29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

公立図書館における所有の利益と利用の利益(2)

2008-03-31 09:50:44 | 図書館・情報学
では、公立図書館サービスにおいて、「所有者としての利益」と「利用者としての利益」を同一視することに、なにか問題があるのだろうか?

議論は、所有者の利益が過剰に強調されるか、利用者としての利益が過剰に強調されるか、大きく二方向に考えられる。だが、図書館を所有することによるメリットはなかなか計量しがたい(学校を所有するメリットと同じである)。

そういうわけなのか、伝統的な議論では「利用者としての利益」が強調されることが多い。「住民が公立図書館を持つべき理由は利用者としてメリットがあるからだ」式の議論である。住民を説得する戦略として「利用者の立場」を強調したいという動機もあるかもしれない。

しかし、住民が公立図書館を所有する理由と、利用することのメリットが同一視されてしまうことは、誤解を招く可能性がある。住民に「利用することで納税分と引き合う」機関だとの認識を産んでしまう危険があるからである。そのため、図書館を持つ地域に住んでいても、それを利用しないならば住民として何の恩恵も得られていない、という印象を与えかねない。

これは、税金で道路を作ったからには、そこを走ることで納税分を取り戻そうという発想と同じである。しかし、道路建設は、人や商品の輸送が活発になることで、直接それを使用しなくてもメリットがもたらされることもある。だが利用者としての利益の強調は、後者の発想を難しくする。

同様に「公立図書館を持つ」意義を利用に求めると、図書館を利用しない多くの住民は「損をしている」ことになり、無駄な税金を払っていることになるだろう。

こうした認識は、公立図書館サービスの有料化、あるいは民営化という議論を呼び寄せてしまうだろう。「図書館サービスで利益を受けている奴だけが対価を払うべきだ」という。実際、米国での公立図書館有料化論の根拠の多くは、利用者が中流階級に偏っていることだった。この場合、公立図書館は、利用しない者にとっては何の恩恵も与えないだけでなく、納税という不利益をもたらす公共事業だとみなされているのである。

また「マイノリティにアクセシブルでない図書館は差別的だ」という異議申し立て(川崎氏がよく翻訳しているやつ)も、同じ認識にもとづくだろう。こうなると公立図書館の目標として、全住民に直接のサービスをすることに照準が合わせられなければならない。それは、間接的なかたちでもいいから、それを持つ住民に利益を与える、という発想からのサービスの編成を難しくしてしまうように思える。

日本では・・・また後ほど。
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公立図書館における所有の利益と利用の利益(1)

2008-03-30 23:45:43 | 図書館・情報学
「会社は誰のものか?」という問いにかこつけて、「公立図書館は誰のものか?」という問題を考えてみた。

「公立図書館は誰のものか?」と問われれば、「その図書館を設置した自治体の住民のもの」という答えが返ってくるのは容易に予想できる。「住民」が有権者なのか納税者なのか、それより広い概念なのかはここでは問わない。この認識は妥当だと思う。だが、これに続けて、「公立図書館のサービスは住民を直接の利用者として満足させるものでなければならない」という目標も引き出されてくる場合がある。これを「住民=利用者論」とする。

「住民=利用者論」がどれほど図書館関係者に影響力を持った考えなのかは別途調査が必要だが、個人的な印象を言わせてもらうと、1990年代に読んだ英語文献の多くでは「住民すなわちpatron」という認識がよく開示されていて、サービスをパトロンの需要に応えるよう編成すべき云々という話がよくでてきたように思う。日本でもよくある「公共機関は税金を払ってる人の言うことを聞かなくちゃ」ってやつだ。

この、財またはサービスを提供する機関の所有者と、その消費者が一致する、あるいは一致すべき、という議論は特殊なものである。例えば、株式会社の所有者は法的には株主ということになっている。彼らは、株式から来る利益で報われる存在であって、所有する会社が提供する財やサービスのユーザーとして満足させられるべきとは考えられていない。任天堂の株主の中にテレビゲームをまったくやらない人物がいても、矯正すべき事態だとは思われない。所有者としての利益追求と、利用者としての利益追求は別なのだから。ところが「住民=利用者論」は、それらが一致するという議論なのだ。

私企業では例が適切ではないかもしれないので、公的機関のアナロジーではどうだろうか? 公立学校は税金で賄われているが、利用者は学生・生徒に限られる。では公立学校は生徒やその親の要求に沿って教育内容を編成するべきだろうか? その答えは否である。子どもを持たない層への教育のための課税が認められる理由を考えてみるといい。理論上、公立学校が存在することの利益は、生徒やその親に限られない。読み書き算盤ができる人材、あるいは集団生活を営める人材が増えることは、社会全体にメリットを与える。だからこそ、義務教育を市場による供給に任せず、社会全体が所有者となって民主的にコントロールすることになっているわけである。

このように、ある機関の所有者の求めるものと、そのサービスの直接の利用者が求めるものが一致しない、ということは普通である。ところが、公立図書館の世界では、それを持つことの利益とそれを利用することの利益が同一視されてしまっているように感じられる。その影響については・・・また今度。
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能書

2008-03-28 21:10:20 | 索引 / 能書
  図書館・情報学研究についての思いつき、身辺雑記、読書ノート、音盤ノートなどを内容とします。
  タイトルは、昔参加していた秘密研究会の精神を引き継ごうとの意図からつけました。他のメンバーの名前は教えませんよ。

  (2012年4月18日追記)焼肉図書館研究会のサイトは今も死んでいるけれども、2010年に突如復活し、二年ほどの間共同研究の成果を発表して、また昨年末に眠りについた。

  (2014年12月26日追記)焼肉図書館研究会のサイトはFacebookで見られる模様。本当に肉を焼いています。メンバーはもうバレバレですね。
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