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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

自殺についての科学的考察だが、かなりの部分はエッセイ

2021-03-28 07:00:00 | 読書ノート
ジェシー・ベリング『ヒトはなぜ自殺するのか:死に向かう心の科学』鈴木光太郎訳, 化学同人, 2021.

  自殺をめぐる考察。いちおうポピュラーサイエンス本ではあるものの、このテーマの最新研究成果を通覧して一本のストーリーにまとめたというには内容が薄い。かなりの記述が著者の体験記と取材に基づいていて、エッセイ的である。著者は肩書としては認知心理学者であるが、実験系ではなく思弁的なタイプのようだ。原書はSuicidal: why we kill ourselves (University of Chicago Press, 2018)である。

  前半1/3ぐらいは「自殺は進化における適応の帰結か、進化の副産物でありバグにすぎないのか」という問いに取り組んでいる。それぞれを支持する現象も、否定する現象もある。明確にどっちと判定されないものの、ここまでは面白かった。中盤は、自殺に至るには六つのステップがあるという説を紹介して、自殺者の遺書を例示してその妥当性を示そうとする。だが、ステップの分け方は粗削りかつまだ検討の余地ありという印象で、遺書の分析も冗長に感じた。後半1/3は、自殺に対する社会の反応や見方で、文化論となっている。これらについて解説される間、著者自身の鬱経験や、近親者が自殺した「残された家族」への取材が入ってくる。心を揺さぶられるところはあるものの、自殺を科学的に理解するという目的からは脱線している。

  以上。全体してはエッセイ部分を削って、もっと新しい科学的情報がほしい、という印象だ。自殺の研究に興味があるならば、少々古いものの、本書でもよく引用されているジャミソンの『早すぎる夜の訪れ』(新潮文庫版では『生きるための自殺学』)のほうがいいと思う。というか、ジャミソン著の悪い部分に影響を受けすぎて上のような書き方になってしまったということなんだろう。
  
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脳の可能性と限界を見極めたうえでの学習論

2021-03-24 07:00:00 | 読書ノート
スタニスラス・ドゥアンヌ『脳はこうして学ぶ:学習の神経科学と教育の未来』松浦俊輔訳, 中村 仁洋解説, 森北出版, 2021.

  学習は、いったい脳のどのような構造を基盤としているか、およびどのような脳内プロセスで実現されているかについて論じた一般書籍。著者は『意識と脳』(紀伊國屋書店, 2015)などの邦訳のあるフランスの脳神経学者。本書のオリジナルはフランス語で書かれているが、邦訳は英語版How we learn: why brains learn better than any machine . . . for now (Viking, 2020)からである。教育関係者には超おすすめの本だ。

  脳の可塑性は強調されがちだが、数を扱う脳領域や文字を扱う領域は誰でも一緒であり、構造的に決まっている。一部機能が失われ場合に新たな領域が使われることがあると言われるものの、その移転の仕方には法則性がある。また、知られていることだが、学習効率が高まる年齢期は限られている(感受期および臨界期など)。適切な時期に適切なインプットを得られなければ、その後で学習によって多少改善することはあるものの、適切な時期に学んだ人物と同程度には到達しない。すなわち、脳には生得的な制約があり、楽天的に考えすぎてはいけないという。

  とはいえ学習に都合のよい脳構造もある。そもそも何を学習すべきか、誰の言うことを信用すべきか、個別具体例から適切に推論する能力、間違いを修正する能力などの基盤は、あらかじめ備わっている。事前にプログラムされているため、AIによる機械学習より脳はずっと効率的に学ぶことができるようになっている。加えて、生まれつきの基盤があるにしても、学習によってより高いレベルの概念獲得や理解ができるポテンシャルを脳は備えている。一方で失うものもあって、文字を覚えると同じ脳領域を使用していた顔認識機能が追い出されてしまい、顔を見分ける能力が弱まるそうだ。

  「学習者自らの興味関心に従って課題を発見し、新しい概念を身に着ける」という意味での発見学習や構成主義は明確に否定されている。最終的に正解が指示されないトライアンドエラーによって、子どもがなにか適切な概念を身に着ける可能性は低いという。子どもは大人を適切に模倣するようにできているので、大人による説明や例示は学習において効率的である。大人や先生の役割は、子どもが学ぶうえで非常に重要なのだ。ただし、大人がアホなことをすると子どももマネしてしまうので、批判的思考も育んでおくことも必要だとのこと。

   続いて、学習者向けのアドバイスである。「人によって適切な学習スタイルがある」というのはウソ、マルチタスクは効率が悪い、時間を置いた学習やエラーチェックのための頻繁なテストは効果的、ちゃんと睡眠をとれ、ということだ。『使える脳の鍛え方』や『教育効果を可視化する学習科学』とそう変わらない。本書のポイントは、なぜそうなのかについての理論的説明を展開しているところだろう。

   最後の章は、学習者ではなく先生や教育行政関係者に向けた提言もある。13ヶ条があるが、学習のための環境を整え、子どもの意欲を引き出すコミュニケーションをとれ、というものだ。学習に適した年齢についても強調されている。一昨年、フランスの義務教育開始年齢が3歳に変更されたというニュースを読んだ1)。仏政府のこの決断には、コレージュ・ド・フランスの教授という著者の影響があったということはないのだろうか。

1) Asahi Shinbun Globe + (2019.9.7)「義務教育のスタートを早めたフランス 3歳から全員に同じ教育を」
  https://globe.asahi.com/article/12688515



  
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我々は「人は騙されやすい」という言説に騙されている

2021-03-20 07:00:00 | 読書ノート
ヒューゴ・メルシエ『人は簡単には騙されない:嘘と信用の認知科学』高橋洋訳, 青土社, 2021.

  認知科学。著者は、『表象は感染する』(新曜社, 2001)のダン・スペルベルの弟子筋の研究者である。フランス人だが、原書は英語のNot born yesterday: the science of who we trust and what we believe (Princeton University Press, 2020)である。

  人は騙されやすいという流布した説とは異なって、著者はむしろ騙されにくいと主張する。サブリミナルは効かない。大半の詐欺行為は失敗している。その理由は、有益なメッセージを進んで受け入れると同時に有害なメッセージを拒否するという「開かれた警戒メカニズム」が進化によって人間に備わっているからだ。その開放性は、他の動物と比べて、多様で変化する環境に適応する能力を人間に授ける(本書では特に雑食動物であることからくるリスク対処が挙げられている)。同時にまた、行動が致命的な失敗とならないよう、自分の周囲の現実レベルを基準とした妥当性のチェックや、推論によってチェックする警戒メカニズムも作動する。

  ではなぜ、人は騙されやすいように見えるのか。その理由は次のようなものだ。嘘と関わる認知面での信念体系には二種類あって「直観的」信念と「反省的」信念とがあるという。前者は身の回りの世界で、後者は身近でない世界、すなわちテレビニュースや本の内容、ぐらいに考えればいい。開かれた警戒メカニズムは前者に関連する嘘に対してはよく機能するという。が、後者は生存に関係ないので十分にメカニズムが作用しない。それを保持していても現実からしっぺ返しを受けるわけではない。また、ケースによっては信じていないのにデマを受け入れるということもある(思いつく例だと、戦前の日本人が「天皇は現人神である」という言説を受け容れていたように)。成功しているデマは必ずしも信じられているわけではなく、別の事情で反論されない(例えば反論すると迫害されるとか、あるいはどうでもいいと思われている)だけだという。

  「そうだとしてもフェイクニュースに騙されて迷惑な行動する奴はいるじゃん」という疑問に対しては、「彼らはそもそも迷惑な行動をする動機が先行してあって、都合のよい情報を受け容れているだけ」だという。また、詐欺師がよく使う手は、とうていありえそうにない設定で網をかけて、引っかかった人間(すなわちトンデモ話に対しても警戒メカニズムが作動しない人間)をターゲットにして、後で集中的に搾取するというものだという(クヒオ大佐とかか?)。ただし、騙されやすさは必ずしも頭の悪さに対応するわけではなく、トンデモ学説を信じるインテリもいる。結局、警戒メカニズムは生得的に備わっているものの、ある情報を信用するかどうかの識別力は結局トライアンドエラーによって高めてゆくしかないとも指摘されている。

  以上。ベースとなる部分は納得するものの、個人の経験がもたらす違い(つまり、警戒メカニズムがありながらなぜ騙される人間がいるのか)についての説明はあまりない。さらなる検証待ちなのだろう。ただし、不十分な論点があるというだけであって、全体の論理展開はそれなりにまとまっている。説明のために挙げられている例もなかなか面白い。個人的には、「ちょっとした表現の変更で受け手の行動を変えられる」という慣れ親しんた選択アーキテクチャ論の認識と距離があるため、十分咀嚼できていない。著者には行動経済学と対決してほしいと思う。
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世を支配するランキングとどう付き合っていくべきかについて考える

2021-03-16 08:26:34 | 読書ノート
ペーテル・エールディ『ランキング:私たちはなぜ順位が気になるのか?』高見典和訳, 日本評論社, 2020.

  ランキングについて考察する一般向け書籍。著者は1946年生まれのハンガリーの科学者で、複雑系やコンピュータ神経科学を専門としている。2000年代からは米国の教養大学でも教えているとのことで、ハンガリーと米国を行ったり来たりしているようだ。原書は、Ranking: the unwritten rules of the social game we all play (Oxford University Press, 2019.)である。

  最初の章で「ランキングは客観的なものではない」と釘をさされる。ならばなぜランキングが気になるのか。その答えは、それが秩序を生み出すからだというものだ。にわとりのpecking orderの例が挙げられ、階層を作ることで群れの中での競争を小さく抑えることができるという。そうすると、人間社会においてはどのようなランキングが有益となるか。かつては力の強さが重要だったが、民主主義社会はそうではない。客観的に測ることのできるメリトクラティックな指標、しかも複数のものを組み合わせることが望ましい。けれども「指標の選択」と「複数の指標間の重みづけ」のところで主観的な要素が入る。また、能力や業績を比較できるような指標とするという事態にもバイアスがある。どうしても曖昧な部分は残り、そこを突いた戦略的な対応や人為的な操作が可能となってしまう。

  というので、後半の章で、信用スコア、国別の幸福度とか自由度とかのランキング、大学ランキング、科学者の評価、レコメンド、芸術界の評判メカニズムなどについて検討される。最終的に、ランキングはある程度は気にしたほうがよく、その位置を改善するための努力をしたほうがよいと著者はいう。アートの世界を分析した章では「8割の時間をマーケティングに使い、残りの2割を芸術家本来の活動に用いる」とのアドバイスがある。ランキングには問題があるが、役に立つところもある。それを捨てるわけにはいかないなら、うまく付き合っていくしかないでしょ、というスタンスである。

  以上。個別のトピックについてはあまり深掘りされていない。個人的には、取り上げた個々のランキングが使う数値指標を検討して、どのあたりに主観的な要素が入り込む余地があるのかを示してほしい、と思った。あと、さんざんランキングが信用できないという話をしておいて、上に記したスタンスで結論をまとめるのはどうかとも思う。まあ、枝葉末葉の話題を避けて、広い領域にわたるトピックをコンパクトにまとめたという評価もできなくもない。ランキング重視についての戒めの書であって、ランキングのメカニズムに詳しくなれるという本ではない、このことを心得て読むならば有益だろう。
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すでに既知なことも多い暗黒スウェーデン論、逆にその宣伝のうまさを学べ

2021-03-12 07:00:00 | 読書ノート
近藤浩一『スウェーデン 福祉大国の深層:金持ち支配の影と真実』水曜社, 2021.

  スウェーデン滞在者による内情報告。著者はエリクソン社の社員だそうで、タイトルと帯が匂わせるようにスウェーデンの否定的な面を伝える内容となっている。著者も含めて現地在住日本人には「スウェーデンは理想郷のように語られがち」という認識があるみたいだが、最近はだんだんその肯定的なイメージは薄れてきてはいる気はする。日本語のニュースを読むとスウェーデンは治安が悪化していることが伝えられているし、英語圏のニュースでも新型コロナへの対応はかなり悪く書かれていた。「図書館職員に対する暴力の増加」という報道もある1)

  というわけで、すでに知ってたという話がけっこう多い。武器輸出大国だとか、公的医療の供給をかなり絞っているとか、レイオフが頻繁だとか、移民が多いとか、暴力事件が多発しているとか。もちろん、はじめて知った話もある。潤沢な資金援助のある先端領域を除けば、教育や医療のレベルは日本ほど高くはないらしい。一般大衆はあまりいいサービスを受けられていないとのことだ。あと、平等というイメージとは裏腹に、国の資産(主に企業の株式)を握る家系というのが15家ほどあって、国内経済を支配しているとのこと。格差社会である。一方で、書かれていないこともあって、労働市場における男女の分断(公的セクターに女性の雇用が偏っていること)といった、国規模での性別役割分業については詳しくない。とはいえ、かの国が肯定的に語られやすいのは確かだろう。それは、環境保護や女性の地位向上の面でのちょっとした試みを、さも大きな前進かのように見せかけることには長けているからだという。

  以上。本書で否定的に評価されたところ──医療面での公的支出の抑制とか、レイオフが容易だとか──は、必ずしも悪とは言い切れない面もあって、その辺の分析がほしいと思った。むしろ、対外イメージ戦略の成功を考えると、逆に日本もこれくらい宣伝をうまくやれよという気持ちになる。ただ、治安の悪化は看過できない失敗だろう。報道されているほど深刻ではないという人もいるようだが、かつてと比べて悪くなっていることは確かなようだ。

1) Librarian alarm : Violence and social unrest increase - drug trafficking is open / Teller Report
https://www.tellerreport.com/life/2019-09-24---librarian-alarm--violence-and-social-unrest-increase---drug-trafficking-is-open-.SyLCTMDvr.html
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ある意味でアメニティの良さと視認性の高さを重視する書店論

2021-03-08 07:00:00 | 読書ノート
矢部潤子『本を売る技術』本の雑誌社, 2020.

  小売書店の売り場管理について細かいノウハウを伝える一般書籍。芳林堂・パルコブックセンター・リブロに勤務してきた著者に、これまた書店勤務経験のある本の雑誌社所属の編集者がインタビューするという構成となっている。各章毎に、日本の出版流通システムについて解説したコラムも付されている。

  書棚や平台における本の並べ方や置き方、破損を避ける本の扱い方、在庫と返品の考え方、特設スペースやポップの使い方など、40年に及ぶ著者の経験に裏打ちされた見解を知ることができる。ただ「書籍を手にとりやすくするために背を書棚から5mm出す。そのために棚奥に適切な大きさのあんこ棒(空箱)を置く」といった、こまごまとした話が続く。このため、著者がどのような店を目指しているのかという理想像が掴みにくいきらいはある。記述から勝手に推定すると「来店者がリピーターとなり、彼/彼女はジャンル毎の書棚の位置や、新刊やフェア中の書籍が置かれている平台の場所が分かっている。書籍は美麗に陳列する。店の見識を示すために書棚には定番書籍を残しつつも、平台のほうは顧客が来店時に毎回新鮮さを感じられるようできるだけ入れ替える。売れる見込みのない本の返品に躊躇してはいけない」というイメージだ。

  売り場管理に対する著者の細やかな配慮には、そこまで考えるのかと読んでいて感心させられる。書店員には参考になるだろう。ただまあ、その一部は過剰な配慮という気もしなくもない(すべてがそうだとは言わないけれども)。客の立場から言えば、読みたい書籍が本屋にあるかないかなんだよね。そうすると品揃えの話が重要になるが、本書では短期の売上が重視されている。商売なんだからそういうものなんだろう。
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建物だけではなく石垣と堀も吟味する日本のお城研究

2021-03-03 08:55:22 | 読書ノート
千田嘉博『城郭考古学の冒険』(幻冬舎新書), 幻冬舎, 2021.

  日本のお城研究。織豊期から江戸時代にかけての城郭の変化を説明するだけでなく、権力者の統治スタイルまでをも読み解こうとしている。著者は奈良大学の先生で、古文書だけでなく城跡の発掘による知見も新たに加えることによって「城郭考古学」なる領域を切り開いた人とのこと。他の著作に岩波新書で『信長の城』(2015)がある。本書は書下ろしではなく、2010年代に発表された雑誌記事をまとめたものである。

  城郭考古学は、天守閣などの建物以上に石垣・堀・曲輪の構成を重視する。かつて「城」とは、戦国時代には防衛のための砦であった。松永久秀や明智光秀が作った城を検討すると、本丸にあたる中心的な曲輪は簡素であり、突出して豪華に建築されていたというわけではないという。この事実から著者は、これらの氏族は、当主がいるにしても基本は家臣団の連合体であって、当主と家臣の関係は織豊期に比べれば平等だったのではないかと推測する。これが織田信長によって、山頂に高層建築、山腹に家臣団の屋敷、ふもとに城下町という構成でされることで、城主の抜きんでた力を誇示し、階層化された秩序を示すものに変えられていったという。

  以上が基本線となるストーリーとなる。このほか、失われた豊臣秀吉の城(オリジナル大坂城や聚楽第)、徳川家康の城の特徴(西洋の城とも共通する「馬出し」なるスペースを作ったという)、モンゴルほか海外の城、石垣や堀・経路などから見る城郭の鑑賞の仕方、地方自治体に対する城郭整備・保存事業へのアドバイス、などが書かれている。福知山城の石垣には墓石が使われている、名古屋城の石垣は痛みはじめている、などの具体的な指摘も「へぇー」となる。城マニアならば楽しめる。加えて、町おこしに城跡を用いようともくろむ自治体関係者も読んでおいたほうがいいと思う。
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