29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

邦訳された十分主義の嚆矢。訳者解説は少々物足りない

2016-09-30 19:55:14 | 読書ノート
ハリー・G.フランクファート『不平等論:格差は悪なのか?』山形浩生訳, 筑摩書房, 2016.

  哲学的な平等概念の検討。全体で146頁の短い本で、そのうち1/3が訳者解説である。著者のフランクファートは、広瀬巌の『平等主義の哲学』において、「十分主義(sufficientarianism)」にカテゴライズされる主張を展開している米国の哲学者である。原書On Inequality (Princeton University Press, 2015)は、広瀬著の参考文献リストに挙げられていた1987年と1997年の論文二点を収録・改訂したものである。

  邦訳タイトルの副題の答えは「格差は悪ではない」というもの。2章構成で、前半では平等概念は独立した価値を持っていないということを議論している。直接はそう書いていないものの、平等は(政治的安定、治安、共同体の一体性などなど)何か別の目的を実現するため従属的価値にすぎないのだから、政策的には直接の目的にコミットすればよいということのなのだろう。著者はそれよりも「平等それ自体で価値がある」という考え方は説得的ではないという論証にスペースを割いている。すなわち広瀬著における「目的論的平等主義」が論敵となっているのだが、特にカテゴリ名を挙げていない。後半では、他人との比較に基づいた貧困の定義ではなく、個別性に基づいた内面的・物質的充足が重要だと説いている。

  で、訳者解説である。訳者は本書をピケティ便乗本に位置づける。そして、本書の議論と著者の思想をひととおり検討したあと、本書で展開された「純粋な平等概念」というアイデアは生産的ではないのではないか、と懐疑的にまとめている。読者としても、著者の議論は分配の話にノータッチで不満が残ったし、訳者の指摘には首肯する。ただ、評価を急ぎ過ぎている気がしなくもない。本書の解説としては、他の哲学的平等主義思想との比較を行って、本書で展開された平等論の独自性を明確にするべき役割があったと思う。そもそも訳者解説が十分主義というコンセプトに触れていない。せっかくの邦訳なのに、これではもったい気がする。

  でも、これは訳者の責任ではないだろう。『ウンコな議論』(筑摩書房, 2016)の続編にしようとした出版社の企画の問題である。加えて、もともとハイコンテクストな議論なのに、そもそも一般向けの書籍にしようとした著者にも問題があるかもしれない。
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生気のない爽やかさを感じる低音女声フォーク音楽

2016-09-28 21:39:44 | 音盤ノート
Nico "Chelsea Girl" Polydor, 1967.

  フォーク。ニコと言えばVelvet Undergroundの1stアルバム(1967)で四曲だけ歌ってすぐいなくなった女性ボーカリストであるが、これは脱退直後に録音されたソロ作である。バックはアルペジオ中心のギターと少数の弦楽隊という編成。曲によってはフルートまたはオルガンが入る。打楽器は無し。感情表現を抑えて低い声でメロディを律儀に辿るニコのボーカルは呪術のようである。だが、清廉で爽やかな楽曲が並んでいるおかげで気持ち悪い感じはしない。地味な作品ではあるが暗くはなく、ぼんやりと明るい早朝のような音楽である。

  Velvet組のLou Reed, John Cale, Sterling Morrisonが曲を提供してかつ楽器を弾いているのはわかる。異色なのはなぜかJackson Browneが曲を三曲提供してギターを五曲で演奏をしていること。Wikipedia情報を信用すれば、この西海岸派のSSWは短期間ニューヨークに滞在していたことがあるそうで、ニコとも恋愛関係にあったらしい。彼の書いた冒頭の二曲'The Fairest of the Seasons', 'These Days'はとても良い。だが、本人にとっては望んだ編成ではなかったらしく、気に食わない作品だったとのこと。しかし、その後の奇矯な作品群を聞いてみたら、本人の意向に従わなかったプロデューサーは商売人として正しかったと思うはず。
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平等の諸原理について分類・整理する教科書

2016-09-26 08:11:27 | 読書ノート
広瀬巌『平等主義の哲学:ロールズから健康の分配まで』齊藤拓, 勁草書房, 2016.

  諸説ある平等主義を、それぞれの構成要素にまで分解して違いを明瞭にしようという試み。一応教科書ではあるが、それなりの知力を要求するレベルの内容で、大学院生向けだろう。著者は日本人だが、所属はカナダのマギル大学であり、原書はEgalitarianism (Routledge, 2014)である。なお、邦訳は原書から第6章を割愛した抄訳となっている。

  全体としては、何を平等に分配すべきかという論点は括弧に入れて、数値で表現される抽象的な財の配分状態をベースに、どのような配分の状態が是正すべき不平等であるのかについて検討している。まずロールズの格差原理が考察されるが、それはトロッコ問題(本書では人数問題)のような「複数人の命のために一人を犠牲にすべきかどうか」というケースについて適切な答えを導くことができないとされる。

  次に「運平等主義」が扱われるが、それは自分の責任の及ばない原因による不遇は補償されるべきであるという考え方である。逆に言えば、自分の選択の結果陥った不幸に対しては援助は必要ないということになる。では、個人が負うことのできる責任の範囲はどこまでか、というのが問題となる。極端な意見では、嗜好や性格など人格形成の責任を個人に負わせることはできず、すべては運だということにされてしまう。一方、責任概念に固執しすぎると、多くの失敗が放置されたままとなり、過酷で住みにくい社会となってしまう。

  続く3~5章では「目的論的平等主義」「優先主義」「十分主義」が解説される。目的論的平等主義とは「平等とは何かを達成するための手段ではなく、平等それ自体に価値があり、平等は帰結を善くする」という考え方である(ただし別の定義付けもある)。これに対して、「全体の水準を低下させることで達成されるような平等(例えばみんなが平等に貧乏となるような)」をも正義だとみなしてしまう論理となっており、受容するのがためらわれるような綻びがある。

  これに対する代案が「優先主義」で、相対的な格差ではなく絶対的な水準での不遇さを救済の対象とすべきという主張である。しかしながら、そもそもの水準低下の問題は克服できていないと批判される。もう一つの「十分主義」は、福利の最低限の水準を設定してそれ以下の水準の者を優先すべきという主張である。これについては、水準以上の人々の間の格差の調整、または水準以下の人々の間にある格差を調整する仕組みがないことを批判されている。最後の章では複数の平等主義概念が対立するヘルスケア領域における分配について考察している。

  以上がその内容。平等に関する初めて聞くような議論が整理されて説明されており、なかなか興味深い書籍である。ロールズ、ノージック、センあたりの議論が分かっていてその先に進みたいという人にはかなり面白いのではないだろうか。訳者解説も充実している。
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なぜかよくあるライヒとアダムズのカップリング作品二作目

2016-09-23 21:57:53 | 音盤ノート
Ransom Wilson / Solisti New York "Adams : Grand Pianola Music / Reich : Eight Lines, Vermont Counterpoint" Angel/EMI, 1985.

  現代音楽。いわゆるミニマル・ミュージック。ライヒとアダムズのカップリング録音としては"Variations / Shaker Loops"に続くもの。もともとは'Grand Pianola Music'と'Eight Lines'の二曲収録で発行された1984年のLPに、新たに'Vermont Counterpoint'を加えて翌年にCD化されたものである。

  'Grand Pianola Music'は1982年作曲のアダムズの作品。パルス音でリズムを保ちつつ、オーケストラがかなり音のメリハリをつけて山あり谷ありの演奏を展開する。ピアノによるアルペジオはあるが、「ピアノラ」すなわち自動ピアノはたぶん使用されていないと思う。アメリカの作曲家らしく(?)、深刻さとか苦悩とかを感じさせない。輝くように明るく美しい、爽快な曲である。

  次の'Vermont Counterpoint'はライヒの曲で、フルートによる多重録音演奏。小品という感じの曲だが、フルートの高く柔らかい音が重なると賑やかではある。ただし、いまひとつ良い音色で録音できていない気がする。最後の'Eight Lines'は'Octet’の14人演奏版。オリジナルより音が厚くなっているが、原曲と大きく印象が異なるというほどではない。

  アダムス作品としてもライヒ作品としても、ある程度二人を聴いてきた人向けの収録曲だろう。まあ、初めて聴く人にとってとっつきにくいというほどでもないけれども。
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日本の黒歴史渉猟エッセイだが、凄く意外というほどでもない

2016-09-21 07:55:35 | 読書ノート
大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本:古典文学で知るしたたかな日本人』新潮社, 2014.

  日本の古典を題材にしたエッセイ。「昔は良かった」風の考えに対抗して、残酷で不道徳だったかつての日本社会を浮彫りにしようと試みたもの。ただし、告発調の力みのある本ではなく、また昔より現代社会は素晴らしいと持ち上げるわけでもなく(そういう部分がないわけではないが)、マスメディアで耳にするような酷い事件は昔から存在していて現在と連続性があるのだ、というニュアンスの方を強く感じる。

  ネタは古事記から江戸時代の作品まで広い範囲から渉猟されており、時代の変化もわずかながら言及されている。児童や老人への虐待、育児放棄や人身売買などはいかにも昔からありそうな話であまり意外性がないかもしれない。これに対し「よく知っている古典のこの話が実はそれに該当する」と提示してくるところがポイントだろう。このほか、離婚の多さ、ストーカーや少年犯罪、心の病、古代から続く見た目崇拝と、魂の救済ではなく現世利益を求める宗教観などが俎上に載せられている。

  大塚ひかりの本については『源氏の男はみんなサイテー』(ちくま文庫, 2004)をかつて読んだことがある。あの本は「そういう解釈があったのか」という面白さを感じつつも「下世話」という印象だった。本書もグロい話満載であり、「古典」という語がイメージさせる格調高い印象はゼロであるが、これが古典の正しい読み方なのかもしれないと錯覚させる魅力がある。なお新潮文庫版が最近発行された。
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帯では都会的であるかのように装うも、実際の音はエスニック風味

2016-09-19 16:01:28 | 音盤ノート
Steve Reich "Tehillim" ECM, 1982.

  現代音楽。今秋スティーヴ・ライヒのECM録音三作が箱セット"The Ecm Recordings"として発行される。”Music for 18 Musicians”(参考)と"Octet / Music for a Large Ensemble / Violin Phase"(参考)と、本作の三つがその内容となる。箱セット化はECM New Series系統では初だろう。

  本作は女声(ソプラノ三人とアルト一人)の輪唱を前面に出した歌唱曲で、ヘブライ語で歌われる。演奏には当時のライヒ組の打楽器部隊だけでなく、弦楽器隊や管楽器隊も参加している。指揮者までいる大編成であるが、あまり音の厚みは感じない。リズミックな打楽器隊は非常に目立つが、オーケストラ音はとても薄くてシンセサイザー一台で代用できそうな使い方である。曲の印象もそれ以前の作品とかなり異なる。反復パターンを微妙に変化させつつ最初から最後まで同じ情動を維持するというのが以前の作品だった。本作は前半後半に分かれるが、それぞれ最初は少ない音数で始まり、終盤に向かって複雑さが増して最後に頂点を向かえるという構造になっている。ミニマル音楽らしからぬクライマックスがあるのだ。巧みに盛り上げてはいるが、個人的には以前のスタイルの曲のほうが好きだ。クラシックからライヒに入る人には聴きやすいかもしれない。

  なお、当時の日本盤LPのタイトルは"マインド・ゲームス"。その帯には“部屋の空気さえ変えてしまうインテリア・サウンド”という文句が添えられていた。自身のユダヤ人アイデンティティを打ち出したパーカッシブなこの曲にまったく合っていないのだが、マーケティングする側はミニマル音楽をインテリ層向け都会的BGMとして売りたかったのだろう。苦心の産物だな。
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哲学のレッスン。冒頭の議論の作法の話だけはよろしい。

2016-09-16 20:02:50 | 読書ノート
ガリー・ガッティング『いま哲学に何ができるのか? 』外山次郎訳, Discover 21, 2016.

  哲学。原書はWhat Philosophy Can Do (WW Norton, 2015)。著者にはミシェル・フーコーを扱った書籍の邦訳がある。本書によれば、著者の専門領域は「大衆哲学」であり、それは“学術的哲学者が行う専門的で特殊な研究を社会に適用していく作業”であるとのこと。最初の章で政策論争を取り上げて「議論の作法」を示し、その後、科学、宗教、資本主義、教育、芸術、人口妊娠中絶、哲学の意義について順に議論を整理している。

  最初の章の議論の作法についての説明はとても良い。異なる意見の相手と生産的なやりとりをするためには、論争相手を認知能力において同等とみなしてその意見を善意に解釈し、その意見に関連する論拠にきちんとコミットして議論しなければならない。とはいえ、論拠をさかのぼると最終的にはしっかりした裏付けがあるわけではない「確信」にたどり着く。確信レベルでの議論は無意味か?そうではない。理論レベルでの不一致がってあっても、実践レベルでの合意が得られることもあるし、自分が持つ確信をより深く理解できるというメリットがある、と。

  しかしながら、実際のトピックを扱う次章以降は期待したほどうまく整理されていない。例えば、5,6章と二章分充てられている「宗教」。ドーキンスの無神論を論理がうまく組み立てられていないと批判しつつ、有神論者も神の存在を証明できていないとやはり否定する。結果、著者は喧嘩両成敗的に「不可知論」という立場に落ち着く。おいおい、ちょっと待ってくれ、と言いたくなる。ドーキンスの論理に不備があるとしても、立証責任については「神は存在する」と主張する側が持つべきものだ。でないと悪魔の証明になってしまう。暫定的な結論を下すならば否定的な立場に立つというのが論理的だろう(だからといって個人的に神社参りを止めるわけではないが)。だいいち、現代においては、宗教に関して神の有無が問題ではなく、信仰が公的意思決定に入り込んでいいかというのが問題なのだ。この点にタッチしていない著者の議論は外していると思う。

  上記のほか教育、芸術の章もあまり説得力がない。最後まで読んでみると、論争相手を認知的同等者として扱うには不合理なケースがあり(やはり支離滅裂な議論にまともに組み合う必要はないと感じる)、安易に「確信」レベルでの違いに議論を収束させてしまうと説得や論証に力が入らなくなるということがわかる。そうすると、最初の章の魅力は何だったのかということになるな。というわけで、哲学の役割を鮮やかに示して見せるという試みは失敗している。
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エレクトリック・ギターの多重録音によるロック系ミニマル音楽

2016-09-14 21:47:05 | 音盤ノート
Ash Ra Tempel / Manuel Gottsching "Inventions for Electric Guitar" Kosmische Musik, 1975.

  ドイツのプログレッシブ・ロックで、インスト作品集。名義のよくわからないアルバムで、ジャケットにAsh Ra TempelとManuel Gottschingの二つが表記されている。これはバンド作品なのかソロなのか。この頃のバンドは実質Gottsching一人のソロユニットになっていたので、どっちでもいいのだろう。だが、ソロ名義ではドイツ国外でのマーケティングに向かないようで、次作の"New Age Of Earth"が英Virginから発売されたときには名義がAshraとされた。

  その中身は、ミニマル音楽の影響を大きく受けた、シンセサイザーとエレクトリックギターによるサイケデリック・アンビエント音楽である。収録は三曲で、18分に及ぶ演奏の一曲目'Echo Waves'は、ギターのピッキング音を重ねてトリップ感を醸し出すという、いかにも麻薬中毒者が喜びそうな浮遊感に満ち溢れた曲である。次の曲はシンセサイザーによる暗い小品(といっても6分かかる)。21分を超える最後の'Pluralis'もシンセとギターの反復によるミニマル的な楽曲だが、最初の曲に比べてかなり重厚で瞑想感がある。

  最初と最後の二曲は、反復パターンとオーバーダブが造り上げる音響がとても面白い。だが、ミニマル音楽的な「エゴ抑制」を全編を通して貫くことはできず、曲の最後の最後にロック魂を炸裂させたディストーション・ギターが割り込んでくる。初めて聴いたときには、このギターソロの存在が古臭く感じられて、かなり気に食わなかった。なんでこんなダサいソロを入れるのか、と。こうした瑕疵はあるが、同時代のロックミュージシャンの中で、ゲッチングがもっともよくミニマル音楽の快楽の本質を理解していたということは理解できる。
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オリンピックのおかげで再発されたマイナー作品

2016-09-12 21:31:30 | 音盤ノート
Milton Nascimento "Miltons" CBS, 1988.

  MPB。ミルトン・ナシメントの1980年代の録音においては、当時果敢に取り入れていたシンセサイザーの音が今では古臭く感じられる。このため、彼の80年代の録音は60年代や70年代の諸作ほど聴かれていないように思う。本作は、自身のアコースティックギターとボーカルと、Herbie Hancockによるピアノとのデュオ、またはNana Vasconcelosの打楽器とのデュオによって構成されている。(一曲だけ自身のバンドを使った演奏である)。基本的にボーカルを聴かせる作品であり、バックのサウンド・メイキングはあまり実験的ではない。そのおかげで時代性を感じさせず、今でも違和感無く聴ける作品となっている。

  落ち着いた温かみのある作品であり、音数も少ないおかげで統一感がある。けれども、1960年代から70年代にかけての諸作は、南米民族音楽とロック音楽がブレンドされて混沌としていた一方、方向不明のスリリングな感覚や神々しさがあった。本作ではそうした要素が失われている。このあたりをどう評価するかだが、やはりある程度聴き進んだリスナー向けの作品ということになる。悪くはないのだけれども、初めて聴くならばこの時期の録音よりも"Clube Da Esquina"だろうと考えてしまう。とはいえリオ五輪に便乗してSMEが今夏定価1000円で本作CDを再発しており、今ならかなり入手しやすい。まあ、すぐ廃盤となるだろうけれども。
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心理学の一領域が「行動経済学」になるまで

2016-09-09 22:44:16 | 読書ノート
リチャード・セイラー『行動経済学の逆襲』遠藤真美訳, 早川書房, 2016.

  著者の研究歴を辿りながら「行動経済学」が勃興して確立してゆく過程がわかるという、学問分野史のようでかつ自伝のような内容の本である。著者は『実践行動経済学』の片方の人。原書はMisbehaving : The Making of Behavioral Economics (WW Norton, 2015)である。

  著者は米国の大学で経済学の訓練を受けている。彼に影響を与えたダニエル・カーネマンは基本的に心理学者であり、研究テーマも経済学的ではない(参考)。このような分野がなぜ「行動経済学」などと呼ばれるようになったのか、個人的には疑問だった。本書の著者の研究歴も同様に雑多であり、心理学的なテーマもある。だが、金融市場という合理的経済人の世界の本丸において不合理な振る舞いを発見したことが、著者の一つの、そして大きな業績としてある。これまで金融市場で不合理な行動をとればカモにされるだけというのが常識だった。ところが、市場の歪みを見つけてそれに付け込もうとした「合理的な」輩が敗れるということも現実には起こっているという。こうした著者の経歴と研究テーマ選びが、人間の不合理な行動パターンを明らかにする行動科学の一領域を「行動経済学」なる領域に押し上げたのだということがわかる。

  このような著者の研究歴も面白いものだが、効率的市場仮説を支持する論敵との論争も詳しく描かれており、そうした議論を経て新しい学説が浸透してゆく様子がとても興味深い。ニッチとして始まった領域だが、最終的には英国政府が著者を政策スタッフとしてリクルートすることになるのである。立志伝でもある。

  とはいえ認知バイアスの存在の指摘が経済学領域の話になるというのは未だ違和感として残る。行動経済学は、政策論議において本来ならば心理学者や行動学者が関与すべき領域を、経済学者が口出しできる領域として広げたということなのだろう。なお、さんざん主流派を批判しておきながら、著者自身は経済学に肯定的である。合理性に準拠したモデルが確立しているからこそ、実際の不合理性を測ることができるのだ、と。そこに経済学の強力さがあったか。
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