29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

「民意を反映しない」議会政治を再評価する

2015-08-31 14:40:01 | 読書ノート
早川誠『代表制という思想』風行社, 2014.

  政治学。代議員を介する間接民主主義は、有権者が参加する直接民主主義より劣るが、現状やむを得ず採用せざるをえない次善の策であると一般に考えられてきた。本書はそうした代表制にも独自のメリットがあると主張するものである。曰く“代表制の意義は、直接民主制と比較して民意を反映しないことにあるのであり、民意を反映しないことによって民主主義を活性化させることにあるのである”(p.194)。

  前半では代表制に対する批判的コンセプトが採りあげられる。具体的には、首相公選制のような「決められない議会政治」に対する代替案や、熟議民主主義のような細分化した意見を丁寧に拾い上げようとする方向である。これらは相反する解決策だが、それぞれ直接民主主義的な指向を持っている。しかし、それらのコンセプトにおいても、誰がどの時点の誰の意見を代表しているのかという問題は最終的には避けられないと著者は見る。これに対し後半では、民意を正確に反映する政治的意思決定というそもそもの考えをしりぞけ、代表する者と代表される者との距離があることによって意志決定が可能になること、またそれがフィードバックされて代表される者の政治参加が促される(はず)だということを述べている。

  以上。日本の2000年代の政治状況にも言及があって、思弁一辺倒でない書き方であり面白く読める。ただし、難解ではないものの、後半に出てくる議会主義、民主主義、自由主義の関係は、門外漢にとってはもう少し説明してくれないとよくわからない整理の仕方だった。とはいえ、代議制に対する新しい見方を提供してくれる良書である。
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流通量わずかな初期アンビエントテクノ作品

2015-08-28 13:30:12 | 音盤ノート
Global Communication "Pentamerous Metamorphosis" Dedicated, 1993.

  エレクトロニカ。音は「アンビエント・テクノ」に属するが、1990年代前半の同ジャンル作品は打楽器音が普通に入っている。Global CommunicationはTom MiddletonとMark Pritchardの二人による英国ユニットで、次作の"76:14"(Dedicated, 1994)の方がこのジャンルの代表作としてよく知られている(その再発CDについて以前短くコメントした)。

  来歴のややこしい作品で、同じレーベルに所属していたChapterhouseというシューゲイズ系のバンドのアルバム"Blood Music"(1993)のオマケCDが初出である(なお僕が発表当時に入手したUS盤にはこれとは異なるオマケCDが付されていた記憶があり、異盤がいくつかあるようである)。同年に単独CDとして発売され、またその後1998年に同レーベルから少々の編集とジャケットの変更がなされて再発されて以降は、長らく廃盤になったままとなっている。内容は"Blood Music"中の数曲をリミックスしてアンビエント作品に仕立て上げたもの。ただし、サンプリング音の引用以外はシンセイザー音がたゆとうほぼオリジナルな作品となっている。荘厳な印象であった"76:14"に比べると、「幽玄」と形容すべき音だ。ただし、後半ちとダレる。

  この二人組は"76:14"の後アンビエント路線を止めて、もっとダンサブルな作品を作るようになる。けれども、その後の作品はだんだんチープになっていき、アンビエント路線の頃の神秘的な雰囲気を喪失してしまう。急いで変化せずに、もう数枚アンビエント路線でアルバムを残していてくれればねえ。
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骨から見れば縄文人と弥生人の間には連続性があるという

2015-08-26 19:25:35 | 読書ノート
片山一道『骨が語る日本人の歴史』ちくま新書, 筑摩書房, 2015.

  骨考古学。発掘された骨を分析して日本人のルーツについて再検討するというもの。学校で教えられているわけではないけれども多くの人になんとなく受入れられていた説に、「縄文人は南方(東南アジア~台湾~沖縄)から日本列島に移住した人々で、弥生人は朝鮮半島経由で日本にやってきた人々であり、日本人には二つのルーツがある」というものがある。本書はこの説を否定するものである。

  著者によれば、縄文人は日本列島が地続きだった時代に大陸から移住してきた人々であり、南方から海伝いでやってきたわけではないとのこと。縄文人が農耕を受容することで、彼らはそのまま弥生人となった。弥生時代に大陸からの大量移住があったという証拠はなく、そうした移住は北九州地方だけの現象であるという。この他、飛鳥時代から現代の骨についても骨考古学からの見方を紹介してくれる。栄養状態や社会階級によって平均的な骨格が変わってゆくことを示しながらも、日本人の連続性を強調する議論となっている。

  ただし、面白いのは前半だけである。後半は前半の繰り返しと整理されない日本史教育批判で構成されており、冗長に感じられた。独特の文体も好みが分かれそうだ。著者の専門ではないとはいえ、DNA鑑定からの知見も加えて、縄文・弥生時代に焦点を絞った構成にしたほうが良かっただろう。
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努力の方向が分かり前著よりは希望を持てそう

2015-08-24 16:53:46 | 読書ノート
越智啓太『恋愛の科学:出会いと別れをめぐる心理学』実務教育出版, 2015.

  『美人の正体』の続編となる一般書籍。恋愛感情の尺度化から、女性にとって派手めのメイクとナチュラルメイクのどちらが効果的か、相手にイエスと言わせる告白の仕方、アルコールやラブソングの効果、別れのメカニズム、ストーカーになる人間のパターンなどについて解説してくれる。なお著者の本職は犯罪心理学とのこと。

  本書によると、女性は赤い服を着ると通常より魅力的に見えるとのこと。また、この手の本でよく紹介される「吊り橋効果」を狙ったデートは、イケメンまたは美女以外が使ってはいけないという。こういう小手先のテクのトピックも多いが、関係を長続きさせるには「一緒にいて楽しい」という友達感覚が重要であるということも理解できてためになる(単純な好意だけではやはり長続きしない)。科学と銘打っているとおり統計データに基づく議論となっているのだが、出典は海外の研究と、著者のゼミ生(法政大学)の研究のものが目立つ。一応、日本の科学的な恋愛研究からの知見も紹介されているが、十分な量がないことをうかがわせる。

  恋愛言説の多くは根拠がないものも多く、経験の乏しい人は勘違いしやすい領域であり、モテる人にしか使えない小技を使って痛い目にあうということはよくあるのではないだろうか。まあ、痛い目にあって学べというアドバイスもアリではあるが、正しい努力の方向が分かればそれに越したことはない。というわけで学生時代までに読んでおくべし。僕の歳になるともう使う機会はないな。さまざまな診断テストも満載で若い人なら楽しい本である。
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評判・認知をインセンティブとする不合理な情報経済の現状

2015-08-21 08:44:35 | 読書ノート
山形浩生監修『第三の産業革命:経済と労働の変化 / 角川インターネット講座10』KADOKAWA, 2015.

  インターネットが経済に与える影響を考察する論集。経済学者のポール・クルーグマンやハル・ヴァリアン、『伽藍とバザール』のエリック・レイモンドらの寄稿もあるが、これらは書下ろしというわけではなくいずれも1990年代後半に書かれた文章である。日本人のものは初出のようで、ネットを前提とした企業内/外でのコミュニケーション論(小林弘人・柳瀬博一)、設計図などのアイデアをネットで共有しつつ実際のモノづくりをご近所で行う動き(田中浩也)、アイドルを事例としたコンテンツ産業論(田中秀臣)、ネットを通してプロジェクト毎に人を雇うクラウドソーシングの手法(比嘉邦彦)、産業都市論(小長谷一之)、ネット金融と電子貨幣(斉藤賢爾)、監修者自身による序文と後書きという内容。

  翻訳ものはやや古いけれども理論的な見取り図としては今でも面白い。日本人執筆者による各章は最新動向の報告的な面が強くて、そこを読むべきもの。因果関係などの考察が不十分だったりして、そのトピックにおいてインターネットはどの程度重要なのか、と疑問に感じる箇所もある。そういうのを含めてインターネットがあるのが当たり前になった経済の領域を切り取っている。監修者も述べるように、経済合理性よりもネットに渦巻く不合理なパワーこそが新しいサービスや商品を生み出しつつあることが分かる。ただし、挙げられた事例は購入する側にかなりの知識が求められるものが多く、一見、将来的にもニッチのままで終わるんじゃないかという気もする。とはいえ音楽CDのようにネットの影響で壊滅した領域もあるから侮れない。

  しかしこのシリーズ。なぜいまさらインターネットなのだろうか。内容如何よりも、タイミングという点での違和感は大きい。図書館情報学領域のテーマもあるので、他の巻も読んでみることにする。
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極端な言い切りで人の神経を逆なでする炎上科学者の新著

2015-08-19 14:29:38 | 読書ノート
サトシ・カナザワ『知能のパラドックス:なぜ知的な人は「不自然」なことをするのか?』金井啓太訳, PHP研究所, 2015.

  進化心理学。IQの高い人というのは、政治的にリベラルで、無神論者で、夜型人間で、音楽ではボーカルの無いインスト曲が好きで、けっこう酒を飲み、男性ならば性的パートナーに対して貞操を求め、女性ならば子どもを持つことが少ないといったことを明らかにする内容である。原書はThe Intelligence Paradox: Why the Intelligent Choice Isn't Always the Smart One (Wiley, 2012)である。名前を見ればわかるように著者は日系人で、現在London School of Economicsに所属している。

  その議論は、統計分析によってIQの高低で振る舞い方に違いがあることを示し、あとは進化心理学系の説明を付け加えるというものである。著者が使っているデータは、米国やイギリスで行われた大規模社会調査であり、IQによって嗜好や行動に差がでるという話まではそこそこ信用してよいだろう。ただ、差がでる理由の説明は大胆かつ強引で、素直に納得できるものではない。長い石器時代に人類の遺伝的傾向が形成されたというサバンナ仮説を著者は持ち出し、この時代以降に現われた社会制度や倫理、嗜好品に上手く対応できてしまうことは不自然なことであるという。IQの高い人は、そうした不自然なことにのめり込みやすく、「本能」的な生き方をうまくできない。とりわけ女性の場合は繁殖に失敗するという点で「人生の敗者」であるという。このように、生き方のようなデリケートに評価すべき事象を、著者は適応という観点から一刀両断してしまうのである。

  とはいえ、著者のサトシ・カナザワはあちらでも問題発言(研究)で知られる炎上科学者であり、予想の範囲内とも言えなくもない。前著となる『女が男を厳しく選ぶ理由』(阪急コミュニケーションズ, 2007)を読んだ際、本当に身も蓋もない書き方でげんなりさせられた記憶があるが、あれに比べれば本書はマイルドなのではないだろうか(前著を処分してしまって手元にないので比較できないが)。本書は、IQによって差がでるところを確認したら、後は話半分で読むべきもの。また、著者への反論を考えたり、差が出る理由を自分で考えてみるという思考トレーニング用に使えなくもないかもしれない。
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費用便益分析をするという条件を付けて予防原則を肯定する

2015-08-17 12:54:57 | 読書ノート
キャス・サンスティーン『最悪のシナリオ:巨大リスクにどこまで備えるのか』田沢恭子訳, みすず書房, 2013.

  テロや地球温暖化などの、どのような頻度で起こるのかどうかわからないけれども、壊滅的な被害をもたらす可能性のある事象に対して、政府はどのような原則で対処するべきか、を論じる内容。一般の人でも読める水準ではあるが、デリケートな議論を積み重ねており、著者の主張を理解するには根気が必要である。原書はWorst-Case Scenarios (Harvard University Press, 2007)である。

  その内容を超簡単にまとめると、予防原則と費用便益分析の間の調整ということになる。予防原則は、因果関係がはっきりしていなくても、甚大な被害をもたらしうる事象に対処するために、規制や公的投資を積極的に行うべしという立場である。しかし、予防原則に従った対処は、別の被害をもたらしうる可能性もある。貧困層の状態を改善する可能性のある発明が過剰に危険だとされて規制されたり(例えば遺伝子組み換え作物)、もっと多くの人の福祉を改善できたはずの公共事業への投資が後回しにされたりすることがありうる。そのようなわけで、著者は予防原則をそのまま肯定せず、いくつかの条件を付けて認める(ただし否定はしない)。その条件のうちもっとも重要なものが費用便益分析を加えることである。費用便益分析には、人命の金銭的価値への返還(すなわち人命軽視)と、不平等のある世界では貧困層の生命が「安く」算定されてしまうという批判もある。だが、先に挙げた予防原則の短所を補ううえでは、費用便益分析を付したほうが付さないよりマシ、ということのようだ。

  本書の議論は上の簡単なまとめよりも、もっと細かいケースに踏み込んで議論している。ただし本書で示されるのは、起こるかどうかわからない事象への対処に対する「考え方」であって、対処の「適正水準」というものではない。なので、東日本大震災のようなケースを仮に考えても、どこまで対処するべきかはやはり議論の余地のある問題である。とはいえ、世論に流されずに効果のある政策を採用しようとすると、ここまで粘り強く思考しなければならないというのが理解できて参考にはなる。
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優しく美麗な叙情系電子音楽、CDは長期間廃盤

2015-08-14 19:41:54 | 音盤ノート
Telefon Tel Aviv "Fahrenheit Fair Enough" Hefty, 2001.

  エレクトロニカ。このデビュー作は完全インスト作品であるが、このシカゴのデュオは後のちボーカル作品を主に据えるようになってエレポップ化してしまう(参考)。本作は音色の選択が洗練されていて非常に聴きやすく、この路線が継続されなかったのは残念なことである。

  とくに上物のメロディーが秀逸で、フェンダーローズ、フルート、またはギター系の楽器音などを使って物憂げで美麗なラインをゆったりと反復する。ベースも入る。その後ろでおもちゃ箱をひっくり返したような細かく賑やかな電子音がちりばめられ(曲を壊さないAphex Twinといった印象)、これらの音を足したり引いたりすることで曲に変化をつけるというのが収録曲のパターンである。グリッチ系ではあるが、上物の楽器音の選択がフュージョン的であるため、音色に違和感が少なくて心地よく聴ける。また、曲想も正統派のアンビエント音楽のように中庸な情動感や瞑想感をもたらすのではなく、聴き手にかすかな叙情を感じさせるものになっている。

  残念ながらCDは長い期間廃盤のままで、中古で購入するにもプレミア価格となってしまっている。といってもiTunesでは販売しているようだ。僕のような時代遅れのアルバム愛好家でも、これから廃盤はネットでファイルを落とすというのが避けられなくなるのだろうか。
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生態学的な限界に直面していて高リスクだったという江戸時代像

2015-08-12 20:56:59 | 読書ノート
武井弘一『江戸日本の転換点:水田の激増は何をもたらしたか』NHKブックス, NHK出版, 2015.

  江戸時代の農村の発展と限界を検証した書籍。エコな循環型社会だったという江戸日本に対する最近のイメージ(石川英輔が代表的)に対して、実際は18世紀初頭に新田開発が飽和状態に達し、当時の農業は環境負荷が大きく持続困難になっていたと主張するものである。

  その論証は、江戸時代前期に確立した農村の生態系が江戸後期になると破壊されてしまったことを示すかたちでなされている。前半は17世紀開拓期の農村生活の詳細を解説するもので、作物の栽培品種や動物性タンパク質の獲得について説明してくれる。前半だけを読み進めると、そこそこ豊かな農村事情がわかり、うまく「循環型社会」が廻っているかのような錯覚を覚えるほどだ。イラストの豊富な当時の農書が多く引用されており、図版もなかなか楽しい。ところが、また別の農書から引いてくる後半は印象が一変する。18世紀になると、農業をするには限界的な土地まで開拓されて治水面などのコストがかかるようになり、肥料にも事欠いて地味が落ち、生産量も大して増えなくなったという。

  18世紀初頭に新田開発が頭打ちになっていたこと、および人口増加が止まっていたことはすでに知られていたことである。それでも江戸幕府は19世紀半ばまで続いたので、「持続可能な社会」という評価がなされたのだろう。本書は、そのような経済成長無き社会が人間にとって不幸でリスクの高いものであることを示すものである。ポメランツが示すマルサス的限界(参考)の実態が把握できるし、江戸時代は禿山だらけだったという太田猛彦の『森林飽和』も合わせて読むとよくわかる。
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重くてノイジーながらギターは後景に引く

2015-08-10 08:51:35 | 音盤ノート
Steve Tibbetts "A Man About A Horse" ECM, 2002.

  異様なテンションの高さだった"The Fall of Us All"以来の8年ぶりのスティーヴ・ティベッツ単独名義の作品で、この間に共作が二作入る。前作から微妙な変化のある内容で、落ち着きがあって割と聴きやすいけれども代表作というにはちょっとという作品である。

  ディストーションの利いたエレクトリックギターはほとんどの曲で登場する。だが、暴虐路線のアルバムにありがちだった、曲に裂け目を入れる電撃的な使い方ではないというのが本作の特徴である。むしろエレキギターは曲や波やうねりを加えるべくレイヤー的に使われており、踊れないのに無駄に激しい打楽器隊に対して時折バックに回るかのようである。そのノイズ音は、瞑想修行者に対する持続的な嫌がらせのようではあるが、場を破壊するほどでもない。全体的な印象は重めである。

  曲の完成度のバラつきが少ない良作ではある。だが、彼のもう一つのウリであったカリンバ演奏が収録されておらず、ミニマル音楽的な心地よい瞑想感を失ってしまっている。次作の"Natural Causes"はアコギ静謐路線でもっと地味になってしまい、録音間隔が空いてしまって過去の水準が維持できなくなっているのではと心配になってしまう。
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