29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

進化を止めることは死を意味するというところから

2011-06-29 11:06:59 | 読書ノート
マット・リドレー『赤の女王:性とヒトの進化』長谷川真理子訳, 翔泳社, 1995.

  進化生物学の啓蒙書。著者は英国の科学ジャーナリストで、すでに邦訳が5点ある。1995年発行の本訳書は、進化論的見地から男女に遺伝的な性差があると主張する日本語の一般向け書籍として、かなり早い時期のものではないだろうか。訳者によるあとがきでは、性差を語ることについて、政治的正当性の立場から著者に対して非難めいたことが書かれている。僕の知る限りでは、訳者がその後このようなことを気にしている記述をみたことがない。おそらく、当時のアカデミズムではそうしなくてはならない雰囲気があったのだろう。

  前半では、有性生殖が普及した理由を説明するために提出されたいくつかの仮説を検証している。もっとも有力なのは、ウイルスが免疫を打ち破って体内で増殖するのを防ぐためというものである。世代交代の速いウイルスはいずれ寄生している生物の体に侵入できるよう進化するが、寄生される方は有性生殖によって次世代の遺伝子を組み換え防御システムを更新し、子世代への侵入を防ぐことができるというわけである。ウイルスとの軍拡競争の様子を、『不思議の国のアリス』中の、走り続けることでやっとその位置に留まることができるというエピソードから引いて、これを「赤の女王」仮説という。

  後半は、男女の心理の違いについての話題である。雌雄で親として投資する量が異なるので、男女の性戦略は異なり、それに合わせて嗜好や認知能力にも違いがあるというものである。メスの選り好み、オスの一夫多妻志向、男女がお互いに求めるものの違い、などなど今ではお馴染みのものばかりである。

  すでにこの分野の書籍は多く出版されており、今この本を読んでも前半の話も後半の話ももうそれほど目新しくないと思われる。しかし、それはこの本の主張を支える大枠の議論は変わっていないことを意味する(ゲイ遺伝子の存在をほのめかしたところや、カミカゼ精子の存在など、細かいところでは訂正が必要のようである)。この点で、科学関係の本としては、けっこう長命といってもいいだろう。現在絶版であるが、内容を少し改訂して再び日の目を見ることを期待したい。

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進むべき方向がわからない状態の記録

2011-06-27 10:05:47 | 音盤ノート
Steve Kuhn "Non-Fiction" ECM, 1978.

  ジャズ。これも未CD化作品。Kuhn(p), Harvie Swartz(b), Bob Moses(d), Steve Slagle(sax, flute)というカルテット編成での、"Motility"(参考)に続く二作目である。

  Kuhnのソロ部分だけをとってみれば、"Motility"より冴えており聴かせるものになっている。しかしながら、収録した曲がどれもいま一つの出来で、このアルバムからその後レパートリーが出なかったのもうなずける。A面一曲目のSwartz作はフュージョン風で、B面最後の曲は組曲形式なのだが、それぞれ、激しいインタープレイをするでもなく、リラックスさせるでもなく、耽美に浸るわけでもなくで、何を伝えたかったのかよくわからないままである。

  とまあ、微妙なクオリティの作品ではある。その後、フロントをShiela Jordanに変えたところをみると、本人も満足していなかったのだろう。そしてそれは正解だった。
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迂回の末に常識的な結論に落ち着いたという印象

2011-06-24 08:08:23 | 読書ノート
ジョン・ダンカン『知性誕生:石器から宇宙船までを生み出した驚異のシステムの起源』田淵健太訳, 早川書房, 2011.

  「全般的な頭の良さ」というものがあるかどうかを探った一般向け書籍。著者は英国の脳科学者で、能力の違いに関心を持っていることに対して、友人から「米国中の人がおまえを憎む」ことになるぞと忠告された(p.45)とのこと。しかしながら、本書が性差や人種に言及することはなく(まあ重要でないので当然だが)、政治的に際どい内容というには程遠い。この点で肩すかしを食らった印象である。

  本書のテーマは「いろいろな物事をある程度うまく処理することのできる能力というものはあるのか」と「それは脳生生理学的に裏付けられるのか」ということである。そして、それぞれについて著者はYesと答える。

  え、その発見のどこがすごいの?と問いたくなるだろう。それを理解するためには、この研究の主流の説を知らなければならない。著者によれば、これまでの認知科学では「一般的な問題の処理能力というものは存在せず、さまざまな問題を処理する個別のモジュールがあるだけで、そのことは脳の部位が機能別に分かれていることで証明できる」という考えが支配的だったらしい。すなわち「言語表現に優れていることと、図形を回転させるテストにすぐれていることは、独立しており相互に無関係である。二つともよくできる人がいるのは偶然である」という立場である。

  しかし、著者は20世紀初頭のスピアマン──相関係数で有名な──の研究に立ち戻る。そして、あることを上手くできる人は別のことも上手くできる可能性が高いという関係がしばしば見られるのは、モジュールを統合して効率的に問題に立ち向かう能力があるということを示しているのではないか、という考えに思いあたる。主流の説は「全体的な頭の良さとはすなわち別々のモジュールの処理能力の点数を総合したときの平均点が高いことである」と解釈してきたらしい。著者は、そうではなくて、モジュールを統括する機能が脳のどこかに存在して、その処理能力が高いのだという仮説を立てるのである。

  そこで、脳の障害に関する先行研究を参照し、総合的な問題処理能力を検知できる上手いテストを考えて実験し、脳スキャンをかけてみたところ、どうやら前頭葉がその統合処理機関であるらしいことが明らかになってきたという。したがって、「全般的な頭の良さ」があることは脳科学的にも裏付けられそうだ、というところで終わっている。

  このように、心理学・認知科学分野での能力についてのこれまでの考えを理解しなければ、著者の発見の価値はよくわからない。おそらく専門家ではない一般人ならば、著者と同じように「全般的な頭の良さ」があると漠然と思っていることだろう。この点で「米国中の人に憎まれる」という話は大袈裟に感じられる。もちろん、さまざまな研究の上に築かれた科学者の精緻な議論と、一般人の漠然とした思いこみを一緒にする気は毛頭ない。ただ、そのエピソードから常識を覆す議論が展開されることを読者は身構えるのだが、それほどでなかったということである。もう少し詳しくこの発見の含意について展開する章があれば、その印象は変わったかもしれない。

  ちなみに、音楽は特殊な能力だそうで、「全般的な頭の良さ」とは独立とのこと。音楽の能力はすごいけれども、それ以外の仕事や生活のあらゆる面でダメという人がいるわけである。
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楽しげで暖かみのある演奏で「らしくない」ながら良作

2011-06-22 08:24:39 | 音盤ノート
Steve Kuhn Quartet "Last Year's Waltz: Live in New York" ECM, 1982.

  ジャズ。1981年の録音で、ニューヨークのジャズクラブFat Tuesdayでのライブ。カルテットのメンバーはSteve Kuhn (p), Sheila Jordan (vo), Harvie Swartz (b), Bob Moses (ds)で、"Playground"(参考)と同じである。

  このアルバムでは、静謐で張りつめた雰囲気のある"Playground"とはうって変わって、楽しげでリラックスした演奏を聴かせる。全編でキューンは抑制する気を見せずにピアノを弾きまくっている。A面では、最初の二曲でオリジナルを演奏した後、3曲目でシーラ・ジョーダンがふざけはじめ、4曲目のスタンダード"I Remember You"でノリの良い4ビートを聴かせる。B面ではオリジナルのバラードで客席を静かにした途中から、スタンダードの"Old Folks"のフレーズに移行し、すぐさまモンク作の"Well You Needn't"が演奏として完結しないままに繰り出される。直後に4ビートでチャーリー・パーカー作"Confirmation"が演奏され、その上をジョーダンが酔っぱらいのようになってスキャットする。最後のSteve Swallow作"The City of Dallas"では「ディナーが美味しいといいな」のフレーズをメンバー全員で合唱である。このように、ECM作品として例をみないほどユーモラスでくだけており、CD化されずに放置されたままになっていることに納得がいくだろう。

  そのようなわけで、キューンのキャリアにおいてもレーベルのカタログにおいても異色作であるが、米国的なジャズの典型を記録した聴く価値のある作品である。今ではプレミアが付くような価格でしか入手できないのが残念だが。
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地方都市の古本屋事情

2011-06-20 08:41:31 | チラシの裏
  八王子に行く機会があった。空き時間も長かったので、ネットで事前に調べた古本屋に14冊の古書を売りに行った。いずれも、静岡市内のブックオフで買い取ってもらえなかったハードカバー書籍ばかりである。最初に八王子のブックオフに行ったら、9冊だけ値がついてトータル290円になった。次にブックオフで値がつかなかった5冊を、別の非チェーン店系の古本屋に売りに行ったら、1000円で買い取ってくれた。残りものの方が中古市場における価値が高かったわけだ。先に後者の店にゆくべきだったかもしれないが、開店時間の関係でこの順序になった。

  ブックオフの「まるでわかっていない」値付けは今更驚くようなことではない。半年前に、親が実家を建て替えるというので、置きっぱなしにしていた書籍を大量処分するべく、愛知県小牧市のブックオフに持ち込んだことがある。その中に紛れ込んでいたナボコフの『アーダ』(早川書房)上下二巻本は、値がつかないと言われて持って帰ってきた本の一つだが、ネットの"日本の古書店"で調べると状態が悪くても\5000の値がつくものであった。ちなみに僕が持っているものは1990年の再刊本だが、帯付きでかなり状態がよい。

  横浜に住んでいたときは、良い本は漫画やエロ本に頼らないちゃんとした古本屋に、カス本はブックオフに持ち込むよう使い分けていた。ところが、静岡市では前者が見当たらない。一方で、静岡市内のブックオフにみすず書房や晶文社などの本などを持ち込んでも、ハードカバー本が嫌われているのか値がつかない。店頭においても売れないのだろう。そういうわけで、たまる一方の古本の処分に困っている。たまに関東に行く機会があれば、ついでに売りにゆくという形で解決しているが、面倒なことこのうえない。
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150人が集団の適正規模だという主張の起源

2011-06-17 10:41:10 | 読書ノート
ロビン・ダンバー『ことばの起源:猿の毛づくろい、人のゴシップ』松浦俊輔, 服部清美訳, 青土社, 1998.

  人間の言語は猿の毛づくろいの延長で誕生したと訴える書籍。著者は英国で霊長類の行動研究を専門とする学者で、ダニエル・ネトル(参照1/2)の師匠のようだ。すでに高い評価を受けている本書だが、言葉の起源説についての評価よりも、コミュニケーションが円滑に進む組織規模は150人程度であるという主張をおこなった本としての方が著名だろう(その影響が見られるベストセラーとしては1)がある)。

  内容は一般向けではあるが、論証はかなり複雑で分かりやすいとはいえない。一つ目の主張は、霊長類の群れの規模が脳の大きさに比例するということ。他の個体を識別して、群れの中での同盟・敵対関係を把握できる群れの最適規模というのがあるというのだが、それは種の大脳新皮質の大きさに依存するらしい。それが小さければメンバー数の少ない群れを形成する種となり、大きければ大規模な群れを形成できるという。チンパンジーで50個体程度とのこと

  では人間はどこにあてはまるか?その答えが第二の主張で、他の霊長類の群れの規模と大脳新皮質の大きさとの相関から推論すると、人間の場合だいたい150個体前後になるという。これが、狩猟採取生活において、集団のメンバーとそれぞれの間の関係を認知できるぎりぎりの大きさらしい。この規模だと食物を得るために広範囲を移動しなければならないが、これより小規模な場合よりは捕食されたり戦争で敗れる確率が低くなるため安全である。

  三つ目の主張は、霊長類が毛づくろいにかける時間も、集団の規模に依存するということである。霊長類が日常的に行っている毛づくろいは、受けた側に安心感を与えて相互の関係を友好的なものにし、全体として集団内の結束を固めるよう機能しているという。結果として、メンバーの数が多いとその分毛づくろい回数を増加させなければ群れを維持できないということになる。

  四つ目の最後の主張がやっと言語に関連する。それによれば、人類が霊長類の群れの規模以上の集団を形成することができたのは、一対一でしかコミュニケーションできないという不効率性をもつ毛づくろいを採用せず、一度に3個体程度を相手にできる「ことば」を使用したからである。したがって「ことば」の主要の用途は、集団内部における人間関係や感情のゆれを確かめるためであり、ゴシップこそがその本質である。外的世界を認識するための情報伝達のための単なる信号系統ではないのだ、と。

  以上がその内容である。ことばが主にどのような用途で使われてきたかという議論としては納得させるものがあるが、「起源」といわれるとちょっと違うような。これは邦題の問題かもしれない(原題は"Grooming, Gossip, and the Evolution of Language"で「ことばの進化」である)。しかし、情動に訴えるコミュニケーション手段を持つことと、脳や集団の規模とが関係しているというのは興味深い指摘である。絶版のようだが、もったいない内容である。

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1) マルコム・グラッドウェル『ティッピング・ポイント:いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか』高橋啓訳, 飛鳥新社, 2000.

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フランス発「琴」入りエレクトロジャズアンサンブル

2011-06-13 10:30:20 | 音盤ノート
Michel Benita "Ethics" Zig Zag Territories, 2010.

  ジャズ。欧州系の熱気の無い非4ビートジャズに、エレクトロニカ少々、エスニック風味少々といったところ。ミシェル・ベニータは1954年アルジェリア出身のフランス人ベーシストで、人力クラブジャズで知られる仏人トランぺッターErik Truffazの"Mantis"(Blue Note, 2001)の録音メンバーにその名前が見える。

  楽器編成は、基本"Mantis"と同じ構成で、さらにそれに琴を加えたものである。ドラムは同じくMantis組のPhilippe Garciaで、エレクトロニクスも担当している。ギターはノルウェー人Eivind Aarset、ソロは控えめに全体の雰囲気を作り上げる空間系の音処理(エコーかけまくり)で貢献している。トランペット兼フリューゲルホーンのMatthieu Michelについては不明だが、これといった特徴の無い印象である。

  琴はミヤザキ・ミエコなる日本人女性が担当しており、彼女がさらにボーカルも聴かせる。キャリアの詳細は1)参照。楽器としてはハープのように使われており、テンポの遅い幽玄なアンサンブル演奏にもうまくマッチしている。ボーカルの方はデビューした頃の矢野顕子に近く悪くない。Youtubeでこのグループの映像を探したら、和服を着て演奏する彼女の姿を拝める。

  すべての曲はゆったりしている。いくつかの曲は、琴またはAarsetのレイヤーによる不穏な調子ではじまり、トランペットさらにはボーカルが加わり、音圧を上げて終わるというパターンで終わる。まとまってはいるものの、耽美路線にいくのか、実験路線にいくのかどっちつかずで、今一つ盛り上がらないという印象である。取り合わせの面白さでこのアルバムは聴けるものの、次作以降の課題だろう。

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1) Mieko Miyazaki Koto
http://www.miekomiyazaki.com/indexjapan.html
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緩くけだるい雰囲気の中のかすかな緊張感

2011-06-10 10:31:00 | 音盤ノート
Jon Hassell / Brian Eno "Fourth World Vol. 1 ; Possible Musics" EG, 1980.

  アンビエント。非西洋の民族音楽を消化した瞑想音楽とでも言おうか。ジョン・ハッセルは米国1937年生まれのトランぺッターで、シュトックハウゼンに師事した由緒正しい現代音楽家である。ミニマルミュージックを世に知らしめたレコードであるTerry Riley "In C" (CBS, 1968)の録音にもその名が見える。このアルバムは三枚目のリーダー作となる。

  音楽は、控え目で激しさの無いリズム隊──Nana Vasconcelosらによる──と静かなシンセ音がループする中、尺八のように音を電気的に歪めたトランペットがうねうねとソロを取るというもの。ドラマチックに盛り上がったり、メロディが琴線に触れる瞬間はまったく無い。けだるい雰囲気の中で、トランペットが動物の鳴き声や虫の羽音のようにまとわりついて聴こえてくるだけである。全体としては弛緩しているのだが、かすかな緊張感もあり、そこが奇妙な魅力となっている。

  ハッセルの音楽は、登場してしばらくの間、需要も少なくフォロワーもいないような孤高の音楽スタイルだった。ところが、1990年代以降、Nils Petter MolvaerやArve Henriksenといったエレクトロニクスを採り入れた北欧のジャズ・トランペッターにそのあからさまな影響がうかがえるようになっている。今でも聴く人を選ぶ音楽だが。
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サンデル思想のためではなくリベラリズム成立の歴史書として

2011-06-08 12:41:21 | 読書ノート
マイケル・J. サンデル『民主政の不満:公共哲学を求めるアメリカ〈下〉/ 公民性の政治経済』小林正弥監訳, 勁草書房, 2011.

  上巻(参考)の続き。上巻は米国の憲法解釈の変化を詳述していたが、下巻は米国の政治経済における目標の変化について扱っている。

  著者の見立ては次のようなものである。19世紀から20世紀はじめまで、米国の政治において、「見識ある市民」の育成は重要なトピックだった。共和主義的伝統では、賃労働は従属的行為であり独立心を涵養しないと解釈された。ところが産業化が進み、大企業体によって自営農民や小商店主が駆逐されて、人々の多くが雇用者として働くようになる。理想と産業の実情が乖離するようになり、20世紀半ばには、生産者としてではなく、消費者としての選択に人民の主体性が現れるとみなす主張も現れた。この考えは社会の各グループを政治的に分裂させずに一まとめにしておけるというメリットがあり、第二次大戦後にはケインズ主義の普及によって消費者重視の政治がコンセンサスとなった。

  ケインズ主義の「総需要は問題にするが、個々人が何を消費すべきかは指定しない」という態度は、「手続きの公正さを追及するが何に価値があるかを判断しない」というリベラリズムと同根であるという。1960年代に登場したフリードマンといったリバタリアンらも、価値相対主義である点では福祉国家を支援するリべラルと同じである。そうした思想が20世紀後半に支配的になる一方で、米国で自己統治の政治的必要性は忘れ去られ、地域的な共同体は衰退し、人々は企業体にコントロールされる存在に堕した。1970年代後半以降、価値判断を政治に投影させられないことに不満が蔓延しつつある。レーガンの登場や現在の宗教原理主義の興生は、政治における価値の空白を埋めようとする試みであるという。

  ページの大部分で、上のような「自己統治の衰退と消費者性のクローズアップ」という変化を追っており、著者自身の代案についてはあまり詳しく書かれていない。最終章で、グローバル、国、州、都市、区、より細かい地域共同体といったさまざまなレベルで政治に関与するできる仕組みをつくるべきだという主張を行っているが、事例を挙げるにとどまり、未完成という印象を与える。

  とはいえ、政治哲学の領域だけではなく、実際の政治・経済・社会において採り入れられて、現在の社会を律しているリベラリズムの、その成立の経緯と現在に占める位置を理解できる良書だろう。サンデルの思想というより、リベラリズム理解の書籍として評価したい。訳文もわかりやすく、読みやすい。
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安物電子キーボードを購入するまでの逡巡

2011-06-06 11:15:21 | チラシの裏
  小学校一年生の娘が、音楽の授業で鍵盤ハーモニカ(いわゆる「ピアニカ」)を学ぶという。父親の単身赴任先である静岡に滞在している間にも練習したいと言うので、カシオの安物電子キーボードSA-46を購入してみた。軽くて小さいので子どもにも扱いやすく、鍵盤ハーモニカと同じ32鍵であり、適当だろうと思ったのだ。音色やリズムパターンもそこそこの数が内蔵されており、おもちゃとしても楽しめる。

  これは妥協の産物である。本当のところは、「娘を音楽教室に通わせてピアノを学ばせる」という、周囲からの暗黙の・あるいは直接の圧力に耐えかねた結果の、親の苦心の決断である。

  保育園の頃、友達の数人が近所のピアノ教室に通っていることもあって、娘から同じく音楽教室に行きたいと求められたことがある。その時は、その意欲の強さや持続力に確信が持てなかったのでスルーしたが、まだ興味は持続しているようだ。親族から直接「そろそろ習い事をさせたら」言われることもある。娘も入学したばかりで意欲に満ち溢れている。

  けれども、使い続けるかどうかわからないのに、高価な鍵盤楽器を購入する気にはなれない。そんなものを家に置いてしまったら、貧乏症の夫婦なので、元を取るべくいやがる娘に楽器練習を強制するなんてことにもなりかねない。父である僕にも、2-3個の楽器を自力で始めたものの、いずれもモノにならなったという経験がある。聴くのは大好きなのだが・・・。
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