29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

漫画アニメゲームを使って国語教育をする試み。疑問も残る

2016-01-29 11:07:24 | 読書ノート
町田守弘『「サブカル×国語」で読解力を育む』岩波書店, 2015.

  漫画やアニメを中学高校の国語教材として取り入れるという試み。扱われているのは大友克洋『童夢』、宮崎駿の『魔女の宅急便』、ゲーム『ドラゴンクエストⅣ』などなどである。挙げられたサブカル教材のためにどのくらいの時間を使ってどう授業するかという指導計画マニュアル的なところは詳細である。だが、学習成果があがったかどうかについてはよくわからず、経過報告的なものとして位置付けたほうがいいかもしれない。

  著者は、生徒の学習意欲が低いのは教授法や教材がつまらないからだという。うーん、動機づけが国語教育において特別重要だということにまず同意できない。個人的には、日本の国語教育の問題は論理的思考やそれに対応した文章スキルをトレーニングしていないことにある、と考える。だから大学生になってレポートや卒業論文執筆に戸惑うことになるのだ。文学をサブカル教材に換えても、どちらも解釈に幅を残すフィクション作品であり、ロジカルな言語能力の育成という問題に十分対応していない気がする。本書でもPISA調査に言及するのだから、なおさら学習意欲が重要な問題ではないと感じる。

  というわけでベースにある問題意識を共有できなかった。大学教員が直面する指導上の問題と、中高教員(ただし著者はかつて中高教員で現在は大学の先生だ)のそれは異なるのだろう。まあ結果オーライではあるので、サブカル教材によって論理的思考と文章スキルが育まれるならば、それはそれで良いことである。なので、この点での達成がどの程度になるのかを知りたい。
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不正告発した教員を解雇して訴訟になり、予想通り経営側が敗れる

2016-01-27 11:42:15 | チラシの裏
  昨日1月26日付けの毎日新聞静岡版の記事にこんなのがあった。

  「常葉学園の補助金過大受給 解雇の短大部准教授、地位保全の仮処分 静岡地裁認可」
 学校法人常葉学園(静岡市葵区)が運営する常葉大短期大学部が2001年度から4年間、補助金を過大受給していた問題で、過大受給を内部告発した短大部の男性准教授(42)が25日記者会見し、同学園から受けた懲戒解雇処分の無効を求める地位保全の仮処分決定を、静岡地裁が認可したと明らかにした。
 准教授や代理人弁護士によると、准教授は12年12月に短大部の過大受給を内部告発。同学園は外部識者による調査委員会を発足させ、14年2月に同学園は少なくとも480万円の過大受給をしていたと発表した。ところが同学園は15年3月、内部告発により名誉を傷つけられたとして、准教授を懲戒解雇処分した。(後略)
  「常葉大短期大学部」というのは僕の前任校である。原告である「男性准教授」とは同じ学科に所属していた。彼("M"としよう)が補助金不正受給を告発するに至る経緯もある程度知っているのだが、本筋ではないだろう。この裁判は解雇されたMが職場復帰を求めたものである。そして、すでに昨夏の段階で短大教員としてのMの地位を保全するという仮処分が下されておりそれが正式に認められた、というのが今回の判決である。解雇は内部告発者に対する報復であり、常識的な観点から見れば経営側が勝てる可能性はなかった。そもそもMを解雇すれば裁判沙汰になるということは予想されていたことだ。

  ただし、解雇理由は内部告発を直接理由としたものではない。Mが別件で理事長らを検察に刑事告訴したことに対して、「学園の秩序を乱し名誉を害した」という理由をつけて懲戒解雇にしたのである。この別件というのが、補助金不正受給を調査していたMに対して、学園のトラブル処理担当(静岡県警の天下りらしい)が「俺にはヤクザの知り合いがいる」などと脅しをかけてきたという事件である(なお用意周到にもMはこのヤクザ発言を録音していたという)。学園側に相談してもその担当者に対して何の処分もなかったので、経営陣もこうした脅迫に加担しているのだとしてMは検察に訴えたのだが、最終的に全員不起訴処分とされた。この騒動が学園の名誉を汚した、というわけである。だが、この騒動はMの解雇理由が示されるまで学園の教職員のほとんどの人が知らなかった話で、学園の名誉を持ち出すのは不当だろう。それに、不起訴にはなったが経営側に正義があるというわけでもない。

  経営側に裁判に勝てる材料など無かったわけである。それでも解雇に踏み切ったのだから、事態を見守る教職員らは何か凄い新しい材料が出てくるに違いないと予想していたのだが、それも無かった。この解雇は経営側の判断ミスだろう。創立者の親族経営だから能力主義的な雰囲気が形成されず、冷静かつ優れたブレーンに欠けているのだと推測する。トラブル対処も前時代的で、常葉菊川高の不祥事を取材した週刊文春記者による不名誉な記事がネットに残っている1)。この裁判によって、常葉は不正を告発した教員に難癖つけて解雇する、おまけに裁判で返り討ちにあうという、悪者かつ惨めなイメージだけが残っただけである。本当に学園の名誉を汚しているのはどちらの側なのか、外から見れば一目瞭然である。

  いちおう5年間そこで働いた立場から短大を擁護しておくと、学務や雑用は多かったけれども、研究活動の時間と資金はそれなりに確保されており、教員にとって辛い職場だったということはない。教職員も若くてチャレンジングであり、年配者の多い通常の四年制大学に比べれば活気がある。また、個人的には30代半ばまで非常勤暮らしだった身を最初に雇ってくれた職場でありとても感謝している。知人もまだたくさんいるし、教え子たちもそこの卒業生として生活している。そういうわけで、経営陣には学園の名誉に敏感であってほしいと思う。

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1) 津田哲也 "「週刊文春」の取材に“コワモテ”の(自称)元警察官を対応させた学校法人のダークサイド 〔常葉学園〕" 2011/07/13
  http://news-tag.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-f825.html
※なお、この記事の(自称)元警察官とヤクザ発言の主は同一人物である。静岡県内のマスコミは、記事にあるような方法で抑えることができていたのかもしれない。
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西洋における出版と知識普及の絡み合いを豊富過ぎる情報量で描く

2016-01-25 09:31:19 | 読書ノート
ピーター・バーク『知識の社会史:知と情報はいかにして商品化したか』井山弘幸, 城戸淳訳, 新曜社, 2004.

  本書で言う「知識」は、記録の対象となる(多くの場合出版される)あらゆる事柄を差す。だが、その知識の内実の変遷よりも、どのように生産されたか、そしてどのように普及したか、あるいはどう管理されたかを詳しく検討する内容である。原書副題A Social history of knowledge: from Gutenberg to Diderot (Polity Press, 2000)にあるように、印刷術が発明された15世紀から『百科全書』が編まれる18世紀までが対象期間となっている。昨年第二巻の邦訳が発行されているが未読。

  印刷術によって出版点数が拡大したというのがまず契機とされる。その影響のもと、印刷本が新しい思想や発見を盛り込む器として機能し、特に定期刊行物でつながる科学者という新しい社会集団を形成した。また、図書館などにおける書籍の管理術・分類法の発展を促し、国家もまた地図や統計など情報の収集および情報の統制を必須とするようになった。さらに、出版点数の拡大で相互に矛盾する情報が諸書籍の間に発見されるようになり、情報の正しさが求められるようになった。その結果、百科事典や、出典を表示する記述スタイルの誕生につながった、などなど。この他にも多彩なトピックが扱われ(日本についてもしばしば言及される)、登場する歴史的人物も多人数にのぼる。

  四六版で本文324頁と標準的な長さの本であるが、その情報量は豊富である。率直に言えば、あまりに多すぎるため読んでも整理されて頭に入ってこない。一度は通読しておいて、後は確認したい事項の箇所だけを参照するというのが本書の使い方だろうか。
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やや厳しめの評価を伝えるドイツ現状報告

2016-01-22 21:39:43 | 読書ノート
三好範英『ドイツリスク:「夢見る政治」が引き起こす混乱』光文社新書, 光文社, 2015.

  ドイツの現状についてのレポート。著者は読売新聞のドイツ特派員。フクシマ報道に現われる日本に対する偏見、エネルギー問題、ユーロ危機、中国ロシアへの接近をトピックとする内容である。全体としては、ドイツは日本の手本とはならないし、また頼れるパートナーでもない(どちらかと言えば友好的でない)ということを伝えている。副題の「夢見る政治」というのは、ドイツ人には理想主義的な傾向があり、リアリズムを貫徹すべき政治の領域でも例外でないということ。「贖罪イデオロギー」に沿った価値観から、日本に対しても倒錯した優越感を隠さないという。

  発行時点の昨年9月の段階で、すでにギリシア危機での対応をめぐって批判されていたとはいえ、読んだ当初は「ちょっとドイツに厳しすぎるかな」という印象だった。しかし、本書発行後に起きたフォルクスワーゲンの不正問題と、最近の大晦日の女性暴行事件のニュースを知って、本書の言わんとするところが腑に落ちた。企業の不祥事は日本でもしょっちゅうあって他人のことをあまり言えないと思う。だが、日本の場合は単なる無能の糊塗であり、その場しのぎのごまかしにすぎない。ところがフォルクスワーゲンの不正は、持てる能力を駆使したよく設計された戦略的ズルであって、日本企業ではちょっと考えられないものだった。理想に合わせることは絶対的で、駄目な現実をそのまま放置してはならず必ず何らかの処理しなければならない、というのがドイツ人の考え方なのだろう。

  大晦日の難民による事件も、外から見ればいずれ起こるだろうと予想されていたことだ。だが、ドイツ研究専門の同僚によればこの事件がドイツ国内でかなりの衝撃を与えているという。どうやら治安の悪化を覚悟したうえでの難民の受容ではなかったようだ。すなわち、あまり計算高くなくてイデオロギッシュ。人に例えれば良い奴だがやり過ぎて失敗することもある、というところだろうか。そういう国がヨーロッパをリードしている。ネガティヴ評価に終始しており一方的ではあるが、日独関係を考えるうえでこういう一面を伝える書籍も必要だろう。 
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装いはポップに見えるがやや硬い感触のハウス

2016-01-20 22:36:33 | 音盤ノート
Herbert "The Shakes" Accidental, 2015.

  エレクトロニカ。マシュー・ハーバート久々のボーカル入りアルバムということで聴いてみた。前半はポップでパーカッシブ、後半はスローテンポながら実験的(だが音色は明るい)という構成の、「健康的」な作品である。ジャジーでムーディだった代表作"Bodily Functions"(2001)の、あの退廃的な雰囲気を期待していたのだが、かなり違うなあ。なんというか色気に欠ける。彼のキャリアをきちんと追ってきたわけではないので、この間の彼の変化を僕はよく知らない。

  ハウスとしてはどうか。サンプリング音にホーン隊を加えたバックトラックはそこそこ面白い。ただ、前半のポップな曲は、跳ねるようでいてノリが硬く、ハウス系のダンスミュージックにしてはスウィング感が無かったりする。まあ、そこが独特で面白いところだと言えなくもない。後半のスローテンポな曲では、男声(Ade Omotayo)と女声(Rahel Debebe-Dessalegne)を交互に使ってアンビエントな雰囲気でまとめている。それぞれ巧いボーカリストだがあまり味わい深くはない。全体的にゴツゴツした肌触り。なぜか奥さんのDani Sicilianoが歌っていないのだが、色気にかけるのはそのせいだろう。

  というわけで、悪い作品ではないのだが個人的な好みからは外れていた。なお、日本盤にはボーナストラックが1曲付いてきて、なおかつリミックスを4曲ダウンロードできるというオマケがついている。
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各国社会関係資本事情、政治不信との関連はあまりない様子

2016-01-18 10:40:33 | 読書ノート
ロバート・D. パットナム編著『流動化する民主主義: 先進8カ国におけるソーシャル・キャピタル』猪口孝訳, ミネルヴァ書房, 2013.

  先進国における「社会関係資本」を扱った論文集。米国におけるその衰退を報告した『孤独なボウリング』を受けての議論で、英国、米国短期、米国長期、フランス、ドイツ、スペイン、スウェーデン、オーストラリア、日本が俎上に載せられている。邦訳は2013年であるが、原書Democracies in Fluxは2002年刊と少々古く、扱われているデータも1990年代(主に前半)までである。

  政党、労働組合、教会、各種ボランティア、スポーツクラブなどへの参加および関心の度合いを各国の世論調査などをもとに描きだし、だいたい1930年代から90年代までの変動をみるというのが議論の基本線である。その上で各執筆者が、対象とした国の社会関係資本の状況、およびその民主制への影響について議論している。おおむね、どこの国でも政党や労組や宗教団体への関与は減っているが、ボランティア活動やスポーツクラブへの参加は減っておらず、また政治への信頼感は低下していると報告されている。意外な国はスウェーデンで、「公的領域における政府の関与が高すぎるために社会関係資本はあまり形成されていない(すなわち国と個人だけで形成される社会で中間団体に力が無い)」と予測されるのだが、そういう実態はなくボランティア活動などは他国と比べても盛んであるという。

  日本についての項目の執筆者は政治学者の猪口孝。短い中で日本人への先入観を訂正しつつ議論を展開しており、その労苦がしのばれる論考である。欧米人ならば「日本は集団主義の国なので社会関係資本が多い。だが消費文化の蔓延で近年ではそれは低下している」と予想するだろう。著者は、日本人はそもそもそんなに他者への信頼度は高くない(=集団主義的ではない)という山岸俊男の議論(参考)を挙げつつそれを少々修正し、どちらかと言えば近年になるほどボランティア活動など社会関係資本が増加する傾向を報告している。このほか、他国と同様、高所得で高等教育を受けた層が社会関係資本の富者で、そうでない社会的弱者がそのまま同資本の貧者となっている傾向も指摘されている。
  
  以上。本書を読んだ限りでは、当初想定されたようなコミュニティの栄枯盛衰と国レベルの政治不信はそれほど相関していないという印象だった。社会関係資本は昔の組織だった形態とは違った形態──ワンイシュー型で目的を果たせば解散するようなタイプで、昔のように組織にアイデンティティを捧げるようなものではない──で再生している。民主政治に対する不信感は、社会関係資本とは別のアプローチで説明されたほうがいいのでは?と思ってしまった。
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今思えばなぜ当時売れたのだろうと感じるほど地味なエレクトロニカ作品

2016-01-15 10:00:02 | 音盤ノート
Underworld "Second Toughest in the Infants" Junior Boy's Own, 1996.

  エレクトロニカ。"Dubnobasswithmyheadman"に続く4作目である。本作が発表された当時、1980年代にも彼らが活動していた事実は日本に伝わっていなかった。そのために「セカンドアルバム」だと勘違いされることもある。もしかしたら、売れなかった時代の黒歴史を隠すために本人たちがそう勘違いさせるマーケティングをしたのかもしれないが。

  前作と同様、躁的で繊細なビートと抑制的で暗い上物音という構成の作品であるが、流麗な感覚が増しているのが本作の特徴。メロディアスとはちょっと違う(そもそもアンダーワールドにメロディのセンスは無い)。ミニマル音楽風のアルペジオだとか、ギターやシンセ音の反復パターンが聴き手の美的感覚をくすぐるのである。このため、全体的に地味な曲が多いながら、へヴィな感覚無しに気持ちよく聴ける。ハイライトは'Pearl's Girl’。非常に細く刻まれたビートと高速語り口調低音ボイスを組み合わせた曲で、外見の抑鬱感と内に向かう攻撃性を機械音で表現してみせた彼らの代表曲だろう。Track 5に置かれた後半の曲だが、アルバム収録の他の曲はこの曲を盛り上げるために配置されているかのように思えるほど。なお、個人的にはいくつか版違いのあるシングル盤を集めるほどこの曲を気に入っていた。

  本作もまた現在までにいろいろ手を替え品を再発されており、かつての日本盤には映画『トレインスポッティング』の挿入歌としてヒットした'Born Slippy NUXX'収録のCDがオマケとして付いていた。昨年末には20周年記念として4枚組のデラックス盤が発行されているが未聴である。トラックを見た限りでは同時期に発表された音源を網羅しているとは言い難い内容。CDの枚数を増やしてもいいからきちんと収録してほしかったな。
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「文化への公的支出正当化」の議論は成功していない

2016-01-13 08:19:15 | 読書ノート
ロナルド・ドゥオーキン『原理の問題』森村進, 鳥澤円訳, 岩波書店, 2012.

  法哲学者ドゥオーキンの二作目となるA matter of principle (Harvard University Press, 1985)の邦訳で、原書全19章のうち6章分を削った抄訳版である。それでもA5版400頁を超える大著となっており、また時論的な内容であるものの、じっくり読まないと論理展開も理解できないようなレベルの内容となっている。なお、訳者は著者に対して批判的な立場にある(参考)が、訳者あとがきの記述は抑制的である。

  頁の多くは、法実証主義批判かまたは法の経済分析(=功利主義)批判のどちらかに費やされている。これらに対して、著者が有効だと考える法の解釈学的アプローチを肯定するというのが基本線である。個人的には10章に興味があって、数年前に手にとったことがある。だが、議論に納得できないと感じて読了できないままだった。今回あらためて通読してみたが、その印象は変わらない。ただし、全体的に難があるかというとそういうわけではなく、説得に成功している章もある。4章での公民権運動と反核運動の間に一線を引いてみせる手際は鮮やかだ(後者は政策の問題で原理にコミットしていないという)。あと、たびたび顔をだすハートやポズナーに対する批判に関しては僕には判定できる知識がない。

  その「10章 リベラルな国家は芸術を支援できるか?」では、文化支援を肯定する論理として、パターナリズム(いわゆる共同体主義)も、経済学的な市場の失敗分析(いわゆる功利主義)も著者は退ける。代わりに持ち出される文化支援正当化の根拠が「文化の構造を豊かにする」というもの。読者としては「共同体主義と効用主義のいいとこ取りだけをした議論では?」「文化構造が豊かであるということがなぜいいのか?(単純さを好む場合もあるかもしれない)」「そもそもの問題──特定の表現形態を支援して他にはしないという政府支出の不平等──には答えていないのでは?」などと次々と疑問が起こる。同様のすっきりしない感じは、性についての私的領域を守る権利を認めつつ、同時にポルノグラフィに対する規制も肯定する「第13章 我々はポルノグラフィーへの権利を持つか?」にもある。

  というわけで、リベラルな国家は芸術を支援できないのではないか?あるいは全ての文化活動に対して支援することになるのではないか?という疑問は解消されないままである。上の議論よりも共同体主義かまたは市場の失敗を採用したほうがマシに思える。他の章は法学関係者以外には詳細すぎるように思え、通読する必要は無かった、と今さらながら感じている。一応論文集なので、興味のある議論だけを参照すればいい、と読者にはアドバイスしておこう。
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低迷期の作品で出来は中途半端だが、冒頭一曲目は絶品

2016-01-11 22:00:37 | 音盤ノート
David Bowie "Tonight" EMI, 1984.

  デビッド・ボウイが亡くなったとの報を聴いた。本作は大ヒットした"Let's Dance"(EMI, 1983)に続く作品で、ボウイの低迷期の幕開けを告げる作品としてとても評価が低い。初めて彼を聴くという人には到底おすすめできるものではないのだが、個人的には洋楽聴き始めの小学校高学年の頃に出会ったアルバムとして思い出深い作品である。実家のある小牧市の図書館がそのカセットテープ版を所蔵していて、それを聴いたという記憶があるんだよね(他にアバとかノーランズがあったような気がする)。あまりお金を持ってない小坊にはありがたい所蔵だった。上京した後に中古レコード屋でLPが100円で叩き売られているのを見つけて、忍びなくて買った。それを今でも持っているが、ほとんど聴いていない。

  曲の出来不出来がはっきりしているアルバムで、低評価とされるのも納得である。それなりに音は分厚くて派手ではあるが、個性の感じられない1980年代的なロックサウンドが鳴っている。曲の半分もカバーまたはIggy Popに提供した曲のセルフカバーで、しかもオリジナルの出来を下回っている(レゲエの'Don't Look Down'は例外)。とはいえ救いは'Blue Jean’と'Loving the Alien'の二つのシングル曲。前者は化粧品のCM曲になっていたが、ガチャガチャうるさいアレンジで、この多少の耳障りの悪さが彼らしい作品。後者はアルバム冒頭を飾るスローテンポの曲で、ミステリアスかつ空間的な広がりを感じさせる名曲である。こういうゆったりした曲では彼のクルーナー的なボーカルが優雅かつ美しく聴こえてとても良く似合っている。

  僕は低迷期に遭遇してしまったために熱心なファンなるということにはならなかったが、青春時代に愛好したニューウェーヴ系のミュージシャンは皆ルー・リードとデビッド・ボウイには敬意を表していた。彼の代表作となるアルバムを選べと言われたらBrian Enoとの三部作から"Scary Monsters"(RCA, 1980)にかけての実験的なサウンドの時期から挙げることになるだろう。だが、個人的に好きな曲ということになるとこのアルバム収録の'Loving the Alien'だな。似たような系統の曲に'Ashes to Ashes’(1980)とか'This is not America’(1985)があるが、これらでのクルーナー歌手として力量というものも評価されてもいいと思う。
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選挙制度と執政制度の組み合わせ次第で民主制の態様が変わるという

2016-01-08 10:43:41 | 読書ノート
待鳥聡史『代議制民主主義:「民意」と「政治家」を問い直す』中公新書, 中央公論, 2015.

  タイトル通り。代議制民主主義を歴史、課題、制度類型の面から考察して、最後に日本の議会について検討するという内容。著者は京大の政治学者である。前半で記述される歴史と課題については、時折興味深い指摘がなされるるものの、通り一辺倒の教科書的解説という印象である。けれども、制度類型について記す後半3章以降はオリジナリティ溢れる考察となっている。

  レイプハルトはコンセンサス型と多数決型の二つに民主主義制度を分類した(参考)。著者は、これをさらに4類型に分ける。軸の一つは、民主主義的か否か、すなわち議会における民意の反映度による軸であり、少数意見も汲み上げる比例代表制、議会における多数派の形成を促して意思決定を確実にする小選挙区制の、どちらの選挙制度かが問題となる。軸のもう一つは、自由主義的か否か、すなわち行政府と議会が牽制しあう関係にあるかどうかの軸であり、異なる選挙で選ばれた議会と行政府が分立する大統領制、議会と行政府をともに首相が押さえて権力を集中させる議員内閣制の、どちらの執政制度かが問題となる。この二つの軸を使って、コンセンサス型、多数決型の他に二つの中間型を抽出する。米国や台湾は小選挙区制と大統領制ということで中間型1に、レイプハルトによってコンセンサス型にカテゴライズされていた大陸ヨーロッパ諸国は比例制が強くて権力集中的ということで中間型2に分類される。著者によれば、コンセンサス型の典型はラテンアメリカ諸国であり、こうした国では意思決定が困難になって政治が不安定となりやすいとのことである。なるほど。

  なお、日本は1990年代の選挙制度改革以来、小選挙区制と議員内閣制の組み合わせということで英国と同様の多数決型に分類される。ただし、参議院の力がそこそこ強いために権力の集中度は中途半端であると指摘される。このあたりは参議院選挙で敗れるたびに首相がころころ変わってきた近年の歴史からよく認識されていることだろう。権力分立による「決められない政治」である。ところが、参議院も与党がいったん押さえてしまうと、その反対者には民主主義の過剰とみえる現象が起きる。さて、どうしたら良いのだろうのか。これについては本書は答えてくれない。ただし、代議制民主主義のあり方としてどのような選択肢があるのかについてははっきり提示してくれており、そこに本書の価値がある。

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