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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

やっと出た教育経済学の教科書、ようやく経済学者による教育研究を整理

2022-10-26 22:47:18 | 読書ノート
松塚ゆかり『概説教育経済学』日本評論社, 2022.

  教育経済学の教科書。著者は一橋大学の先生。この分野について日本語で読める概説書というのは、ありそうながら実際はこれまでなかった。いくつかのトピックについては個人的にときおり目にしたことがあったが、本書では議論が整理されていて、かつ現状どこまで議論が進んでいるのかを理解できてとても有益である。

  教育経済学の基本的な問いは次のようなものだ(と勝手に解釈してみる)。教育の効果とは何か。教育の利益を受けるのは個人か、企業か、国か。そしてどの主体が教育に出資すべきか、あるいはどのような割合で負担を分け合うべきか。本書もまた、これらの疑問について理論と実証研究によってアプローチしている。

  最初の章は「教育経済学」というコンセプトの説明である。以降、教育の効果は誰に帰するのか、およびその測定方法について論じられ、続いて人的資本論、シグナリング論、教育の過剰問題について、データを交えつつ議論される。中盤は、学校卒業後の学習(研修や労働訓練など)、教育費の公費負担をめぐる議論、教育の民営化、学校選択、女子教育について議論される。終りのほうの章では、生涯学習と高学歴者の国際移動が俎上にのせられている。

  僕は教育学科に所属しているが、教育学領域できちんと考えられていないテーマが費用負担である。そこでは「お金は国や自治体が出せ」という単純な主張に落ち着きがちだ。が、教育経済学ではそういう安易さが無いところがいい。特に第6章の公費負担の議論は、公共図書館への支出にも通じる議論で、図書館情報学研究者として興味深かった。
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女性を開放するテクノロジー、のはずが著者の評価は否定的

2022-10-20 13:48:57 | 読書ノート
ジェニー・クリーマン『セックスロボットと人造肉:テクノロジーは性、食、生、死を“征服"できるか』安藤貴子訳, 双葉社, 2022.

  会話ができるAI搭載ダッチワイフ、培養肉、人工子宮、安楽死マシーンの四つ領域の現状について取材したルポルタージュ。著者は英国の女性ジャーナリストで、内容の多くはそれらのプロジェクトリーダーのインタビューで構成されている。原書はSex robots & vegan meat: adventures at the frontier of birth, food, sex & death (Picador, 2020)である。

  上の四つの領域とも真摯な開発者たちがしのぎを削っているのだろう、と読む前はそう予想していた。だが、かなり違う。本書で登場するのは、目立ちたがり屋でたまたま製品デモが世間の耳目を集めたという開発者か、イデオロギー強めの研究者で、その書きぶりからは資金集めがうまいだけのうさん臭い人物たちのように見える。著者によれば、AIダッチワイフと培養肉の製品化は近くありそうだが、開発者が宣伝するほどクオリティは高くないらしい。一方で、人工子宮については動物実験がなされているものの、人間への応用を可能にするにはいろいろ法的問題をクリアしななければならず、まだ先の先の話である。苦しまずに死ねるという安楽死マシーンについては、開発者の不誠実な印象が強調され、機械がきちんと作動しないかのように描かれている。

  しかしながら、著者自身にもまた思想的偏りがあって、本書の記述をまともに受け取っていいかどうか迷う。AIダッチワイフが普及することによって生身の女性が今以上に性的に扱われるというあまり説得力のない予想を示したり、「肉食は男の文化」というインタビュイーのリップサービスを真に受けたりという具合で、読んでいて「いやそうじゃないだろう」といちいち引っかかってしまう。正しいフェミニストならば、AIダッチワイフや人工子宮によって女性が男性の性的要求から開放され、賃労働に専念できることを言祝ぐべきではないか。テクノロジーに対する漠然とした不安感ばかり聞かされて、未来像が焦点を結んでゆかないもどかしさがある。

  テーマは興味深く、目の付けどころは素晴らしい。実験段階の培養肉を食べたこともえらいと思う。だが、論評部分がどうにもイマイチに感じられるのは、著者の視点のブレのせいだろう。ところどころでフェミニスト風の意見開陳をしたり地球環境に懸念を示したりしているが、著者はそれに深く浸かっているというわけではない。二児の母で肉食(ヴィーガンではないという意味で)とのことであり、イデオロギーに染まらない常識な感覚も備えているように見える。テクノロジーに対する不安はそういう属性から来ているのではないだろうか。美味しい肉を食べたいとか、女性の生得的な性の面での価値は高いほうがよい、というような。
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気分が落ち込むのは正常だが度を超すならば異常だ、と。

2022-10-15 08:39:22 | 読書ノート
ランドルフ・M.ネシー『なぜ心はこんなに脆いのか:不安や抑うつの進化心理学』加藤智子訳, 草思社, 2021.

  うつ病や依存症などの精神疾患を進化学で捉えなおすという試み。著者は『病気はなぜ、あるのか』をジョージ・C.ウィリアムズと共に書いた米国の精神科医であり、本書は20年ぶりの邦訳ということになる。原書はGood Reasons for Bad Feelings : insights from the frontier of evolutionary psychiatry (Allen Lane, 2019.)である。

  現代社会において不安やうつは解消すべき病気とされ、薬を使った治療の対象となる。著者はこの状況に異を唱え、不安やうつは病気のそものもではなく「症状」であり、「病気」に対する精神の正常な反応であると主張する。病気にあたるのはなんらかのライフイベント──目標の未達や欲望を満たせないことを自覚させるような出来事──であり、不安やうつはそれに対する精神の防御反応にすぎない、あたかも風邪ウイルスに対抗して体温が上昇するがのごとし、と。

  ただし、不安やうつのすべてが正常であり何の問題もないのだ、と著者は言いたいわけではない。日常生活を長期に困難にするようなうつ状態は、やはり異常であるとする(同時に、平均的な人間ならば悲劇だと感じるようなライフイベントが身に起きても「まったく何も感じない」ような精神状態もまた異常だとする)。したがって、精神科医が知るべきなのは、うつや不安を引き起こした患者のライフイベントであり、またそれに対する反応が度を越したものになっていないかどうかという点である。

  以上が前半の骨子となる。後半は、不安やうつの進化的な役割や、統合失調症などの精神疾患の遺伝子がなぜ淘汰されずに生き残ってきたのかについて議論する。いくつかの説を検討・整理して、著者自身の仮説を提示するというパターンで話が進む。心が脆いのは、知的な能力を高めた結果の副産物らしい。が、この説の正否については今後の検討待ちである。

  著者の精神科医としての臨床経験を交えての論述で、長いけれども面白く読める。薬を処方するよりも患者に原因となる出来事を吐露させるのが精神科医の仕事だというのは、読んでいてフロイトを思い起こさせる。米国の精神医学界ではフロイト派は非科学的とみなされて追放状態らしいが、著者は本書でフロイトの考えを再評価している。
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ノンエリートを立身出世に駆り立てた概念「修養」の歴史

2022-10-11 08:19:45 | 読書ノート
大澤絢子『「修養」の日本近代:自分磨きの150年をたどる』(NHKブックス), NHK出版, 2022.

  日本近代の修養史。明治から昭和にかけて、一定層の非エリートの青少年たちはビジネス界での成功を目指した。そうした傾向と結びついた思想が「修養」である。その修養概念の誕生と普及を追っている。著者は宗教の研究が専門とのこと。修養は、キリスト教・仏教・儒教など複数の宗教の教義から、神仏への信仰の部分を換骨奪胎してごちゃまぜにし、無宗教的な道徳に昇華させたものらしい。だからこそ一般大衆にアピールすることができたと著者は結論している。

  修養概念はサミュエル・スマイルズの『西国立志編』から始まる。ただし、古今東西の名著を読んで思想を仕入れるという意味での「教養」概念と修養とはまだ未分化だった。学校制度が整えられた後、教養は学歴エリートのものになっていった。一方で、勤勉・努力・自制など職場や家庭での振る舞いや心持ちによって成り立つ「修養」のほうは、初等教育や中等教育を最終学歴とする勤労者層に普及していった。それを媒介したのは、雑誌『成功』や『実業之日本』であり、後者には新渡戸稲造も定期連載を持っていたという。昭和になると、ラジオにおける仏教指導者の訓話を元ネタにして社員に伝えた松下幸之助が修養の伝道者となり、ダスキン創業者の鈴木清一がそれに続いた。

  以上。基本的に思想史であって、修養の受容者側ではなく、イデオローグ側に沿った記述となっている。後半の松下幸之助と鈴木清一の話は、「漠然と耳にしたことはあったけれどもきちんとまとまった形で理解したことがない」という話だったので、興味深く読めた。現在、職場と使用されることの多い「研修」という語はもともと「研究と修養」から来ているそうだ。そういう小ネタもためになった。
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キャンセルカルチャーの実践および被害者体験の記録

2022-10-08 07:00:00 | 読書ノート
アリス・ドレガー『ガリレオの中指:科学的研究とポリティクスが衝突するとき』鈴木光太郎訳, みすず書房, 2022.

  1990年代末から00年代にかけての米国キャンセルカルチャー体験記。体験記だというのは、著者自身が仕掛ける側だったり、仕掛けられた側だったりするからだ。ただし、著者は活動家であると同時に博士号を持つ科学史研究者でもあって、政治よりも科学的な知見を重視する立場に立っている。原書はGalileo's middle finger : heretics, activists, and one scholar’s search for justice (Penguin, 2015.)で、この邦訳には日本語版のための序文と、2016年のペーパーバック版あとがきが付されている。

  おおまかに三部構成となっており、いずれも著者が関係した事件を取り上げている。一つめはインターセックスとトランスジェンダーをめぐる騒動、二つめは文化人類学者のナポレオン・シャグノンの名誉回復、三つめは倫理基準を満たさない遺伝子治療に対する連邦政府への告発である。著者は当初、インターセックス(卵巣と精巣をともに持って生まれてくるなど生物学的な性が曖昧なケース)の研究をしていて、米国におけるその治療を批判するようになった。そこで成果をあげて名声を得たが、とあるトランスジェンダー研究者を擁護したために自身に攻撃が向くようになる。これを契機に過去にキャンセルされた(またはされそうになった)研究者らに目を向けるようになり、中でも米国の文化人類学会から一時追放状態になっていたシャグノンの名誉回復に尽力した。最後は、胎児段階でのインターセックス研究が「まだ実験的な段階でリスクもあるにもかかわらず「標準的な治療」として行われていること」を政府に告発するも、一敗地にまみれた事件の経緯である。

  著者の体験談のほか、活動家によってたびたび講演会の妨害を受けたエドワード・O.ウィルソンや、自身のサモア研究がいったんは否定されかかったマーガレット・ミードへの言及もある。「性的虐待を受けた児童の回復」について報告したレビュー論文が、保守派の議員の猛反発(「性的虐待は被害者の一生を滅茶苦茶にする犯罪であるべきだ。だからこそ加害者を重罪にできる」という論理らしい)を受けて、連邦議会で非難決議を受けたという話もなかなかすごい。情報量としては十分ではないのかもしれないが、トランスジェンダーへの知識も得られる(例えば、1990年代はじめはまだ「トランスセクシュアル」と呼ばれていたのに現在は「トランスジェンダー」と言うようになった、その理由など)。本題のキャンセルカルチャーの話は、アカデミズム関係者ならば我が身に引き寄せて考えられるはずだ。研究をめぐるリスクの事例集として、大学・学会・研究所などのマネージメント層は必読だと言いたい。
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因果推論に関する教科書的内容と読み物的内容をごちゃまぜに記述

2022-10-04 08:08:01 | 読書ノート
ジューディア・パール, ダナ・マッケンジー『因果推論の科学:「なぜ?」の問いにどう答えるか』夏目大訳, 文藝春秋, 2022.

  統計学。数式が少々出てくるものの、文字による説明中心で読みもの然としている──という点から「一般向け」としたくなるところである。だが、変数の選択に頭を悩ませたことのあるデータ分析屋でないと本書が何を議論しているのかよくわからないだろう。著者のパールはイスラエル出身の著名なAI研究者らしいが、1990年代以降は因果推論の理論の構築に取り組んできたとのこと。もう一人のマッケンジーはジャーナリストで、おそらくパールの原稿をわかりやすく書き換える仕事をしたのだろう。共著の形式をとっているが、文中の「わたし」はすべてパールを指す。原書はThe book of why: the new science of cause and effect (Basic Books, 2018.)である。

 「相関関係は因果関係ではない」というのは耳タコのクリシェだが、「でもデータ分析屋が本当に知りたいのは因果関係だろ?」と本書は迫る。著者としては、現状のAIが因果関係を扱えない(影響関係が双方向になってしまう)ので、一方通行となる因果関係を機械に実装したかったというのが研究動機らしい。因果関係は元データをあれこれ操作しただけでは明らかにならない。だから、分析する側があらかじめ仮説を立てておくことが必要だ、というのが第一の主張となる。すぐさま外野から「主観的だ」という批判が飛んでくるのがわかる。実際その批判は当たっている。そうだとしても、本書が紹介するさまざまなツールや基準によって仮定された因果関係をできるだけ客観的に検証できる、と返す。600頁と長いものの全体を読むことで、これらツールや基準の持つ意味が理解でき、適切な因果分析の考え方を知るができるというわけだ。

  ツールとしては「因果ダイアグラム」、論理式に加える「do演算子」が提案されている。因果ダイアグラムについてはさかんに使用が勧められている。変数間を矢印でつないでいくだけの単純な図だが、この図によって分析者が想定する因果関係が明瞭になるという。矢印の向きも重要であり、向きが示す関係によって変数の統制方法も変わってくる。もう一つのdo演算子だが、これを用いれば「観察」研究を「介入」研究と同一視して扱えるという。その意義については読んでもよくわからなかったものの、現状では観察研究とRCTではエビデンスのランクに違いがある(RCTのほうがエビデンスとして上)とされているところを、同じ強さのものとして評価できるということだろうか。

  以上。上の説明だけだと教科書っぽく見えるかもしれないが、気楽に読める部分も多い。例えば、因果分析の萌芽とされる「パス解析」の統計学界隈での無視と再評価の歴史や、喫煙と肺がんの関係、ベイジアンネットワークの有用性と限界など、科学史またはパールの研究史に基づくエピソードも豊富である。したがって読み物としても楽しめる内容ではある。だが、この主題ではどうしても読者は限定されるよなあ。
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