29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

競争の倫理学的肯定および競争をめぐるドイツ事情

2020-09-28 08:35:01 | 読書ノート
クリストフ・リュトゲ『「競争」は社会の役に立つのか:競争の倫理入門』嶋津格, 慶應義塾大学出版会, 2020.

  倫理学。「競争」概念の倫理学的な位置を定めることを試みた小著。著者はドイツのビジネス倫理の専門家で、原著はEthik des Wettbewerbs: Ueber Konkurrenz und Moral (Beck, 2014.)である。2019年にはThe ethics of competition (Edward Elgar)というタイトルで英訳も発行されている。

  協力関係を破壊し、格差を拡大すると考えられているがために、ドイツでは「競争」が否定的に扱われている。しかし、西洋哲学史を紐解いてみると、ルールによって規制されない無秩序な競争、および暴力を伴う競争だけが多くの場合で否定されているにすぎず、競争一般が廃されているわけではないと著者は指摘する。また、財を獲得するためにお金を使わない方法でもっとも公正な方法は何か?と人々に尋ねて、もっとも多い答えが「早いもの勝ち」となったという調査があるそうだ。しかし、著者は「早い者勝ち」は保守的で社会を静的なものとするとして批判する。これに対して「競争」に伴う経済発展は社会全体の生活水準を上昇させることができ、また資源配分を効率的なものにすることができると肯定する。もちろん、敗者も生まれるが、絶対的な水準での厚生上昇と機会の拡大で埋め合わせることができるとする。

  このほか、後半に教育・保健医療・選挙における競争的システム導入をめぐるドイツの論争が紹介されている。前半の理論的な議論よりも、これら後半の方が、日本では伝えられることの少ないドイツ事情が知ることができて有益かもしれない。前半の競争肯定の論理は、英米の平等論(Egalitarianism : 広瀬巌とかパーフィットとか)でいうレベリングダウン批判からのアプローチに近く、それほど目新しいものではない。英米の平等論ほど形式的ではないという点と、倫理学も競争によって更新されうるという主張がオリジナリティとなるのだろう。
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1990年代日本の大改革を整理しその成果を検証する

2020-09-24 09:39:50 | 読書ノート
待鳥聡史『政治改革再考:変貌を遂げた国家の軌跡』(新潮選書), 新潮社、2020.

  1990年代に日本では多方面で政治改革が行われてきた。本書は、それら改革の当初の目的や理念、それが政治過程を経ることで実際どのようになったか、さらに改革後にもたらされた現状について検証してみようという試みである。この著者についてはこのブログで過去に『代議制民主主義』と『民主主義にとって政党とは何か』を取り上げたことがある。

  選挙制度改革では、衆議院で小選挙区比例代表並立制が導入された。国家として統一した政策を行うために、以前の中選挙区制で力を持っていた派閥の力を弱め、首相権限を強化するためだったが、この狙いは実現した。省庁再編を行った行政改革もまた同様に中央集権化を目的としたが、世論に押されて大蔵省から日銀を分離したことはその方向と逆行していた。結果、政府と日銀の政策的連携が上手く行かない時期もあり、日銀が批判を受けることにもなった。地方分権化もまた中央集権化と逆行する改革となっており、結果として国と地方自治体の関係を弱めた。その際、国と地方の役割分担について十分整理されなかったため、混乱も残ったという。さらに、司法改革は法学大学院の失敗や裁判員制度の不浸透などの点で司法を国民に近づきやすいものにするという目論みは果たされていないとする。一方で、地方議会や参議院の選挙制度は旧態依然のままとなっており、国の政策に微妙な影響を与えている。

  改革は全体として、1980年代までのまだまだ前近代的な日本(あるいは日本人)を、合理的かつ主体的である近代人に(あるいはそのような仕組みに)にリニュアルしようという試みだった、というのが著者の見立てである。現在そう見なされているような「新自由主義」的な改革がその全貌だとは言えない(部分的にそのような志向を含んでいるとしても、そうでない志向も含まれていた)。1990年代のこれらの改革には革新政党だけでなく保守政党も参加し、なおかつ国民の支持を受けた。歴史的にみれば憲法改正に匹敵するような大改革であり、成果も失敗もあった。今日の日本は改革の結果がもたらした利益や不便も享受しているという。

  以上、バランスの取れた視点で書かれており優れた内容である。著者は「近代化」という改革の目的自体への評価を行っていないけれども、その目的自体は間違ってはいないのではないだろうか。その目的をきちんと機能する制度として形に変える作業に困難があり、果たされなかった部分も残されることになった。この部分を認識して改善を試みるというのが、令和の日本の課題なのだろう。
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二極化してゆく米国テレビ報道の動向

2020-09-20 10:36:31 | 読書ノート
渡辺将人『メディアが動かすアメリカ:民主政治とジャーナリズム 』(ちくま新書), 筑摩書房, 2020.

  米国におけるテレビ・ジャーナリズムの報告と分析である。著者は現在北海道大学の先生であるとのことだが、過去に米国の民主党議員の下で選挙活動を手伝ったり、テレビ東京の記者としてテレビ報道の内側を見てきたという経歴がある。

  米国のテレビニュース番組には、日本の民放ニュースにはおなじみのコメンテイターがいない。ニュースは現場にいる記者が伝えるもので、アンカーはスタジオで個々のニュースをつなぐという役割を果たすだけである。チャンネルを変えても、どこも同じような画面の構成で、米国のニュース番組は工夫が少なく退屈だ。しかし、アンカーは、労力が少ないにもかかわらず、取材歴のあるそこそこ高名なジャーナリスト出身でなければならない。世間的信用のある人物としてかつ報道部門の代表として、アンカーにテレビ局経営陣と駆け引きをする役割が期待されてきたからだ。

  本書は、そのようなプロフェッショナルなジャーナリズムとテレビを取り巻く商業主義との均衡が、1990年代から米国では徐々に崩れてきたことを知らせてくれる。商業主義の影響、CNNやFoxテレビの台頭、政治家によるメディア対策(記者の囲い込みや政治的に繋がりのある人物の出演ごり押しなど)などで、かつてほど政治との距離は保てなくなってきているという。一方で、そうした動きに対抗する動き──コメディアンによる政治批評番組やエスニックメディアなど、必ずしも公平中立というわけではない──もあって、ダイナミックな変化があることが解説される。

  気になるのは、著者自身は「対象と距離を置いた客観的な報道」に理想を抱いているように感じられるのに、描かれた米国メディア側の方はそういう考え方に対してずっとシニカルであるかのように見えることだ。中立や客観など存在しない。ジャーナリズムには偏向があるだけなので、敵の偏向報道に対しては逆の偏向報道をぶつけることでしか真ん中という位置が分からない。こういう原理でメディアが動いているようなのだ。こういう考え方が蔓延するなかでは、妥協や歩み寄りなどできないだろう。
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緩い人力演奏からシンセ音をバックに歌い上げる路線に転換

2020-09-16 20:57:52 | 音盤ノート
Bebel Gilberto "Agora" Pias, 2020.

  MPB。ブラジルの歌姫、ベベウ・ジルベルトの6年ぶり新作となるが、大きな路線変更のある問題作である。前の二作ではバックバンドがいたが、今作には参加していない。代わりにシンセサイザーが全編で導入されており、しかもそのシンセ音はダンサブルなものではなく、アンビエント~ドリームポップ系の浮遊感のあるゆったりとしたアレンジである。打楽器も入るがスローで弱め。その上をジルベルトがじっくり丁寧に歌唱する。録音メンバーは本人と鍵盤奏者兼プロデューサーのThomas Bartlettだけ。ただし収録曲の半分に人力で打楽器奏者が入る(また、一曲だけゲストボーカルの入る曲がある)。

  昔からの聴き手ならばボサノバやMPB的要素が大きく後退していることに面食らう。ならば、新たに打ち出されたこの浮世離れしたこの音世界に浸れるかだ。しかしながら本作「浮世離れ感」は十分に徹底されていない。浮世離れ感を醸し出すためには、ボーカルの音量を小さめにしてエコーやリバーブをかけて歌うという音響処理がテンプレとなる(そうすると天上から聞こえてくるような感覚をもたらす)。だが、本作ではボーカルはエフェクトなしであり明瞭に聞こえるし、かつ表現力がありすぎる。このため、歌自体は生々しく現実的である。うーん、聴く側の僕にこの音をうまく位置付けるための文脈が欠けているので、勘所がよくわからない。

  というわけで評価に困る作品である。思い起こせば、前作の"Tudo"(Sony, 2014)ものんびりした歌唱の作品だったから、緩い雰囲気という点ではそう変わらないのかもしれない。バックがシンセ音に代わっただけだ、とも言える。でもアコギ音や細かく刻むリズム隊は欲しいというのはある。あと、レーベルがPIASってインディーズに戻ったということ?。
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共感の過剰は判断を誤らせるという

2020-09-12 23:49:48 | 読書ノート
ポール・ブルーム『反共感論:社会はいかに判断を誤るか』高橋洋訳, 白揚社, 2018.

  世間で「共感」は善なるものと捉えられているが、限界もあって悪い結果をもたらすこともある、と説く一般書籍。共感することを止めましょうというわけではなく、一定限度に抑えましょうという微妙な線を狙う主張である。著者は米国の心理学者で、乳児の心理を対象とした研究で知られている。邦訳もすでに三冊ある。原書はAgainst empathy : the case for rational compassion(Ecco Press, 2016.)である。

  共感は二種類に分けられるという。一つは「情動的共感」で他人の心的経験や感情の動きを観察する側も自らの経験かのように感じるというもの、もう一つは「認知的共感」で他人の心的経験や感情の動きを推論して観察する側が自身の内で直観的に再構築するというものである。前者は「暖かい心」と世間的には評価される特性であるが、その適用範囲は狭く、身内や自民族、または遠くにいる他人だとしても慈善団体の写真に扱われた特定の子どもといった対象になりがちである。またそれは、効果の小さい慈善に向かわせ、さらに他罰的になって人を攻撃的にすることもあるという。一方、後者はいわゆる「心の理論」と呼ばれるもので、人の心がある程度推論できるという中立的な特性である。それが善意とつながれば慈善となるし、悪意とつながれば詐欺や人心の操作にもなる。このうち前者を過大評価しないようにしよう、というのが著者の主張である。

  「情動的共感」に替えて称揚されるのが「理性」と「(必ずしも共感を伴わない)思いやり」であり、射程の広い社会改良には感情的な基盤に基づく主張よりも合理性のほうが役に立つ、ということである。この結論自体にはそれほど驚かされない。本書の魅力は、善なる「共感」が不合理な判断をもたらしたり機能不全に陥ったりすることを示す、さまざまな事例や心理学実験を紹介しているところである。一方で、共感を伴わなくても人助けができるということも説明される。もちろん人間というものが情動に支配されていることも著者は十分認識している。しかし、理性によって情動は抑制できるものだし、かつまたそうした抑制ができる人の方がより良く行動ができるという。

  以上。共感については福祉や社会政策上の評価としては大いに納得させられた。ただ、共感やお気持ちの主戦場であるSNSの世界ではどうだろうか。SNSで理性が重要だと叫んでもどうなるものでもないし、表現の自由も絡んでくるところでもあり、さらなる議論が必要なところかもしれない。あと、著者の示す「合理性」は功利主義や帰結主義に基づいたもので、この点でも評価は分かれるだろう。
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悪についての心理学研究、全体のまとまりは微妙

2020-09-08 16:30:27 | 読書ノート
ジュリア・ショウ『悪について誰もが知るべき10の事実』服部由美訳, 講談社, 2019.

  悪を行う人間心理を分析する一般書籍。著者はドイツ生まれカナダ育ちの心理学者で、現在の所属はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンとのこと。Making evil: the science behind humanity's dark side (Canongate Books, 2018.)がオリジナル。

  各章独立したトピックを扱っているけれども、全体としては、誰でも「悪」に向かう性向を抱えており、もしかしたら倫理を逸脱する可能性がある、ということを訴える内容である。サディズムや殺人への願望、小児性愛などは、各種の調査から多くの人または人口の数%が抱える性向であり、まれなものではない。しかしながら、そうした性向は必ず犯罪者を生み出すというわけではない。むしろ、衝動を抑えられない自制心の欠如のほうが問題であり、その欠如は環境次第だという。

  ならば「どのような環境が?」と問いたくなる。それについては個人の境遇に原因を求めずに、社会全体の風潮をやり玉に挙げる。ヒトラーやスタンフォード監獄実験の話を挙げて、差別や悪事を許す状況というものがある、と。そこに異論はないのだけれども、論点がズレてしまっている。そうしたマクロな風潮以外にも犯罪への閾値を下げる個別の環境要因があるはずで、それらを探ってくれないと上段の話につながらない。本書の読者の多くは盗みや殺人を承認する社会に住んでいないのだから。

  というわけで、テーマを十分深く掘りさげる内容とはなっていない。けれども、上記トピックのほか不気味さや性的逸脱などについて、近年の研究成果を紹介してくれているというありがたい面もある。その点では捨て難い。
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なにをすればどのくらい寿命が縮むのか大全

2020-09-04 20:53:35 | 読書ノート
マイケル・ブラストランド , デイヴィッド・シュピーゲルハルター『もうダメかも:死ぬ確率の統計学』松井信彦訳, みすず書房, 2020.

  日常で出会う出来事によって死ぬ確率、を探った英国発の書籍。出てくる数字は真面目かつ厳粛なものなのだけれども、計算は省略され、また各章のつかみで置かれた小話はわりと軽薄であり、一般向けの内容だ。奥付の前の著者略歴には、ブラストランドはジャーナリストであり"アイススケート、狭い空間、高所、遊園地のアトラクション"が苦手であると記され、シュピーゲルハルターは統計学者であり"洪水地帯に住むが、家の鍵をどこに置いたかのほうを心配している"との記述がある。原書は、The norm chronicles : stories and numbers about danger and death. (Profile books, 2013.)である。

  本書では、死ぬ可能性を表す数値をマイクロモート(MM)という単位で表している。"平均的な日々の物事をこなして平均的な一日を過ごす"イギリス人がその日に死ぬ確率は1/100万あり、これを1マイクロモートで表す。2009年にアフガニスタンに駐留した英国兵は一日47MMのリスクとして計算される。少々わかりにくいのは章によってMMを換算する方法が変わることで、年あたりだったり(殺人で死ぬ可能性は一年あたり14MM)、移動距離あたりだったり(サイクリングで死ぬ可能性は45㎞あたり1MM)する。終盤にはマイクロライフという単位も出てきて、30分だけ寿命が縮む行為や現象を1MLとしている。肥満は一日当たり-3MLだそうで。このような単位を使って、交通事故、薬物、ギャンブル、危険なスポーツ、予防接種、失業、性病や妊娠ほか、イギリス人が人生の中で出会いそうな様々な事柄のリスクを計算している。

  問題は各章冒頭に置かれている小話で、著者らはショートコントのように記しているものの、僕には全然面白くなかった。一応、実際に起こった出来事を創作風に書き換えたとのことだが、場面転換が頻繁で、登場人物間の関係もよくわからない(最初僕は登場人物のノームとプルーデンスを夫婦なのかと思っていたが最後まで読むとちがうみたいだ)、あとひねりのある皮肉な調子もあって、スッとオチが入っていない。まあ、この部分を面白いと書いている評もあるので、人それぞれなのかもしれない。数字にまつわる知見はタメになるものの、読み物としてはこのイギリスっぽさを楽しめるかどうかだなあ。
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