29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

京都市が寄贈図書を廃棄してしまった件について

2017-04-28 23:52:00 | 図書館・情報学
  またタケヲか、と思ったら別のタケオだった。昨日、京都市が寄贈された桑原武夫の蔵書を捨てしまったというニュースが目に入った。

  桑原武夫氏の蔵書1万冊廃棄 京都の図書館、市職員処分 / 京都新聞 2017.4.27
 (前略)故桑原武夫氏(1904~88年)の遺族が京都市に寄贈した同氏の蔵書1万421冊を2015年、当時、市右京中央図書館副館長だった女性職員(57)が無断で廃棄していたことが27日、分かった。市教育委員会は同日、女性を減給6カ月(10分の1)の懲戒処分とした。
  http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20170427000086

  担当者が懲戒となるとはけっこうな大事である。気になったのは、いくつかのニュース媒体で「無断で」の廃棄ということが強調されていた点。文面をいちいち上げないけれども、遺族の了解をえていないのが問題であるかのように書いているところがあった。記事のいずれも京都市教育委員会の発表をもとにしているようだから、委員会がそう説明したのだろうか。

  しかし、条件の付かない通常の寄贈ならば、蔵書の所有権は京都市側に移っていたはず。なので、除籍(いわゆる廃棄)の規定通りに処分していれば、寄贈者側の同意が無くても手続き上の問題はなく、担当者は懲戒にはされなかっただろう。ならば寄贈時に「処分する際には遺族の同意が必要」という契約があったか、または廃棄が市の規定を外れた判断だったかのどちらかである。ニュース記事のいくつかでは上司に相談しなかった点も問題とされており、おそらく「規定外の廃棄の判断であり、かつ担当者にそのようなケースでの廃棄を判断する権限が無かった」ということだ推測する。その意味で「無断」だったのだ。

  というわけで、この件での懲戒は「通常の手続きからの逸脱」に対して下されたものであるだろう。この話と、何らかの「価値」がある(かもしれない)図書を廃棄してしまったという話は別の話だ。手続き上正当ならば、図書館は「価値」のある本も廃棄できるのだ。また一方、廃棄された図書に価値があったとして、それらを公共図書館が所有し続けるべきか、という話も別の話である。のだが、これらの話は長くなるのでここでお終いにする。
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米アダルトコンテンポラリーに近寄り過ぎて土臭さが消失

2017-04-25 21:39:38 | 音盤ノート
Milton Nascimento "Encontros E Despedidas" Barclay, 1985.

  MPB。『出会いと別れ』という邦題で日本盤が発行されている。1980年代初頭からミルトン・ナシメントはシンセサイザーを採り入れてサウンドを組み立ててるようになるが、中でもその使用が目立つ作品である。たとえシンセが入っても神秘性や素朴さを残すこの前後の作品と比べると、都会的でかなりポップである。すなわち1980年代の米国アダルト・コンテンポラリー的なサウンドである。

  収録曲はバラード中心で地味ではあるが、ボーカルをじっくり聴かせる技術があるので退屈にはならない。だが、プラスチックのようなこのサウンドはベストではない。チョッパーベースに、エコーの効いたドラム。Pat MethenyやHubert Lawsが1曲ずつゲスト参加していることからわかるとおり、よくできたフュージョン演奏である。クリアでありおしゃれに磨かれ過ぎている。素朴さがウリなのに、寸法の合わない一張羅を着てしまったかのよう。この作品を聴くと、民族音楽やらロックやらボサノバやらを手探り状態でブレンドしていたEMI Odeon時代の混沌とした音が、いかに素晴らしかったかがわかる。

  とはいえタイトル曲はかなり良い。オリジナル曲ではあるが初出は1981年のSimoneの"Amar" (CBS)で、その後の録音である。Eris Reginaの娘であるMaria Ritaもデビュー作(Wea, 2003)でカバーしている。この曲を筆頭にして、本作収録のバラード曲を、シンセ抜きのブラジル人ミュージシャンだけという異なる編成で再録音してほしい。
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言語間の違いも視野に入れた物語論入門

2017-04-21 10:26:09 | 読書ノート
橋本陽介『物語論:基礎と応用』講談社選書メチエ, 講談社, 2017.

  文学研究。いわゆる「ナラトロジー」についての一般向け書籍。著者は『日本語の謎を解く』の人だが、本業はこの領域なのね。なお前半は理論編、後半は分析編となっていて、理論編はについては同じ著者の『ナラトロジー入門』(水声社, 2014.)のほうが詳しいと、著者自身がことわっている。

  理論編の最初のトピックは物語の類型。ウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』を参照しながら、物語を構成する要素は30個ぐらいに限られており、その中のいくつかの組み合わせでだいたいの物語はできているという。次に、語りの時間感覚や視点。こちらはジェラール・ジュネットの『物語のディスクール』を参照しながら、回想形式においても物語には現在時間が流れていること、また三人称小説においても視点が登場人物に重ねられていたり俯瞰的であったりと、語りと視点は重ならないことがありうるとしている。残りは、ジョイス『ユリシーズ』のような「自由間接話法」の邦訳を引き合いに、日本語がどうしても話者の視点を採り入れてしまいやすいという特徴があること、およびノンフィクション作品もまた物語的なパターンを有していること等を論じている。

  後半の分析編では、森鴎外の『舞姫』やガルシア・マルケスの『百年の孤独』といった文学作品から、『シンゴジラ』『この世界の片隅に』など最近の映像作品などを採りあげて、その魅力を探っている。対象としてはラテンアメリカ文学が目立つ(中国文学も少々)。語りの面白さについては、やはり南米の実験小説ということになるのだろうか。この他、日本および世界の文学作品にマンガなど、数多くの作品が紹介されている。このため、分析編は賑やかすぎて落ち着いた検証とはなっていない印象である。が、それでも教科書的な理論編よりは楽しんで読める。

  以上。本書は創作する人にとって大いに参考になるだろう。読んだり観たりするだけの人にとっても、本書で提示されたツールを使って気に入った作品を分析出来れば、技術的な面で深くその魅力がわかるはず。僕のように普段あまりフィクション作品に接しない人間にとってはどうだろうか。一応、「物語の構造はノンフィクション作品やマスメディアの報道にも通底しており、メディアリテラシーとして有益である」としたいところだが、やはりノンフィクション作品の豊富な分析を見たいところだな。
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原書が電子書籍で売れたらしい短い世界史本

2017-04-18 09:43:21 | 読書ノート
クリストファー・ラッセルズ『いちばんシンプルな世界の歴史』島田誠監修, 得重達朗訳, 日本能率協会マネジメントセンター, 2015.

  世界史。「大学生以上ならマクニールの『世界史』を読むべし」と言いたいところだが、あれは長すぎて、高校時代に世界史を授業として採っていないという人には読みこなすのが大変かもしれない。一方、本書は314頁ほどの短い通史で、大雑把に歴史を把握したいという初学者に向けて書かれている。原書はA short history of the world (Crux Publishing, 2012)。著者はフリーライターのようだが、英国で電子書籍出版しているこのCrux社の"director"としても検索されてくる。

  歴史的事項を記した短い節が延々と続いてゆく記述スタイルだが、流れがつかめるように配慮されているので、ブツ切れの事件を読まされているという印象はしない。例えば、いくつかの節の最後で大きな事件のその後の影響を簡単に記しており、後に続く節へと話をつないでいる。また、節のなかでも「なぜ」と問いを立てて疑問に答え見せ、読者の興味を喚起することもある。ただし、細かいところは深堀りせず、簡単な説明を加えているだけ。基本的な事件・事項のみに説明の範囲を留めている(いくつかの事項はコラムとしている)。

  最近の「世界史」を銘打った一般書籍──特に新書で出ているようなもの──と比べると、偏りの少ないバランスのとれた記述だろう。新説・珍説などで目を引くこともなく、高校の教科書ほど事項の羅列ではないけれども重要どころを押さえ、充実しているというほどではないがわずかな説明で読者を分かった気にさせる。なおかつ、そこそこ面白い。これは、なかなかできない芸当であり、高く評価されてもいい。高校レベルの世界史の副読本として良いと思う。
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えこひいき当然の「親密性の領域」への公的介入の難しさ

2017-04-14 12:35:40 | 読書ノート
筒井淳也『結婚と家族のこれから:共働き社会の限界』光文社新書, 光文社, 2016.

  現代家族論。「これまで主流だった「男は外で仕事、女は内で家事育児」という近代核家族は今後衰退してゆき、これからの家族は多様化する」。このような議論はもはや耳タコだろう。本書はそうした議論に社会学の視点から釘を刺す内容である。著者は『仕事と家族』の人。

  最初の二章では、家族形態変遷の歴史を辿りながら、かつて考えられていたほど、時代の進歩にあわせての家族の多様化は進んでおらず、現在「夫婦共働き家庭」が主流になりつつあることが指摘される。こうした家庭が社会のメインとなることで、以下のような問題が浮上するという。

  一つめは家事分担の不公平。共働き家庭においても、世界的にみて家事負担の割合は男のほうが少ないという傾向があるらしい(日本の場合は特に酷い、と)。米国は、途上国からきた移民の女性労働者を家政婦として雇うことで解決している。しかし、日本で望ましいのは、北欧のような育児・保育などへの公的支出を増やすことである、という。それでも、食事の準備片付けや洗濯など、面倒な日々の雑用の部分で問題は残り続ける、とも。

  二つめは家庭の職場化。共働きによって家庭が癒しの場ではなくなり、仕事で疲れて帰ってきた二人による、家事育児を行うもう一つの労働の場となってしまうことである。こうした家庭がストレスフルならば単身者でいたほうが良いはずである。それでもなおカップルを形成する趨勢があるのは、家庭が失業などに対応できるセーフティネットとなっているからだ、と。

  三つめは共働き家庭間の格差の拡大である。コミュニケーション上のストレスの少ない、似たような学歴や似たような出身階層の者の間で結婚する傾向は根強い。これと共働きという二つの要因が重なると、エリート同士の高所得な夫婦が形成される一方、低所得者同士の生活の厳しい夫婦も生まれる。こうしたカップル間格差拡大傾向に対しては、世帯単位か個人単位かといった税制での対応をすすめているが、女性の社会進出の妨げになるやもしれず、著者は結論をくだすのに慎重である。

  最後に、公的世界で「平等」を推し進める政府が、夫婦関係のような「親密性の領域」の問題に介入することは難しいとする。ケア労働などへの公的負担によってある程度改革できるものの、この領域に理想的な平等をもたらすことは無理だろうと著者は結んでいる。

  以上。少子高齢化も視野に入れつつ、結婚して家庭を築くことによって起こる社会問題を取り上げている点が面白いところかもしれない。家族形成は単なる私的な領域に留まらず、経済に大きく影響する事象でもある。しかしながら、それを政治的にコントロールすることは難しいというジレンマを抱えている。そのような、公私の境界を見定めるのに有益な内容である。
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米国白人貧困層の実態とそこからの脱出物語

2017-04-11 13:25:43 | 読書ノート
J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー:アメリカの繁栄から取り残された白人たち』 関根光宏, 山田文訳, 光文社, 2017.

  米国オハイオ州の田舎町で、崩壊家庭に生まれた白人貧困青年の回想録である。舞台は20世紀半ばにできた企業城下町ミドルタウンであるが、20世紀末にグローバル化によって街が衰退する。著者が生まれてすぐさま両親は離婚し、ヤク中の実母のもと、義父がころころと入れかわるという家庭。こういう環境で育った著者が、祖父母の協力によってなんとか立ち直り、たまに会う実父の敬虔な信仰に刺激を受け、海兵隊で鍛えられ、イェール大のロースクールを修了して良き伴侶を得るという話である。原書は2016年のHillbilly elegy: A memoir of a family and culture in crisis (Harper)。個人的には「ヒルビリー」って初期ロックンロールのサブカテゴリというイメージだったが、アパラチアの白人貧困層のことを差すのか。

  米国のトランプ大統領の支持者層を描いた書籍としてマーケティングされているが、白人貧困層を、有色人種優遇政策やリベラル的な政策の被害者として同情的に描くようなものではない。むしろ彼らの、社会に対する理不尽な甘えや駄目さのほうが強調されている。教育を軽視する、すぐ暴力を振るう、放縦な性関係、アルコールやドラッグへの依存、怠惰で仕事を続けられない、身の丈に合わない消費をして家計を破壊する、などなど。とはいえ、彼らを声高に非難する調子でもなくて、すべては無知とトレーニングの欠如ゆえ、と愛情を保ちつつ突き放しつつの微妙な距離感で伝えている。

  読みながら思い出したのは、ポール・E. ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』(筑摩書房, 1996.)である。あれは1970年代の英国労働者階級の少年たちが、中流階級的な学校文化に対抗して「労働者階級」としてのハビトゥスを身に着けてゆく過程を描いたものだった。知人の中には、あれを読んで対抗文化的なその在り方を美化する奴もいた。しかしながら今思えば、1970年代には、労働者階級アイデンティティを肯定的に保持できるような経済状況がまだあったということにすぎないように思える。すでに1990年代の英国映画はそうした状況が変化していたことを伝えていた。米国でも、それを支えていた経済環境が失われてしまうと、プライドだけは高い、自制の効かない怠け者が街に残されてしまったというわけだ。

  本書では白人貧困層のそうした希望の持てない状況が写されている。とはいえ、暗い話に終始しないのは、本書が著者の立身出世物語として読めるからだろう。困難から抜け出て、学習し、成長してゆく若者の話を追うという気持ち良さがあるのだ。大統領選に絡めた政治的な文書としての意義もあるが、リアルなビルディングス・ロマンとして楽しめる。
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移民と多文化主義によって失われる国民の一体感

2017-04-07 14:18:44 | 読書ノート
サミュエル・ハンチントン『分断されるアメリカ:ナショナル・アイデンティティの危機』鈴木主税訳, 集英社, 2004.

  米国アイデンティティの危機を論じる一般向け書籍だが、600頁弱の大著である。著者は『文明の衝突』の人。原著はWho are we? The challenges to America's national identity (Simon & Schuster, 2004.)で、2017年初頭に邦訳の集英社文庫版が発行されている。文庫化は、オビによればトランプ大統領誕生を受けての緊急出版であるらしい。

  「米国アイデンティティとは、かつてはアングロ=プロテスタント文化の下に形成されるものだった。しかし、多文化主義がそれを蝕み、国の一体感を破壊している」というのがその趣旨。まずやり玉に挙げられるのが白人のリベラル・エリート層。「機会の平等」の解釈をねじまげ(「脱構築」という語を使っている)て、白人以外のエスニック・グループ単位での優遇政策を推進した。結果、いくつかのエスニック・グループにとってはそのエスニック・アイデンティティを保持することが社会的なメリットとなってしまい、アメリカ社会に同化しないままになってしまった。一般大衆は移民の同化を望んできたのに、エリートらはそれを妨げるように国を導いた、と。

  エスニック・グループのうちとりわけ脅威とみなされているのが、ヒスパニック系である。公用語でもないのに、20世紀末からアメリカ国内でスペイン語が併用されるようになり、都市によっては英語使用者がマイノリティになることすらある。彼らは、低学歴で、不法入国者も多い。彼らは、母国で培ったアイデンティティを保持できるよう米国側に財政的負担を求める(二言語教育など)。特にメキシコ系移民は、カリフォルニアなどのかつてのメキシコ領のメキシコ返還を求める運動もすすめるようにもなっており、やっかいであると。さらに、出身国のアイデンティティを保持したままの移民たちが選挙で影響をふるうようになり、米国政治への外国の介入をゆるし、米国が純粋に国益を追求することを難しくしているという。

  以上。なるほど、昨年の大統領選挙の説明によくでてきた、米国の一般大衆層と大学やマスメディアを牛耳るエリート層とのギャップや、メキシコからの不法移民のトピックについてはよく理解できた。キリスト教がまた勢力を盛り返しつつあることについても言及がある。まあ、でも手遅れなんじゃないかな。ヒスパニックが将来急増するという人口構成を見せられるとそう思う。日本側としては、米国の将来の変容を予想した外交関係を築いておくべきだ、という月並みな感想しかでてこない。
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敵の存在こそが協力行動を進化させるとのこと

2017-04-04 21:33:52 | 読書ノート
サミュエル・ボウルズ, ハーバート・ギンタス『協力する種:制度と心の共進化』竹澤正哲, 大槻久, 高橋伸幸, 稲葉美里, 波多野礼佳訳, NTT出版, 2017.

  人間における「協力行動」の発生を理論的に検証するという試み。最後通牒ゲーム(この邦訳では「最後通告ゲーム」と表記)などの実験結果や文化人類学など実証研究への参照はあるが、基本的には協力行動を促す遺伝子が優勢となる理論モデルの検討に頁が割かれている。延々と数式を展開しての説明が続くので、読むのはかなりしんどい。最初に訳者解説を読んだほうがよいだろう。原書はA cooperative species: Human reciprocity and its evolution (Princeton University Press, 2011.)。

  結論としては「内集団びいきの利他主義は進化しうる」ということのようだ。無差別な利他主義者は利己主義者に搾取されるために、その遺伝子が広まることはない。しかし、外集団との争いがあり、負ければ子孫を残せないという状況においては、「内集団に対しては利他主義」な者の多い集団の方が争いにおいて勝ちやすい。加えて、協力しない構成員を罰すること(一種の利他主義)も、集団の団結にとって有益だ。そして、協力行動を促進する制度が集団内に確立されると、そのような利他主義者が有利となってその遺伝子がさらに集団内に広まることになる、と。

  門外漢にとっては、なぜわざわざ協力行動が合理的であることを説明しなくてはならないのか、というのがよくわからないところだろう。別のエントリにおいても記したが、生物学の標準的な考え方である「利己的な遺伝子」を前提とすると、非血縁者との協力が非合理となってしまうからである。本書によれば、外集団との軋轢と非協力者への制裁の存在が、そうした単純な見込みを覆すという。はじめに戦争ありき、というわけである。

  訳者解説によれば、本書において、いくつかの計算式および使用しているキー概念にかなりの問題があるという。しかしながら一方で、生物学から社会科学を統合して一貫した説明を与えているという点で高く評価されてもいる。僕のような凡庸な人間としては、本書の含意をもう少しかみ砕いて説明してくれる一般書籍の登場を待ちたい。
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