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「新型コロナ感染予防にマスク着用不要」というWHOの言葉を信じないのはなぜ?

2020-03-02 00:22:06 | 社会・時事
WHOの言葉を信じないのはなぜ?:「新型コロナ感染予防にマスク着用不要」:私たちとヤフコメ民と情報(碓井真史氏のブログ)

・・・という記事が出ているが、WHOは新型コロナウィルスに対して、専門家集団という建前とは裏腹に、きわめて対応がずさんな上、こう毎日コロコロ言うことが変わる朝令暮改ぶりでは信じてくれといわれても難しい。

マスクが必要か不要かについては専門家の見解も分かれている。「コロナウィルスは小さな微粒子で、マスクの目などすり抜けてしまう。感染防護上は意味がない」との意見がある一方で、「ウィルスは空気感染だけとは限らない。患者の咳などによって飛ぶ飛沫はマスクの目より大きく、引っかかってしまうので、飛沫感染を防ぐ上での予防効果はないわけではない」と効果を認める意見もある。

実際はどちらの意見も医学的には正しいのだと思う。原発事故直後の福島でも、マスクをするかしないかについては激しい論争があった。「事故で直接原子炉から放出された放射性物質の微粒子は細かく、通常のマスクで防ぎきれないので、しても意味がない」という学者が大勢を占める中、「空中を舞い、地上に落下などする途中で空気中のちりやほこりと結びついた放射性物質の微粒子の場合は、ちりやほこりがマスク表面に引っかかるため、付けないより効果があるのは確実」とマスクを推奨する見解もあった。

専門家の意見も割れていることに気づいた当時の福島県民は、結局、最後は自分の信じたいものを信じると決め、マスクを付け続ける人、外す人に分かれていった。マスクをしている人としていない人の間に見えない壁ができ、それが自分にとっての敵味方を見分ける哀しいシンボルとなった時期もあった。同じ空間を共有していても、マスクをしている人としていない人の両方にとって、互いに相手方が「パラレルワールド」に住んでいると感じるような、奇妙かつ痛々しく突き刺さる空気感があった。

あの微妙な「福島」後の世界で2年を生きた当ブログ管理人にとって、「医学的な正解」と「社会的な正解」が必ずしも同一ではないと理解できたことは、今回の新型コロナ問題を背景まで含めて深く理解する上で役立っている。

今回の新型コロナウィルスへの感染を防ぐため、マスクは不要か必要か。「必要であるとともに不要でもある」が正解と当ブログは答えたい。回答になっていない、とお叱りを受けるかもしれないが、これは当ブログなりに考えて出した結論である。

医学的正解だけを追い求めるならば、多くの医療関係者が主張するように非感染者のマスク着用は不要だろう。マスクはすでに感染してしまった人が非感染者に飛沫などを通じて感染を広げないためのものだからである。専門家やWHOの主張は、この意味では何ら間違っていない。

しかし、社会的正解を追い求めるとなると、結論は大きく変わってくる。そもそも、世の中には他人はおろか、自分自身を未知の病気から防護するという意識すら希薄な人たちが一定の割合で存在する。そうした人たちは「意識が低い」ため、今回のような未知のウィルスがまん延し始めた場合、まん延初期で他の誰よりも早く感染してしまう。そのような、自分自身を守る意識すら持てない人びとに対し、他人に未知の病気をうつさないようにするためのマスク着用の期待が果たしてできるだろうか? 当ブログの答えは断じて「否」である。

となると、周囲の「まだ感染していない、意識のそれなりに高い人たち」が自分自身を感染から守る手段はひとつしかない。「自分自身の防護さえしようとしない意識の低い人たち」からの巻き添えで感染させられるのを防ぐには、結局は自分自身がマスクをするしかない、という結論になる。一般市民のこの感覚が理解できない専門家が「未感染の健康な人たちがマスクを買い占めるのは重傷者を救うためにならない」といくら訴えても、「明日自分が重傷者になるかもしれない」という心理が市民に働いている限り、マスクを買いたいと思う行動を止めることは不可能に近いのである。

もう少し、わかりやすく説明したほうがいいかもしれない。例えば、何度検挙されても酒気帯び運転がやめられず、「今回だけは大丈夫。事故は起こさないし、捕まることもない」という根拠のない自信に衝き動かされ、車を運転してしまう。あるいは、不倫が道徳的にも法的にも許されないとわかっていても、発覚した場合にリスクがいかに大きいか頭では理解できても、「今、ここにある快楽」につい身をゆだねてしまう。

何度も酔っ払い運転や不倫などの問題行動を起こす人はだいたい決まっており、そうした特定少数の人たちをどう矯正するかが長らく社会政策上の課題だった。だが、最近はあまり上手くいっておらず、同じ人によって同じことが何度も繰り返されているように思われる。周囲の人たちも、そうした問題行動を繰り返す特定少数への対応に疲れ果てているように見える。

曲がりなりにも民主主義のルールの下で、汚染された都市を丸ごと封鎖する中国、入国禁止を破った市民から永住権を剥奪するシンガポールのような独裁国家と同じような強権発動を日本ができない以上、もはや善良な不特定多数が「君子危うきに近寄らず」的対応を取るしかない状況に追い込まれつつある。車の鍵を預かり、運転代行が来るまで渡さない飲食店が増えたことや、既婚者でありながら不倫に身をやつしている本人よりも、既婚者と知りつつ交際相手となった人物のほうにバッシングが集中するような最近の新たな事態を見ていると、「問題行動を起こす本人を矯正するのはもう無理。周りが気をつけないと」というムードになりつつあるのだ。問題行動を繰り返す特定少数に対処する社会的コストが日本ではあまりに高くつき過ぎ、善良な不特定多数が対処する社会的コストのほうが安くてすむ場合、社会がそのような解決策を受け入れる、ということが往々にしてある。

今回の新型コロナウィルスもこのケースに該当するものと思われる。「連日、コロナ、コロナと報道で言っているのに、マスクもせずに咳をしているバカに何を言っても仕方ない。自分が巻き添えにならないようにマスクをすればいいことだ」とみんなが考え、そのように行動する。問題行動を繰り返す特定少数への対処コストが高すぎるため、善良な不特定多数が対処を強いられるが、このような場合、必ずどこかに社会的しわ寄せが行く。今回はそれがたまたまマスク業界となったのである。

本当の意味で危機管理を成功させたければ、人びとの心理面にまで踏み込み、きちんと分析した上での対策が必要になる。テレビに出演し「医学的な正解」だけを繰り返す専門家は、カルテは読めても世論=人びとの心理面は読めない人たちなのだろう。そこまできちんと読めてこその専門家だと当ブログは思うが、当の本人たちは「それは心理学者かせいぜい官僚の仕事であって、自分たちの守備範囲ではない」と考えているのかもしれない。もし本当にそうだとしたら、それこそが日本の危機管理を混乱に陥れている元凶であることに、いい加減気づくべきだろう。彼ら自称「専門家」たちは今後も事務系官僚に使われるだけで、重要な政策決定の舞台に立つことはできないと思う。

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