29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

市場経済におけるカモ釣り現象を例示するが、未整理なところもあり。

2017-07-29 10:44:52 | 読書ノート
ジョージ・A.アカロフ, ロバート・J.シラー『不道徳な見えざる手:自由市場は人間の弱みにつけ込む』山形浩生訳, 東洋経済新報, 2017.

  経済学。自由市場において詐欺的行為が横行していることを問題視する内容の書籍である。原書はPhishing for phools: The economics of manipulation and deception (Princeton University Press, 2015)で、「馬鹿どもを釣る」という感じか。テーマがこれで、著者二人がノーベル経済学賞をもらっていて、訳が山形浩生で、と読む前にはさぞ面白い話が書いてあるのだろうとけっこう期待したのだが、それほどでもなかった。

  基本的にエピソード中心の論述であり、解決策の提示よりも広範囲に見られる「カモ釣り現象」を列挙している。広告、住宅や自動車のような高額商品の取引、クレジットカード、ロビー活動、食品や医薬品や酒やたばこの安全基準、そのほか金融商品の取引など。一部ながら、こちらが米国側の取引慣行をよく知らないため、何が正当で何が詐欺的なのか、直観的にわからないところもある。解決策も挙げられているが、こまごまとしていて不十分な対策であるようにみえ、スッキリしない。

  著者らは「カモ釣り」を十分に定義できていないのではないだろうか。売り手側が欠陥を認知している商品、あるいは宣伝文句が唄うほどの質に到達していないと認知している商品を、不正直な価格付けで売る。これはたしかに詐欺的だろう。しかしこれとは別に、売り手側がそもそも商品の問題を認知しておらず、市場に出回ってみてはじめて欠陥があったことがわかるというケースも本書では扱われている(サブプライムローンなど)。こうした取引も「不正」であるかのようにカテゴライズしてしまっていいのか疑問だ。後者には制度的欠陥や情報不足の問題はあるかもしれないが、前者のように悪意によって情報が歪められていた、というものではない。前者と後者では処方箋も変わってくるはずである。

  カモ側の事情も同じように複雑だろう。加工食品やアルコールが問題視されているが、消費者が健康への配慮よりも味の快楽を優先する場面もあるわけで、一概に不合理とは言えない。しかし、常習的になって本当に健康を壊したり、または人間関係を壊してしまったりすれば不合理だ。この間の線引きが必要だと思うけれども、本書ではカモられる側についての考察がない。

  以上のようなわけで、十分アイデアを整理してきれていないという印象だった。

  
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青短の学生募集停止にたいする感慨

2017-07-25 22:52:43 | チラシの裏
  昨日、青山学院女子短期大学の募集停止の発表があった1)。かつて大谷先生(現・日本女子大学)が専任だった2000年代半ば、そのツテで僕は駆け出しながら非常勤講師をさせてもらっていたことがある。なかなかキツい学生もいて、授業評価アンケートで「下手くそ。先生なんか辞めたほうがいい」と書かれてひどくヘコまされた経験がある。その頃からすでに、青学への編入を目指す青短生がけっこういた。短大で満足しているような「女子らしい」学生と、「本当はキャリアウーマンを目指したいけれども短大にきてしまった」というような学生とで分裂があったような印象だった。

  驚きよりも、遂に青短のような名門短大にまで募集停止の波が到達したのかという感慨のほうを感じる。僕の前任校も短大であるが、かつて所属した英文科の募集停止をすでに発表していた2)。亜細亜大学の短大部でも非常勤で教えたことがあるが、2015年に募集停止している3)。どこの短大でも、僕が非常勤や専任で駆り出された時には、中の人たちがその存続について議論している状態だった。だから、文学系の学科を持つ短大における、「司書資格課程の位置づけ」というのもよくわかっているつもりだ。すなわちそれは、短大の生き残りの最後の頼みの綱であり、徒花である、と。

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1) 青山学院女子短期大学HP / 学生募集停止のお知らせ
  http://www.luce.aoyama.ac.jp/stop/

2) 常葉大学短期大学部HP / 「英語英文科」の学生募集停止について
  https://www.tokoha-jc.ac.jp/english/20170120/25622/

3) 亜細亜大学HP / 亜細亜大学短期大学部の募集停止について
  http://www.asia-u.ac.jp/asu_news/2015/04/2435/
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宅録青年による無国籍南国風黄昏エレポップ

2017-07-22 08:56:50 | 音盤ノート
Washed Out "Paracosm" Sub Pop, 2013.

  宅録ドリームポップ。Ernest Greeneなる米国人男性による一人プロジェクト。シンセサイザーによるサウンドメイキングだが、全体にリヴァーブがかかっていて、Boards of Canadaのような不明瞭さと浮遊感をおぼえる。とはいえエレクトロニカではなくエレポップであり、霞がかった男性ボーカルが黄昏れたメロディを歌い上げるので、聴きやすいだろう。

  ボーカルは力みと色気が抜けたU2のボノのよう。ボーカルの残響処理は深くて、遠くで何やら歌っているという距離感である。メロディも物憂くてゆったりとしている。一方、バックのサウンドはけっこう明るい。鳥のさえずりやらガムランやらラテンパーカッションやらが使われており、無国籍で南国風の楽しげな雰囲気である。憂鬱なボーカルと楽しげな楽器隊という組み合わせは中南米のミュージシャンにはありそうだが、英語圏ではあまりみかけないアイデアだろう。なお、ビートルズっぽい曲もある。

  すでに三作目となる新作"Mister Mellow" (Stones Throw, 2017)が発表されている。が、かなり地味になってしまった(1970年代前半のR&Bを意識したのかIsaac Hayesみたいな曲があり、残念ながらそのままで消化しきれていない印象だった)。今のところこの二作目がもっとも出来が良い。
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話を広げ過ぎてピントの合っていない男性論

2017-07-18 08:55:01 | 読書ノート
フィリップ・ジンバルドー, ニキータ・クーロン『男子劣化社会:ネットに繋がりっぱなしで繋がれない』高月園子訳, 晶文社, 2017.

  男性論。著者のジンバルドーは、かの有名なスタンフォードの監獄実験の責任者で、『ルシファー・エフェクト』(海と月社, 2015)などを書いている心理学者である。今年で84歳となる。クーロンは彼の弟子となるライターで、ワレン・ファレルとも親交があるとのこと。女性であるが、男性論に興味があるみたい。原書には二つのタイトルがあり、UK版だとMan Disconnected: How technology has sabotaged what it means to be male (2015)、US版だとMan Interrupted: Why young men are struggling & what we can do about it (2016)となっている。正確には後者は前者を改訂したものらしい。なお、出版社のHPに、付録と参考文献をまとめらたpdfファイルがある1)

  その内容はネットポルノとネットゲームによって若い男性が駄目になっていると主張するものである。男性の脳は、女性のそれに比べてポルノやゲームにはまりやすい。インターネットの登場によって無料で(あるいは安価に)四六時中それらに浸ることができるようになった。そして、トレーニングを要する現実のコミュニケーションを面倒くさがった男性たちがネットに逃避するようになった。その結果、夫婦関係やカップル形成が阻害されるか、または破壊されるかし、また実家にひきこもった息子のために親子関係も危機に瀕している。こうした男たちの存在は社会の損失であり、彼らがシャバに出てくるよう、政府・地域・親・女性・男性自身が一丸となって対処しなければならない、と。

  このほか、先進国から多くの工場労働(=男性向けの仕事)が消えてしまったという経済の変化や、女性の社会進出などの社会の雰囲気の変化、福祉の害や崩壊家庭についも言及されている。残念ながらそうした視野の広さは、逆に本書を論点拡散気味のまとまらない本としてしまっている。通して読むと、悪とされているネットが原因なのか結果なのかがよくわからなくなる。また処方箋についても疑問だ。稼ぎの少ない・もてない男性にとって現実の世界はとても辛く厳しい(らしい)。ならば、心地のよいネットの世界から引きずり出されて、実世界で生きるトレーニングを受けなければならない理由はいったいなんだろうか。彼らにとってそうするメリットなど無いように見える。

  というわけで、何が問題なのかがよくわからない。実社会における「ゲーム」を降りた一部男性たちは、旧来の「男性」的性役割から解放された男たちということになるのではないだろうか。大人しく彼らをひきこもらせるゲームとポルノは、治安などの社会問題の解決策としてむしろ賞賛されるべきものだろう。結局、挙げられている問題とは、配偶者にふさわしい男性のプールが縮小しているという、女性側の嘆きにしか見えない。しかし、それは女性の境遇が以前よりも改善された帰結だ。なんか、成功した高齢男性と仕事のできる女性が、「君たちの味方だよ」と言いつつ若い男を棒で殴っているような印象だった。僕としては「ほっといてあげて」と言いたい。

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1) 晶文社 / 男子劣化社会 http://www.shobunsha.co.jp/?p=4348
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説明は薄いが最近の健康関連疑似科学を通覧できる短い本

2017-07-15 14:28:13 | 読書ノート
左巻健男『暮らしのなかのニセ科学』平凡社新書, 平凡社, 2017.

  疑似科学糾弾本。著者は、『水はなんにも知らないよ』(Discover21, 2007)をなども書いている理科教育学者。トピックとしては次のものが採りあげられている。「がん」治療をうたういくつかの薬、がんの放置治療、サプリメント、さまざまなダイエット法、血液サラサラ、経皮毒、デトックス、食品添加物を控えること、ミネラルウォーターの衛生度、アルカリイオン水、悪玉活性酵素除去水、水素水、ホメオパシー、波動、マイナスイオン、ゲルマニウム、プラズマクラスター、抗菌商品、EM菌、などなど。

  挙げられたトピックを見ればわかるように、内容はてんこ盛りであり、説明は要点のみで詳細とは言い難い。疑似科学推進者の主張を採りあげていちいち丁寧に論破してゆけば、それぞれのトピックで一冊の本ができるだろう。だが、そういう作業を避けて「最近の疑似科学的主張を簡単に通覧できる」というのが本書のメリットである。ロジックさえ掴めればよいので、詳細な批判本よりわかりやすいとも言える。最近はEM菌が義務教育の領域に入り込んでいるらしく、特別に章が割かれて批判されている。EM菌に関しては著者と推進者の間で訴訟になっているようだ1)

  疑似科学的な言説が教育の世界に入り込むことは小中学校のみならず、大学でもよくある。話しかけかたによって水の結晶が変わるとか、体の末端には毒がたまるのでエビのしっぽは食べてはいけない、などと本当に信じている大学教員に僕は出会ったことはある。また血液型性格診断を信じる大学教員はごく普通にいる。なので、大学教員の専門領域以外の知的レベルをそう簡単に信用してはいけないということは強調しておきたい。面倒を避けるために僕はいちいちそういう話に反論したりはせず、スルーしているのだが、駄目だろうか。

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1) 著者ブログによれば、暗黒通信団から『EM菌擁護者と批判者の闘い』を上梓するとのこと。
  http://d.hatena.ne.jp/samakita/20170711
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国際法および英米法の立場から読む日本国憲法

2017-07-12 15:24:36 | 読書ノート
篠田英朗『ほんとうの憲法:戦後日本憲法学批判』ちくま新書, 筑摩書房, 2017.

  日本国憲法論。三つの論点があって、まず、日本国憲法のベースを作ったのは米国占領軍であるのだから、英米法流の解釈法にしたがって日本国憲法──特に平和主義について──を読んでみるというのが一つ。そして、現在の憲法学の主流(=東大の憲法学)が、憲法解釈において紛れ込ませている夾雑物を明るみにするというのが一つ。最後に、なぜ、日本の主流の憲法学が、現在のような形──集団的自衛権を違憲とするような──となっているのかについて考察するというのがもう一つである。

  最初の論点だが、米国は国連憲章と整合するように日本国憲法をデザインしたのであり、現行の憲法のままで日本が「集団的自衛権」を行使することは何の問題もないという。そこには一国の憲法が国際法に優越することはないというのが基本認識としてある。また、米国憲法および日本国憲法が採用する社会契約論的な考え方に従えば、憲法によって制限されるのは、政府だけでなく社会の構成員も含まれる、というのが正しい立憲主義理解であるという。さらに、英米法の理解では、人民の権限の委譲によって政府はできあがるが、議会・行政・司法・中央・地方と権力は分割されており、人民以前に存在する「国家」概念などは憲法論では存在しないという。

  一方、日本の主流の憲法学は、そもそも日本国憲法には存在しない概念──例えば「統治権」(芦部)など──を密輸入して憲法解釈を施している。その由来は19世紀のドイツ憲法学だとされる。それは、国際社会に先行するものとして「国家」をアプリオリに捉える。こうした考え方が、主流の憲法学者による、国際法より日本国憲法が優越するかのような言説の背景にあるという。しかし、20世紀の英米法は、現実の軍事的優位も伴い、そうした古い考え方を否定する形で国際社会で普及・定着してきたし、また日本国憲法もそれを否定するために導入されたのだ、と。

  ドイツ憲法学の影響は大日本帝国憲法の起草にまで遡ることができる。それが戦後の今まで続いたのは、憲法学者の宮澤俊義の渡世によって、主流の憲法学が意図して戦後民主主義のような大衆運動と結びついたためだという。こうした結託が、「アプリオリに存在すると想定された一枚岩の「国家」を憲法によって掣肘する」という一面的な「立憲主義」概念の理解を促し、また憲法学者をして反権力運動に走らせるとしている。彼らのこのような国家観は戦前の「国体」概念の裏返しにすぎない、と。その悪影響として、冷戦が終わってもう四半世紀も経つのに、日本は憲法前文にある目標の一つ、国際協調の役割を有効なかたちで果たせないままとなっているという。

  以上。上の三つの論点を錯綜させての論述で、わかりやすいとは言えないだろう。とはいえ論争的な内容であり、物凄く面白いことは確かだ。特に、主流の憲法学者の反権力かつ反国家というスタンスから、戦前の「国体」概念の影を読み取って見せるところはスリリングだった。本書で描かれた主流の憲法学者像が適切であるならば、の話だが。19世紀のドイツ憲法学の影響があるために、彼らの権力観はフーコー以前なのか。英米法からのアプローチでは、多元主義的な権力観が当然のように導きだせる。国家をアプリオリとしないところは百地彰のような保守系の憲法学者とも大きく違うところである。また、個人的には著者の前著『集団的自衛権の思想史』で疑問に思った部分を理解できてよかった。

  なお、著者は後書きで9条への条文追加を支持している。しかしながら、本書で示された「国際法と整合性のある日本国憲法解釈」に合意するならば、現状の憲法のまま軍備OKで集団的自衛権OKとなり、改憲は必要ないという話になるのではないだろうか。憲法論議のためには、国際法・英米法で合理的に解釈できない日本国憲法の部分も示されるべきだとは思う。が、いったい誰にその仕事を期待すべきなのだろう。
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冷戦期のジャズ外交、鉄のカーテンを揺さぶる

2017-07-08 12:46:01 | 読書ノート
齋藤嘉臣『ジャズ・アンバサダーズ:「アメリカ」の音楽外交史』講談社選書メチエ, 講談社, 2017.

  ジャズをめぐる第二次大戦期から冷戦期までの文化外交史。著者は若手の国際政治学者で、冷戦期のイギリス外交が専門のようだ。ジャズ史の知識が前提となっている記述であり、ミュージシャンの名前からその全盛期や演奏スタイルがわからないと微妙なニュアンスがイメージできないところもあるだろう。

  「ジャズ・アンバサダー」とは、対米イメージを改善すべく米国政府が資金援助して、冷戦期に国外に派遣されたジャズミュージシャンたちのこと。ベニー・グッドマン、デューク・エリントン、デイヴ・ブルーベックなどなど。当初は「そもそもジャズはアメリカを代表する(高級)文化なのか」という疑問が、派遣する米国側にもあった。けれども、諸外国はジャズを「アメリカ的文化」として認識しており、それにのっかって企画が進められた。

  しかしながら、ジャズには「自由と民主主義」のポジティヴな像と、黒人への「差別と不平等」のネガティヴな像が付帯する。米国的「自由」を象徴する音楽としても、反米思想にも、どちらにも使えるし、実際に使われてきた。どちらにアクセントが置かれるかは、ジャズを受容れる側の国の事情に依存した。こうした葛藤を抱えつつも推し進められたこの「文化外交」が、世界各国で、特に共産圏でどう受容されたのかを探っている。

  本書には、一部ながら派遣者と派遣先のリストも記載されている。チャールズ・ミンガスが政府から金を貰って国外演奏旅行にいくというのは意外だが、出先でわざわざ人種差別反対の曲を演るというのはさもありなんと思わせる。マイルス・デイビスやビル・エバンスは、派遣候補者のリストには上っているが、麻薬やら気まぐれな人格やらを理由に派遣されてはいないようだ。チャールズ・ロイドは、キース・ジャレットとジャック・ディジョネットを引き連れて1960年代後半に東欧・ソ連を回っている。

  あと米国内の正統をめぐる論争も興味深い。ジャズが米国内で「芸術」として認められたのが1980年代だというが、その過程で正統派のウィントン・マルサリスが評価されているようになったのはわかりやすい。おそらく彼は米国外ではそれほど評価されていないが、その理由は伝統的なジャズミュージシャンのボヘミアン的でいかがわしい感じが欠けているからであろう。格式ばっていいて「自由」な感じがしないのだ。このような話など、ミュージシャンがわかっているといろいろ思いを巡らせることができて楽しい本である。


  
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日本人の考える「正しいネオアコ」の音と姿

2017-07-05 22:46:56 | 音盤ノート
The Pale Fountains "Longshot for Your Love" Marina, 1998.

  1980年代半ばに活動し、アルバム二枚を残して解散したペイル・ファウンテンズのドイツ編集盤。英国のレーベル・Virginからメジャーデビューする前の音源が中心(ただしVirginでの録音からも二曲収録している)で、ベルギーのインディーズレーベル・Crepusculeから発表したシングル'Just a Girl'ほか、ラジオやテレビでのライブ録音などを収録している。

  前半にあたるtrack.1-7はとても素晴らしい。クレプスキュールのシングルとラジオ番組John Peel Sessionの二つの1982年の録音で構成されているが、シンプルで薄いリズム隊とトランペット、アコギのコードストロークをバックに、大げさなクルーナー唱法で自作曲を歌いあげる。エレクトリックギターは無し。青臭くかつ清廉である。引き出しは多くないだろうけれども、この時点でアルバム一枚を作ったら心を打つ作品になっただろうと思わせる。

  後半はThe Old Grey Whistle Testというテレビ番組からのライブ録音(1983年)だが、Deniece Williamsの'Free'のカバーで象徴されるように、R&Bの「太い」ノリを掴もうと試行錯誤している最中のようで、ドラムはタイトになったが、演奏が粗い。アコギの使用機会も減り、エレキギターでの伴奏である。全体としてメジャーレーベルのロックバンドになるための過渡期という印象だ。悪くはないけれど、1982年録音ほどの魅力はない。

  なお、小西康晴が英語で解説を寄せている。このバンドはメジャーに移るとイメージ写真が「革ジャンとバイク」になってしまうのだが、この時代の写真は「帽子をかぶって裾をまくったジーンズで水遊び」というもの。日本人の期待するような、というかC86以降の中性的・少年的なネオアコ像によくはまっている。というわけで未完成で芸がない時代の録音が琴線に触れる。
  
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『日本図書館情報学会誌』の書評担当から降りました

2017-07-01 14:00:35 | 図書館・情報学
  『日本図書館情報学会誌』の63巻2号が発行された。今号から編集委員会のメンバーが大幅に入れ替わり、昨季から継続しているのが僕だけとなった。ただし、昨年度後期から本務校の仕事が忙しくなってしまったこともあって、これまでやってきた書評担当から外れさせてもらい、一介の投稿論文担当委員となっている。僕が書評担当者だった時に執筆依頼をお引き受けいただいた書評執筆者の方々、および書評記事の充実のために尽力していただいた三浦前編集委員長には、この場を借りてお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。

  学会誌の編集業務は、投稿論文の査読の仲介がメインであり「待ち」が中心の仕事だ。そのなかで、書評コーナーは担当者側で評書や評者を選ぶことができるので、「編集をやっている」感があって充実度は高いと思う。僕なんかは「この先生はこの本をどう読むのだろう」と考えるだけで楽しい。残念ながら、現在の編集委員会には書評担当が置かれておらず、荻原新編集委員長が書評を企画している。そうなった理由は前任者の僕がやり過ぎてしまい、誰も後を継ぎたがらなかったからだとのこと。本当に申し訳ありません。書評コーナーに張り付いて企画を練る人がいないので、今後の学会誌の書評数は以前の2-3本に戻ります。

  なお『日本図書館情報学会誌』は、依頼書評だけでなく投稿書評も受けつけている。実際に年に1-2本の書評の投稿がある。編集委員会による審査によって掲載の可否が決まるので、査読論文に比べれば通りやすい。ただし、断ることもある。たいていは評書が扱う領域が学会誌と合っていないというのが理由である。一応、投稿規定があって、特に掲載の対象となる評書の範囲には微妙なところがあるので、よくわからないならば事前に編集委員会に問い合わせたほうがいいだろう。また掲載される・されないは別として、編集委員の記名でコメントが返ってくるので、査読回答書ほどへコまされることはないよ。是非。
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