29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

劣化した言論状況という現状認識に賛同できるも処方箋については論争含み

2014-11-26 13:33:56 | 読書ノート
ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0:政治・経済・生活を正気に戻すために』栗原百代訳, NTT出版, 2014.

  民主政治をめぐる問題提起の書。著者は、現在「理性」の価値が貶められ、直観主義が称揚されすぎていると見る。行動経済学者らが明らかにした認知バイアスの存在などから、理性的に見える決定も結局は生得的傾向によって歪められており、理性は不十分にしか機能しないということが分かっている。また、フランス革命以来、理性重視は社会を機能させてきた良い伝統まで破壊する結果になることがあり、社会に混乱をもたらしてきた。その最悪のものとしてナチスがある。こうした認識が北米の社会に共有された結果、直観主義がはびこり(特に保守陣営に選挙戦略として採用され)、民主的意志決定を停滞させていると見る。

  これに対して、著者は再度「理性」の優位を訴える。理性に限界があるとはいえ、直観主義では環境問題などの集合行為の問題を上手く解決できない。こうした問題については、脳が本来不得意な合理的計算を行わなければ最適な答えを導きすことができない。それは直観に反する結果を導きだすこともあるが、それこそが人間社会を高度なレベルに押し上げてきた要因であると説く。それではどうすべきか。理性の再評価を叫んだところで、直観主義を採用して洗練された広告、あるいは米共和党によるワンフレーズポリティックスとレッテル張りの選挙戦略から一般の人々の蒙を啓くことは難しい。これに対し、著者は、セイラーらのアーキテクチャ論(参考)を引いて、あからさまな嘘や間違いを撒き散らす言説を法で規制するという、一種の言論統制を採用するよう提案している。

  読者として理性の重要性についは理解した。しかし処方箋に対してはすぐには賛同し難いものがある。デマもヘイトスピーチも言論の自由の代償としてしぶしぶながら許容するという通常の立場からみると、著者の提案は過剰なものと見える。そこまでしないと駄目な政治の状況なのだろうか? 嘘つきや差別発言をする連中の口を防げば、政治が直観主義から離れて理性的な議論の場となるというのも、飛躍がある気がする。うーん、現在が民主主義の危機と言われればそんな気がしないでもないのだが、米国だって大統領選では民主党が2期連続で勝っているわけで、共和党がえげつない選挙戦略のおかげで常に優位に立っているなどということはない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人の好さそうなポップソング。裏では発表後28年経ても続く確執

2014-11-24 19:25:14 | 音盤ノート
XTC "Skylarking" Virgin, 1986.
XTC "Skylarking:Corrected Polarity Edition" Ape, 2014.

  英国ポップバンドXTCの8作目。XTCは1978年のデビュー以降、最初期のパンク、続くギターバンド然としたパワーポップ期、低迷・模索期、後期ビートルズ路線と変化するが、本作は低迷期の終焉と後期ビートルズ路線の始まりを告げる起死回生の一作として評価されている。レコーディング期間中のプロデューサーTodd RundgrenとリーダーのAndy Partridgeとの間の反目も、ファンの間でよく知られたエピソードである。

  サイケデリックなものを中心に、フォーク、ストリングスをバックにしたもの等収録曲は多彩。曲によってはラウンジ音楽やジャズを取り込もうとする方向性も感じられるが、彼らの場合は「おしゃれ」にはならず、引き出しの一つという感じである。編曲スタイルは様々ながら、全体の流れがよく、最初から最後まで聴かせてしまう。彼らの他のアルバムの場合、一曲一曲を凝りすぎてくどいということがしばしばある。だが、このアルバムに限っては薄味であり聴いていて疲れない。突出した曲が無い分、アルバムの統一感が高い。

  そのアルバムに、今年になって「極性修正盤」なる版が登場した。ステレオ録音の際の左右の配置の問題のようだが、ライナーによればTodd Rundgrenのスタジオで起こった間違いとのこと。確執はまだ続いているわけね。実際のところ聴いてみて極性云々の問題が解決されたかどうかはよくわからなかった。リマスタリングに限れば、初めてLPで聴いたときの内向的でスカスカした印象を覆すような、低音の効いた厚い演奏に聴こえる。また、青緑の優雅なジャケットも、バンドの意向で茶色い陰毛写真に変更されている。

  極性修正盤のもう一つの小さなウリは、シングルB面曲ながら米国カレッジチャートでヒットした'Dear God'をオリジナル12曲目の'The Man Who Sailed Around His Soul'と13曲目の'Dying’の間に配置したこと。2001年のリマスター盤ではボートラ扱いだったが、今回の配置換えでアルバム全体の流れが向上した。ただし、僕が初めて聴いた日本版には未収録だったし、特に良い曲だとも思っていないので、入れなくても特に不満は無いのだが、「入れるならここでしょう」という場所に入ったということである。

  このアルバムは発売当初にラジオでDJピーター・バラカンが紹介していたことを覚えている。当時僕は中学一年生であったが、ヒットチャートとはまったく無縁な良曲・良ミュージシャンがこの世に存在するということを初めて知った瞬間として思い出深い。本人たちはもっと稼ぎたかったみたいだけど。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その後とデビュー作では音楽スタイルが全然違うという典型例

2014-11-21 15:05:30 | 音盤ノート
Cocteau Twins "Garlands" 4AD, 1982.

  ポストパンク。ドリームポップの祖Cocteau Twinsのデビュー作だが、この時期は完全にゴス。恰好はThe Cure、音は初期Siouxsie & the Bansheesといったところである。バックの音は、薄くて冷ややかな打込みドラムに、重たくて厚いベース、ディストーションとエコーをかけた霧のようなギターという組み合わせ。その上で、寒々として感情を見せない女性ボーカルが、'Blood Bitch'や'Blid Dumb Deaf'といった曲名の禍々しい歌をうたう。後年の特徴であるファルセットも用いていない。

  僕は"Blue Bell Knoll"(参考)から入った人間なので、このアルバムのダークで冷たい雰囲気に驚かされた。ただ、どれだけ力を込めて歌ってもほとんど情動が感じられないボーカルはこの頃から健在である。また、ギターのラインはゴスらしく大袈裟でドラマチックなのに、何故か淡々と聴けてしてしまうという奇妙さもある。ドラムとベースがひたすら反復するだけだからだろうか。しかしながら後年の美学の萌芽らしきものも感じられず、似た感覚のあるアルバムを見つけるのが難しい唯一無二の作品となっている。

  1986年にCD化された際にはボーナストラックとして83年1月のJohn Peel Sessionと未発表曲2曲が付いてきた。現在流通している2003年のリマスタリング版はそれらを省き、オリジナルと同じ8曲の構成となっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教養新書としてはアメリカンな味付け

2014-11-19 21:35:50 | 読書ノート
高井尚之『カフェと日本人』講談社現代新書, 講談社, 2014.

  喫茶店論。日本で最初に開業した喫茶店はどこか等その歴史、メイドカフェほかの独自サービス、名古屋で喫茶店が多い理由、全国各地の有名店の紹介、家飲みコーヒー市場について扱っている。著者は名古屋出身のジャーナリスト。僕も同じく「休日は朝から喫茶店に行く名古屋人」なので興味を抱いたのだが…。

  ドトールやスターバックスなどのチェーン店の来歴が分かってためになる部分も多いのだが、うーん、一般の客でも分かるレベルの差異しか記述しておらずもう少し突っ込んでほしいところ。自分の好みをどう表現するか知りたいこともあって、チェーンのよる味付けの違いについては詳しく分析してほしかった。また、多数の文学者の名前が出てくるものの、ただ「その店に通ってました」というだけで話が広がらない。あと、お店を取材したところはやはり写真が欲しい。文字だけで読ませるにはかなりきついという印象。

  というわけで全体として薄味。教養新書として出版するならば、読み手をカフェ通になった気にさせるほどの薀蓄というか情報量がほしい。例えば、コーヒーの原産地による味の違いとか輸入事情とか、読み手に知識を与える小ネタも加えたいところ。写真が入れられないなら有名店の紹介などいらなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

借家市場の失敗の原因に政府の制度設計の失敗あり

2014-11-17 13:05:09 | 読書ノート
山崎福寿『日本の都市のなにが問題か』NTT出版, 2014.

  日本の賃貸住宅市場や中古住宅市場が機能しない理由を経済学的に分析した一般向けの書籍。都市について包括的に述べたものではなく、日本の都市における居住用の家屋はなぜ質が低いのか、について制度面から探究したものと考えたほうがよい。その答えは、市場の失敗であり、そうした結果をもたらした政府の制度設計の失敗であるという。

  著者によれば、借り手を過剰に保護した借地借家法や、都市への人口流入を抑えるために制定された容積率などの土地利用規制が、都市における居住用建物を貧相なものにしたという。地方に人口を分散させようとして地方に公共投資することは、結局大きな無駄となった。著者は人口の都市集中を認めるべきだとして、賃貸住宅、中古市場、低質な安アパートを量産させる相続税制度についての問題を検討している。

  借家権保護が面積の広いファミリー向け賃貸の供給を妨げているという話はけっこう知られていると思うが、これを克服するために定期借家権を2000年に導入して以降も、それほど事態が改善されたようには見えない。その答えの一つは、借り手に認められた中途解約権の存在で、まだまだ借主有利になっているためだという。結局、空家問題も含めて、「貸すのは危険・貸したら土地家屋が帰ってこない可能性あり」という状態があるために、良質な物件(中古住宅の賃貸も含む)が供給されず、狭小で住みにくい部屋が大量供給されることになる。狭小アパートならば、質が低いので借主が出てゆく可能性が高く、家賃を滞納されてもダメージが少ないというわけである。

  以上。確かに東京近郊では、家族向けの賃貸物件はかなり割高で、買ったほうがマシということになりやすい。本書を読んでみるとけっこう根深い問題であることがわかる。借り手保護はずいぶん前から問題視されつつ、ちっとも改善されないところをみると、いったいどういう人が支持層なのか知りたくなる。貧困層?民間の賃貸ではなくて、地方自治体の公営住宅に住むのでは駄目なのかしらん。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本の価格を上げれば小売書店が息を吹き返すという

2014-11-15 09:41:15 | 読書ノート
永江朗『「本が売れない」というけれど』ポプラ新書, ポプラ社, 2014.

  出版論。著者によれば、1990年代後半以降続く出版不況は単に新刊本の売行き不振、特に雑誌の不振であり、統計を見る限り人々の読書量は減っていない、図書館もブックオフも賑わっているし、という。この主張は10年ぐらい前から著者自身が唱えていた。また、大型書店の登場と家族経営の小規模書店の衰退も知られた話だろう。というわけで、現状を伝える部分はけっこう「もう知ってます」という感がある。

  したがって本書のオリジナリティは解決策ということになるが、その一つに「本の価格を上げよ」というものがある。再販制のため利率が決まっているので、文庫や新書などの安い本が売れても小売書店には大きな収入とならない。ちくま学芸文庫並みに一冊1500円ぐらいとすれば、出版点数も抑えられ、小売もなんとかやっとかいけるようになる、というのだが…。考えたこともなかった提案だな。要検討。他の策として、小売書店側の地道な工夫が挙げられている。

  この他、本屋の廃業は簡単だとか、ディスカヴァー21社は書店に直売しているなど、初めて知る小ネタなどもあった。全体として、著者の出版論の途中経過報告といったところだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理論的なところから下世話なゴシップまで楽しめるジャズ史・ジャズ論

2014-11-12 14:03:53 | 読書ノート
菊地成孔, 大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー:東大ジャズ講義録・歴史編』文春文庫, 文藝春秋, 2009.
菊地成孔, 大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー:東大ジャズ講義録・キーワード編 』文春文庫, 文藝春秋, 2009.

  ジャズ史・ジャズ論。副題にもある通り、2005年度の東大での講義をベースとした語り口調の書籍。キーワード編では、ブルース、ダンス、即興、カウンター/ポスト・バークリーという四つの概念を掘り下げている。オリジナルは2005-2006年で、メディア総合研究所から。文春文庫版では後書きに著者二人の対談が付されている。菊地成孔はミュージシャンとしても文筆家としてもすでに著名(参考)だろう。大谷能生は、ミュージシャン兼批評家だそうで、このコンビで現在までに四点の書籍が発行されている。これは二作目。

  歴史編はわりとオーソドックスなジャズ史で、パーカー、コルトレーン、マイルスをキーにビバップからフュージョンまで一通り辿ってみせる。これに加えて、ロックやソウル等同時代の他の大衆音楽ジャンルを並行させて解釈してみせる手腕がなかなか。ビバッブ成立後は「プレモダン」とされてしまうスウィング時代だが、ビッグバンドがラテン音楽を筆頭に様々な音楽要素を吸収できる優れたフォーマットであったという指摘は確かにそうだ。日本の演歌歌手もこのフォーマットの上で活動してきたわけだし。一方で、モダンジャズは音楽的な純化というムーブメントであったとのこと。オーネット・コールマンに対して黒人的リズム感が無いという指摘も面白い。

  キーワード編では、四つのトピックがそれぞれ本人らによる講義とゲストによる講義によって構成されている。即興編のゲストは「あまちゃん」で知られる前の大友良英(参考)。個人的に面白かったのが、エレクトロニカ文脈における「ジャズ」概念の解釈。基本ビバップは非ダンス音楽として成立するのだけれども、ゲスト講師の野田努によれば、英国モッズらはそれを使って踊ったという。しかも、彼らは黒人幻想を持っていて、ソウルもファンクもデトロイトテクノもとにかく米国黒人によるジャンルであれば「恰好いい」と感じ、なんでもジャズ概念に含めてしまっているとも。こうした文脈で1980年代末から英国発クラブジャズが盛んになるということで、なるほどと腑に落ちた。

  ただし、和声理論を解説する楽理的なところもあって僕はよくわからなかった。バークリーメソッド云々というのはテーマに対して広すぎる話のような気がするが。とはいえ、紹介された音源はYoutubeにほとんどあがっているし、試聴しながら読むと理解が進むのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

対抗文化批判ではなく左翼ラディカリズム批判として読むべき

2014-11-10 11:07:18 | 読書ノート
ジョセフ・ヒース, アンドルー・ポター『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』栗原百代訳, NTT出版, 2014.

  『資本主義が嫌いな人のための経済学』(参考)のジョゼフ・ヒースとジャーナリストのアンドルー・ポターの2004年の共著で、原題は"The Rebel Sell: Why The Culture Can't Be Jammed"である。邦訳の副題を見て、反体制芸術家をコケにする内容かと思ったが、もっと思想寄りの内容であった。

  本書は左翼思想を二種類に分ける。社会改良主義とラディカリズムである。前者は、人を組織し、関係者や政治家を説得したりする地道な活動である。場合によっては法律を制定して(例えば環境保護などのため)、自由を制限する必要も出てくる。一方、後者は前者を馬鹿にする。「そんなものは現在の資本主義体制の維持に貢献するだけで、問題の抜本的な解決にならない」と。代わりに後者が称揚するのは、文化的解放を通じた人々の意識改革である。ラディカリズムはあらゆるルールや形式を抑圧だとして徹底的に嫌う。資本主義体制が押し付けていると(彼らが考える)そうした形式やルールに縛られた人々を気づかせ、解放するのが文化的「前衛」だというわけである。こうした嗜好はリバタリアニズムにも近い。そしてそれこそがカウンターカルチャーの基礎にある思想であるとする。

  これに対し、著者らはラディカリズムを「役に立たない」だけでなく「有害である」と一蹴する。文化的前衛にコミットすることは、大衆とは異なった消費によって自己の文化的エリート性を際立たせたいという差異化の欲望にすぎず、新しい消費を駆り立てるという点でまったくもって資本主義的で体制親和的であるという。また、ラディカリズムは、ルールの設定ではなく、人々の精神の変革という難しすぎる解決を求める(映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』をその典型とする)あまり、目前の問題の有効な解決を遠ざけているとする。だが著者らは、集合行為の問題、すなわち囚人のジレンマで図式化できるような社会問題は、参加者のインセンティヴを変えるルール変更で容易に解決できる可能性があり、精神の領域の話では全然無いという。例として、子どもたちの間に起こるファッションの競争(えてして貧乏な家庭の子どもが不利になる)を学校制服によって押しとどめられることを挙げている。

  著者らは、こうしたラディカリズムの起源を、「ナチズムに対する過剰な反省」とフロイト思想のカリフォルニアでの結合、特にマルクーゼを筆頭とする亡命フランクフルト学派の影響だと考えているようだ。それは1960年代後半にヒッピー文化として結実して今に至るわけだが、政治体制には何の生産的な効果をもたらしておらず、むしろ合意を嫌うあまり社会を混乱させているという(自由貿易に対する反対等)。他にもボードリヤールやイリイチが批判され、あとはナオミ・クラインのような最近のライターの他、反体制気取りのメディアも俎上にのせられている。そういう論者はスノビッシュなだけで「良い社会」について真剣に考えたりしてはおらず、単にボヘミアン文化がピューリタン文化より優位であるというような主張を行っているだけだと著者らは見なしている。

  以上のようにカウンターカルチャーに大変厳しい本である。ただし、日本にこの議論がうまく当てはまるという感じでもない。著者らは、1960年代後半生まれのカウンターカルチャーと左翼ラディカリズムを直結させている。後者は新左翼そのものだが、日本における前者に当たるものが見当たらない(フォーク?)。文化的前衛を好んで消費する層は大して強力な社会層を形成しておらず、マイナー洋楽の聴取やスローフードを楽しむことが「体制からの解放」ではなく単なるスノビッシュな行為であることを、一般の日本人ならばよく気づいているのではないだろうか。文系の大学人ですらヒッピー文化もパンクもまともに通過していない。

  以上のようなわけで、日本では、カウンターカルチャーを手がかりとして読むよりは、その基調となる思想である左翼ラディカリズムの批判本として本書を読む方が適切である。社会改良主義左翼を一緒くたにしないよう注意すべき。また、デフレ期に現れた、不景気を契機に日本の様々な慣習が崩壊することを願い、かつその後の新しい経済秩序の生成を夢見るようなハードランディング論者を、新左翼=左翼ラディカリズムの末裔として読むほうが、政治的見識を高める上で生産的だろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米国発"Loveless"カバーアルバム二作

2014-11-07 21:36:52 | 音盤ノート
Japancakes "Loveless" Darla, 2007.
Kenny Feinstein "Loveless / Hurts to Love" Fluff & Gravy, 2013.

  My Bloody Valentineによる1991年のアルバム"Loveless"のカバーアルバム二作。複数のミュージシャンが尊敬する一組のアーティストのキャリア全般から曲を拾ってカバーアルバムを作るという企画は1980年代から存在する。だが、単独のミュージシャンが一組のアーティストのこれまたアルバム一枚だけを丸ごとカバーするという企画はあまりみたことがない。

  Japancakesは米国ジョージア州アセンズのバンドで特に日本とは関係無い模様。この作品は、ボーカル無し、ギター、ドラム、ベース、シンセ、チェロという編成のポストロック路線で、"Loveless"のメロディ部分を主に再現しようと狙ったようだ。オリジナルではトレモロアームを使ってバンドサウンド全体を揺らしたが、本作ではそれをチェロやギターの単音のポルタメントで代用している。結局それは、サウンド全体の揺らぎではなく旋律の揺れでしかないのだが、オリジナルに慣れない人にとっては聴きやすいのかもしれない。ディストーションの壁も無いし、BGM的に聴きながせる。うーんオリジナルへの愛情は感じるが、完成度が高いとは思えん。

  Kenny Feinsteinについては詳細不明。アコースティック楽器によるカバーながら、オリジナルの曖昧模糊とした雰囲気を再現することに成功したなかなかの逸品である。成功の理由は、アコギ以下、マンドリン、ワイセンボーン、ダルシマー、ウクレレなど微妙に周波数の違う弦楽器をいくつか重ねて曖昧な音像を作り上げているせいだろう。揺れは弦楽器隊のスライド奏法を多重録音することでおそらく再現しているものと推定される。時折バイオリンらしき不協和音も入る。この他ピアノを重ねて、打楽器は控えめにし、その上にColin Blunstoneばりのスモーキーな男性ボーカルを載せる(曲によっては女性ボーカルも入る)。全体として良くできた音響系サイケデリックフォーク作品で楽しい。"Loveless"にはまったことのある者は一聴の価値ありである。

  こうして聴いてみると、オリジナルのディストーションが作り出す広い音域をどう再現するかがカバー作品のクオリティに直結することがわかる。再現する必要が無いという考えもあるが、メロディを浮きだたせるだけのカバーは凡庸にしか聴こえない。一方でスタジオワークに注意を払ったと思われるKenny Feinsteinはかなりいい線をいってると思う。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発展途上国の不正に着目した開発経済学の啓蒙書

2014-11-05 20:25:22 | 読書ノート
レイモンド・フィスマン, エドワード・ミゲル『悪い奴ほど合理的:腐敗・暴力・貧困の経済学』田村勝省訳, NTT出版, 2014.

  開発経済学分野の一般書籍。行動経済学的な観点を取り入れた発展途上国の貧困の分析であり、バナジーとデュプロの『貧乏人の経済学』(参考)に近い印象。原題は"Economic Gangsters: Corruption, Violence, and the Poverty of Nations"である。

  全体として特に結論があるわけではなく、いくつかのトピックにおける著者らの分析を紹介するものである。最初に、インドネシアの大統領スハルトの体調の変化から彼の親族が関係する会社の株価の動きを調べ、「権力者のコネの値段」を推計する。続いて、香港と中国の公式貿易統計を調べ、嘘の申告で関税をすり抜ける輸入品の額を探っている。こうした不正には税関も関与しているとのことだ。三つ目のトピックが白眉で、外交特権のため駐車違反を罰されることのない外交官の、実際の駐車違反の数と出身国の政治的腐敗度に相関があることを突き止める。文化は経済合理性を超える(特権は使ったほうが得なのに、腐敗度の低い北欧や日本の外交官はそうしない)というわけだ。これは国連本部のあるニューヨークでの駐車違反を元にしており、著者らの着眼に思わず膝を打ってしまった。後半四つの章はアフリカ(わずかにベトナム)の話。旱魃が魔女狩りという名の殺人や、ひいては内戦を引き起こす可能性が高いということで、降雨が少ない年に農民の収入を保障する保険の設立を提唱している。

  切り口鮮やかな前半と、有効な貧困対策を地道に探ろうとする後半ではややトーンが異なる。解説によれば、領域としては前半はフィスマン、後半はミゲルとのこと。もっとネタを集めてそれぞれの単著にするという手もあったはずだが、共著にしてできるだけ早く両者の研究成果を一般書籍にして大衆に伝えようと意図したのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする