29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

「主婦」こそが理想の市民かもしれないという逆説

2012-10-31 22:44:47 | 読書ノート
ロビン・ルブラン『バイシクル・シティズン:「政治」を拒否する日本の主婦』尾内隆之訳, 勁草書房, 2012.

  フェミニズム的観点からのシティズンシップ論。著者は日本の政治を専門とする米国の学者だが、大上段に構えた政治論を展開するのではなく、一見非政治的な日常生活から日本の政治状況を切り取ってみせる。1990年代初頭に練馬の主婦たちの中に入って観察し、彼女らの論理を再構成し、批評するという内容である。

  本書での主婦をめぐる議論は次のようである。職業的アイデンティティなどの外部にある者として「主婦」というラベルがあり、世間的にはネガティブに評価され、また主婦自身もそのように感じている。主婦は、家庭という私的な世界に引きこもった非政治的な存在として一般的にはイメージされる。このような見方に対して、著者は次のように評価を逆転させる。「主婦」ラベルは、生活水準に基づいた分断を回避させ、女性の連帯をもたらすメリットもある。また、多くの主婦たちはPTAなどのボランティアを積極的に担い、公共活動を担うアクターとして社会貢献している。彼女らの非政治性は、私的利害と遠いという点でクリーンである。もっとも、その非政治性が実際の政治参入において弊害をもたらしているという指摘もあるけれども。

  政治というのはそもそも利害を戦わせるものなのだが、主婦というのはそうした利害を超越することで倫理的優位に立つ存在だというわけである。その限界を十分認識しつつも、しばしば「現在抑圧されており、将来解放されるべき存在」と描かれる主婦像に、肯定的な意義を付与したところが面白い。主婦にメリットが無ければ、日本の若い女学生たちの多くが主婦になることを希望しないだろうしね。一点だけ、四六版で値段が税込4000円を越えるのは高いと感じる。
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電子化で存在感を増す国立国会図書館、公立図書館は様子見

2012-10-29 18:08:42 | 図書館・情報学
  松江での全国図書館大会雑感。日本図書館協会の著作権委員会と出版流通委員会の共同主催による、第8分科会「著作権法改正と、電子化資料と電子書籍」に参加してきた。前半は国内出版社による電子化(ただし、かなり国の支援を受けている)、後半は国立国会図書館による電子化という内容。前者は電子書籍市場を成立させるために巨額の投資をしている最中で、後者はその市場の外にある絶版書籍の電子化とその提供を始めつつあるということだった。商売になるものとならないもので棲み分けようというのが日本の電子書籍の方向である。それにしても、米国は民間主導なのに、日本は官主導であり、それがまた合理的に見えるというのはお国柄かもしれない。

  全体として、昨年(参考)に比べれば電子書籍サービスの方向がだいたい見えてきた印象である。ただ、図書館サービスの形態を考えているのも出版社側の人で、公共図書館側の人はその提供を待っているだけにように見える。けれども、そういった消極的態度になるのもなんとなくわかる。おそらく、電子書籍は全国の公共図書館を単なるゲートウェイとしてしまい、アーカイブ機能を不要としてしまうだろう。図書館員は、電子書籍分野では知識の管理者でなくなり、これまで以上の情報検索者になる必要があるわけだ。紙の本もしばらくは残るだろうし、新刊市場に流通する電子書籍に限っては、どの本のアクセスを提供するかという選書の問題はあるが。こうした見通しに基づいた新しい図書館員像の構築が求められている、と言ってはみるけれども...
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松江でお酒をださない店で食べようとする困難

2012-10-26 21:01:03 | チラシの裏
  図書館大会のために松江市に来ている。第8分科会に参加したのだけれど、その話はいずれ。こっちに来て苦労している食事の話をしたい。

  レストランが併設されていない安ホテルに泊まっているので、食事のために外に出なくてはならない。街中に飲食店は豊富にあるのだが、困ったことに居酒屋または小料理屋ばかりである。僕は基本アルコールを飲まない人間なので、そのような店には非常に入りにくい。昨日は松江に着いたのが遅くて、その時間に空いている店も少なかったので、意を決して「そばも出す居酒屋」に入ってそばだけを食べた。のだが、全体の量が少なくて困った。おまけに、客が数千円を使うことを期待しているようなこじゃれた内装の店で、1000円以下の食事で終わることの居心地の悪さも感じさせられた。

  次の日の今日は、快適な夕食の場所を探すために、ホテルで自転車を借りて街中を走り回った。市内にはどこにでもありそうなロードサイド店が全然無いことが分かった。もっとも市中心部を外れればあるのかもしれないが、街中はとにかく店の外に品書きも示さないような居酒屋だらけである。しようが無いのでそのうちの一軒に入ってお茶漬けを食べた。ついでに唐揚げも注文したのだが、運の悪いことに間違ったメニューが出てきた。やられたと思いつつも黙ってそれを食べたのだが、店を出るときの会計では元の注文の値段で処理された。この間、僕は一言もクレームをつけていない。店の人は気づいていたのだろうか?よくわからない。
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細かいことだが、録音された日が気になってしまう

2012-10-24 10:46:41 | 音盤ノート
Keith Jarrett "Sleeper:Tokyo April 16 1979" ECM, 2012.

  ジャズ。すでに巨匠の域にあるキース・ジャレットだが、この作品はキャリアとして中堅の頃にあたる1979年4月16日の、当時率いていたヨーロピアン・カルテットによる中野サンプラザでのライブ録音である。グループのライブ盤はすでに二つ──"Nude Ants"(ECM 1980)と"Personal Mountains"(ECM 1989)、いずれも録音は1979年──あり、曲はかなり重なっている。そういうわけで、話題作だったが個人的には興味がわかず、入手が遅れてしまった。

  発売順序からして、同じく4月の日本ツアーの公演の模様を録音した"Personal Mountains"の没テイク集ということになる。しかし、迫力はこちらの方が凄い。10分から20分以上の長尺曲が続く二枚組盤だが、静と動のメリハリをつけながらも、一貫して緊張度の高い演奏が続き、ダレるところがない。ジャレットも最近の演奏よりストレートな感情表現をしておりわかりやすい。また、マスタリング技術の向上のせいか、Palle Danielssonのベースがかなり明瞭に聴こえて、演奏に厚みを感じる。ただし、ガルバレクの出来だけは、ほんのわずかだが、先行するライブ作二枚のほうが上だと思う。

  気になるのが録音日。"Personal Mountains"のクレジットをネットで見ると、4/16と17日のライブ録音ということになっている。CDのスリーブにはそのような表記が無いのだが、これはいったいどこからの情報なのか。同じく4/16録音のこの"Sleeper"のテイクはそれと重ならない。この演奏時間で一日二公演はありえないので、"Personal Mountains"は全て4/17の録音と推測できる。そうだとすれば、演奏時間の点で4/17はかなりあっさり終わっているということになる。まあ未発表の演奏もあるだろうけれども。
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廉価盤CDについてとりとめのないこと

2012-10-22 19:12:18 | チラシの裏
  近年廉価盤CDをよく見かける。Real Gone JazzやNot Nowといった聞いたことも無いレーベルによる、1950年代から60年代初頭のジャズCD2枚組1000円とかのやつである。これらは、ホームセンターとかで昔売られていた出所の怪しいCDとは違い、ちゃんとAmazonやタワレコなど大手で扱われている。

  これらは権利関係はクリアしているのだろうか。日本の著作権の感覚で「著作隣接権が発行後50年だから1962年以前の作品は演奏者の許諾なしに発売できるのだろう」と考えていたが、そういうものでも無いらしい。そもそも米国のレコードの著作権には隣接権の概念が無く、レコード製作者は著作権者として死後50年、会社ならば発行後50年の保護期間を持つとのこと(現在は改正されてそれぞれ70年と95年!になっている。いつ頃がその切れ目なのかはよくわからない)。後者ならば許諾なしに廉価盤を作ることができるはずなのだが、その場合でも作曲者の権利とかどうしているのだろうか。

  そういえば滅茶苦茶な編集だった英国ELのJoão Gilberto初期三部作の再発(参考)も、それぞれ発行後50年経ってからの発表で、やはり権利切れを狙ったものだったのだろう。こうした推測が妥当ならば、来年にはビートルズの"Please Please Me"が見知らぬレーベルから安値でたたき売られることになるはずなのだが。
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個々の指摘は目新しくないものの、実証による裏付けが新鮮

2012-10-19 13:14:07 | 読書ノート
リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人 森を見る東洋人:思考の違いはいかにして生まれるか』村本由紀子訳, ダイヤモンド社, 2004.

  比較文化心理学。著者は米国の心理学者である。東洋人と西洋人の思考パターンの違いについて、アンケート調査や諸実験を参照しながら議論するという内容。指摘されている違いは、いわゆる日本文化論を読んだことのある人には目新しくないと思われる。しかし、それらにいちいち実証的裏付けがなされているところが新鮮だろう。

  著者は、西洋人の思考は単純であり、一つの要因による因果関係モデルで物事を捉えがちであるという。一方、東洋人は文脈依存的で、世界が複雑であることを認識しているがゆえに分析的思考を怠りがちだという。例えば、一枚の図を見たとき、西洋人は中心に据えられたモノに関心が向くのに対して、東洋人は背景まで含めた全体を見ようとする。また、西洋人はあるモノが動く理由をそのモノの内的要因に求めるのに対し、東洋人はそのモノを取り巻く状況に求める。前者は具体的な状況に抽象的な規則をあてはめ、後者は具体的な状況を個別のものとして捉えて一般化しない。それぞれの思考には一長一短があるとのことだ。

  そう指摘されると、なぜそのような違いが生まれるのかと問いたくなるが、そこはあまり詳しくない。言語の比較や学校教育における文章指導の違いについて言及しているものの、違いについての起源の議論は十分展開されているわけではない。第1章を古代中国と古代ギリシアの思想の比較に当てているところを見ると、歴史的に影響力を持った思想の違いに起源を求めているようにも見える。

  なお、本書の東洋人と西洋人のカテゴライズには弱冠の問題があり、第3章ではフランス人やドイツ人といった大陸ヨーロッパ人が「東洋人と西洋人の中間的傾向を示す」という論理的に奇妙なことが起こっている。著者のいう「東洋人」は、日本・朝鮮・中国の出身者を指す。一方、「西洋人」はほとんどアングロサクソン文化圏のことである。そういうわけで、英国文化圏と中国文化圏の比較だと思って読めば矛盾はないだろう。
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デザインにおいても機能においても優れた工業製品のようなジャズ

2012-10-17 09:51:50 | 音盤ノート
Paul Desmond "Summertime" CTI, 1968.

  ジャズ。イージーリスニング系またはラウンジ系のソフィスティケートされたジャズで、Don Sebeskyによるビッグバンド編成の流麗なオーケストラの上を、デズモンドの穏やかなアルトサックスがのるというもの。その心地良さは、羽毛で優しく肌をなでられているかのよう。ビートルズ作の‘Ob-La-Di, Ob-La-Da’だけは小学校の運動会で使われそうな能天気なアレンジで辟易だが、全体としては良くコントロールされた演奏で、完成度は高い。

  同時に、このアルバムを聴いてみて、デズモンドの評価が低い理由もわかる。大半のリスナーは、ジャズ初心者の時期にデイブ・ブルーベックによる"Take Five"で彼を知るが、その後は彼を素通りしてもっと「濃い」黒人ミュージシャンに関心を移すというのが王道パターンだろう。演奏は巧くて暖かみもあるのだが、聴き手の魂を掴みにかかってくるようなところがない。破綻の無い表現に終始していて、内面の振幅を見せない。こうした点が彼の信奉者の数を少なくさせているように思える。

  とはいえ、BGMとしての機能性は高い。この場合、スタイリッシュにまとまった演奏で、かつ聴き手の琴線に触れる部分が無いことは、長所である。こういう音楽もあるということだろう。ちなみに、僕が本アルバムを手にした理由は、静岡の中古盤店で100円のLPがたたき売られていたからである。そうでもなければ、関心を持たなかった。
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顔をめぐる良質なエッセイ、邦題には騙された感も

2012-10-15 08:22:00 | 読書ノート
ジョナサン・コール『顔の科学:自己と他者をつなぐもの』恩蔵絢子訳, PHP研究所, 2011.

  顔の表情をめぐる思弁的エッセイ。原著"About Face"は1998年の出版で、著者は英国の医学者である。監訳に茂木健一郎の名があるが、他に登場する箇所は無く、おそらく名前を貸しただけで何もやっていないと推測される。

  内容は次のようなものである。著者は、顔の表情とは内面の表出であり、また同時に内面を形成するという相互作用観に立つ。そこで、表情の読み取りや表情の形成に障害を持った様々な人々に、コミュニケーションの問題についてインタビューして、コンセプトを確かめてゆく。その上で、メルロ=ポンティやらウィトゲンシュタインと絡めてあれこれ思弁する。以上。

  ちゃんとデザインされた実証調査や実験は出てこないし、先行する説にも言及が無い。邦題にある「科学」とは言えない内容である。エッセイとしては、著者の真剣で誠実な人柄がうかがえて悪くないのだが…。
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叙情的でわかりやすい作品であるものの、どこか奇矯

2012-10-12 11:55:18 | 音盤ノート
Pharoah Sanders "Village of the Pharoahs / Wisdom Through Music" Impulse!, 2012.

  ジャズ。CDはインパルス2on1シリーズの一つで、1973年発表の二つのアルバムを一枚にしたもの。インパルス時代初期を支えたメンバーであるLonnie Liston Smith, Leon Thomasらはいなくなり、Cecil Mcbee(b), Joe Bonner(p), Norman Connors(d)ら知名度においてはパッとしない面子が演奏者として並ぶ。ただし、アルバム"Village of the Pharoahs"においては数曲で、Stanley Clark(b)とMarvin Peterson(トランペット奏者だがこのアルバムでは打楽器担当)の名が見える。"Wisdom Through Music"になると、Babadal Roy, James Mtumeという電化マイルス組の打楽器奏者が参加している。

  作風もインパルス時代初期から変化している。初期のアルバムは1曲20分前後の長尺演奏を二曲収録というパターンだったが、この二つのアルバムは5分前後の短い曲中心の構成となっている。例外はTrack 1から3を占める‘Village of the Pharoahs’で、コルトレーン‘Ole’風のモーダルでおどろおどろしいナンバー、演奏は15分を超える。全体として、乱打される打楽器とインド~中近東風のフレーズが作り出すサイケデリックな感覚は引き続きそのままであるものの、フリー的な場面がほとんど無くなり、アフリカ風またはソウル音楽風のコーラスを絡めながら、メロディアスなテナーまたはピアノを聴かせるという演奏になっている。

  そういうわけで意外にもとても親しみやすい。しかし、どこか奇矯さも感じる。特にボナーのピアノが前面に出る曲では、彼の熱いリリシズムがベタ過ぎ、聴いている方が赤面するほどである。同様に、ファラオ御大のテナーも、時折とてつもなくわかりやすいメロディを繰り出す。やりすぎというか、過剰なのである。自己の暴力的な感情を抑制したら、もう一つの内面であるリリカルな感情があふれ出てしまった、そういう印象もたらすアルバム。この路線は、次作"Elevation"(Impulse! 1973)でさらにエスカレートする。
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科学の発展を通してみた宇宙史・地球史・生物史・人類史

2012-10-10 10:27:37 | 読書ノート
ビル・ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』楡井浩一訳, NHK出版, 2006.

  一般向けの科学ドキュメンタリー本。宇宙史・地球史・生物史・人類史を手短に──といっても邦訳は600ページを超えるが──記した内容で、科学的発見についての歴史という面も備えている。著者は旅行記や英米の比較文化が専門のユーモア系作家で、サイエンスライターではないようだ。そういうわけなのか、膨大な量の一般向け科学書の文献調査と現役科学者への取材をベースとした記述となっており、先取権をめぐる科学者間の争いについても面白可笑しく書かれている。

  本書を読めば、科学的発見の多くまたはその議論の収斂はここ300年ほどの間に、特にそのほとんどは20世紀になされたことがわかる。加えて、そうした発見に絡む科学者たちは奇人変人ばかりだであるが、これには著者の誇張もあるかもしれない。通常の宇宙史や人類史ならば、そこに記載されている科学的事実を誰がどのように発見したかという話は参考文献のリストに追いやられるところである。この本は、それを本文に取り込んで展開し、科学の営みを垣間見せてくれる。地球に対する人類の無知や環境破壊に関する指摘にはちょっと説教くさいかなと感じるが。

  筆致は軽妙だが、登場人物は多く、また解説する事象も多岐にわたる。そして長い。そのため、読みやすく書かれているとはいえ、それほど気楽に読めるわけでもないのが難点だろう。
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