29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

2000年代初頭就職氷河期時代の楽しき渋谷系音楽

2021-08-31 11:27:23 | 音盤ノート
Melting Holidays "Cherry Wine" Sucre, 2002.
Melting Holidays "Seven Favorites" Sucre, 2003.

  渋谷系。Melting Holidaysについては3rdの"Pop Go The Happy Tune"の項参照。以下で言及する"Cherry Wine" は1stアルバム、"Seven Favorites"は2ndアルバムで、それぞれ30分程度、24分程度の再生時間である。

  ラウンジ音楽やソフトロックをベースとしている点は三枚とも変わらない。「誰か別の人の曲で聞いたことのあるフレーズを多少変化させて使う」というところも同様。微妙に違う点として挙げられるのは、"Cherry Wine" は打ち込みとシンセ音がそのまま提示されている印象で、ハウス感が強いことである。機械音は"Seven Favorites"になるともう少しマイルドになるが、大きな変化とするほどではない。なおそれぞれ、ゲストミュージシャンによる人力演奏部分があるにはある。Pop Go The Happy Tuneになると人力によるカッティングギターと厚いコーラスが加えられて、(打楽器を別にすれば)バンド的な音楽になる。大きな違いは、1stと2ndではボーカルがタケモトケイで、カヒミカリィ直系のウィスパー・ロリボイスを聴かせることである。好みがわかれる、と言いたいところだが、ボーカルに関してはどちらも良いと思う。ギター演奏と厚いコーラスの点で、個人的には3rdに軍配を挙げたい。

  オリジナルアルバム収録曲以外にも、コンピレーション収録曲がいくつかあって、現在入手不可能になっている。もったいないので、本人たちがYoutubeチャンネルを持つなりSpotify契約するなりして広く聴けるようにしてくれることを期待する。CDが再発されればなおよし。 
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膨大な数のタイトルに言及する日本マンガの通史

2021-08-26 09:45:11 | 読書ノート
澤村修治『日本マンガ全史:「鳥獣戯画」から「鬼滅の刃」まで』(平凡社新書), 平凡社, 2021.

  タイトル通りのマンガ通史。20年以上前に呉智英の『現代マンガの全体像』(双葉文庫, 1997)と四方田犬彦の『漫画原論』(筑摩書房, 1994)を読んで以来、個人的にはこの分野の知識を更新してこなかった。最近になって大学間の国際交流の席のネタに『鬼滅の刃』が使われたことがあって、日本人として漫画史を理解しておく必要があるだろうということで読んでみた。著者は編集者出身で、現在は淑徳大学で教えているとのこと。

  セールスやその後の影響力、受賞歴、重要な評論家の言及度合いなどを基準に重要な作品をピックアップし、歴史を編んでいる。著者自身による作品への評価は抑制的であり、また表現のスタイルや技法についての詳しい分析もない。この点で、事実の羅列ばかりでそっけないという印象を受けるかもしれない。しかし、重要作の簡単な紹介を積み重ねているだけだとしても、マンガの潮流を読者に理解させるという目的はちゃんと果たされている。例えば、貸本マンガから青年マンガという流れがあることや、少女マンガの影響を受けて少年誌のラブコメが生まれた(高橋留美子の諸作品)などと指摘される。このように、マンガが下位ジャンルに分化してゆくだけでなく、ジャンル間で相互に影響しあって新しい試みを生み出してゆく経緯が描かれている。加えて、少年週刊誌間にある編集方針の違いの話も面白かった。

  というわけで通史として成功していると思う。10年に一度ぐらいの頻度で改訂して、末長く教科書として使われてゆくべき書籍だろう。そう考えると、年表だけでなく索引も欲しいという気がするのだが、ページ数が多くなりすぎるだろうか。
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渋谷系のなかでもラウンジ・ポップ寄り、溢れ出る多幸感

2021-08-23 10:10:24 | 読書ノート
Melting Holidays "Pop Go The Happy Tune" Aar, 2005.

  渋谷系の落穂拾い。Melting Holidaysは2002年ぐらいから2007年まで活動していた男女デュオで、渋谷系といっても全盛期が過ぎた2000年代に活動していたマイナーアーティストである。アルバムが三枚発表されているが、最初の二作の女性ボーカルと最後となる今作のボーカルは異なる。また、作曲者のササキアツシは、音楽評論家の佐々木敦と別人だ(たぶん)。この人、素晴らしい才能があるのに今は何やっているのか。

  渋谷系といってもソウル系とネオアコ系といろいろがあるが、このグループはボサノバやらA&Mやらを想起させるラウンジ系が主で、ソウル少々という感じである。コーネリアスの1stやSaint Etienneを想起させる、と書いてもわからないかもしれないが。男声のオーバーダブによるバックコーラスは、大瀧詠一や山下達郎の伝統を感じさせる。特に高く評価したいのは、アレンジ負けしない良質なメロディがあること。渋谷系にカテゴライズされるミュージシャンは、コードワークや編曲に長けているけれどもグっとくるメロディを書けないことが多い(個人の感想です)。この点でMelting Holidaysのセンスは非常に優れている。なお、本作からボーカルがササキシホに替わっていて、鼻にかかった高く幼い声を聴かせる(なお作詞やコーラスのクレジットには前任者のタケモトケイの名前も残っている)。

  総じて、憂いや陰りを感じさせない音楽で、リア充の若者(相思相愛で小金を持っている!!みたいな)のきらめくような幸福感が溢れ出ている。それでいて馬鹿っぽくならないというのが稀有かもしれない。歳をとってみると「そんな若者は現実にはほとんどいない」ということがわかってくるのだけれども、この音の場合、リアリティは重要ではない。むしろ、非リアを現実逃避させて快楽をもたらすよう機能することが重要だろう。

  なお下のYouTubeリンクは非公式のアップロードのようである。

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日本人の名前はなぜ現在のような形に変化したのか

2021-08-17 14:50:43 | 読書ノート
尾脇秀和『氏名の誕生:江戸時代の名前はなぜ消えたのか』 (ちくま新書), 筑摩書房, 2021.

  日本人の名前がどのような経緯で現在のような形になったのかについて探る内容。ただし、話は古代からではなく江戸時代からスタートする。江戸時代では、武士および庶民の名前のルールと、古代から続く貴族の名前のルールの二つが併存していた。それが明治維新となって、王政復古の掛け声とともに、後者が前者を駆逐するエネルギーが与えられた。しかし、名前のルールは平安時代に戻ったのではなく、まったく新しいものになったという。

  江戸時代の名前の要素としては、苗字+個人名+姓+爵位+名乗+雅号があるという。本書の155頁の例だと、下村+熊蔵+橘+朝臣+兼定(雅号はなし)という具合である。このとき、姓とは属する一族のことであり、苗字(=氏)とは異なる。で、武士の名が公式文書に記録されるようなときは、個人名に官職名(尾張守)を普通使ったとのこと。同時に官名もどきも広く流布していたらしく、官職を持たない者が個人名として使った(「源左衛門」とか)。現在の歴史の教科書において氏名のうちの「名」の部分と解釈されている「名乗」など(島津斉彬の「斉彬」など)は、日常で広く使わるものではなかったらしい。苗字や個人名部分の改名は自由で、また同時に場面に合わせて個人は複数の名を持つことができた。

  一方で、京都の貴族の世界では、名前とは苗字と名乗をベースとするものであって「変わらないもの」であり、官職名や爵位を表す部分は名前そのものではなかった。こうした思想が明治維新によって勢いづくことになり、公務員の職位の解釈の混乱を避けるため、および徴兵逃れを避けるためといった理由で、私的にも公的にも使用される変化しない人物のラベルが求められることになった。官職を名前とすることも禁止された。これらの改革によって、「苗字+名前」という形式が一般的となった。名前部分には、江戸時代における個人名または名乗の二つが流れこんでいるという。

  以上、類書があるのかどうか知らないが、新書や文庫のレベルでは目新しいテーマである。昔の名前がどういう規則で構成されていたかというだけでなく、なぜ現在の形に収まったかまで詳しくてためになる。著者は江戸時代の混乱した名前の規則でも別に良かったのではないか、という立場をとっているのだが、これには同意できないなあ。固定した名前となることによって、個人をアイデンティファイしやすくなった。そのおかげで、近代の秩序維持や福祉国家が可能になっているのではないだろうか。とはいえ、全体の内容が面白くておすすめである。
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「情報」概念を禁欲的に整理し、風呂敷は広げない

2021-08-14 09:56:26 | 読書ノート
ルチアーノ・フロリディ『情報の哲学のために:データから情報倫理まで』塩崎亮訳 ; 河島茂生訳・解説, 勁草書房, 2021.

  情報概念を整理する入門書。議論それ自体は難しくないが、分野横断的で章をまたぐたびに新たな概念が出てくるので、頭を整理しながら読む必要がある。著者のフロリディはイタリア出身イギリス在住の情報哲学者で、あちらではそれなりに知られているらしい。だが、邦訳はまだ少なく、本書でようやく三冊目となる。なお原著 Information (2010) は、オックスフォード大学出版局のVery Short Introductionのシリーズの一つとして発行されている。

  「情報」はさまざまな分野で使用される語であり、計算機工学、意味論、物理学、経済学、遺伝学、神経科学などそれぞれの領域で指すものが微妙に異なっていたりする。これらの違いを図(下記リンク参照)を参照しながら説明するという内容である。コンパクトに整理されていてためになる、と言いたいところだが、関係するトピックをすべてカバーてしているわけではないという不満も残る。「情報哲学」を銘打つならば、知覚と実在の関係のような戸田山ホフマンが取り組んでいる世界認識の議論にも突っ込んでほしい。また、制度や文化などの概念も本書の枠組みでどう処理するのか、知りたいところだった。これらの代りとしてなのか、最後に情報倫理の章が置かれている。しかし、全体の議論の流れの中では情報倫理をトピックとして取り上げるのは唐突だし、また短すぎることもあって読んでいて浅いと感じてしまう。

  もっと議論の広がりを期待していたのだが、Very Short Introductionのシリーズだし原著は2010年だしでこんなものなのかな。とはいえ、僕の読む前の期待が高すぎただけで、本書で行われた整理は手堅く、情報概念を理解するうえで有益だろう。また、主著らしい『情報哲学大全』(サイゾー, 2021)の翻訳がアレだったので、著者の主張がきちんと伝わるこの邦訳には価値がある。  

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ResearchGate : An informational map / Luciano Floridi
https://www.researchgate.net/figure/An-informational-map_fig1_220803995
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今世紀の産物だが音は1980年代前半のゴージャスな歌謡曲風

2021-08-05 15:25:20 | 音盤ノート
Microstar "Microstar Album" Vivid Sound, 2008.
Microstar "She Got The Blues" Vivid Sound, 2016.

  J-Pop。Microstarは、ボーカルと作詞担当の飯泉裕子と作曲担当の佐藤清喜の二人組で、1990年代半ばからの活動歴がある。最初期はエレポップだったらしいが未聴。2008年になって発表された最初のフルアルバム"Microstar Album"では、オーケストラを配したかのようなバンド演奏(実際はシンセ音とサンプリング音のようだが)を使用していて、ドラムも打ち込みではなく人力となっている。渋谷系やcity popの文脈で語られることがあるけれども、「大瀧詠一のサウンドをバックに竹内まりやが歌っているかのように聴こえる」という紹介が一番わかりやすいかもしれない。オリジナリティ云々よりも、再現もここまでできれば凄いというレベルである。収録各曲のクオリティも高い。

  二枚目のアルバムとなる"She Got The Blues"は、大瀧詠一風味が後退してcity popに近づいた。全体としてはビッグバンドジャズ的な編成で1980年前後のディスコ曲(またはソウル曲)を演ってみたという趣きになっている。流麗なストリングスに、威勢の良い管楽器、ギターはカッティング演奏かフュージョン風のソロ演奏をする。低音部分では1970年代のスティービー・ワンダーっぽいシンセベースが使われることがある。「当時のサウンドを今風に解釈した」というようなものではなく、当時の音そのままである。時代錯誤とも言えるが、あの時代の音のエッセンスをカタログにして見せたようなとこもあって面白い。しかもやはり収録曲のクオリティが高い。

  非常に良いと思う。ただ、あくまでも大衆音楽であって気軽に聴ける内容ながら、忘れられていた音の鉱脈を発掘して研究成果として公表していますという佇まいもあるんだよな。編曲者・佐藤の分析力に対して襟を正さないといけないというような。とはいえ全体に漂う幸福感は素直に楽しめる。
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米国ネット企業による監視と誘導を問題視するも、分析にキレなし

2021-08-01 09:28:17 | 読書ノート
ショシャナ・ズボフ『監視資本主義: 人類の未来を賭けた闘い』野中香方子訳, 東洋経済新報社, 2021.

  GoogleやFacebookなどネットの大企業が、ユーザーのプライバシーに立ち入ってその行動を誘導しようとしていることを問題視する内容である。本文だけで600頁を超える大著である。著者はHarvard Business School所属の社会心理学の専門家。原著はThe age of surveillance capitalism: the fight for a human future at the new frontier of power (Public Affairs, 2019)で、オバマ元大統領のおすすめ本の一つである。

  個人的にはあまり良いとは思わなかった。長いわりには情報量が少ない。米国内の企業の動向の話がほとんどで、中国とEUの話がちょろっとあるだけ。著者は、ネット企業の支配力に対して、政府による規制(正確には民主主義による統制)に解決策を求めている。だったら、中国の状況とEUの対応について詳しい考察があってしかるべきだった。記述の大部分は、ネット企業が個人の主体性を奪ってゆくとか、監視と誘導は行動心理主義学の末裔だという話に費やされている。これについては「だから何?」という印象しかない。オーウェルの『1984』がよく引き合いにだされているが、現代の監視社会を語るのならオルダス・ハクスリー『すばらしき新世界』のほうが適切だろう。ネット企業は一方的に個人を操作対象としているのではなく、快楽や厚生の提供と引き換えになっていって、そこにはユーザー側の同意もあるからだ。

  いろいろ引用もなされているが、なんとなくヤバいという雰囲気を伝えているだけで、きちんとした分析を欠いている。監視社会論なら梶谷・高口『幸福な監視国家・中国』を、プライバシー論ならダニエル・ソローヴ『プライバシーの新理論』を代わりに勧めたい。こういうが好きな人もいるのはわかるが、僕には長さと難解さを尊ぶ衒学趣味にしか見えないな。
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