制度の有効性を示している。実際、ある検察審査会が、2005~2007年にかけて行ったアンケート調査によれば、検察審査会委員に選ばれた人のうち、初めは「あまり気乗りがしなかった」「迷惑に感じた」と答えた人の割合が67%を占めていたが、審査員の任期を終えたときには「非常によかった」「よかった」が計96%にも上ったことにも示されている。検察審査会委員として関わった市民のほぼ全員が検察という巨大な暴力装置に対する「民主的統制」という仕事にやりがいを感じていることが見て取れる。

 この後、福島第1原発事故に関しても、勝俣恒久元会長ら東京電力元経営陣3人が業務上過失致死容疑で強制起訴された。昨年9月、1審では全員が無罪となったが、検察官役の指定弁護士が控訴し、今後は高裁で控訴審が行われる予定だ。

 この東電刑事裁判に関しては、重要な事実を指摘しておく必要がある。東電旧経営陣の弁護人として、有田知徳弁護士(元福岡高検検事長)、岸秀光弁護士(元名古屋地検特捜部長)、政木道夫弁護士(元東京地検特捜部検事)など、ヤメ検(元検事)がずらりと並んでいることである。筆者も加わる福島原発告訴団が、1万3千人を超える告訴人を集め、再三にわたって起訴を求める行動を続けてきたにもかかわらず東電を無罪放免にした検察は、強制起訴が決まると今度は元検事を弁護人に据えた。「市民のための検察」に徹底的に背を向け、市民に敵対を続ける検察の姿勢は、司法大臣みずから「我が国民意識の現段階」発言をした頃からほとんど変わっていないのだ!

 ●葬り去られた検察民主化をよみがえらせるために

 これまで、思想検察と特高検察が市民弾圧のために跋扈してきた戦前から、敗戦後のGHQによるラディカルな検察官公選制、起訴陪審制度の提案、そしてそれを断固として阻止しようと徹底抗戦し、ついにその阻止に成功した検察の歴史を見てきた。そこから浮かび上がったのは、民主主義的改革を受け入れようとせず、市民による民主的統制に服することも拒絶するばかりか、そこから逃れるためならどんな手を使うことも辞さない検察の「暗黒史」そのものである。

 こうした戦前戦後を通じた検察「暗黒史」に終止符を打つとともに、市民による統制に潔く服し、支配者のためではなく市民のために厭わず行動できる真の民主検察を打ち立てることができるか。さしあたり、その帰趨を占う上で「黒川問題」が重大な分岐点になるというのが筆者の現時点での認識である。筆者の見る限り、制度を少し改変したくらいでは民主的改革は困難なように見える。司法試験改革など多方面で同時並行的な改革を行わなければならないが、それには多くの時間もエネルギーもかかる。そこで、筆者からひとつの提案がある。

 ●再び「検察官公選制」の提案

 敗戦直後、GHQが導入を目指しながら、強い抵抗でとん挫した検察官公選制の導入を、再び本気で目指してみてはどうか。これが筆者からの提案である。これほどまでに検察当局が嫌がるということは、この改革案が本物であることを逆説的に証明している。かつて東京都中野区では教育長公選制が実施されていた。強い政治的中立性を求められる公職を選挙の対象にし、検察ももちろんそこに含める。時代の変化に対応しようとせず「暗黒史」の記録だけを続けようとするこの巨大な暴力装置に対し、検察審査会委員のほぼ全員が「やりがい」を感じるまでに成長し、日本国憲法を送り出したGHQの期待通りになった「我が国民意識の現段階」を見せつける。権力を弄ぶ皇帝アベ3世から検察という巨大な暴力装置を取り戻すには、もはやこれ以外にないのではないだろうか。

<参考文献>
 本稿執筆に当たっては、以下の2文献を参考とした。各執筆者に対し、最後に記してお礼を申し上げたい。

・「企画委員会シンポジウムII 市民の司法参加の歩みー検察審査会から裁判員制度へ 検察審査会法制定の経緯」(出口雄一/「法社会学」第72号所収)

・「もう一つの国民の刑事司法参加~検察審査会の議決が法的拘束力を持つまで~」(渡辺高/参議院法務委員会調査室編「立法と調査」299号(2009年12月号)所収)

(文責:黒鉄好)

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検察庁法改正問題/ついに検察OBが「反対」意見書を提出 意見書の全文紹介

2020-05-16 23:59:01 | その他社会・時事
黒川弘務・東京高検検事長の定年延長問題は、ついに検察庁OBが国に改正「反対」の意見書を提出する事態になった。国家公務員のOBから、国政に対にてこれだけ公然と反対の声が上がるのは極めて異例で、それだけこの法案が問題だらけであることを示している。

どこかにこの意見書の全文がないか探したら、東京新聞が全文を掲載している。以下、ご紹介する。

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検察庁法改正案 元検事総長ら反対意見書の全文 ルイ14世の「朕は国家」想起(東京新聞)

◆一

 東京高検の黒川弘務検事長は、本年二月八日に定年の六十三歳に達し退官の予定であったが、直前の一月三十一日、その定年を八月七日まで半年間延長する閣議決定が行われ、同氏は定年を過ぎて今なお現職にとどまっている。

 検察庁法によれば、定年は検事総長が六十五歳、その他の検察官は六十三歳とされており(同法二二条)、定年延長を可能とする規定はない。従って検察官の定年を延長するためには検察庁法を改正するしかない。しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現検事総長稲田伸夫氏の後任として黒川氏を予定しており、そのために稲田氏を遅くとも総長の通例の在職期間である二年が終了する八月初旬までに勇退させてその後任に黒川氏を充てるための措置だというのがもっぱらの観測である。一説によると、本年四月二十日に京都で開催される予定であった第四回国連犯罪防止刑事司法会議で開催国を代表して稲田氏が開会の演説を行うことを花道として稲田氏が勇退し黒川氏が引き継ぐという筋書きであったが、新型コロナウイルスの流行を理由に会議が中止されたためにこの筋書きは消えたとも言われている。

 いずれにせよ、この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国三十五を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。

◆二

 一般の国家公務員については、一定の要件の下に定年延長が認められており(国家公務員法八一条の三)、内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定したものであるが、検察庁法は国家公務員に対する通則である国家公務員法に対して特別法の関係にある。従って「特別法は一般法に優先する」との法理に従い、検察庁法に規定がないものについては通則としての国家公務員法が適用されるが、検察庁法に規定があるものについては同法が優先適用される。定年に関しては検察庁法に規定があるので、国家公務員法の定年関係規定は検察官には適用されない。これは従来の政府の見解でもあった。例えば一九八一年四月二十八日、衆院内閣委員会において所管の人事院事務総局任用局長は、「検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されない」旨明言しており、これに反する運用はこれまで一回も行われて来なかった。すなわちこの解釈と運用が国法上定着している。

 検察官は起訴不起訴の決定権すなわち公訴権を独占し、併せて捜査権も有する。捜査権の範囲は広く、政財界の不正事犯も当然捜査の対象となる。捜査権をもつ公訴官としてその責任は広く重い。時の政権の圧力によって起訴に値する事件が不起訴とされたり、起訴に値しないような事件が起訴されたりする事態が発生すれば日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊することになりかねない。検察官の責務は極めて重大であり、検察官は自ら捜査によって収集した証拠等の資料に基づいて起訴すべき事件か否かを判定する役割を担っている。その意味で検察官は準司法官とも言われ、司法の前衛たる役割を担っていると言える。

 こうした検察官の責任の特殊性、重大性から一般の国家公務員を対象とした国家公務員法とは別に検察庁法という特別法を制定し、例えば検察官は検察官適格審査会によらなければその意に反して罷免されない(検察庁法二三条)などの身分保障規定を設けている。検察官も一般の国家公務員であるから同法が適用されるというような皮相的な解釈は成り立たないのである。

◆三

 本年二月十三日衆院本会議で、安倍晋三首相は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王政を確立し君臨したルイ十四世の言葉として伝えられる「朕は国家である」との中世の亡霊のような言葉をほうふつとさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。

 時代背景は異なるが十七世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「政治二論」(岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

 ところで仮に安倍首相の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法八一条の三に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである。

 加えて人事院規則十一-八第七条には「勤務延長は、職員が定年退職をすべきこととなる場合において、次の各号の一に該当するときに行うことができる」として、(1)職務が高度の専門的な知識、熟練した技能または豊富な経験を必要とするものであるため後任を容易に得ることができないとき、(2)勤務環境その他の勤務条件に特殊性があるため、その職員の退職により生ずる欠員を容易に得ることができず、業務の遂行に重大な障害が生ずるとき、(3)業務の性質上、その職員の退職による担当者の交代が当該業務の継続的遂行に重大な障害を生ずるとき、という場合を定年延長の要件に挙げている。

 これは要するに、余人をもって代えがたいということであって、現在であれば新型コロナウイルス感染症の流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐには見つからないというような場合が想定される。

 現在、検察には黒川氏でなければ対応できないというほどの事案が係属しているのかどうか。引き合いに出される日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告逃亡事件についても黒川氏でなければ、言い換えれば後任の検事長では解決できないという特別な理由があるのであろうか。法律によって厳然と決められている役職定年を延長してまで検事長に留任させるべき法律上の要件に合致する理由は認め難い。

◆四

 四月十六日、国家公務員の定年を六十歳から六十五歳に段階的に引き上げる国家公務員法改正案と抱き合わせる形で検察官の定年も六十三歳から六十五歳に引き上げる検察庁法改正案が衆院本会議で審議入りした。翌十七日、野党側が前記閣議決定の撤回を求めたのに対し菅義偉官房長官は必要なしと突っぱねて既に閣議決定した黒川氏の定年延長を維持する方針を示した。こうして同氏の定年延長問題が決着しないまま検察庁法改正案の審議が開始されたのである。

 この改正案中重要な問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する改正についてである。すなわち同改正案二三条(5)項には「内閣は(中略)年齢が六十三歳に達した次長検事または検事長について、当該次長検事または検事長の職務遂行上の特別な事情を勘案して、当該次長検事または検事長を検事に任命することにより公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由として内閣が定める事由があると認めるときは、当該次長検事または検事長が年齢六三年に達した日の翌日から起算して一年を超えない範囲内で期限を定め、引き続き当該次長検事または検事長が年齢六三年に達した日において占めていた官および職を占めたまま勤務をさせることができる(後略)」と記載されている。

 難解な条文であるが、要するに次長検事および検事長は六十三歳の職務定年に達しても内閣が必要と認める一定の理由があれば一年以内の範囲で定年延長ができるということである。

 注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長が可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川氏の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法一三条)を設けており、定年延長によって対応することはごうも想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。

 今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力をそぐことを意図していると考えられる。

◆五

 かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移に一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、広くは国民大多数であった。

 振り返ると、七六年二月五日、某紙夕刊一面トップに「ロッキード社がワイロ商法 エアバスにからみ四十八億円 児玉誉士夫氏に二十一億円 日本政府にも流れる」との記事が掲載され、翌日から新聞もテレビもロッキード関連の報道一色に塗りつぶされて日本列島は興奮の渦に巻き込まれた。

 当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に着手するという積極派や、着手すると言っても贈賄の被疑者は国外在住のロッキード社の幹部が中心だし、証拠もほとんど海外にある、いくら特捜部でも手が届かないのではないかという懐疑派、苦労して捜査しても造船疑獄事件のように指揮権発動でおしまいだという悲観派が入り乱れていた。

 事件の第一報が掲載されてから十三日目の二月十八日検察首脳会議が開かれ、席上、当時の神谷尚男東京高検検事長が「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後二十年間国民の信頼を失う」と発言したことが報道されるやロッキード世代は歓喜した。後日談だが事件終了後しばらくして若手検事何名かで神谷氏のご自宅におじゃましたときにこの発言をされた時の神谷氏の心境を聞いた。「(八方ふさがりの中で)進むも地獄、退くも地獄なら、進むしかないではないか」という答えであった。

 この神谷氏の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至るご存じの展開となった。時の検事総長は布施健氏、法務大臣は稲葉修氏、法務事務次官は塩野宜慶氏(後に最高裁判事)、内閣総理大臣は三木武夫氏であった。

 特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動におびえることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在であった。

 国会で捜査の進展状況や疑惑を持たれている政治家の名前を明らかにせよと迫る国会議員に対して捜査の秘密を盾に断固拒否し続けた安原美穂刑事局長の姿が思い出される。

 しかし検察の歴史には、捜査幹部が押収資料を改ざんするという天を仰ぎたくなるような恥ずべき事件もあった。後輩たちがこの事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。それが今回のように政治権力につけ込まれる隙を与えてしまったのではないかとの懸念もある。検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。

 しかしながら、検察が萎縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで干渉を受けるようになったら検察は国民の信託に応えられない。

 正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。

 黒川氏の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。

 元仙台高検検事長平田胤明▽元法務省官房長堀田力▽元東京高検検事長村山弘義▽元大阪高検検事長杉原弘泰▽元最高検検事土屋守▽同清水勇男▽同久保裕▽同五十嵐紀男▽元検事総長松尾邦弘▽元最高検公判部長本江威憙▽元最高検検事町田幸雄▽同池田茂穂▽同加藤康栄▽同吉田博視

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ポスト・コロナの新世界を展望する 「変わるかどうか」ではなく「どう変わるか」が問題だ

2020-04-25 12:52:48 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年5月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 ●異様な高揚感

 1月に中国・武漢で発生した新型コロナウィルスは瞬く間に世界人類を覆った。メディアで報道されているのは明けても暮れても感染者数や死者数のニュースばかりだ。

 人類史的に見れば100年に一度の危機的な情勢の中で、こんなことを書くのは不謹慎のそしりを免れないと思うが、今、筆者はなぜか異様な精神的高揚感の中にある。昨年春あたりからずっと、睡眠薬が手放せないほどの精神的不調にあったのが、ここ2か月くらいは急回復し集中力も増してきている。睡眠薬をそろそろやめてもいいと考え始めているくらいなのだ。

 この高揚感の原因ははっきりしないが、この間ずっと筆者を悩ませてきた忌まわしい安倍政権、日本人の誰も終わらせ方がわからなくなりつつあるこの異常な長期政権にはっきりと終わりの兆しが出てきたことが、少なくともその要因のひとつではあろう。

 最近「サル化する世界」という刺激的なタイトルの著書を出版し、発売わずか2日で早くも重版に達したという内田樹(たつる)神戸女学院大学名誉教授は指摘する。「70%が反対する政策であっても、30%が支持すれば実施できるという成功体験に自民党は慣れ過ぎた。国民を分断して敵味方に分けて、味方を優遇して敵を冷遇するというネポティズム〔筆者注・縁故主義〕政治しか彼らは知らない」。内田名誉教授は「自民党がかつてのような国民政党としてもう一度党勢を回復するということはない。安倍政権が終わった時に同時に自民党という政党も終わる」と予測する(注1)。

 インドネシアでスハルト長期独裁政権を支えた与党「ゴルカル」は、「ゴルカルおよび政党に関する法律」によってインドネシアでは他の政党と明確に区別されていた。ゴルカルは政党ではなく、さまざまな業界の利害を代表しつつその調整を図る「職能団体」であるとされ、その特別性のゆえに他の政党が拠点を結成してはならないとされた地方町村部にも組織を置くことが認められていた。国会でも議席の特別配分枠を与えられるなどの優遇措置と引き替えにスハルト政権を支える義務を負っていた。

 朝鮮民主主義人民共和国を支配する朝鮮労働党は、全国民を「核心層」(党・政府の核心的支持層)、「敵対層」(党・政府への反対層)、「動揺層」(政治経済社会情勢によって揺れ動く両者の中間層)に三分して支配していると、朝鮮情勢に詳しい重村智計(としみつ)元毎日新聞論説委員は指摘する。朝鮮の全人口に占める比率は「核心層」30%、「動揺層」50%、「敵対層」20%だという。朝鮮労働党も30%の「核心層」だけを固めて残り70%を統治しているのだ(注2)。

 独裁的な政治体制の下では、強い政治的決意で政府与党を支持する勢力が30%程度存在すれば社会を統治できることは、ゴルカルや朝鮮労働党の実例が示している。自民党1党支配体制の下で選挙も議会も司法も形骸化し、党内からの安倍後継者も反対者も現れず、30%程度に過ぎない「核心層」を固めて統治する安倍政権のスタイルは、いつの間にか朝鮮やスハルト時代のインドネシアとそっくりになっている。実現を目指すべき政策も消え、所属議員に多額の献金をしていた理美容業界を、小池百合子東京都知事の提唱した営業自粛要請の対象から除外するよう頑強に抵抗するなど、自民党の「職能団体」化も極限まで来ている。筆者の目には自民党が「日本版ゴルカル」に見えて仕方ないのだ。そのゴルカルが、スハルト政権崩壊の後を追うように雲散霧消していったことを考えると、内田さんの予測は案外いい線を行っているのではないかと筆者は思うのである。

 今日のような時代の大きな変わり目には、物事の細部は大きな意味を持たないことが少なくなく、内田さんのように時代の潮流を読む大きな目を持っているほうがいい。

 ●テロリストも真っ青のクルーズ船対応

 筆者に安倍政権の「終わりの予感」を抱かせたのは、なんといっても2月、横浜港に入港した豪華クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」をめぐる対応であった。このクルーズ船に関しては、浴びせるようなラッシュ報道があったので詳細は繰り返さないが、安倍政権の対応はわざわざ感染者を濃密で閉鎖的な船内空間に捨て置き、感染を極大化させる最悪の対応にほかならない。筆者は職業柄、動物の感染症を研究するため、細菌やウィルスを培養後、隔離して顕微鏡などでその生態を観察する研究者らと話すこともあるが、細菌やウィルス数を隔離して研究可能なレベルにまで増やすため、小さな試験管やシャーレに閉じ込めて培養することが多い。安倍政権のクルーズ船対応は、小さな試験管やシャーレに細菌やウィルスを閉じ込める培養施設のやり方とそっくりなのである。しかも、あろうことか安倍政権は「ウィルス培養シャーレ」と同じ状態に長期間置かれ、感染の危険性が極大化された乗客に対し、下船時の検査で陰性だったという理由だけで経過観察もせず、電車などの公共交通機関を使って帰宅するのを認めてしまった。

 もし、東京オリンピックを「破壊」するため、直前に東京でひと騒ぎ起こしてやろうと細菌・ウィルステロを計画したものの、どうすれば最も効果的に実行できるかわかりかねていたテロリストが世界のどこかにいるとしたら、安倍政権がわざわざその手ほどきをしたにも等しい。「安倍、サンキューな」とこの地球のどこかでテロリストが微笑んでいるかもしれない。安倍政権と自民党に、なぜ破防法が適用されないのかわからないくらいだ。

 結局、前号の記事でも触れたように、東京オリンピックは1年延期が決定した。この安倍政権の対応のまずさを見ていると、1年延期しても開催できるとは筆者にはとても思えず、いずれ中止に追い込まれるだろう。東京オリンピック「破壊」を企てていたテロリストたちがもしいるとしたら、彼らの野望がなんと安倍政権みずからの手で実現するのだ。

 ●民主主義国家での保健衛生対策には政府と市民の相互信頼が必要

 新型コロナ対策を東アジア各国だけに絞ってみても、この1か月あまりでますます日本「独り負け」がはっきりしてきた。独裁国家と民主国家を一律に論ずることは適切ではないので、それぞれ見ていこう。

 独裁国家である中国は、新型コロナの発生源であるにもかかわらず、武漢と湖北省を強権的に封鎖し、人の移動を禁止する措置が奏功。わずか3か月で封じ込めに成功しつつある。国会に相当する全国人民代表大会(全人代)を延期してまで人の移動を封じ込めた習近平国家主席は、大きく揺らぎかけた政治的威信を回復する可能性がある。全人代が夏までに開催できれば、中国は「新型コロナとの決戦に勝利」と大々的に宣伝するかもしれない。

 同じく独裁国家の朝鮮は、中国との国境を早々と封鎖した。国営メディアの「感染者ゼロ」との報道とは裏腹に、数千人単位の感染者が朝鮮人民軍にまで及んでいるとの情報もあるが、国民の間にパニックなどは起きていない模様だ。

 しかし、なんといっても最も筆者を驚かせたのは国営メディア・朝鮮中央テレビによる3月のニュース報道だ。米国で市民の不安感が増大、生活必需品の買い占めが拡大していると事実を報道した上で、こう述べている――『商業ネットワークでは必需品の需要を充足できず物価が上がり、人々が商品を大量に購入するので社会的混乱が醸成されている』。資本主義に対する社会主義の勝利とはっきり言い切らないところが憎い。自国にとって都合の良い事実を淡々と指摘、「我々式社会主義」と計画経済の優位性、資本主義の「無計画経済」ぶりをさりげなく国民にアピールしたのだ(注3)。

 朝鮮中央テレビのニュースは米国についての報道とはいえ、日本も事情は同じである。多くの日本人が東アジア最貧国とみなしていた朝鮮にこんなことを言われる日が来るとは思ってもいなかった。日本ではその「無計画経済」のせいで、感染拡大が深刻化して1か月半を経た本稿執筆時点でも、いまだにマスクをめぐる混乱が続いている。

 民主国家である韓国、台湾も感染封じ込めに成功しつつある。韓国は徹底したPCR検査の実施とともに、重症者だけを入院させ、軽症者は病院以外の施設で隔離する政策が奏功している。隔離という重大な私権の制限は民主国家の性格上、最小限でなくてはならないが、それでも日本のような市民の移動制限を伴わずに飲食店が再開可能な段階までこぎ着けつつある。台湾では前号で既報の通り、あらゆる政策資源を投入し、とうとう人が密集する行事の典型であるプロ野球の開幕さえ実現してみせた。

 あらゆる対策が後手後手に回り、死者数こそ少ないものの感染拡大が防止できない日本と感染防止に成功しつつある韓国、台湾を分けたものは何か。筆者は、政府と市民との相互信頼があるかどうかが鍵とみる。台湾は、香港での民主化運動弾圧に危機感を抱いた在外有権者が、先の総統選ではわざわざ飛行機で一時帰国してまで投票。総統選の直前の時期、台湾へ向かう飛行機はどの便も満席だったとの証言もある。投票率は最終的に70%を超え、市民は蔡英文・民進党政権に圧倒的な信任を与えた。台湾が、強権に頼らずスマートで効果的な対策を矢継ぎ早に打ち出せた背景に、「政府は市民の良識を信頼し、市民も政府に高い投票率、高い支持率で信任を与える」という相互信頼関係が見て取れる。

 韓国でも、先日行われた国会議員選で文在寅政権与党「共に民主党」が300議席中、180議席(60%)を獲得し、悲願だった議会多数の確保に成功した。投票率は66%とほぼ3分の2の有権者が投票した。民主主義国家で政府の施策が信頼を得るためには、市民の側に政府への信頼があることが絶対条件なのである。

 安倍政権の政策が後手後手に回っているのは、韓国、台湾と正反対だからである。日本では政府と市民が相互信頼どころかお互いに相手を「バカ」だと思っている現状がある。安倍首相が全国一斉休校を唐突に発表した2月末の記者会見でも、直前まで「首相が会見をやったらやったでどうせ批判される」と首相周辺は消極的だったと伝えられている(注4)。この非常事態にこのような最低最悪の政府しか持てなかったことこそ、コロナそのもの以上に日本をどん底に陥れた悲劇として後世、歴史に記録されるであろう。

 韓国、台湾が6~7割の高い投票率を維持し、台湾に至っては在外有権者がわざわざ帰国してまで総統選に投票しているのに、日本は自宅の隣の投票所にさえ「投票したい候補者がいない」と有権者の半分が背を向ける。そのくせ非常事態が起きると苛立ちは政府批判という健全な方向ではなく、反論できないドラッグストア店員など弱者に対し「お前のマスクはどこで入手したのか。隠しているなら出せ」などという理不尽な形でぶつけられている。こうしたサル並みの市民が安倍政権をのさばらせてきたのであり、日本の市民は内田さんからの厳しい「サル化」批判を甘受するより他になかろう。少なくない市民の間にこうした危機感があるからこそ「サル化する世界」は売れに売れているのである。

 ●グローバリズムからローカリズムへ、大都市から地方へ

 「新型コロナが収束後、世界は変わるか」と尋ねられたら、筆者は迷うことなくイエスと答える。問題は変わるかどうかではなく「どう変わるか」だ。

 すでにコロナ以前から明確に見えているひとつの方向性がある。グローバリズムからローカリズムへ、大都市から地方へという方向性である。英国のEU離脱はそのひとつの象徴だが、高い人口密度の中でどうしても人々が密接する形で生活せざるを得ない巨大都市に新型コロナは大きな打撃を与えた。巨大都市は感染症対策上の脅威とみなされ、その存在から再考を迫られるであろう。

 東京都の人口は、住民基本台帳ベースでも1395万人と、1400万人が目前だ。実際には住民票を移さないまま転入している人も多く、実勢ベースなら夜間人口でもすでに1400万人を超えている可能性がある。筆者の子ども時代(今から30年ほど前)は東京都、神奈川県、千葉県の3県合計でこれくらいの人口といわれたものだ。東京一極集中の是正が叫ばれながら、事態は逆の方向に一貫して進んできた。遠くない将来、首都直下型地震や南海トラフ大地震の危険なども指摘されているが、東京への人口流入はまったく止まる気配がない。大企業の本社の大部分が東京に集中しているが、本当に東京でなければならない業務がいったいどれだけあるのだろうか。今こそ業務を真剣に総点検し、大都市過密・地方過疎の問題を解決できる「地方移転」が可能な企業は決断すべきときだ。

 ドイツでは、第2次世界大戦後、大都市への人口集中を抑制する政策が採られてきたと指摘する識者もいる。大都市がナチスを生んだという反省から人口集中政策が否定されたとの主張もある。筆者が今回、本稿執筆に当たって探した範囲では、その主張を裏付ける資料は見つけられなかったものの、「少数意見を尊重する民主主義の理念ないし規模の小さな自治体を優先する補完性の原理の考え方がドイツにおける大都市の制度改革やその運用改善にあたって一般に浸透しつつあるのではないか」との仮説(注5)が提起されていることは日本でも注目されるべきであろう。実際、これらの仮説を裏付けるように、ドイツでは最も人口の多い首都ベルリンでも343万人と、東京の4分の1に過ぎないのである。人口百万人を超える都市もハンブルク、ミュンヘンを加え3つしかない。今回、ドイツで新型コロナ感染対策が比較的うまくいっている理由として、こうした人口分散政策を挙げることはあながち間違いではないであろう。

 同時に少なくとも現時点で言えることは、地方の時代がこれから本当の意味で来るということである。多くの企業が人と人の接触を極力避けるため、半ば強制的にテレワーク含むリモートワークの実験に踏み出すことを余儀なくされた。この実験は長期化し、日本社会をジワジワと変えていく可能性がある。長距離、長時間「痛勤」は無駄だとの考えが広まれば、人々は余裕時間を確保し、東京でなくてもいい仕事は地方に移るであろう。半世紀近く「社畜運搬車」状態だった東京の「痛勤」電車は貨物輸送などより生産的な役割のために解放されるだろう。一方、人口が戻ってくる地方で新たな町おこしの動きが出るかもしれない。

 人が地方に分散して住むようになれば、集中型エネルギー源として経済的に無駄の多い石炭火力発電や原発は淘汰され、小規模自然エネルギーへの置き換えが進む。どう見てもバラ色の方向への変化しか思い浮かばない。こうした社会への転換の中で、「集中」「重厚長大」「大量生産・大量廃棄」「経済効率」という物差ししかない自民党も時代の遺物として廃棄されるだろう。そこにこそ日本復活の鍵がある。

 ●生活必需品を自給できる国がポスト・コロナの勝者となる

 コロナ危機は、グローバリズムの下で、国際分業体制が当たり前と考えていた世界を揺さぶり、一気に鎖国に追い込んだ。この一時鎖国状態の発生によって、自分たちの国に何が不足しているかが浮き彫りになった。アメリカは公的医療保険制度、中国は民主主義体制――。「自由・平等・博愛」が旗印のはずのフランスに、意外にも平等と博愛が不足していることも見えてきた。露骨なアジア人差別の横行がその証拠だ。

 日本に足りないものが生活必需品の自給体制であることもはっきりした。世界保健機関(WHO)や世界貿易機関(WTO)など3国際機関は、このまま国境管理による鎖国政策が各地で続いた場合「国際市場における食料不足が起きかねない」との声明を発表している。

 食料自給率が37%の日本は、コロナ禍が長引けば飢える可能性がある。今後どうすべきだろうか。当面、自給が可能なものはコメ、卵、牛乳だ。これらを食べて当座の危機をしのぐしかないが、コメにしても他に栄養源がなかった戦前の日本は年間1200万トン近く消費していた。今では人口が当時の1.5倍に増えているのに年間生産量は800万トンを切っている。今コメが自給できているのは「他の栄養源が豊富になり、日本人が以前よりコメを食べなくなったから」に過ぎず、コメしか食べるものがなくなったときにこの生産量で足りるのかと聞かれれば、答えはノーである。

 読者のみなさんは「平成の大凶作」といわれた1993年の大冷害をご記憶だろうか。この年、厳しい冷害のため東北では作況指数ゼロの地域が続出。初夏を迎える頃には凶作の噂が広まり、早くも店頭からコメが消え始めた。最終的に200万トン近いコメが不足、日本は1961年の「完全自給達成」以降では初めて外国産米の大量輸入に追い込まれたのである。

 この年――1993年のコメ生産量が790万トンといえば、現在の状況がどれだけ深刻かご理解いただけるだろう。日本のコメの生産基盤は弱体化し、毎年「平成の米騒動」当時と同じ生産量しかあげられていないのである。それでも当時のような米騒動が起きないのは、日本人が以前ほどコメを食べなくなったからだ。この状態で海外産の他の栄養源すべてがストップしたら――これ以上は、もう怖くて続けたくない。

 トヨタなど一握りの大企業の利益と引き替えに牛肉・オレンジ輸入を自由化した歴代自民党政権は、国民の胃袋を満たすものを海外に差し出し、空腹の足しにならないものを守るという売国的外交政策を繰り返し今日まで来た。いわゆる保守派と呼ばれる人の手に本誌が渡るとはとても考えられないが、本来なら愛国的な保守の人たちにこそこの危機を理解してもらいたいと思っている。マスクがいつまでも市民の手に渡らない日米両国が「北」のメディアにすら笑われていることはすでに述べた。衛生用品や食料品などの生活必需品さえ満足に自給できない国は、「北」のミサイル襲来を待たずしてみずから滅ぶことになろう。くどいようだが、日本の市民にとって最大の敵は「北」ではなく自民党と安倍政権であることを今すぐ知らなければならないのである。

注1)「打って一丸」の危うさ(ブログ「内田樹の研究室」2020年3月6日付記事)

注2)「北朝鮮データブック」(重村智計・著、講談社現代新書、1997年)P.66

注3)この映像は動画投稿サイト「ユーチューブ」にアップロードされており、本稿執筆時点でも見ることができる。

注4)「朝日新聞」2020年2月28日付記事。

注5)「ドイツにおける大都市制度改革の現状と課題―都市州(ベルリン・ハンブルク・ブレーメン)と中心都市・周辺地域問題-」(片木淳・早稲田大学政治経済学術院公共経営大学院教授)

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危急存亡の事態でも「縁故主義」「お友達びいき」しかない安倍政権 「営業自粛要請」から理美容業界が外された本当の理由

2020-04-13 21:31:30 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」に発表した記事をそのまま掲載しています。)

 新型コロナウィルスは首都圏や関西などの大都市圏で爆発的な流行に発展しつつある。

 東京都のホームページを見ると、都の人口は3月1日現在で13,951,791人となっている。これは住民基本台帳に基づいた人口で、都内に住民票がある人の総数だ。実際には住民票を移さないまま住んでいる人もいるから実勢はすでに1400万人を超えている可能性も考えられる(本来なら今年は5年に1度の国勢調査の年だが、国政調査は住民票をどこに置いているかにかかわらず、現住所を書くルールになっているので、国勢調査が予定通り行われれば、来年の今頃には「速報値」の公表によって東京都の実勢人口が1400万人を超えたかどうかが明らかになる。ただ、国勢調査もこの情勢では延期となる可能性がある)。

 筆者が子どもの頃は、東京・埼玉・千葉3県の合計でこれくらいの人口だった記憶があるから、人口の東京1極集中はこの間、さらに進んだことになる。「東京1極集中の是正」「多極分散型国土形成」なんて筆者が子どもの頃から言われていたが、お題目とはいえ唱えられていただけマシで、現在ではそんな声もまったく聞かれなくなった。極端な新自由主義政策の下で、日本は東京と心中する政策的方向性を強めつつあったが、新型コロナはそんな1極集中の危険性と脆さを露呈させた。このまま大都市の過密を改めなければ、日本はいずれ滅びることになる。新型コロナは日本に対する天からの警告としか思えない。

 さて、東京都を含む7都府県に緊急事態宣言が出され、外出自粛が呼びかけられた。人の多く集まる場所への不要不急の外出を控えることは、このウィルスの持つ性質上やむを得ないが、解せないのは自粛要請の対象範囲だ。病院は言うに及ばず、食料品販売店、ガソリンスタンド、福祉施設などは必要不可欠だから営業を続けるべきであろうし、ホームセンターなども、引越シーズンであることなどを考えると営業せざるを得ない部類に入るだろう。

 だが、東京都が営業自粛を求めるべきとした理髪店や美容院に対し、国が営業自粛とすることに激しく抵抗しているのはまったく理解できない。西村康稔経済財政担当相は、理髪店・美容院が「必要不可欠な生活サービスだ」として営業自粛をあくまで求めない構えだが、市民感情からはあまりにかけ離れている。今のこのご時世、死の危険を冒してまで散髪に行きたい人間がいったいどれだけいるのか。補償と引き替えに休業を強制してもなんら問題ない業種の筆頭のはずなのに、この理不尽さはいったい何なのか。

 「誰の目から見ても理不尽な政策、理解不可能な方針が打ち出されているときは背後にある人とカネの流れを追え」が当研究会の基本動作である。その基本動作に従ったところ、案の定、クラクラするほど明瞭に出てきた。

 平成27(2015)年度政治資金収支報告書(日本理美容教育政治連盟)~総務省ホームページから

 理髪店・美容院の業界団体である「日本理美容教育政治連盟」から自民党にしっかり献金が渡っている。この資料の7ページに、尾辻秀久参院議員(自民、鹿児島選挙区)に対し、54万円が「顧問料」名目で支払われたとの記載がある。

 さらに続けよう。理美容業界の広報媒体である「理美容ニュース」には、この業界と自民党のズブズブの関係をうかがわせる記載がいくつも見られる。例えば、2013年7月23日付「理美容ニュース」には、こんな記載がある。

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●角野悦雄山口県理容衛生同業組合理事長が安倍晋三首相を表敬訪問

 参議院議員選挙で自民党が圧勝した翌日の2013年7月21日、安倍晋三首相の地元・山口県の角野悦雄山口県理容衛生同業組合理事長はじめ、山口県組合の役員らが首相官邸を訪問し、安倍首相に祝意を伝えた。

(中略)

 安倍首相は山口1区が選挙区で、父・安倍晋太郎氏(外務大臣、故人)より地元の理容組合との関係が深い。また、今回の参議院議員選挙では全国理容政治連盟中央会(会長・大森利夫全国理容生活衛生同業組合連合会理事長)は自民党の衛藤晟一議員(比例区、当選)を推すなど、理容業界と自民党の結びつきは強い。
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 2014年12月12日付「理美容ニュース」も以下のように誇らしげに伝えている。

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●選挙に勝つには理美容店との関係が大切

 衆議院議員選挙も終盤戦に入ったが、政治家は選挙に勝つためにも地元の理容店美容店との関係を大切にしている。政治家相手の選挙のマニュアル本というのがあるらしく、そう指南している。

マニュアル本いわく

・地元の床屋にマメに行け!できれば月に一度以上、店は何件もハシゴしろ
・店主や美容師と仲良くなれば票になる
・特に床屋は地元の高齢者が集まる情報サロンであり、人脈が広がる可能性がある

というようなことが書いてあるらしい。

(中略)

 「短髪のおじさん政治家は頻繁に床屋へ散髪のため顔を出したり、自分が行かなくても後援会メンバーや秘書に足繁く通わせたりするようです。」とある。

 理美容業界は政治家との結びつきは強く、業界団体の新年会には毎年多数の国会議員が出席する。業界は業界の要望を政治家に託し、政治家は集票を業界に期待するという持ちつ持たれつの関係が構築されている。
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 自分たちへの業界への利益誘導を、ここまで露骨かつ誇らしげに宣伝する業界も今時珍しい。

 別に私は、ここ数年精力的に取り組んできたJR北海道の路線存廃問題、特に日高本線の存廃問題をめぐって、積極的に廃線を主導する論陣を張っている地元のネトウヨ理髪店主から2017年秋に受けた個人的な嫌がらせに「私怨」を抱き、その報復をしたくてこんなことを書いているのではない。そんな些末なことは動機ではないと言い切ってしまえばウソになるが、あったとしてもそれは動機全体の1%くらいに過ぎず、残り99%は安倍政権の縁故主義政治を告発するためである。このネトウヨ理髪店主が韓国に対するヘイト書き込みのため、Facebookアカウントを開設直後に一時停止された事実があるからといって、「週刊文春」に告発するつもりもない。せいぜい、大勢が見ている、ここレイバーネットでこっそり告発するくらいにとどめておこう。

 すべての東京都民、そして日本の市民に訴える。安倍政権は、国民の一定割合が新型コロナウィルスのため命を落とすかもしれないという未曾有の危急存亡の事態にあっても、営業自粛を求める業界を「自分たちにカネと票を出してくれるかどうか」を基準に決めているのだ。もはや怒りすら湧いてこない。縁故主義と「お友達びいき」でしか政策判断のできない最低レベルの政治しか持ち得なかった日本のなんと不幸なことか!

 今は緊急事態である。安倍政権が国民を滅ぼすか、国民が安倍政権を滅ぼすかの最終決戦のときが来たのだ。私たちはこの闘いに勝たねばならない。いつまでも続くこの縁故主義、「お友達ファースト」政治を許し続ければ、次はあなたが「死ぬ番」かもしれないのだ。 

(文責:黒鉄好)

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時代の転換点に起きた新型コロナウィルス大流行~「ポスト・コロナ」後の世界を読む

2020-03-25 23:25:19 | その他社会・時事
(この記事は、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2020年4月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 年明け早々、中国湖北省武漢市でひっそりと始まった新型コロナウィルス(COVID-19)の大流行は、文字通り一夜にして世界の光景を一変させてしまった。地球上のあらゆる目抜き通りからは人が消え、誰もが自宅に閉じこもり、息を潜めて状況の推移を見守っている。

 世界史的に見ると、1720年代にはペストの大流行があった。1820年前後にはコレラが世界的猛威を振るった。1920年代には「スペイン風邪」が大流行。「職業としての政治」「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などの著作で知られるドイツの社会学者マックス・ウェーバーは同年、スペイン風邪で没している。そして今回のコロナウィルス大流行だ。未知の伝染病流行は、まるで計ったように正確に100年周期で起きている。

 伝染病流行がなぜこのような周期性を持っているのかは判然としない。地球上で歴史を作る生物は人間だけだが、伝染病の流行はしばしば歴史を作らない他の動物による影響も受けるからだ。生物の進化や退化、生活環境の変化も加味しなければならず、伝染病の流行がなぜ周期性を持つのかの説明は難しいのが実態だ。

 歴史的資料が少なすぎて検証が困難な1720年代の事情や、人間以外の動物の動向も無視して近代以降の人類史だけで見ると、1820年代のコレラ流行時はフランス革命とアメリカ独立から半世紀弱という時代だった。アメリカは次第に国際社会で力を付けつつあったが、1823年、モンロー大統領が自国第一主義を採り、国際社会には積極的に関わらない、とする有名な「モンロー主義」宣言をしている。また、1920年代のスペイン風邪流行当時は第1次大戦が終了した直後で世界は疲弊していた。アメリカは第1次大戦に最終段階になって参戦、ヨーロッパがみずから始めながら終了させられないでいた大戦に終止符を打ったことで国際的な威信を高めたが、100年続いたモンロー主義を転換して積極的に国際社会の秩序づくりに関わるには至っていなかった。そして、今回のコロナウィルス大流行も、EUから英国が離脱、トランプ政権が「自国ファースト」を唱え、国際社会との関わりを縮小させる方向性を強める中で起きている。

 こうしてみると、世界的な伝染病の大流行は、内政、外交ともに国際協調よりも自国優先の内向きの政策を採り、国際社会でリーダーシップを取る意思のない国が大勢を占める時期に起きていることが見えてくる。伝染病の局地的な発生はいつの時代も地球のどこかで起きているが、感染拡大防止に向けた国際協調体制を世界が足並みを揃えて構築できないとき、それが拡散して惨事にまで至るのだと考えるべきだろう。またこれに付随して、国際社会の「覇者」が交代局面を迎えている時期に大流行が起きているという共通点も見逃せない(1820年代はアメリカの発展、1920年代はアメリカ「覇権」の確立、そして今回はアメリカから中国への覇権交代という世界史的事情が背景に見える)。疫病の大流行がしばしば世界史の転換点になったと主張する著作も過去、数多く出されているが、実際には疫病それ自体が歴史の転換点になったというよりも、歴史の転換点に起きた疫病の大流行が後世に生きる人々から見てその象徴として認識されたという側面が大きいように思われる。疫病の世界的大流行に周期性があることも、こうした世界史との関係の中で説明できるのではないだろうか。

 ●<国際社会>世界の覇権はアメリカから中国へ移る

 ほぼ200年にわたって続いてきたアメリカの国際社会における覇権は、経済的にはともかく政治的にはこれで終わることになる。今回の新型コロナウィルスの発生源が中国だったにもかかわらず、中国は早期の「封じ込め演出」に成功し、国際社会での発言力を強める。

 中国は「一人っ子政策」の弊害がこれから表面化し、日本を上回るハイペースで少子高齢化に見舞われる。人口が高齢化する国が発展を続けることはあり得ないので、中国は「一帯一路」構想を通じてEUのような「アジア連合」の結成をもくろみ、その中心をみずからが占めようとするだろう。人口構成の若い東南アジア、中央アジア諸国の取り込みに成功すれば、北京はEU本部のあるブリュッセルのようになる。

 ブリュッセルに首都を置くベルギーも15歳未満の人口比率が世界194カ国中152位、逆に65歳以上の人口比率が23位という少子高齢化国家だが、単に政治的、社会的「司令塔」になるだけなら人口構成が若いこと、経済活動が活発であることは必要条件ではない。

 ●<国際経済>世界は緩やかに「大きな政府」へ向かう

 第2次大戦後、局地的戦争はあったが、世界の何分の一かが巻き込まれるような大きな戦争がなかった。このような平時は行政需要が増大し、官僚機構が膨張する。日本でも世界でも膨張する官僚機構をどのように縮小するかが課題となった。この問題に最も効果的に応えるのが新自由主義の導入だった。行政改革が合い言葉となり、公共サービスはどんどん解体、民営化された。1980年代頃から拡大した新自由主義は、2000年代に入る頃から弱者切り捨て、格差拡大として問題視されるようになった。

 国民皆保険制度を持たないアメリカで、新型コロナウィルスの拡大が止まらないことは、新自由主義の恐ろしさをまざまざと見せつけている。貧困層は検査通院すら困難なアメリカの事情を考えると、実際の感染者数は公式発表よりはるかに多いと見るべきだろう。

 アメリカでは現在、大統領選挙に向け予備選が行われているが、とりわけ民主党の候補者選びにおいて最左派のバーニー・サンダース候補が唱える「国営の皆保険制度創設」に若者の強い支持が集まっている。サンダースが所属する民主党内の最左派グループ、DSA(アメリカ民主的社会主義者)はわずか数年でメンバーを大幅に増やしており、若者を中心とした戸別訪問で支持者と票を発掘し、勢力拡大につなげている。ソ連時代の硬直した官僚的社会主義体制を知らない若い世代によって、社会主義は負のイメージを刷新されつつある。新自由主義の怖さを目の当たりにした世界は、新型コロナウィルスの大流行を機会に、一気に社会主義への移行は無理としても、大きな政府を求める人々の声を背景に、再びその方向に舵を切り始めると予測する。

 ●<日本社会>東京五輪が開催できず韓国、台湾との差が決定的になる

 今年7月に迫った東京五輪までに事態が収束する可能性はほぼゼロに近い。少なくとも東京五輪の予定通りの完全開催の目は消えたと言ってよく、本誌が読者のお手元に届く頃には何らかの重大決定(中止または大幅延期)が行われている可能性もある。仮に中止決定なら、日中戦争拡大により自主返上させられた1940年大会に続き、「開催決定後二度も大会中止に追い込まれた世界唯一の都市」という記録が打ち立てられる。大会招致関係者には耐えがたいかもしれないが、それはそれで意義あることだと本稿筆者は考える。

 2020年夏の五輪招致に当たって、IOC(国際五輪委員会)が2012年5月に実施した世論調査では、候補地となっていたマドリード(スペイン)、イスタンブール(トルコ)、東京の3都市のうち、住民の招致「賛成」はマドリード78%、イスタンブール73%に対し東京は47%。逆に「反対」はマドリード16%、イスタンブール3%に対し東京は23%だった。東京は賛成が圧倒的に少なく、逆に反対は3都市の中で最多であったことを改めて指摘しておきたい。

 この世論調査を受け、IOCは、東京が開催地となった場合に懸念すべき点として、夏の電力不足のほか日本国内の「熱気不足」を指摘している。初めから都民の半分も支持していなかった五輪、福島第1原発からの汚染水流出が止まってもいないのに「アンダーコントロール」とウソまでついて招致した五輪はやはり招致自体が間違っていたのである。

 開催決定後も、エンブレム選定をめぐるゴタゴタや旧国立競技場解体後に浮上した新国立競技場の工法変更などトラブルが続いた。3月20日の聖火到着式では聖火リレー用の聖火がなかなか点火しないばかりか、航空自衛隊「ブルーインパルス」による空への五輪マーク描画も5色の煙があっという間に強風で流され失敗に終わった。東日本大震災被災者を置き去りして「復興五輪」のかけ声だけを空しく響かせてきた東京五輪の前途を暗示するようだ。予定通りの開催が不可能となった今、東京五輪は延期ではなく中止しなければならない。

 新型コロナウィルス対応をめぐって、東アジアの中では日本と韓国・台湾との間に潜在的に存在していた政治的・社会的レベルの差が表面化してきた。医療崩壊を言い訳に、重症患者に対する検査さえ満足に行おうとしない日本政府への不信、批判が拡大しつつある。専門家の間で意見が分裂し、不毛な批判、罵倒合戦が繰り広げられている日本の状況は、福島第1原発事故の頃とそっくりだ。

 韓国ではドライブスルー方式により、自家用車に乗ったまま病院の建物内に入らず新型コロナウィルスのPCR検査が受けられるようになり、感染者の確定を容易にしている。軽症者も含め、感染の全体像を明らかにできれば、致死率が高くないことが科学的に証明され、国民に安心感がもたらされる。

 台湾では国民健康保険証のICチップに入力された個人データを基に、1人当たりマスク購入枚数に上限を設け、健康保険証と引き替えにマスクが確実に購入できるシステムが短時間で構築された。不足するマスク増産のため、受刑者による刑務作業がマスク製造に切り替えられ、効果を上げている。台湾政府がこのような実効性のある政策を次々に打ち出しているのに、日本ではマスクの品不足とネット転売屋とのいたちごっこが繰り返され、トイレットペーパーを買えない市民は政府ではなくドラッグストア店員に無秩序に怒りをぶつけ混乱を拡大させている。

 1955年の保守合同によって自民党が結党して以降、日本ではこれまで65年間で4回しか政権交代をしていないが、韓国では1987年の民主化以降の33年間で3回、台湾でも1996年の民主化以降24年間で3回の政権交代が実現している(韓国は政党が頻繁に変わっているので、ここでは右派・左派間の政権移動を政権交代と定義している)。大統領制の韓国・台湾と議院内閣制の日本を一律に論じられないとしても、日本の政権交代の少なさ、改革への「拒絶反応」の強さは異常だ。政治の「民主化度数」で日本はすでに両国に大きく水をあけられ、今、その背中も見えなくなりつつある。

 そこに追い打ちをかけるように新型コロナウィルス対応の「差」が表面化した。筆者は、東アジアで韓国・台湾が先進国、日本は「衰退途上国」との評価が確定する時期を2020年代末期と予測していたが、日本のこの体たらくを見ていると、その時期は大幅に早まることになろう。

 ●<日本経済>構造転換に失敗した日本経済はますます観光依存を強める

 新型コロナウィルスの影響で、ここ数年、日本経済を支えてきた外国人観光客の客足はぱたりと途絶えた。2012年まで、年間600~800万人台で安定的に推移していた外国人観光客数は、2011年の福島第1原発事故という大きなマイナス要因があったにもかかわらず2013年から爆発的に増え始め、2018年には3000万人を超えた。5年で5倍はあまりに急激であり、当然ながら弊害も出る。最大の観光地の京都では路線バスが外国人観光客に占拠されて市民が乗れないなどの苦情が出始め、ついには「観光公害」という新語さえ登場。市長選では全候補が「観光客の抑制」を公約に掲げざるを得ないほどの異常事態となった。新型コロナウィルス大流行はそんな矢先の出来事だった。

 今、閑古鳥の鳴く観光地では多くの観光施設が経営破たんの危機にあり、早くも収束後を見越した外国人観光客待望論が出始めている。これに対し「中国一辺倒の観光政策」の見直しを求める声も上がる。日本の観光政策は、収束後どちらに向かうだろうか。

 筆者は「結局、外国人観光客は日本に戻る」と予測する。福島第1原発事故という負のイメージにもかかわらず、外国人が日本に押し寄せていたのは、バブル崩壊後「失われた20年」の中でまったく経済成長しなかった結果、日本がアジアでも有数の「安い国」になったことと大きく関係している。外国人観光客にアポなしで「突撃」して密着取材する民放テレビのバラエティ番組が人気を集めているが、先日、筆者が何気なくそれを見ていて率直に驚いたのは、フィリピン人とタイ人の観光客が、日本の100円ショップで「日本は物価が安い。このショップで売られているものの大半は私たちの国では190円くらいする」と述べていたことだ。かつて中国製やマレーシア製なんて「安かろう悪かろう」の代名詞だと多くの日本人は思っていたが、今や事態はすっかり逆転していたのである。

 日本が安い国になったことは、相対的に外国人観光客の経済力が強まったことを意味する。加えて、衰退する製造業に代わってアメリカのGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)のような知的産業中心への産業構造転換にも失敗した結果、日本は観光で稼ぐくらいしか生きる道がなくなりつつある。中国人観光客に批判的な人たちは、観光業が日本のGDP(国内総生産)比5%であることを根拠として「観光客くらい来なくても大した影響はない」とうそぶいているが、パチンコ・パチスロ産業のGDP比が4%、農業に至ってはわずか1%であることを考えるなら、その影響を軽視できないことは明らかだ。今や観光は、農業の5倍、パチンコ・パチスロ産業に匹敵する経済規模となっている。これを失って日本経済が立ち行かないことは明らかであり、日本はギリシャ、イタリア、スペインのような「産業構造転換に失敗後、観光国家転身に成功した国」を今後のモデルとせざるを得ないのではないだろうか。

 以上、新型コロナウィルス大流行の収束後に予想される政治、経済、社会の変化を世界、日本のそれぞれ別に予測してみた。筆者はこの予測にある程度自信を持っており、大きく逸脱することはないと思っている。

(2020年3月22日)

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「有事のトイレットペーパー不足」が起きるメカニズムを考える

2020-03-04 23:11:44 | その他社会・時事
新型コロナ拡大に伴って「またか」と心底うんざりさせられるのはトイレットペーパー不足のニュースである。東日本大震災のときもトイレットペーパー買い占めが起きたし、古くは石油危機のときも買い占めはトイレットペーパーだった。日本の食糧自給率(カロリーベース)は4割にも満たず、エネルギー自給率に至ってはわずか9.6%(2017年時点)。供給不足の心配をするなら食料や燃料の方が先だろうと私は思ってしまうのだが、なぜか有事に不足するのはいつもトイレットペーパーと決まっている。今日は、なぜ日本で有事に買い占めによる不足が起きるのが食料でもエネルギーでもなくトイレットペーパーなのかについて考えてみる。

1.デマを流す人の心理

「物資不足」デマを流したい人が、どんな物資なら人びとに信用してもらえそうか(=どんな物資なら騙せそうか)を考えるとき、やはり石油危機の記憶は大きいらしい。有事になるとトイレットペーパーが「不足するだろう」→「不足するに違いない」→「不足しなければならない」と考えがエスカレートした結果、「トイレットペーパーが不足する」というストーリーの結論部分が先に決まる。「初めに結論ありき」の典型だ。

そして、この結論が決まったら、多少強引でもいいからそこへストーリーを落とし込む。考えてみれば今回のデマの発端となった「トイレットペーパーとマスクはどちらも原料が同じ(紙)で、主に中国で作られているから、新型コロナで中国のサプライチェーンが動かなくなれば供給に支障が出るに違いない(あるいは、支障が出なければならない)」という論理は飛躍しすぎているし、マスクの原料は不織布であって紙ではない。だが、有事でパニックになると白い物は全部紙が原料と思い込む人が一定割合でいるらしく、こうしたデマに容易に騙される人が出てくる。

考えてみれば、消費期限が短く、余っても腐らせてしまうだけの生鮮食料品では買い占めにつながりそうもないし、例えば乾電池などは災害時には供給が途絶して過去、実際に不足が起きたこともあるとはいえ、小さくて軽トラック1台でも1度にかなりの個数、輸送ができてしまうからやはり簡単に不足は起こせそうもない。これに対し、トイレットペーパーはある程度「かさばる」ためトラック1台で輸送できる量には限りがあるから輸送がパンクしやすい。おまけに備蓄も可能だ。デマを流す側にしてみれば、不足騒ぎを起こすのにこれほど適した物資もない。これからも「トイレットペーパーが不足する」というデマは有事のたびに起き、そして実際に店頭から消える騒ぎは繰り返されるだろう。

2.「物流」の問題

これは、当ブログではJR路線問題と絡んでたびたび取り上げてきており、今さら繰り返すまでもない。現在、日本ではトラックも運転手も不足気味で、有効求人倍率は2倍を超えている。ネット通販の急成長に伴って貨物取扱量は増える一方なのに、運転手の主力は50~60歳代と高齢化している。今や平時でも物流はギリギリ状態なのに、業者から急な発注が入っては運びきれない。しかも1で見たようにトイレットペーパーは「かさばる」ため1度に運べる量が限られているにもかかわらず、生活必需品として頻回な輸送が発生する。単価が安いので利幅も小さく、物流業者にとっては正直「扱いたくないもの」の筆頭といえる。

3.「小売店側」の問題

それでも上記1と2については、まだ業界事情にそれほど詳しくない人でも想像がしやすいかもしれない。だがこれから説明する小売店側の問題は、ある程度この業界の事情に通じていないと理解が難しいだろう。

実は、当ブログ管理人は今の会社に就職する前の学生時代に、地方に基盤を置く総合スーパー(イオンのような形態のスーパー)で5年ほどアルバイトした経験を持つ。当ブログ管理人がバイトしていたのは80年代後半~90年代前半。世はバブルが最後の輝きを放っていた時代だが、当時と今とを比べてみても、ネット通販が登場して、それに押されていることくらいで、基本的な業界構造はそれほど大きくは変わっていない。

今回のように、大きな自然災害に見舞われ物流が途絶したわけでもなく、静岡県富士市の製紙会社「丸富製紙」が天井に届かんばかりの大量のトイレットペーパーの在庫を持っている様子を写真で公開もしている(参考記事:「「トイレットペーパー、倉庫に在庫潤沢 ご安心を」富士・丸富製紙のつぶやきが拡散」(2019/3/3「毎日」)にもかかわらず、買い占め騒ぎが収まらないのは、多くの消費者が「そうは言っても、自分の近くのどの店に行っても実際、置いてない」と感じているからである。メーカーには天井に届くほど在庫があり、物流も途絶していないのに「どの店に行ってもない」原因は実は小売店側にもある。事態を読み解くカギは「倉庫面積」だ。あなたの近くのスーパーや小売店が今回のような有事にどの程度商品を切らさずに持ちこたえられるかのカギを握るのは、売場面積よりもむしろ倉庫面積なのである。

バブルが崩壊した90年代中盤くらいから、スーパーやドラッグストアなどの小売業界では、倉庫面積を減らす動きが相次いだ。売場と違い、倉庫は直接売り上げには結びつかず、逆に面積が広ければ広いほど保管経費や固定資産税などがかかるから、スーパーやドラッグストアにとっては手っ取り早く経費を削減するには倉庫の面積を減らすのがいい。直接的なコスト削減効果があり、しかも顧客には見えない部分だから消費者イメージの低下の心配もしなくてすむ。倉庫面積が減ったぶんは、卸売業者に発注する回数を増やし、少しずつ頻繁に納品してもらえばいい。当時は今と違い、トラックも運転手も余っていたから輸送回数が増えることによるコスト増加はいくらでも卸売業者に転嫁できた。結果として、スーパーやドラッグストア業界はトヨタばりの「ジャスト・イン・タイム」方式的「少量頻回発注納品」体質にすっかり甘えたまま今日まで来てしまった。ところが、急速に進む少子高齢化でトラックも運転手も過剰から不足に転じ、この「少量頻回発注納品」方式が急速な逆回転を始めているのがスーパーやドラッグストア業界の現状なのである。

経費節減のために倉庫の面積を減らす動きは、まず地価や固定資産税の高い都心の一等地の店舗から表面化した。特にコンビニでは倉庫スペースがほとんどないため、納品に来た業者が直接売場に商品を陳列するような極端な例も珍しくない。こうした店舗では、販売力は売場面積を超えられないが、こうした都心一等地の店舗ほど人口密集地でもあるため、今回のような有事には真っ先に買い物客が殺到する。都心で地価も固定資産税も高いため、コストばかりかかり、売り上げにつながらない倉庫面積を極限まで削減した結果、販売力が小さくなった店に、人口密集地で買い物客が殺到するのだから、物がなくなるのは当然だ。そこに、上記の2で説明した事情(生活必需品であるにもかかわらず、かさばるため輸送コストがかかる)が重なった結果、最も早く欠品状態となるのがトイレットペーパーとなるのである。

有事にあって物流が一定期間途絶えたとき、あなたの生活圏にある行きつけのスーパーやドラッグストアが「欠品をできるだけ出さずに持ちこたえられる店か否か」を見極める方法は、売場よりも「十分な面積を持った倉庫があるか」「物資に備蓄があるか」がポイントになる。今度買い物に行ったときでかまわないから、店の周りをぐるりと1周、回ってみて、倉庫の広さとともに、配送のトラックが週に何回程度来ているかも確認してみるといいだろう。十分な倉庫面積を持ち、配送トラックの来店回数も1週間に1~2回程度なら、その店は有事にもある程度持ちこたえるだろう。そうでないなら、その店は持ちこたえられないということになる。かつて小売業界を経験した当ブログ管理人からのアドバイスである。

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「新型コロナ感染予防にマスク着用不要」というWHOの言葉を信じないのはなぜ?

2020-03-02 00:22:06 | その他社会・時事
WHOの言葉を信じないのはなぜ?:「新型コロナ感染予防にマスク着用不要」:私たちとヤフコメ民と情報(碓井真史氏のブログ)

・・・という記事が出ているが、WHOは新型コロナウィルスに対して、専門家集団という建前とは裏腹に、きわめて対応がずさんな上、こう毎日コロコロ言うことが変わる朝令暮改ぶりでは信じてくれといわれても難しい。

マスクが必要か不要かについては専門家の見解も分かれている。「コロナウィルスは小さな微粒子で、マスクの目などすり抜けてしまう。感染防護上は意味がない」との意見がある一方で、「ウィルスは空気感染だけとは限らない。患者の咳などによって飛ぶ飛沫はマスクの目より大きく、引っかかってしまうので、飛沫感染を防ぐ上での予防効果はないわけではない」と効果を認める意見もある。

実際はどちらの意見も医学的には正しいのだと思う。原発事故直後の福島でも、マスクをするかしないかについては激しい論争があった。「事故で直接原子炉から放出された放射性物質の微粒子は細かく、通常のマスクで防ぎきれないので、しても意味がない」という学者が大勢を占める中、「空中を舞い、地上に落下などする途中で空気中のちりやほこりと結びついた放射性物質の微粒子の場合は、ちりやほこりがマスク表面に引っかかるため、付けないより効果があるのは確実」とマスクを推奨する見解もあった。

専門家の意見も割れていることに気づいた当時の福島県民は、結局、最後は自分の信じたいものを信じると決め、マスクを付け続ける人、外す人に分かれていった。マスクをしている人としていない人の間に見えない壁ができ、それが自分にとっての敵味方を見分ける哀しいシンボルとなった時期もあった。同じ空間を共有していても、マスクをしている人としていない人の両方にとって、互いに相手方が「パラレルワールド」に住んでいると感じるような、奇妙かつ痛々しく突き刺さる空気感があった。

あの微妙な「福島」後の世界で2年を生きた当ブログ管理人にとって、「医学的な正解」と「社会的な正解」が必ずしも同一ではないと理解できたことは、今回の新型コロナ問題を背景まで含めて深く理解する上で役立っている。

今回の新型コロナウィルスへの感染を防ぐため、マスクは不要か必要か。「必要であるとともに不要でもある」が正解と当ブログは答えたい。回答になっていない、とお叱りを受けるかもしれないが、これは当ブログなりに考えて出した結論である。

医学的正解だけを追い求めるならば、多くの医療関係者が主張するように非感染者のマスク着用は不要だろう。マスクはすでに感染してしまった人が非感染者に飛沫などを通じて感染を広げないためのものだからである。専門家やWHOの主張は、この意味では何ら間違っていない。

しかし、社会的正解を追い求めるとなると、結論は大きく変わってくる。そもそも、世の中には他人はおろか、自分自身を未知の病気から防護するという意識すら希薄な人たちが一定の割合で存在する。そうした人たちは「意識が低い」ため、今回のような未知のウィルスがまん延し始めた場合、まん延初期で他の誰よりも早く感染してしまう。そのような、自分自身を守る意識すら持てない人びとに対し、他人に未知の病気をうつさないようにするためのマスク着用の期待が果たしてできるだろうか? 当ブログの答えは断じて「否」である。

となると、周囲の「まだ感染していない、意識のそれなりに高い人たち」が自分自身を感染から守る手段はひとつしかない。「自分自身の防護さえしようとしない意識の低い人たち」からの巻き添えで感染させられるのを防ぐには、結局は自分自身がマスクをするしかない、という結論になる。一般市民のこの感覚が理解できない専門家が「未感染の健康な人たちがマスクを買い占めるのは重傷者を救うためにならない」といくら訴えても、「明日自分が重傷者になるかもしれない」という心理が市民に働いている限り、マスクを買いたいと思う行動を止めることは不可能に近いのである。

もう少し、わかりやすく説明したほうがいいかもしれない。例えば、何度検挙されても酒気帯び運転がやめられず、「今回だけは大丈夫。事故は起こさないし、捕まることもない」という根拠のない自信に衝き動かされ、車を運転してしまう。あるいは、不倫が道徳的にも法的にも許されないとわかっていても、発覚した場合にリスクがいかに大きいか頭では理解できても、「今、ここにある快楽」につい身をゆだねてしまう。

何度も酔っ払い運転や不倫などの問題行動を起こす人はだいたい決まっており、そうした特定少数の人たちをどう矯正するかが長らく社会政策上の課題だった。だが、最近はあまり上手くいっておらず、同じ人によって同じことが何度も繰り返されているように思われる。周囲の人たちも、そうした問題行動を繰り返す特定少数への対応に疲れ果てているように見える。

曲がりなりにも民主主義のルールの下で、汚染された都市を丸ごと封鎖する中国、入国禁止を破った市民から永住権を剥奪するシンガポールのような独裁国家と同じような強権発動を日本ができない以上、もはや善良な不特定多数が「君子危うきに近寄らず」的対応を取るしかない状況に追い込まれつつある。車の鍵を預かり、運転代行が来るまで渡さない飲食店が増えたことや、既婚者でありながら不倫に身をやつしている本人よりも、既婚者と知りつつ交際相手となった人物のほうにバッシングが集中するような最近の新たな事態を見ていると、「問題行動を起こす本人を矯正するのはもう無理。周りが気をつけないと」というムードになりつつあるのだ。問題行動を繰り返す特定少数に対処する社会的コストが日本ではあまりに高くつき過ぎ、善良な不特定多数が対処する社会的コストのほうが安くてすむ場合、社会がそのような解決策を受け入れる、ということが往々にしてある。

今回の新型コロナウィルスもこのケースに該当するものと思われる。「連日、コロナ、コロナと報道で言っているのに、マスクもせずに咳をしているバカに何を言っても仕方ない。自分が巻き添えにならないようにマスクをすればいいことだ」とみんなが考え、そのように行動する。問題行動を繰り返す特定少数への対処コストが高すぎるため、善良な不特定多数が対処を強いられるが、このような場合、必ずどこかに社会的しわ寄せが行く。今回はそれがたまたまマスク業界となったのである。

本当の意味で危機管理を成功させたければ、人びとの心理面にまで踏み込み、きちんと分析した上での対策が必要になる。テレビに出演し「医学的な正解」だけを繰り返す専門家は、カルテは読めても世論=人びとの心理面は読めない人たちなのだろう。そこまできちんと読めてこその専門家だと当ブログは思うが、当の本人たちは「それは心理学者かせいぜい官僚の仕事であって、自分たちの守備範囲ではない」と考えているのかもしれない。もし本当にそうだとしたら、それこそが日本の危機管理を混乱に陥れている元凶であることに、いい加減気づくべきだろう。彼ら自称「専門家」たちは今後も事務系官僚に使われるだけで、重要な政策決定の舞台に立つことはできないと思う。

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サーチエンジンに「安倍を」と入れたら出てきた結果が凄すぎる件

2020-02-29 23:26:37 | その他社会・時事
先ほど、ネットで何の気なしに「安倍を」と検索エンジンに入れてみたら、上の画像のような結果が出た。

ヤフーなどの大手ポータルサイトでは、投入したキーワードに関連づけ、頻繁に検索されているキーワードが表示される。つまり、これらが今、安倍首相に関連して最もよく検索されている単語ということだ。

正直、ネットを見てこれほど身震いしたのは久しぶりだ。なぜ首相には自治体のトップのようなリコール(解職請求)制度がないのだろうか。この男を今すぐ辞めさせないと本当にまずいと思う。

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