29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

「コップの水は半分しかない」という解釈からの人生論

2011-03-30 08:55:33 | 読書ノート
橘玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』幻冬舎, 2010.

  人生論。著者は『ゴミ投資家』シリーズを書いた海外投資を楽しむ会のメンバーで、経済・金融関連の著作が多い。僕も、彼の講談社+α文庫の二冊1)と文春新書2)の一冊を以前読んだことがある。しかしながら、本書は得意な経済分野ではなく、心理学分野に分け入って人生における「ゲームの規則」を説明する内容である。

  その規則とは「能力は遺伝で決まってるよ」ということである。近代社会は能力主義原理によって形成されている。だが、行動遺伝学の成果によれば、個人が能力開発できるポテンシャルは遺伝的に決定されてしまっている。ボテンシャルが高くなければ、努力しても頭は良くならない。そこで著者は、努力しても成果の上がらないようなタイプの人に向けて、どうやったら幸福になれるのかを説く。それはかなり抽象的なアドバイスで、ニッチを見つけてそこでの評判を高め、それで糊口をしのげるようになりなさい、というものである。他にも「貨幣空間と友情空間の対比」「他人を操作できるか」などのトピックを扱っているが、結論とのつながりがよくわからず、まとまっていない。

  著者の遺伝に対する議論は首肯できるものではない。能力のポテンシャルは遺伝で決まっていることには同意する。しかし、自分がどのようなポテンシャルを持っているかどうかは「無知のヴェール」の領域で、それぞれの人があらかじめ把握しているわけではない。それこそ、あれこれ努力してみないと能力が伸びるかどうかが分からないものだ。普通の人が知りたいことは、「どの程度投資(努力)してどの程度のリターンならばそれを続ける/あきらめるか」ということであって、努力を止めることではないはずである。

  ここにあるのは「コップの水は半分しかない」という世界観で、極端すぎると合理的に見えない。遺伝が人生を100パーセント支配するわけではないのに、能力開発にシニカル過ぎて、遺伝学の悪用とすら言える。僕としては、著者がアドバイスする「ニッチ探し」と「そこでの評判獲得」もやっぱり努力が必要なことなのだと指摘したい。

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1)橘玲+海外投資を楽しむ会『世界にひとつしかない「黄金の人生設計」』+α文庫, 講談社, 2003.
 橘玲+海外投資を楽しむ会『「黄金の羽根」を手に入れる自由と奴隷の人生設計』+α文庫, 講談社, 2004.
2)橘玲『臆病者のための株入門』文春新書, 文藝春秋, 2006.
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「市民社会」が日本で持ち上げられ、そして衰退した歴史

2011-03-28 09:39:28 | 読書ノート
植村邦彦『市民社会とは何か:基本概念の系譜』平凡社新書, 平凡社, 2010.

  「市民社会(=civil society)」概念が、時代と国によってどのような意味を与えられてきたかを追った書籍。その検証過程は詳細で、新書にしてはやや難しい部類に入るだろう。著者の見解を述べた終章には首肯できなかったが、全体の完成度を損ねるものではない。

  細かい変遷は省くが、だいたい次のようなストーリーを描ける。日本において「市民社会」はマルクスの「ブルジョワ社会」概念に相当するものとして輸入され、講座派マルクス主義者がその起源をアダム・スミスに遡るうちに「個人主義的でかつ自由と平等のある社会」として理解されるに至った。講座派とは明治維新をブルジョワ革命とみなさなかった──マルクスはまず資本家によるブルジョワ革命があった後に労働者による共産主義革命が来ると考えていた──一派である。彼らは、1950年代になっても日本社会には封建的残滓があるとし、共産主義革命の前段階に上らせるため、日本社会により「市民社会」になるよう求めた。1970年代には、その位置づけが忘れられていつの間にか市民社会が理想化されてしまったという。ところがそれは、当時の日本経済が好調であるという現実によってたちまち有効性を失ってしまった。そして、資本主義体制以外の選択肢が無くなった1990年代になると、国家と市場がカヴァーできない領域で活動する「市民団体(=civil society)」またはそれらが活動する領域として、「市民社会」が理解されるようになったという。

  日本の公共図書館界においては、超ド級の影響力を持つ古典として『市民の図書館』(日本図書館協会, 1970)というのがある。団塊ジュニア世代の僕にはそのタイトルにピンとこなかったが、本書を読んでみて「ああ、こういう時代的・思想的背景のもとに書かれた本だったのだな」と納得したしだい。
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三人の子を持つパパの育児エッセイ

2011-03-25 09:43:30 | 読書ノート
ジョシュア・ガンズ『子育ての経済学:ビジネススクールの講義でいちばん受けた話』松田和也訳, 日経BP, 2010.

  ときおり学者らしい洞察の入る、男の育児エッセイ。タイトルから想像される「育児常識を経済学的に分析する」ような論争的な内容ではない。副題からはかなり高度な水準の分析を期待してしまうが、プライベートな面を語った随想以上のものではない。おそらくビジネススクールでは、本筋ではなく四方山話として披露したものだろう。

  そういう本だと思って読めば、かなり面白いと言える。著者は3人の子を持つメルボルン大学の経済学者──ケネス・アローの弟子らしい──で、妻がMBAの学位取得に励んだ4年間ほどかなりの時間、育児にたずさわったという。特に、親の意図を超える反応を示す、長女(第一子)の行動が楽しい。例えば、おむつをはずす訓練のインセンティヴとして、トイレに行くとその後にお菓子を与えるという規則を家庭で作った。そうしたら、長女は排泄物がでないのにトイレに立てこもるようになってしまったという。著者はゲーム理論などを持ち出してあれこれ考察するのだが、結局落ち着いた結論は「トイレトレーニングのプロがいる託児所にまかせちゃえ」ということだった。

  教師でかつ保護者として個人的に興味深かったのは、三者面談がいいらしいということ(p.222)。教師が保護者と面談する際、生徒も同席させるというのである。子どもの学校での振舞いと家庭でのそれが違っていることはしばしばある。その場合、保護者と教師がそれぞれイメージする生徒の姿が異なっており、二者面談では話がかみ合わない。なので生徒を同席させたほうが、保護者は学校での子どもの姿を理解しやすいということのようだ。これ以上のことは挙げられた文献を辿る必要があるが。いや、個人的に学生指導で大変だったことがあるので。
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放射線をめぐる不安を軽減する、たぶん

2011-03-23 09:49:49 | 読書ノート
近藤宗平『人は放射線になぜ弱いか:少しの放射線は心配無用 / 第3版』ブルーバックス, 講談社, 1998.

  放射線が人体に与える影響とそのメカニズムについて解説した書籍。ブルーバックスなので一般向けだろうと思って読むと大間違い。この分野の論争的な性格のためか、図表と参考文献をふんだんに使って丁寧に説得しようしているため、細かすぎてかなり韜晦に感じられる。また、V章の人類の進化の話は冗長である。そのようなわけでとっつきやすい内容ではないが、詳細を理解できなくても著者の言わんとするところはわかるようには出来ている。

  副題にあるように「少量の放射線ならば浴びても健康に害はない」ということである。小さな怪我ならば皮膚が再生するように、放射線で出来た傷も人体は治癒できるとのことである。悪く言えば、著者は放射線の危険を軽く見積もる方にバイアスがかかっているとも言える。初版の副題「弱くて強い生命の秘密」(1985)、改訂新版の副題「放射線恐怖症をやわらげる」(1991)からも、それはうかがえよう。とはいえ、説得が強引というわけではなく、データを丹念に読み解くとそのような結論になるのだろう。現在の放射線に対する危険度の基準は過大に見積もられ過ぎているということも訴えている。

  では、どの程度以上になると放射線は危険なのだろうか?残念ながら、本書では単位に“ラド”が使われており、現在の政府やマスメディアが使用する“シーベルト”に簡単に変換できるようにはできていない。著者は、“アルファ線などをガンマ線より20倍も毒性が強いと仮定した人工的単位シーベルトは有害無益な非科学的単位であることが暴露された”という。なので同じ著者による下記リンク1)にを参考にすると、50ミリシーベルトよりずっと上ということになるようだ。ただし、そのしきい値は示されていない。

  本書を信頼すれば、今回の福島の原発事故における避難勧告地域が原発から半径20km圏内という政府の指示はおそらく正しいのだろう。ただし、原発の北西30キロ付近で1時間あたり150マイクロシーベルトというから、14日弱現状が続くと50ミリシーベルトになる。念のため米政府の示す「80キロ圏内」の人も避難してもいいのかもしれない。だが、東京から避難するというのは大袈裟のようだ。僕の家族も横浜でまだ暮らしている。

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1) 近藤宗平“線量限度50mSvのリスクはゼロ”
  http://homepage3.nifty.com/anshin-kagaku/sub060114hobutsu2000_kondo.html
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「放射能」といういかめしい単語をタイトルに掲げながら牧歌的

2011-03-21 12:46:05 | 音盤ノート
Kraftwerk "Radio-Activity" Capitol, 1975.

  ロック。発表当初の邦題は「放射能」で、現在の日本の状況にぴったりである、不謹慎かもしれないが。チープで人懐っこいメロディアスなシンセ音にボソボソ歌う男声がのるというのはいつものスタイル。このアルバムでは電波や信号を模倣した音が目立つのが特徴。一曲も短くなってジャーマン・プログレのカテゴリから離れ、よりテクノポップに近づいた印象である。

  ドイツ語でいったい何を歌っているのか不明なものの、音からは放射線への危機感は伝わらない。現在の水準の耳で聴くと、この時期のクラフトワークによるシンセサイザー音楽はずいぶん牧歌的だからである。前作"Autobahn"(Philips, 1974)でもハイウェイを疾走しているというにはほど遠い安全運転のスピード感だったが、このアルバムも実にのんびりしたもので、放射能汚染についてのラジオニュースを、そこから遠く離れた地にあってソファに寝そべりながら聞いている印象である。実のところ"Radio-Activity"も「放射能」と「ラジオの活動」をかけた洒落の様子。シリアスさとはほど遠い、楽しげなアルバムと言っていいだろう。

  なお僕が所有しているCDは1987年の米国盤。2009年にジャケットを変えてリマスタリング盤が発表されているが、そちらは未聴。
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3/16卒業式をめぐる組織としての反省

2011-03-18 11:35:35 | チラシの裏
  15日夜に富士宮で震度6強の地震があった。静岡市の震度は4だったと記憶している。16日は静岡市民文化会館で卒業式を挙行したので、静岡市内にある短大には行っていない。というわけで、17日に地震後の職場の整理をすることになった。僕の研究室は書架の本がずれる程度だったものの、弱い地盤の上の建物の研究室は悲惨で、本棚が倒れて書類が飛散していた。部屋に人がいたら大けがになっただろうなと思わせるレベルである。結局、復旧を手伝わされたけど。

  さて、この辺りの我が短大の危機管理には反省点があった。まず、15日夜の地震後にホームページで、翌日の卒業式を予定通り挙行するのことをアナウンスするべきだった。とある研究室の本棚のように、短大が地震で壊滅していないことを示すにも必要だったと思う。また16日の日中の学校の電話番が、非常勤の用務員さん一人だったことも問題だった。この日は外部から多くの問い合わせの電話が予想された。事情をよく知らない人が電話番では上手く処理できない恐れがあった。で実際そうなって、僕はこの日の電話応対の件でクレームを受ける立場になったのだった。次に活かされるよう進言しておこう。
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東海道新幹線と東海道本線

2011-03-16 08:42:28 | チラシの裏
  横浜-静岡間を移動するので、東海道新幹線と東海道本線のどちらもよく利用する。常々感じるところだが、JR東海の区間における東海道本線の扱いは良くない。JR東日本の区間の東海道本線では、横浜から熱海まで15両編成の列車の中を悠々と座ってられる。人が少ないので弁当を食べても迷惑にならない。ところが熱海で乗り換えると、待っているのは5両編成の列車である。僕が移動する時間帯ではぎりぎり座れるが、時間帯によっては立たされることもしばしばあるみたいだ、大都会を移動するわけではないのに。熱海以西の列車内の人口密度では、飲食は当然マナー違反である。「JR東海は東海道新幹線を利用させるために東海道本線の待遇を悪くしている」という噂を聞いたことがあるが、さもありなんである。

  先日の12日土曜、静岡から横浜への移動を試みた。大地震の翌日である。確認しておきたいのは、地震で静岡にはあまり被害は無く、神奈川では数人の死者がでていることである。JR東日本側の東海道本線は本数を減らしながらも動いていた。ところが静岡駅に行くと、豊橋-熱海間の東海道本線は不通とのことだった。推定だが、静岡県内に大津波警報が発令されており、海沿いを走る箇所が危険だということなんだろう。しかし同じく海沿いを走る熱海-藤沢間の東海道本線は何なのか?。一方、東海道新幹線は予定通り動いていたので、横浜には新幹線で帰った。都内の電車が軒並み止まった大地震の日も運休にしなかったぐらいだから、相当磐石なシステムなのだろう。
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3月11日の地震対処についての個人的反省

2011-03-14 10:19:43 | チラシの裏
  静岡にいて大きな被害を受けたというわけではないが、やはりこの日についての個人的な記録を残しておこうと思う。勘違いや不手際がいろいろあり、今後の反省としたいためである。

  地震が起きた14:50頃、校舎の2Fで追試験をしていた。学生は一人だけで、窓際に座って問題を解いている最中だった。僕は教室の後ろの席で揺れを眺めていただけで、最初は何もできなかった。恐怖だとか驚きがあったわけではなく、揺れの大きさやその深刻度が明確になってから行動しようと考えたからである。そのため、出口となるドアを開けるのが遅れてしまった。

  幸い大事には至らなかったが、今思えばこうした対処は駄目だろう。地震が大きいと分かった時点で、もうドアが開かなくなっている可能性があるからだ。揺れたらすぐに出口を確保しておくべきだった。また、学生を窓際に座らせておいたままにしておいたのもよくなかった。ガラスが割れて彼女が傷を負う危険性があった。以上は反省点。

  静岡に永く住む教員・事務職員はさすがに対応がこなれていた。音楽科の年配の先生は少し揺れた時点で、複数の会場で行われていた試験を中断させて中庭に学生を避難させた。また日文科の若い先生は、人の居る教室のドアを開けてまわっていた。僕が試験をやっている教室にもきた。こうした人たちを尊敬する。

  僕の場合、過剰に状況把握をしようとして対応が遅れてしまった。こういうのは緊急時には命とりになるかもしれない。「地震の場合、最悪の可能性を考えた行動を迅速にすべし」と胆に銘じたい。

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国民国家におけるデモクラシーの理念的な解説書

2011-03-11 11:30:44 | 読書ノート
ロバート・A. ダール『デモクラシーとは何か』中村孝文訳, 岩波書店, 2001.

  デモクラシーについての代表的な入門書。著者は著名な米国の政治学者らしい。著者は、デモクラシーに含まれる「民主主義」と「民主制」という二つの意味を分離していない。著者は、デモクラシーに民主制すなわち「形式的手続きが民主的である」という以上の意味を込めており、道徳的にも優れた社会状態をもたらす理念であるかのように使っているからである。訳者が、democracyをカタカナに置き換えたままにしているのもそういうわけだろう。

  内容は、デモクラシーを構成する要素や、それを成立させる条件、あるいはそれを脅かす問題についての考察である。著者は代議制を非常に重視しており、古代ギリシア・ローマの話はあまりない。都市国家に適した直接民主制を、大規模な国民国家に適用するのは現実的ではないとするからである。そのようなわけで、考察されているのは、厳密には「構成員の政治的平等が保障された国民国家における代議制を擁するデモクラシー」である。

  最終章では課題が四つ挙げられるが、その一つが「市民教育」の必要性だった。個人的には、それは第二次世界大戦を経験した世代にありがちな処方箋のように思えるがどうだろうか?それは戦後ずっと言われてきて結局実現しなかった。結果として、現状の日本の政治は悲惨である。全有権者の政治的知識を高める方法を考えるよりも、むしろ「衆愚」を避けることのできる意思決定方法の発見に期待してしまう。都合の良い希望だというのはわかっているけれども。
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超甘口(神への)ラブソング集

2011-03-09 09:49:37 | 音盤ノート
Prefab Sprout "Let's Change the World With Music" Kitchenware Records, 2009.

  英国産ポップミュージックで、このアルバムに限れば「ネオアコの精神を持つ打込みAOR」とでも形容できようか。ライナーによれば、1990年代前半に未完成のまま放置されていた音源を、神学部卒のボーカル兼ソングライターのPaddy McAloonが一人で完成させたものである。1980年代からの他のメンバーすべて居なくなり、もはやバンドの体をなしていない。

  楽曲の基本は、神の愛についての詞を、青臭くて弱々しい男性ボーカルが、ゴスペルにおけるソロのように歌いあげるというもの。各曲は、ベタベタで大甘、糖度200%であり、まともに聴いていると赤面したくなるほどである。また、ここでの打込みは、発表が当初計画された1990年代前半にはマッチするかもしれないが、2009年のエレクトロニカの水準からみればかなり古臭い部類に入るだろう。全体として、ストイックで感情表現の控え目な音楽が好きな僕にとっては、ダサさを凝縮したようなアルバムである。

  しかし、良い。くど過ぎるスローバラードを除けば、一曲目の"Let There Be Music"などを筆頭にミディアムテンポの曲の焦燥感が素晴らしい。琴線に触れるメロディだけでも、それなりの水準のアルバムが作れるという好例。
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