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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

犯罪者の多くはセルフコントロール能力が低い若者だという

2018-10-30 09:14:30 | 読書ノート
マイケル・R.ゴットフレッドソン, トラビス・ハーシー『犯罪の一般理論:低自己統制シンドローム』大渕憲一訳, 丸善, 2018.

  犯罪原因論。原書は1990年のA general theory of crime (Stanford University Press)で少々古いが、この分野では古典であるとのこと。邦訳も1996年に『犯罪の基礎理論』(文憲堂)というタイトルで発行されていたが、ネットをさらった限りでは旧訳の評判は悪い。本書理論の重要性はまだ衰えていないので新たに訳したということなのだろう。

  内容は、1960年代から80年代にかけての犯罪研究を批判するもので、犯罪の原因を文化や社会に求めるのは誤っているとする。このほか、青年期の悪い友人を原因としたり、犯罪カテゴリ毎に犯罪者像を描いたり、犯罪者の気質が遺伝すると考えるのは全部間違いだとされる。これらに代わって犯罪をうまく説明する──「犯罪を犯す者とそうでない者を見分ける」という意味で──理論は、セルフコントロール能力の低い人が、威力や偽計を使って即座に欲望を満たせる状況に出会ったときに犯罪が起こるというものであるという。犯罪者は、基本的に忍耐力がなく、短期的な欲望充足を求め、長期に努力することができず、人間関係を維持するコミュニケーション能力もない、そういう「低」自己統制者である、とされる。彼らは組織でうまくやっていけないのだから、犯罪組織があったとしても基本的に長続きしない。そして、低自己統制者が形成されるのは、小学校就学前から就学直後の年齢の期間で、家庭でのしつけにおいてであるという。

  低自己統制者がそうでない者より犯罪を犯しやすいという議論自体は納得できる。ただ、他の原因説を吟味し排除してゆく際の議論は極端である。確かに、貧困や失業などの経済状況は、ある人が犯罪者になるかどうかを決定しないのだろう。だが、経済状況は低自己統制者が犯罪を犯す閾値を低めると推測されるから、真の原因ではないかもしれないけれども、犯罪の「契機」として犯罪の研究において無視できないように思われる。また犯罪気質の遺伝も簡単な考察で排除されている。しかし、低自己統制者が家庭でのしつけ「だけ」で誕生するとは考えにくい。自己統制概念はビッグファイヴの「勤勉性 (Conscientiousness)」概念とまるかぶりなのだから、ある程度遺伝の影響があると推測することは妥当だろう。加えて、性格に影響する「環境」としては、家庭以外が探られるべきだというのが行動遺伝学の知見である。また、犯罪組織についての議論も、日本のヤクザを十分説明できないものとなっている。

  というわけで、さまざまな議論が概念整理されてゆく面白さはあるのだけれども、そこからこぼれ落ちるものが多くある。著者らが退けていった学説の残骸にも、まだ何かしら犯罪研究に役に立つ情報が残っているのではないだろうか。数としては低自己統制者による青少年期の犯罪が圧倒的なのだから、そちらに目を向かせるというところに本書の意義があったのだろう。
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入門書ではなく横目で経済学を眺める感覚

2018-10-26 20:43:35 | 読書ノート
瀧澤弘和『現代経済学:ゲーム理論・行動経済学・制度論』中公新書, 中央公論, 2018.

  最近の経済学のトピックを概観する書籍。「初学者に向けた入門書」というわけではなく、部外者が外から経済学の中で何をやっているのかを俯瞰するように読む本である。著者は経済学者で、ゲーム理論を専門とし、ノースなど制度学派の翻訳も手掛けている。科学哲学的なところもあって、他分野の人が横目で眺めるように読むにはいい本だろう。

  ノーベル経済学賞を導きにして、ミクロ経済学、ゲーム理論、マクロ経済学、行動経済学、RCTなど実験経済学、制度学派、経済史と通覧してゆく。最後の章で、経済学の変化が論じられる。著者によれば、今後、経済学は当初目指されたような法則定立的な科学ではなく、様々な経済現象の中にある様々なメカニズムを明らかにしてゆく人間科学になってゆくという。物理学ではなく生物学のイメージである。

  なお個人的には既知のトピックもかなりあって、すごい新鮮というわけではなかった。すでに一般向けの書籍が発行されているトピックが多くあるためだろう。それらが整理されて簡単に知識を得られるというのが本書のメリットだろう。

  あと、気になったことがひとつ。経済学の「遂行性」についても言及がある。これは現実を描写した(つもりの)学問上の概念が、またさらに現実に戻って影響するというループ効果のことだ。アンソニー・ギデンズのいう「再帰性」とまったく同じ概念に見えるが、経済学者は社会学用語は使わないみたい。
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アクティブラーニングは新しくないという批判

2018-10-22 09:10:16 | 読書ノート
小針誠『アクティブラーニング:学校教育の理想と現実』講談社現代新書, 講談社, 2018.

  近年、教育関係者の間を席巻するアクティブラーニング。教師が一方的に知識を伝える従来の教授法に代えて、生徒自身が主体的で能動的に学ぶように対話やグループワークを用いる指導法である。本書はそれに対する批判の書で、著者は青山学院大学所属の教育学者であるとのこと。

  その内容はこう。表現は異なるものの、アクティブラーニングに類似する指導法は昔から存在していて、決して目新しいものではない。大正時代の新教育や、戦後の教育運動に相当するものを見出しうる。その問題点は昔から変わらない。意欲のある生徒とそうでない生徒で学習結果の差がひらいてしまうこと、そして意欲のある生徒はもともと頭良い生徒であることが多い。すなわち、アクティブラーニング形式の授業は、意欲のない生徒の学習機会を奪うことにもなる。そのような批判を受けて、導入されてはたびたび取り止められてきた指導法でもある。また、生徒の主体性と教員の指導には論理矛盾があり、自発性の強要が教師や学校の志向への「主体的な服従」となることがありうることも指摘される。加えて、望むような教育効果が得られているかどうかはよくわからないとのことだ。

  理想化されがちな「子どもの主体的な学び」であるが、その手法は特に目新しくもなく、すでに幾度か挫折してきたという歴史的事実があるということだ。この点についての本書の主張は明解で、たちまち説得させられてしまうことは確かだ。アクティブラーニングなんか不要だと言いたくなること請け合い。ただ、著者の批判は成功しすぎているかもしれない。週30時間ぐらいある授業時間の中でも、アクティブラーニング部分など合計しても1-2時間程度ではないだろうか。授業時間中ずっとアクティブラーニングということにならなければ、学力に大きく影響するようなレベルの問題でもないように思える。その導入が比較的小さい割合に留まるならば、そしてその機会費用が高価でないのならば、そのような授業あるいは授業時間中にそういう部分があってもよいと思える。むしろ、重要な論点は「一部の生徒に対して学習効果があるかがどうか」「あるならばもっと必要か」だろう。

  教育効果が不均等であるという問題は、アクティブラーニングにとりわけ先鋭的に顕れるとしても、他の教授方法でも同様だろう。そもそも導入する側がエリート教育を目的としているならば、効果の不均等は問題とならないかもしれない。できる子に対話と表現のスキルを磨いてもらい、そうでない子はそのような場で大人しくしていてもらう、と。このような学習を倫理的に正当化できるかという問題はあるが、そうした教育を受けた指導者層が社会的なメリットをもたらすならば、簡単には否定できない部分もあるとは思う。ならば、アクティブラーニングには本当に効果があるのかどうかが問題となる。著者はPISA調査の結果から無いだろうと推定しているが、効果の検証はもっと詳細なものがみたいところだ。ただスジとしては、挙証責任は著者にではなくアクティブラーニング推進派にある。
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胸の奥に暗い情念がこみ上げてくるがごとし

2018-10-18 21:35:50 | 音盤ノート
Tord Gustavsen Trio "The Other Side" ECM, 2018.

  ジャズ。ノルウェーのピアニスト、トルド・グスタフセンの新作。しばらくカルテット編成やボーカル入りの作品が続いたが、ピアノトリオでの録音は"Being There"以来11年ぶりということになる。タイトルからなにか新機軸でも打ち出されたのかと誤解するが、かつてと変わらないグスタフセン節が繰り広げられていた。

  いや新機軸がないわけではない。クレジットを見ると、担当楽器の欄にTord Gustavsen / piano, electronicsとある。エレクトロニクス⁉。いったいどの曲で使われているのかと耳を澄ませてみたが、ピアノトリオの演奏が延々と続くだけでなかなかわからない。4曲目と6曲目の後ろで鳴っている音がそうなのか?。ならば完全にレイヤー系の使い方である。曲目にあるバッハの曲やトラッド曲もまた新機軸と言えるが、完全に自家薬籠中のものとしており、オリジナル曲と見分けがつかない。

  ちょっと変わったかな、と思わせるところは、パッションを感じさせる曲における感情表現の仕方。以前ならば、こみあげてくる暗い情念をぐっと抑えているよう感覚があったのだが、本作では少々抑えきれずに大粒の涙を一粒だけぽとりとこぼしてしまうようなことが起こる。とはいえ感情たれ流しというわけではなく、かなり抑制的ではあるのだが、それでも我慢しきれない瞬間があるということである。もしかしたら新機軸というより「歳を取ると涙もろくなっちゃうんだよね」という話なのだろうか。

  全体的には静謐な演奏であり、いつも通りである。と書いてはみたものの、音数の多い曲もあるし、デビュー時と比べれば微妙に変化してはきている。クオリティは高いので、酒に溺れるかのように暗くじめじめした音楽に浸りたいという人ならばきっと中毒になるだろう。
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きちんとした読書研究だがタイトルで損しているかも

2018-10-14 10:58:09 | 読書ノート
松崎泰, 榊浩平著 ; 川島隆太監修『「本の読み方」で学力は決まる:最新脳科学でついに出た結論』青春新書インテリジェンス, 青春出版社, 2018.

  読書の効果の研究を伝える一般向け書籍。監修者の名前がでかでかと出ているけれども、本文を書いている著者の二人の指導教員なのだろうか(三人とも東北大所属の研究者である)。タイトルが断定的なわりには中身では全然そんなことを証明してはいない。たぶん出版社側がこのタイトルをつけたのだろう。表紙まわりの煽りっぽい調子を無視して本文だけに目を通せば、オーソドックスな読書効果研究であることがわかる。結論も常識的である。

  最初の二つの章は成績と読書時間をクロスさせて読書の効果を探る内容である。サンプルは仙台市内の小中学生4万人とのこと。一般的に言って、本読む習慣のある児童・生徒はそうでない子よい成績が良い。だが、一日2時間を超えると睡眠時間や勉強時間が削られてしまうので成績が落ちてくる。小学5・6年生の場合は読書1時間以上・睡眠8時間以上・勉強30分~1時間が成績に最適な組み合わせで、中学生の場合は読書1時間未満・睡眠6~8時間・勉強2時間以上となるという。読書に関心を持つ者としては、他の変数(親の学歴など)も投入したら結果がどうなるのか知りたいところだった。

  三章~六章は、読み方や本のジャンル、読み聞かせなどで脳のどの部分が活性化するかという話である。学力との関係は調査されていないので、先に指摘したようにタイトルは誇大である。幼児への読み聞かせは読む側の大人をも落ち着かせる効果があるなど、面白い発見もある。ただ、これらの章で開陳されている話はまだ研究途上であり、途中経過の報告として考えるべきものだろう。

  悪い内容ではないのだが、出版社のせいでスロッピーな印象の本になってしまったのではないだろうか。本文のフォントも大きく、他出版社の新書ならばもう少し内容を詰め込めそう。その分、検証方法などもう少し記述を厚くしてもよかった気もするのだが、これらの印象は僕が研究者であるせいかもしれない。お母さんたちにはアピールするのだろうか。
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相手を尊重しないことこそ差別が悪である所以だと

2018-10-10 21:40:44 | 読書ノート
デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』池田喬, 堀田義太郎訳, 法政大学出版局, 2018.

  差別論。世の中には、良い差別(アファーマティブ・アクションなど)と悪い差別があるが、後者をどうやって見分けられるかを問う。原書はWhen is discrimination wrong? (Harvard University Press, 2008.)で、分析哲学・倫理学・法学の領域にまたがる内容であり難解である。僕もきちんと理解できたかどうか心もとない。

  差別はなぜ悪なのか。「自分がやられて嫌なことは他人にしてはいけない」という反転可能性が根拠になると僕は単純に考えていたけれども、それだとアファーマティブ・アクションも許容できなくなる。著者は、良い差別もあるという立場に立って、悪い差別とは差別される側を貶価(demean)しているから悪なのだ、説いている。貶価(へんか)とは聞きなれない訳語だけれども、要は相手を対等な存在として尊重しないことである。訳者のサイト1)によれば、差別を悪とする立場には大まかに二つあって、差別の結果としての不利益を悪とみなす立場と、被差別者に対する軽蔑や軽視こそが悪であるという立場である。著者は後者の範疇に入る。

  さらに著者は、悪い差別かどうかは、差別する側の意図や被差別者の感情とは関係しないという驚くべき主張を展開する。歴史的・社会的文脈が定まれば、ある程度客観的に悪い差別かどうかは判定できるという。例えば、某医大のように、女子受験生の合格のハードルを上げるのは就業機会に関して性の不均衡の歴史があるために悪となる。だが、現役生に対して浪人生に同様のことをしても歴史的文脈がないので悪ではない、ということになるのだろう。どちらも同じように、医師となったときの労働時間や国家試験の通過率など統計的な根拠がある(らしい)合理的な差別であるとしても。一方で、被差別者が不快を感じていなくても、悪い差別だとみなされることがある。

  率直にいって、読んでみて納得させられたという感じはしない。歴史的・社会的文脈で差別をカテゴライズするのは、悪くすればアイデンティティ・ポリティクスを激化させて社会の分断を招くと予想される。反転可能性のほうを論拠としたほうが穏健な気がするのだが。また、容姿や能力などの生まれつきの不利をどうするのだろうか。こういう差別をどう処理するのかわからない。本書で展開された議論では、差別論争は終わらないだろう。あくまでも、考えるとっかかりというのが本書の価値だろう。


1) 差別論(英語圏・規範理論系)/ 堀田義太郎のウェブサイト
https://yoshitaro-hotta.jimdo.com/文献紹介/差別論-英語圏-規範理論系/

  
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最悪の状態の中の最善だった日本占領統治

2018-10-06 21:21:32 | 読書ノート
細谷雄一『自主独立とは何か:前編・敗戦から日本国憲法制定まで / 戦後史の解放Ⅱ』新潮選書, 新潮社, 2018.
細谷雄一『自主独立とは何か:後編・冷戦開始から講和条約まで / 戦後史の解放Ⅱ』新潮選書, 新潮社, 2018.

  第二次大戦後の日本占領史。『歴史認識とは何か』に続くシリーズ二巻目であるが、二分冊の長尺作品となっている。敗戦のあと日本は連合国軍に占領されて統治されるのだが、そうした状況下で新しい憲法を作ってさらに占領終了までこぎつける。その間のさまざまな動きを伝える内容である。ただし日本国内の話は中心ではなく、国際状況が日本政府の選択にどのような制約を課してきたかということを主に伝えている。

  占領下において、日本側に大して選択肢はなかった、というのが全体を通じて印象づけられることの一つである。日本が米国主導で占領されたのは、ソ連の東欧支配と引き換えのため。憲法九条は天皇制維持との引き換え。安保条約は占領終了と引き換え、という具合にさまざまトレードオフが出てくる。米国も日本に対して好き勝手に振る舞ったというわけではなく、他の連合国による日本に対する懸念を受けとめて占領統治をした。大戦終了直後からソ連は膨張主義に転じており、米国政府内およびGHQ内部でもソ連を信頼できるのかどうか、協調か封じ込めかで論争があったとのことだ。米国支配といっても、その実態は誰?ということになる。

  もう一つ印象づけられることは、幣原喜重郎、吉田茂、芦田均という外交官出身の総理大臣が続いたことが、当時の日本にとって僥倖だったということである。彼らは国際感覚に優れ、日本の置かれた状況を適切に理解することができた。しかしながら何もかも米国の言いなりだったというわけではなく、芦田はGHQが起草した憲法の9条を修正し、吉田は米国からの再軍備の要請をかわして、日本の国益を反映させる政治・外交を可能な限り展開した。このような彼らに対して、当時の国際情勢からみてすでに認識の甘かった近衛文麿や丸山真男がネガとして言及されている。

  長尺ながらかなり読みやすくまとめられている。人物に寄り添った書き方で、その判断を彼が置かれた状況において描くようになっているからだろう(自伝などが多く参照されている)。淡々とした記述ながら、著者のコメントも時折添えられており、アクセントになっている。本書で描かれたように、占領統治の時代を苦心の末くぐり抜けた日本だが、その後は国際協調の感覚が衰退していったように思える。著者がその後の日本政府の外交をどう評価するのか早く知りたいところであるが、三巻が出るのはいつになるのだろうか。
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読み物としての短い日本通史

2018-10-02 20:59:05 | 読書ノート
山本博文『流れをつかむ日本史』角川新書, KADOKAWA, 2018.

  日本通史。歴史が苦手だという中学生の娘に、角川まんが学習シリーズ『日本の歴史』を買い与えて読ませてみたのだが、そこそこためになったらしい。ただし、娘曰く15巻もあるので長すぎ、時代の順番がわからなくなるという。全体を把握できる簡単な通史も欲しいというので、シリーズ監修者が執筆したという本書を入手してみた。ただしこの新書版はオリジナルではなく『流れをつかむ日本の歴史』(KADOKAWA, 2016)の改題・改訂版であるとのこと。

  新書版で317頁と短く、系図や機構図のみ掲載で他に図表はない。参考文献はリストではなく文中で提示している。教科書のように「重要事項が満載である一方で記述が無味感想」というわけではなく、論争のある事項にもきちんと言及しており、さらに簡単に著者の見解を加えているところが特徴だろう(ただし短すぎてその根拠がわからなかったりするときもある)。

  個人的にイメージを訂正させられたのは飛鳥・奈良時代。仏教が普及した平和な時代かのように漠然と思っていたが、皇位継承が安定しない反乱と陰謀の血なまぐさい時代だったようだ。聖徳太子が和の精神を説いたのは、当時みんなそんな精神を持っていなかったから、ということになる。平安後期と鎌倉後期も皇統が不安定な時代だったらしく、天皇の地位がしばしば戦乱の原因になっていたことがわかる。

  近年では扱いにくくなっている近現代史(特に第二次大戦)の記述だが、どちらかと言えば日本側の事情に同情的である。この点は好みがわかれるところだろう。全体としては「流れをつか」ませることに成功していると思う。
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