29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

日本人発掘の地味なアルゼンチン人ギター音楽

2015-02-27 13:07:25 | 音盤ノート
Guillermo Rizzotto "Solo Guitarra" Rip Curl Recordings, 2012.

  アコギソロ。もともとは2006年にアルゼンチンで発表されたアルバム。特に現地で話題になったわけでもないのに、目聡い日本人バイヤーが発掘して、2012年に日本盤が発表されたということのようだ。日本盤には一曲ボーナストラックが付いている。

  このギジェルモ・リソットは、同じくアルゼンチン出身のQuique Sinesiと比べると民俗音楽度が薄め。フォルクローレの影響はあるけれどもエキゾチズムを感じるほどではないし、スペイン系アコギものにありがちな激しい情熱を表現するわけでもない。どちらかと言えばクラシック系のギター音楽を想起したほうが近い。情動は中庸。基本、静謐で内省的な音楽であるが、暗くなったりはせず暖かみを保っている。

  良作だが非常に地味。一聴したとき「こんなん売れるの?」と思ったが、リソットの作品がその後も日本盤で何作か発行されているところを見ると、このデビュー作は日本でそれなりに反響があったようだ。どういう層がどこから情報を仕入れてこの作品に辿り着くのか、まったく見当がつかない。
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「不況時にはやはり効くから」と昔ながらの治療法を推奨

2015-02-25 09:54:11 | 読書ノート
ポール・クルーグマン『さっさと不況を終わらせろ』山形浩生訳, 早川書房, 2012.

  2008年の金融危機後に起こった不況に対する処方箋を一般人向けに噛み砕いて解説した書籍。原書は"End This Depression Now!"(2012)。僕が今さらながら手にとってみた理由は、2015年2月にハヤカワ文庫として再刊されたから。文庫版には、クルーグマン自身による文庫版への序文と、訳者解説がちょこっと追加されている。欧米の経済論争の時論としても読める(ちなみにユーロの危機がよくわかる)が、日本の経済政策についても示唆に富む内容である。

  その処方箋は「伝統的なマクロ経済政策をとれ」ということに尽きる。すなわち金融緩和と財政出動である。それだけ。あとは予想される反論に対する再反論である。ゼロ金利になってしまったら?。そうしたら中央銀行はインフレターゲットを採用して目標実現のためにあらゆる手をうつべし。近年の議論ではケインズ的な財政政策は効かないという説が流布しているけれど?いや、十分な規模があれば効くし、その証拠もある。第一次オバマ政権下の財政政策は小さすぎて失敗したのだ。財政赤字が増えたらヤバいのでは? 膨大な借金を抱える日米英はぜんぜん崩壊する気配もないし、それぞれ金利が滅茶苦茶低い。起こる気配のない国家財政の崩壊を恐れて不況時に緊縮財政するという、失業を深刻化させるようなことはするな、などなど。

  読んでみて、財政均衡派がかなりの勢力となっているという状況が日本だけでなく欧米でもそうだ、ということが分かってちょっと驚かされた。米民主党支持者である著者は、財政均衡派の経済学者は金持ちの共和党支持者に取り巻かれて党派的な主張をしているだけだ、と反論するが、ちとロジックが属人論法なのが気になった。そういう面もあるかもしれないが、現状が著者が言うほど深刻な不景気なのか、という点で根本の認識の違いがあるのだと個人的には思う。あと、市場の回復機能についての認識の違いもあるだろう。もう一つ驚いたのは、米国では州や自治体の財政を均衡させるため、不況で税収が減った時には公立学校の教師がレイオフされる、ということ。「先生」がマニュアルワーカー扱いなのか。

  ややこしいことに、日本では経済政策において左右が捻じれている。本書の議論は、まんまアベノミクス第一の矢と第二の矢の肯定論となっている(消費税増税は除く)。ところが米国では、目の前の失業よりも長期に積みあがる財政赤字を問題視するのは右派であり、短期の失業率改善のために国の借金が増すのを厭わないのは左派である。イデオロギーと関係無く、1980年代以降に当時最新のマクロ経済学をきちんと身に付けた人たちが、本書で提示されたケインズ的経済政策に懐疑的になるというのはなんとなくわかる気がする。だが、日本にいるイデオロギー的にリベラルである人たちが、リフレ反対で増税支持の立場になってしまうのは理解しにくい。市場原理主義を否定して政府介入が必要だという議論なのに。ただし、アベノミクス第三の矢にあたる規制緩和については本書はそれほど肯定的ではない。場合によっては失業をもたらすからである。そういうのは右派っぽいし、好況時にやれ、ということなのだろう。
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経済政策でリベラルだが外交重視の日本基準では保守になる

2015-02-23 13:08:47 | 読書ノート
三浦瑠麗『日本に絶望している人のための政治入門』文春新書, 文藝春秋, 2015.

  ここ最近の日本政治の時論集。タイトルが想起させる「日本政治の入門書」とは違うので注意。著者は『シビリアンの戦争』(岩波書店, 2012)で「軍よりも文民側が戦争に積極的になることがある」と論じた、1980年生まれの女性政治学者である。冒頭で「コンパッション(同情, 共感)」なる概念を掲げて、異論の持ち主や社会的弱者を包摂し、社会の一体感が維持されることが望まれる。一方、社会的分断や敵を殲滅するような振舞いは好まないようだ。

  扱われているトピックは、左右対立の整理、アベノミクスに対する評価、集団的自衛権や外交などである。著者のスタンスは、内政では女性や非正規雇用者の待遇改善を主張しており、リベラルとしてまとめられる。しかし、安全保障領域が左右の境界として重要である日本的基準に従えば、集団的自衛権支持である著者は保守ということになる。全体としては安倍政権に好意的で、まだ成果は出ていないとしつつも、小泉政権時代以上に構造改革が進行中であると一定の評価を与えている。個々の政策についての詳しい解説があるわけではないので、政治を推し進める手腕からの期待込みの評価だろう。

  ごく常識的な意見である、というのが最初の感想。だが次に、日本における政治論争の文脈を考慮すると、新鮮な議論なのかもしれないという感想ももった。安全保障体制の強化反対の立場と弱者保護の立場ってかならずしもセットとならなくてよいはずなのだが、日本のメディアに出てくるのはそういう人ばかり。著者のスタンスは、一部の国民が支持しつつもこれまで代弁されてこなかった立場、といったところだと思う。つまり、言論の世界ではマイナー、空気の世界では通常というような。
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ゴスと決別して神秘的な雰囲気のアンビエント音楽を構築

2015-02-20 14:43:42 | 音盤ノート
Cocteau Twins "Victorialand" 4AD, 1986.

  コクトーツインズの四作目。本作では打込みドラムとディストーション・ギターの使用が避けられ、深く残響処理されたギターアルペジオと女声ウィスパー(および時折シンセサイザー)で構成される癒し系音楽となっている。もちろんオーバーダブされている。同年のハロルド・バッドとの共作(参考)以上にアンビエント音楽としての純度が高い。

  狙い通りゴス臭を完全消去して、"Treasure"(参考)の荘厳な雰囲気を引き継ぐという試みを成功させている。彼らのキャリアの中では、最初期ほど敷居は高くないけれども、後年のようなポップな感覚はまだないという位置にある。それでもかなりの完成度で、捨て曲が無く、アルバムの流れに完全に身を任せることができる。清廉で、大衆臭さのない孤高の世界。エンヤが好きな人ならば気に入るだろう。

  若かりし頃に初めて聴いたときは「地味じゃね」と感じたが、歳をとって改めて聴いてみると、彼らのアルバムの中ではもっとも機能性が高いと評価できる。すなわち、集中して聴いてもよし、仕事しながら聞き流すのもよし、という使い勝手のよさがある。他の作品の場合、作業する手が止まってしまう。悪いことではないのだが。
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男性同性愛といっても少年愛が主だった近世日本

2015-02-18 20:30:51 | 読書ノート
ゲイリー・P.リュープ『男色の日本史:なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか』藤田真利子訳, 作品社, 2014.

  江戸時時代の日本における男性同性愛の実態を調べた歴史書。著者は米国の日本史研究者で、原書はMale Colors: The Construction of Homosexuality in Tokugawa Japan、発行は1995年。性器が巨大に描かれた春画が満載されており、人前で読むときは気をつけよう。

  著者によれば、江戸時代の日本では古代ギリシアに匹敵するほど男色文化が栄えたという。その源流は中世の僧侶であると推測され、女性がいない生活環境のゆえに少年が性愛の対象となった。これが同じく男性だけで寝食を共にする機会の多い武士にも模倣され、街が出来た当初は男性人口が過剰だった江戸で男色がさらに栄んになった。後に商人が台頭すると彼らも武士の価値観と行動を引き継いだ。しかし、男色は相思相愛によるものではなく、少年の売春という形になった。こうした習慣は、幕末明治の開国で西洋の価値観が浸透することで廃れてしまったという。以上の流れを、膨大な春画や引用文献で裏付けている。

  本書で描かれた男色行為は、同性愛といっても純粋な同性愛ではなく、異性愛でもある大人の男性が女性っぽい美少年を愛するものがほとんどである。どっちが攻めでどっちが受けかという、性交時の役割分担は年齢で決まる。少年側は快楽を得られず、互恵的な関係ではないように見える。また、直観的には異性愛者による少年愛とは女性への性的接触が難しいからこその代替行為という気がするのだが、違うのだろうか。性的欲求の領域まで支配階級が嗜んでいると下層の者は模倣したくなるものなのか。というか、そもそも性欲の対象というのは模倣可能なのか? このあたりは、よくわからない。いずれにせよ奇書。
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「水」をシンセサイザー音で表現するという1970年代の試み

2015-02-16 13:52:54 | 音盤ノート
Edgar Froese "Aqua" Virgin, 1974.

  ドイツのシンセサイザー音楽の開拓者、エドガー・フローゼが今年1月20日に亡くなっていた。享年70歳。プログレッシヴロックバンドであるTangerine Dream(以下TD)のリーダーとして知られ、サウンドトラックも数多く残している。バンドは1970年以降毎年のようにアルバムを発表し、かつ1980年代以降は年間2枚以上発表していたので、そのレコーディング枚数は膨大なものとなっている。しかしながら、キャリアの中でもっとも世評の高いのが1970年代初期から半ばまでの作品だということに異論は少ないだろう。

  本作はフローゼ初のソロ作で、TDの代表作"Phaedra"(参考)と同じ年の発行。アナログ・シンセサイザーによる霊妙なインストルメンタルというところは"Phaedra"と同じだが、本作のほうがアンビエントな感覚が強いのが特徴である。"Phaedra"のあの執拗な反復シーケンサー音は、TDメンバーのChris Frankeがゲストで参加したtrack 3‘NGC 891’のみで聴ける(というかあの音はFrankeが創ってたのだろう)。"Phaedra""Rubycon"(1975)ほどの完成度ではないが、その二つが気に入ったならばTDの"Stratosfear"(1976)よりも抑制の効いた良作として受け入れやすいはずである。

  なお、本作には曲順と録音時間の違うドイツBrain社盤と、録り直しされた2005年盤の三種類あるのでお間違え無きよう。僕が聴いたことのあるのはこのVirgin盤だけである。
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義務教育における抽象的思考の育成は暴力減少につながったと示唆

2015-02-13 12:43:31 | 読書ノート
スティーブン・ピンカー『暴力の人類史 / 下巻』幾島幸子, 塩原通緒訳, 青土社, 2015.

  上巻からの続き。下巻冒頭の7章では、上巻で記された殺人、拷問、戦争、ジェノサイドの減少という歴史的傾向と並行して、女性や子どもや動物の虐待や、同性愛者や異人種に対するヘイトクライムもまた減少していることがデータとともに語られる。第8章では、人間に暴力をふるわせる要因が挙げられ、それはプレデーション(邪魔者を消す、他人を道具として利用する等)、ドミナンス(支配や優位)、リベンジ、サディズム、イデオロギーであるという。

  対して、暴力を使用したくなる傾向を抑え込む要因が挙げられるのが第9章。それらは、共感、セルフコントロール、道徳感覚、理性、の四つである。共感については、それは近年重要概念になりつつあるけれども、場合によっては異民族排除や公正さの侵害につながることもあり、それだけでは人類全体に及ぶ暴力減少を説明できないと著者は言う。

  セルフコントロールについては、それが環境に左右され(例えば上巻では「破れ窓理論」が肯定されている)ることから、平和が続くことで自制を促す環境──未来のために貯金することが有利になるというような──が歴史的に整ってきて、ポジティヴフィードバックのスパイラルを形成してきたのではないかと推測される。

  道徳感覚もまた暴力に転ぶか平和に転ぶかの諸刃の剣ではあるが、ハイトの説等を著者は紹介しながら道徳の発展段階的な説を試み、通商が盛んになるにつれて、共同体への忠誠から個人の公平や自主性を重んじる考えが普及し、それが暴力を減少させる一助となったとする。米国でも、民主党支持のリベラルな地域を都市や郡単位で色分けすると、海辺や河川の要所など商業で成り立ってきたところが多いらしい。

  最後に理性だが、共感が可能にする感情的共有の環を超える、抽象的なレベルでの原則を認識させることになったという。特に、20世紀後半の暴力減少は、義務教育を通じて獲得された抽象的な思考が民主主義国の大衆の間で一般化されたためではないかと見る。普遍的な原則を理解する能力は、功利計算を行うのと等しく、遺伝に左右されるものではなくて後天的でであることのこと。訓練でなんとかなるのだ。

  最後の10章はゲーム理論を使ったまとめとなっている。

  以上。暴力の要因も、その減少の要因も複数あり、またそれが歴史的スケールで語られるというかなり複雑な議論となっており、すっきり腑に落ちたという感じではない。しかし、統計を用いながら、生物学、人類学、歴史学、経済学、心理学など様々な領域での知見を織り交ぜて、筋の通った説明を与えようとする議論の展開は圧巻。文系知識人はこうあるべきという(本人はそういう括りを拒絶するだろうが)見本である。
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暗黒ゴスサウンドの果ての清涼かつ崇高かつ異様な音

2015-02-11 19:43:38 | 音盤ノート
Cocteau Twins "Treasure" 4AD, 1984.

  英国ニューウェーヴ系のバンド、コクトーツインズの三作目。バックトラックは前作を踏襲しつつも、ゴス的要素の中から邪悪さを抹消して荘厳さを強調するような音にシフトている。だが、本作最大の変化はボーカルがファルセットを多用するようになったことだろう。ただし、オペラ風ではなく聖歌風。この変化で、清廉なヒーリング音楽としても機能するようになった。

  そのスタイルを確立した作品として最高傑作にしばしば挙げられる本作だが、個人的にはまだ未完成という評価である。その理由は、"Blue Bell Knoll"のですで記したように、遅れ気味かつ炸裂するような音の打込みドラムが、全体の清廉な楽曲と天上的なボーカルに全然マッチしていないこと。曲によってはディストーションの利いたギターも入ってきたりして、まだ十分に「ロック」から脱し切れていない。

  とはいえ、親しみやすい後期の作品と比べると、本作には近寄り難い崇高さというか厳粛さというか、そのような感覚があり、その点が独特の魅力となっている。この感覚は1983-86年の時期の録音でしか聴けないものであり貴重だろう。まるで初期のPopol Vuhのよう、と譬えてもさらにわからなくなるかもしれないが。
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18世紀の大衆への出版物の普及が暴力を減少させたという

2015-02-09 12:24:16 | 読書ノート
スティーブン・ピンカー『暴力の人類史 / 上巻』幾島幸子, 塩原通緒訳, 青土社, 2015.

  ピンカーの大著The Better Angels of Our Nature : Why Violence was Declined (2011)の邦訳。訳書は四六版の上下巻合わせて1200頁超(!!)になる。殺人的な長さではあるけれども、主題が面白く、議論の展開が巧みで飽きさせないし、何より知的好奇心をくすぐる小ネタの散りばめ方がとても上手くて、スイスイ読める。少なくとも僕が上巻を読み終えるのに一週間は不要だった。ただし、時折言及される、過去の人類がいかに暴力的であったかを伝える残虐行為の数々を読むことに耐えられればの話。これらの箇所はあまりに陰惨な内容であり、読むのが辛いかもしれない。

  上巻ではあらゆる暴力行為が、未開の時代から21世紀にかけて減少しつつあることが記される。戦争が起こる頻度は減っており、平和な時間が長く傾向にある。なので、異なる時代を比較するために人口比を調整すれば、時代当たりの戦争の死傷者は減少しているという。二つの世界大戦のあった20世紀は何ら特別な時代ではなく、人口比でゆくともっとも死者数が多かったのは、唐の時代の安禄山の乱で、次はモンゴル帝国のユーラシア征服ということになる。これに加えて、殺人事件、拷問や残虐な刑罰なども時代を経るに連れて減っており、過去と比べて社会の殺伐とした雰囲気がいかに改善されてきたが強調される。もちろん、テロもまた1960-70年代と比べれば21世紀は減っており、そのわずかな死者数を考慮するとその対策に対する費用対効果は怪しいとする。

  以上はデータを提示しての議論である。普通の書き手ならば定義やら集計方法の解説で込み入ってしまうところだが、そこはピンカー達意の文章術。たくみな説明で短くまとめて、予想される反論に対する再反論に全力を傾注して、読者の注意を逸らすことがない。

  では、なぜ暴力は減ったのか。ここからは著者の仮説だが、その理由の一つは被害者側の心情に対する世界中に共感が広まったからであるという。この説明だけだと馬鹿みたいだが、著者は、殺人事件や残虐な体刑の大きな減少が18世紀にはじまっていることを理由に、同時期の出版物の増加が世論に影響した結果だと推定する。啓蒙知識人らの理性的かつ人道的な議論が出版物によって広められただけでなく、当時普及した小説によって不幸な人々に対する同情も共有されるようになったのだ、と。その結果、暴力を厭う世論が台頭したのだとする。

  暴力が減ったもう一つの理由、特に戦争に限ったものだが、貿易と民主主義体制がある。民主制を敷く国は平和である確率が高まるし、外国との通商はそれ以上に効果的であるという(これらの議論についてはデータがある)。従属理論を信じてグローバル経済を避け自給自足を目指した国は、結果的に生活水準を下げることになり治安を不安定なものにした。20世紀後半以降、貧困国ほど内戦が多いのは周知のこと。世界の不幸の原因としての資本主義と民主制というマルクスの因果論は、今さらながら間違っていたというわけである。なお、20世紀においては、マルクス主義が引き起こした粛清、争乱、あとそれに対する弾圧で数千万規模の死者を出している。イデオロギーもまた戦争および暴力の原因になりうる、と。

  以上。上巻だけでもかなり濃い内容である。下巻についてはいずれ。
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フォルクローレとジャズとクラシックを消化した南米産混交音楽

2015-02-06 21:39:43 | 音盤ノート
Quique Sinesi / Marcelo Moguilevsky "Soltando Amarras" Epsa, 1998.

  アコギと管楽器のデュオ。キケ・シネシと組むマルセロ・モギレブスキーは、1961年生まれ、アルゼンチン、ロサリオ市出身の、クラリネット、リコーダー、ソプラノサックス、ハーモニカなどを操るマルチ管楽器奏者である。一曲だけ、Carlos Aguirreがピアノで参加してトリオ演奏になる。

  アコギ演奏にありがちな癒し系の雰囲気の曲もあるのだが、ユーモラスな演奏やバトル系の演奏もあり、特に後者の演奏の印象が強い作品である。もちろん和声楽器がアコギであることもあって繊細で静謐な部類に入る音楽ではある。だが、モギレブスキーが速いフレーズを繰り出しシネシがそれに応酬するというインプロビゼーションをけっこうな頻度で聴くことができ、ジャズファンならばけっこう盛り上がる。なんというか、黒人音楽要素の無い、南米民族音楽を消化した欧風室内楽ジャズ、という印象。ただし難解な方向には流れず、あくまでオーソドックスにまとめており、敷居は高くない。

  なお、"Danza Sin Fin"(参考)と同じく、2012年にAhoraというレーベルから日本語解説と帯を加えただけの日本盤(直輸入盤?)が発行されている。
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