ハリー・G.フランクファート『不平等論:格差は悪なのか?』山形浩生訳, 筑摩書房, 2016.
哲学的な平等概念の検討。全体で146頁の短い本で、そのうち1/3が訳者解説である。著者のフランクファートは、広瀬巌の『平等主義の哲学』において、「十分主義(sufficientarianism)」にカテゴライズされる主張を展開している米国の哲学者である。原書On Inequality (Princeton University Press, 2015)は、広瀬著の参考文献リストに挙げられていた1987年と1997年の論文二点を収録・改訂したものである。
邦訳タイトルの副題の答えは「格差は悪ではない」というもの。2章構成で、前半では平等概念は独立した価値を持っていないということを議論している。直接はそう書いていないものの、平等は(政治的安定、治安、共同体の一体性などなど)何か別の目的を実現するため従属的価値にすぎないのだから、政策的には直接の目的にコミットすればよいということのなのだろう。著者はそれよりも「平等それ自体で価値がある」という考え方は説得的ではないという論証にスペースを割いている。すなわち広瀬著における「目的論的平等主義」が論敵となっているのだが、特にカテゴリ名を挙げていない。後半では、他人との比較に基づいた貧困の定義ではなく、個別性に基づいた内面的・物質的充足が重要だと説いている。
で、訳者解説である。訳者は本書をピケティ便乗本に位置づける。そして、本書の議論と著者の思想をひととおり検討したあと、本書で展開された「純粋な平等概念」というアイデアは生産的ではないのではないか、と懐疑的にまとめている。読者としても、著者の議論は分配の話にノータッチで不満が残ったし、訳者の指摘には首肯する。ただ、評価を急ぎ過ぎている気がしなくもない。本書の解説としては、他の哲学的平等主義思想との比較を行って、本書で展開された平等論の独自性を明確にするべき役割があったと思う。そもそも訳者解説が十分主義というコンセプトに触れていない。せっかくの邦訳なのに、これではもったい気がする。
でも、これは訳者の責任ではないだろう。『ウンコな議論』(筑摩書房, 2016)の続編にしようとした出版社の企画の問題である。加えて、もともとハイコンテクストな議論なのに、そもそも一般向けの書籍にしようとした著者にも問題があるかもしれない。
哲学的な平等概念の検討。全体で146頁の短い本で、そのうち1/3が訳者解説である。著者のフランクファートは、広瀬巌の『平等主義の哲学』において、「十分主義(sufficientarianism)」にカテゴライズされる主張を展開している米国の哲学者である。原書On Inequality (Princeton University Press, 2015)は、広瀬著の参考文献リストに挙げられていた1987年と1997年の論文二点を収録・改訂したものである。
邦訳タイトルの副題の答えは「格差は悪ではない」というもの。2章構成で、前半では平等概念は独立した価値を持っていないということを議論している。直接はそう書いていないものの、平等は(政治的安定、治安、共同体の一体性などなど)何か別の目的を実現するため従属的価値にすぎないのだから、政策的には直接の目的にコミットすればよいということのなのだろう。著者はそれよりも「平等それ自体で価値がある」という考え方は説得的ではないという論証にスペースを割いている。すなわち広瀬著における「目的論的平等主義」が論敵となっているのだが、特にカテゴリ名を挙げていない。後半では、他人との比較に基づいた貧困の定義ではなく、個別性に基づいた内面的・物質的充足が重要だと説いている。
で、訳者解説である。訳者は本書をピケティ便乗本に位置づける。そして、本書の議論と著者の思想をひととおり検討したあと、本書で展開された「純粋な平等概念」というアイデアは生産的ではないのではないか、と懐疑的にまとめている。読者としても、著者の議論は分配の話にノータッチで不満が残ったし、訳者の指摘には首肯する。ただ、評価を急ぎ過ぎている気がしなくもない。本書の解説としては、他の哲学的平等主義思想との比較を行って、本書で展開された平等論の独自性を明確にするべき役割があったと思う。そもそも訳者解説が十分主義というコンセプトに触れていない。せっかくの邦訳なのに、これではもったい気がする。
でも、これは訳者の責任ではないだろう。『ウンコな議論』(筑摩書房, 2016)の続編にしようとした出版社の企画の問題である。加えて、もともとハイコンテクストな議論なのに、そもそも一般向けの書籍にしようとした著者にも問題があるかもしれない。