29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

正統派ミニマル音楽から喜太郎風、ペルシアン・ラブ風まで

2013-06-28 14:51:09 | 音盤ノート
Ashra "Walkin' the Desert" Navigator, 1990.

  プログレ。といってもバンド演奏ではなく、Manuel Göttsching(参考)とLutz Ulbrichの二人による様々な楽器を使ったミニマル音楽となっている。

  冒頭の‘1st Movement’は、高速で反復するピアノに控え目にシンセ音が絡むというもの。ライヒ直系の現代音楽としてしか聴こえない。次の‘2nd Movement’は、喜太郎風のシンセサイザー音楽で、前半は重たく音を敷き詰め、後半はマリンバ風のシンセ音が入り瞑想的になる。‘3rd Movement’は反復するエレクトリック・ギターの四重奏。茫漠感を感じさせる演奏で、この曲がもっともManuel Göttschingらしい。‘4th Movement’は、中近東風の歌と楽器演奏をサンプリングして、スピードを変えながら反復させるというもの。ホルガー・シュカイの‘Persian Love’(Holger Czukay "Movies" Mute, 1980所収)が思い浮かんだとしたら当たりである。最後の‘Dessert’はシンセ音をバックにいつものギターを繰り出す曲で、これも彼らしい作品であるものの短く終わってしまう。

  全体として全盛期にあった麻薬中毒者風のトリップ感は控え目で、かなりコントロールされた演奏に聴こえる。そのため、アク気は無い一方、押しも弱い印象。とはいえ、ミニマル音楽として純度の高いものもあり、器楽曲集としての面白さがある。個人的には、一曲目と三曲目はかなり良いと思う。
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未来は明るい。ただし、あくまでも人類レベルの話で国や社会層については不問

2013-06-26 18:46:09 | 読書ノート
マット・リドレー『繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史』大田直子, 鍛原多惠子, 柴田裕之訳, 早川書房, 2010.

  分業と交換によって人類は発展した、この原理を今後も守ってゆくべきだと説く内容。原題は、"The Rational Optimist"すなわち「合理的楽観主義者」である。著者は科学ジャーナリストで、このブログではすでに『赤の女王』(参考)と『徳の起源』(参考)を紹介している。二巻本だが予想されるほど長くはなく、合わせて600ページ弱である。

  著者は、分業と交換によって人々が相互に依存する社会を良しとし、対して自給自足は人間の理想ではなく、悲惨な貧困そのものだという。交易は農業にも国家にも先行する人間の基本条件であり(生得的とまでは述べてないが)、それがもたらす分業化は人間社会を豊かにしてきた。このテーマを、豊富なエピソードを使って論証してゆくのが前半の内容である。その過程で、交換によって人は他者を信頼するようになること、分業化にはある程度の人口密度が必要だということ(したがって著者はマルサス的な人口抑止論には懐疑的である)などが指摘されている。後半は、人類の将来への悲観論に対する反駁が述べられる。自由市場を維持し、政府による経済統制が無いほうが貧困は撲滅できること、人口問題や環境問題は深刻ではないことが主張されている。

  人類という単位でみると大変納得のゆく議論だろう。けれども、歴史の途上で滅んだり悲惨な目にあったりする民族や国家があり、あるいは自由貿易で不利を被る社会層もあるわけだが、そうした単位は考慮されていない。この点を瑕疵とみるかどうかで本書の評価は分かれるだろう。それでも、人類というレベルでの議論ならば、悲観主義者に対する合理的楽観主義者の議論はかなり強力であり、未来予想で負けるのは前者であると読者に思わせるぐらいの説得力がある。
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冒頭の曲は盛り上がるも以降はそこそこ。でも及第点だろう

2013-06-24 11:09:02 | 音盤ノート
Art Lande and Rubisa Patrol "Desert Murauders" ECM, 1978

  ジャズ。アート・ランディ率いるルビサ・パトロールの二作目。前作(参考)からドラマーが交代している(Kurt Wortman)ものの、他のメンバーは同じ。ECM未CD化作品の一つで、今のところ中古LPで聴くほかない。

  一曲目‘Rubisa Patrol’は、デイブ・ブルーベックの‘Blue Rondo A La Turk’を思い起こさせるエスニック風味のモード曲で興味を引く。その後を期待させるも、残念ながらA面二曲目、B面一・二曲目と地味なモード曲が続き、印象の薄い展開になる。そして、おおらかさを感じさせる最後の曲‘Sansara’で再び盛り返すという構成。演奏は悪くないし、それなりに聴かせる曲もあるのだが、突出したところがない。けれども、未CD化のままにするほど酷くもないというところ。ECMファンならば楽しめるはずである。

  バンドは今作の後、"The Story Of Ba-Ku"(Arch Records, 1979)の片面分を録音──もう半分はランディのソロピアノ──して解散する。これ以降ランディは客演中心の録音ばかりで、ソロでツアーを共にするようなコンボを組んでいないようだ。もしかして、ジャズ演奏家なのにライブが嫌いだったとか。
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ローカルルールは必敗するので、そんなものには頼るな、と

2013-06-21 14:06:41 | 読書ノート
橘玲『(日本人)』幻冬舎, 2012.

  日本人論。日本的だと思われている特性は実はそれほど特殊ではなく、日本人は経済合理的な制度設計を案外支持しそうだとほのめかす。様々な知見が現れては消えてゆく構成であり、まとまりは欠けているが、個々のエピソードはそれなりに面白いし、全体としての主張は『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』(参考)より理解しやすいものになっている。

  強引にまとめると、経済合理性の点でグローバリズムはローカルルールに優越する、ということである。両者の相克において、最終的にはグローバリズムが勝利することは確実である。なので、日本的ローカルルールに頼らない人生設計をすべきだと読者にすすめることになる。こう単純化すると、まるで一昔前の戦後民主主義のよう──普遍主義の立場から日本のムラ社会性を叩くというよう──で、多くのことが抜け落ちてしまうことも確かである。だが、端的にはそういうことだ。ただし、著者のいう「グローバリズム」は、経済合理性があるならばリベラリズムも保守主義も取り込んでしまうような融通無碍のものであり、意図してかリバタリアニズムと混同されるような書き方になっている。

  主張を支える根拠の一つとして、日本的特殊性に実は独自性はないということを挙げている。日本的特殊性は、ある段階の経済発展状態の国ならば普遍的に見られる現象にすぎないというのである。この指摘の意味は文中で十分展開されていないけれども、他国がそうした地域性を乗り越えてグローバリズムに接続しうるならば、日本もまた同様であり、「グローバリズムが許す限り」のローカルルールでしかやっていけないとする考えを導くと解釈できる。

  根拠の二つ目は、日本人は西欧と比べても権威に対する信頼が特段に低く、世俗的で現世利益志向であるという。多くの日本人は国家や共同体が嫌いなのだ。多くの日本人の人生態度は「食っていける方」につくだけである。なので、保守主義も福祉国家志向も日本人の支持を受けないと著者は予想する。勝利するのは「グローバリズム」、正確に言うと経済合理主義だというのである。したがって、そうした流れに合った生き方をせよ、といういつもの橘玲節となる。

  すなわち、日本人は結局皆リバタリアンなんだからそうやって生きろよ、というわけだ。ただ、個人における経済合理主義が必ず自由主義的な社会の発展を促すというのは踏み込みすぎのような気もする。経済発展が行き詰まって社会がゼロサムゲームのようになるならば、「出る杭を打つ」のが個人的には合理的である社会となる可能性も残されている。その点、与えられた経済状況ではなく、日本人の現在のメンタリティに根拠をおいて議論を展開することの危うさも感じる。でも、これは深読みのしすぎかもしれないが。
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現勤務校における高校訪問シーズン解禁・一年目

2013-06-19 20:55:31 | チラシの裏
  今年度異動した現勤務校でも高校まわりが校務として存在する。そのことについては、採用時の面接の際、このブログの過去記事(参考)をチェックしていた面接官からクギをさされていたことで、覚悟はしていた。短大に勤務していた時代は、高校訪問は悪い記憶しかない仕事だった。相手にしている時間が無いと高校側からやんわりと面会を拒絶されたり、所属とは違う別の科の入試のことで苦情を言われたり、借りた車を電柱にぶつけたりとさんざんだった。

  しかし、四大は違う。ちゃんと事前にアポを取って訪問する。そんなこと当たり前だと思われるかもしれないが、短大の場合アポを取ろうとすると断られるので、飛び込み営業が基本だった(参考)。また、四大の訪問校は教員一人あたり2~3校で、この時期だけみたいだ。前任校では一人あたり年間20校以上はまわっていた。しかも2か月に4校というサイクル。なので、こちらはとても楽に思える。中堅どころの四大って、こんな感じなのだろうか?

  しかもものすごくラッキーなことに、今年度は僕は担当者リストに入っておらず、どうやら高校訪問をしなくていいようだ。一方で、今年度同じく赴任してきた二人は二校ずつ回ることになっている。たぶん僕は「できない奴」と思われたのだろう。前任校での失敗の数々をもう少し吹聴しておくと、この状態は永く続くかな。まあ、弊害がある可能性もあるので、「適度に」だけど。
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未消化に終わったコンセプトを、演奏の質の高さで克服

2013-06-17 15:49:29 | 音盤ノート
Art Lande "Pubisa Patrol" ECM, 1976.

  ジャズ。ピアノのアート・ランディ(参考)をリーダーに、Mark Isham (Trumpet, etc), Bill Douglass (Bass, Flute), Glenn Cronkhite (Percussion)というメンバー。ECM作品でこの編成、しかも1976年というと、キース・ジャレット、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットを従えたKenny Wheelerの名盤 "Gnu High"(ECM, 1976)を思い出す。このアルバムは、 "Gnu High"組ほどソロの技量はないけれども、代わりに楽曲上の工夫で勝負するというコンセプトである。

  中国、ロマ、ブルガリア、コリント式といった語を含む曲名やクレジットなどから、民族音楽を取り込もうとしていることがわかる。しかし、旋法の面でのみそれらを消化しているのだろう、実際のところサウンドからはエスニックな感覚はあまり伝わってこない。全体の印象は、いつものECMらしい熱気ゼロの室内楽風静穏モードジャズである。楽曲は際立ったものになっていないものの、ランディとアイシャムのソロは、キレはないけれど十分にリリカルで聴かせるものになっている。そういうわけで、当初の狙い通りにはいかなかったが、ジャズ演奏としては上手くいった作品というところだろうか。

  この作品、2008年になってようやくCD化されたと思ったら、以降重版されないままずっと廃盤になっている。中古LPを探した方が安く入手できるだろう、たぶん。
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憲法におけるリベラリズムを徹底すると、国は右にも左にも向く

2013-06-14 20:07:00 | 読書ノート
松井茂記『日本国憲法』有斐閣, 1999.

 「プロセス的憲法観」に沿った日本国憲法解説の書。司法試験対策用の憲法教科書とは異なり、憲法各条の正統な説の解説に留まらず、異論も数多く併記されているのが特徴だろう。本書はむしろ異論の立場に立っており、憲法に関連して主張されている雑多な権利に優先順位をつけてみせる。著者は京大出身の法学者で、現在ブリティッシュコロンビア大学教授であるとのこと。なお2007年に第三版が出ているが、僕が読んだのは初版である。

  プロセス的憲法観とは、憲法とは統治の手続きを定めたものであり、憲法は価値にコミットしないとする考えである。価値が関わってくる社会問題については、国会等の民主的意思決定に委ねられるべきだとする。通説において憲法とは、人権として示される至高の価値を守るために、統治機構の権力を制限しようするものである。しかしながら、プロセス的憲法観は、国民の平等な政治参加をで確実に保障しはするけれども、その他の権利についてはあまり重視しない。プロセス的権利として参政権や表現の自由は重視される。一方で、生存権や教育を受ける権利、財産権などは、政治参加に無関係な非プロセス的権利として劣位に置かれる。それらの範囲は政治の場で判定されるべきものであり、憲法にわざわざ明記するものではないというニュアンスまで伝わってくる。

  すなわち、プロセス的憲法観とは、通説に残余していた価値観を完全に排除する、リベラリズムを徹底した憲法観である、と解釈できる。憲法から価値を廃した代わりに、価値判断は民主的意思決定に任される。その決定次第で、国家は資本主義体制にも社会主義体制にも、高福祉社会にも低福祉社会にもなりうる。こうした憲法が良いのか悪いのか僕には判断できないが、筋としては通っており理論構成も洗練されている。憲法入門書には向かないが、通説の説明に飽き足らない人には刺激になると思われる。
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若者ではなく非モテのための音楽、それがシューゲイズ

2013-06-12 15:17:34 | 音盤ノート
Monoland "Cooning" Supermodern, 2001.

  ロック。ドイツのマイブラ・フォロワーで、1998年にアルバム"Manouva"(Noiseworks Records)でデビューし、2001年にこの"Cooning"で一部の人たちの間で話題になり、2006年にアルバム"Ben Chantice"を発表。以降音沙汰なしで、きっともう解散したのだろう。メンバー四人の写真を見ると、生え際の後退したむさい野郎たちであることがわかる。

  湾曲する壁のようなノイズギターをバックに、抒情的なメロディを線の細い男性ボーカルがたどる、というのはもはやシューゲイズの王道だろう。だが、このバンドは曲の半分以上がインストというのが特徴である。インスト曲では、シンセサイザーを多用してシューゲイズ風の内省的なアンビエントを聴かせる。それなりに面白さもあるが、あまり期待されていないことに時間を割きすぎているという気がしなくもない。ボーカル曲の三曲‘De Pale’‘Motel Fumatore’‘Honolulu’はいずれもメロディがすばらしくクオリティが高いので、このスタイルでアルバムの8割を埋めてほしいところである。おそらく、メンバー内で路線対立があったのだろう。そういうわけで絶賛というわけにはいかないが、シューゲイズファンならば上記三曲は聴いてみる価値はある。

  シューゲイズには、楽器の技術皆無の若造が青春の美を表現するために選ぶジャンルという神話があるが、astrobrite、all natural lemon & lime flvors、letting up despite great faultsなどマイブラ・フォロワーの写真をじっくり眺めてみると、どうも違う気がする。むしろ、ルックスに引け目を感じている(はずの)非モテ男性が、ぐじぐじと世を嘆いたり現実逃避したりするために使用されているのではないだろうか。年齢は関係ないのだ。だからこそ、この僕も惹きつけてやまないのだろう。
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一万時間の努力は成功の必要条件、ただし十分条件ではない

2013-06-10 14:11:57 | 読書ノート
マルコム・グラッドウェル『天才!:成功する人々の法則』勝間和代訳, 講談社, 2009.

  世俗的な成功および失敗に影響する環境と文化について論じた一般書籍。原書は "Outliers"(2008) で、統計的な外れ値のこと。前半は才能をめぐる議論だが、後半は文化が行動に与える影響についての議論になっている。

  本書は、成功の要因として、生まれつきの能力ではなく環境や文化を重視する立場をとっている。たとえ才能があっても、一流になるためには一万時間以上の修練を積まなくてはいけない(一万時間の法則)。ビートルズやビル・ゲイツがそれに該当するらしい。また、家庭の養育スタイルが子どものコミュニケーション能力を伸長させるものであることも、成人して周囲からの協力を得るようになるうえで重要な要素であるとのこと。さらに、タイミングというものもある。例えば、プロスポーツ選手の多くは同学年の中での早い月に生まれているし、ビジネスの成功者は新しい産業の勃興期にちょうどそれにチャレンジできる年齢や社会的地位であるように生まれている──コンピュータ産業の大立者は1954年から55年生まれである、など。

  後半は、ユダヤ系アメリカ移民の成功譚や飛行機事故からわかる文化差の話で、簡単に言えば文化──国や民族だけでなく社会階層レベルのそれも含む──は行動を方向づけるということである。その中で、米国の小学生の中でも貧困層は、三か月ある夏休みを有意義に過ごすプログラムにめぐまれないために、休み明けに成績が落ちてしまうという指摘がある。一方で、東アジア諸国は休暇期間の短い学校教育制度だから国際調査で成績が高いのだ、と。要するに、長い勉強時間は良いというわけである。

  全体としては、成功というのは個人の才能だけに帰せられるものではなく、むしろ環境や文化が大きく影響しているのだという主張を展開する内容となっている。ただし、努力さえあれば才能は不要だとまでは言っていないので誤解なきよう。まあ、個人主義の強い欧米では新奇な考えかもしれないが、東洋人の世界では当たり前で受け入れやすいものだろう。マルコム・グラッドウェルは以前『ティッピング・ポイント』1)を読んだことがあるが、これも面白かった。話の運びがうまくて、かなり平易である。

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1) マルコム・グラッドウェル『ティッピング・ポイント:いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか』高橋啓訳, 飛鳥新社, 2000.
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荘厳さが増した一方で、柔らかさや暖かみが減る

2013-06-07 07:56:28 | 音盤ノート
Boards of Canada "Tomorrow's Harvest" Warp, 2013.

  エレクトロニカ。"The Campfire Headphase"(Warp, 2005)以来8年ぶりの新作である。先行発売された日本盤には、これまでのアルバムとは異なりボーナストラックが無く、スリーブ写真をカード化したものと解説が封入されているだけである。新作の情報が無い中での日本語解説は充実しておらず、ただのスリーブ写真をカードにするというオマケも涙ぐましい。日本盤発行元のBeat Recordsはマーケティングのためのアイデアに苦労したのだろう。

  音のほうだが、アルバム全編にわたっていつもの茫漠としたBOCサウンドが聴ける。変化としてやや荘厳さが増したことが挙げられる。Youtubeで先行公開されたtrack2‘Reach for the Dead’が典型的だが、シンセ音が神々しくかつ荒涼とした印象をもたらす一方で、揺らぎや歪み感は後退している。このため、以前ならあった柔らかさや暖かみをあまり感じさせない。「ClusterからPopol Vuhに接近した」と、譬えてもかえってわけがわからなくなるだけか。うーん、今作での輪郭のはっきりした音はこれまでの曖昧模糊とした魅力を消しているような気もするが、メロディセンスは以前より向上している。まあ、よく作り込まれた完成度の高い作品だとはいえるだろう。
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