29Lib 分館

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社会構築主義を受け入れてもなお科学は特別であることができるか

2023-03-30 22:32:14 | 読書ノート
ハリー・コリンズ, ロバート・エヴァンズ『民主主義が科学を必要とする理由』鈴木俊洋訳, 法政大学出版局, 2022.

  科学論。「選択的モダニズム」なる立場から市民社会と科学との関係を考えるという内容である。原書はWhy Democracies Need Science (Wiley, 2017)。著者二人は科学論の「第三の波」の先導者で、社会構築主義を全面的に受け入れたうえでなおも科学に優越な地位を与えるという立場だ。科学論の第一の波は、手続きの透明性と成果の普遍性などを理由として科学を高く評価し、意思決定の場面で科学がもたらす知識に優先権を与える。これに対し第二の波は、価値や権力関係が科学の営みを駆動しており、そのような営みは客観性も普遍性も保障されないので、科学者の意見は非専門家の意見と同程度のものとして扱われるべきだとする。

  第三の波すなわち選択的モダニズムは、第二の波の議論を全面的に受け入れたうえで、誠実かつオープンに行われているという理由で科学に特別な地位を与え、公共的意思決定の場面において現状科学的に何がわかっているのかについて意見を述べる場を設けることを認める。この場は、意思決定者に対して「科学的に正しい」特定の政策を採るように薦めるものでは決してない。科学的議論の現状がどのレベルにあるか助言するだけである。意思決定者は、科学者の助言を無視して(科学的には誤っているかもしれない)大衆の意向を尊重してもよいとする。ただし、科学を無視する場合、意思決定者側は無視した理由を説明しなければならないともしている。

  以上。議論自体は難しいものではないが、読んでいて沸き起こる二つの疑問がある。第一に、科学を無視してしまえば、民主主義的な意思決定が間違う可能性も高くなる。社会の失敗は民主主義に不可避なものなのかもしれないが、領域によっては巨大な被害が生み出されるかもしれず(例えば安全保障や公衆衛生)、すぐには首肯できないところだ。もちろん科学が間違うこともあるのだけれども。第二に、科学の社会構築主義を受け入れてしまったらもはや科学の優越を認めることはできないという点だ。著者らは科学の成果は優越の理由にならないとしている。ならば、意思決定者が科学を無視したことに対して説明責任まで要求できるような地位を科学は保つことができるのだろうか。ここは大きな矛盾点である。

  というわけで、話は分かるが理論的な粗もある、という印象だ。社会構築主義に対して配慮しすぎなのが議論の弱さを生んでいると思う。 
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賃労働の価値が上昇すると、家庭が軽視されて子どもが邪魔になる

2023-03-21 11:12:38 | 読書ノート
A.R.ホックシールド『タイムバインド : 不機嫌な家庭、居心地がよい職場』(ちくま学芸文庫), 坂口緑, 中野聡子, 両角道代訳, 筑摩書房, 2022.

  社会学。1990年代前半の米国、家族向けの福利厚生が整った「アメルコ社」(実名は明らかにされていない)を取材して、実際の労働者は職場の居心地の良さに惹かれて長時間を労働に割いており、一方で家庭維持の面倒くささから家族にエネルギーと時間を注ぐことから遠ざかる、という傾向を明らかにしたものである。著者は米国の社会学者のArlie Russell Hochschildで、原著はThe time bind: when work becomes home and home becomes work (Metropolitan Books, 1997.)である。邦訳は2012年に明石書店から『タイム・バインド : 時間の板挟み状態 : 働く母親のワークライフバランス : 仕事・家庭・子どもをめぐる真実』なるタイトルですでに発行されているが、これはその文庫版となる。

  内容はインタビューをまとめたもので、経営層、管理職、ヒラの事務職員、工場労働者といった様々な職位の男女と、さらに彼ら彼女らの配偶者など多岐にわたる関係者から話を聞いている。アメルコ社は社員のワークライフバランスを気にかけていて、育児休業などさまざまな福利厚生を用意していた。しかしながら、どのような職位の男女においても、社員はそれら福利厚生を十分に利用しておらず長時間労働に時間を捧げてしまっていた。一方で、家族とのコミュニケーションはおろそかになり、そのことで不満を持った配偶者や子どもとの間で家庭はストレスに満ちたものになっていた。

  そうなってしまう原因は何か。出世を是とする「男性的な働き方」至上主義考え方の存在、長時間労働を要求する職場の雰囲気、解雇への恐れなど会社側の原因が挙げられる。だが、それらだけでは十分な説明とならないというのが著者の主張である。より重要だと考えられている原因は、核家族化によって家庭にはモデルや導き手がいなくなって、家事労働や子どもの相手をすることが正当に評価されない状態になってしまったことである。家庭の維持のために頑張っても褒められることがなく、感情が満たされることがない。一方で、職場には良き相談者がいて、成果があがれば賞賛や報酬が貰える。この違いがあるために、家庭が軽視され、みな職場に長く留まるのだ、と。

  ネットで「著者はフェミニスト社会学者である」みたいな紹介文を見かけたので、本書を手に取ったときは、職場の男性的な雰囲気が批判されて「ワークライフバランス施策をもっと進めましょう」みたいな議論が展開されることを予想していた。だが、職場の雰囲気がフレンドリーになってゆくことが賃労働の価値をいっそう高める(つらくないうえにやりがいのある労働!!)一方で、家庭の社会的評価が低下するという逆説を本書は描いていて、もう一段ひねりのある内容だった。もちろん女性労働者特有のジレンマについてもきちんと伝えている。
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共有地の悲劇は民間の力で回避できるとのこと

2023-03-10 09:47:51 | 読書ノート
エリノア・オストロム『コモンズのガバナンス:人びとの協働と制度の進化』原田禎夫, 齋藤暖生, 嶋田大作訳, 晃洋書房, 2022.

  経済学。「共有地の悲劇」は民間でも解決できるし、実際に解決していることを示すという内容である。原書は
Governing the commons : the evolution of institutions for collective action
(Cambridge University Press, 1990)で、邦訳はこれが初めて。著者は2009年にノーベル経済学賞を受賞し、2012年に亡くなっている。本書のキーワードはcommon-pool resource、略してCPRである。通常は「共有資源」と訳されてきたが、それだと原書にあるcommon property resourcesとの違いがわかりにくい。訳者らはCPRに、共同所有される前の段階にありかつ誰でも利用できる資源であるとして「共的資源」という訳語を充てている。

  共的資源は集団で維持管理されるべきという点で公共的であるが、公共財とは異なって個々の資源を同時に消費することはできない資源である。例として、地下水、入会地、漁場が挙げられている。オストロムの議論以前の「共有地の悲劇」の帰結は、資源を分割して私的所有とするか、あるいは政府が出てきて管理するしかないというものだった。本書はその中間形態として、利害関係者が結束して維持管理するという形を提案する。ただし、共的資源の共同管理はうまくいく場合とそうでない場合があって、成功させるには監視と違反者への制裁など八つの設計原理を満たす必要があるとしている(詳細はp.106参照)。

  全6章の構成で、最初の二つの章は理論編、続く三つの章は事例研究、最後の章はまとめとなっている。このうち事例研究では世界各地の事例を集めているが、微に入り細を穿つ記述が続いて読むのがちょっとしんどい(特にロサンジェルス周辺の地下水採取問題を扱った第4章!!)。資源の共同管理の成否はそういう制度設計の細かいところにあると著者が考えているからだろう。

  そのメッセージを、共的資源は政府でもなく私権でもなく「コミュニティ」に委ねられるべきと記すと肯定的な印象になる。だが、要は村社会的メンバーシップのもとで管理されるということだ。余所者は排除である。ここをどう評価すべきだろうか。また、ローカルな共的資源について政府は適切な情報を持っていないのでうまく管理できない著者はいう。ならば管理が失敗したケースでは誰が何をすべきなのだろうか。これらの疑問も残った。

  いずれにせよ、待望の翻訳である。なお一点大きな誤植があって、p.128の地図でロサンジェルスが面する海が「大西洋」となっている。
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