29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

時代に翻弄されてきた「労働組合」としての日教組

2020-02-28 11:19:00 | 読書ノート
広田照幸編『歴史としての日教組』名古屋大学出版会, 2020.

  編者から献本いただいた本の紹介。日教組についての研究論文集である。ただし、二巻本ながらその全貌をつかめるというものではなく、その労働組合としての面をクローズアップした内容となっている。その教育思想に対しては考察を加えていない。この点が、他の先行書籍と大きく違っている点である。

  上巻は「結成と模索」と副題が付けられ、終戦直後から1950年代の日教組の取り組みや内部事情を明らかにしている。日教組結成の当初の目的は、終戦直後から劣悪のままだった教員の待遇を改善させることだったという。ところが、GHQの方針転換の末、公務員のスト権が禁止されるに及んで、労働運動としては行き詰まってしまった。また、外からは「共産党の影響が強い」と見られてきたが、結成当初から共産党系グループは少数派だった。あと、「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンや「教師の倫理綱領」の成立過程も検証されている。これらは労働運動としての行き詰まりからきた方針転換のように見えるのだが、内容面での評価には踏み込んでいない。

  下巻は「混迷と和解」という副題で、1980年代から90年代半ばの、分裂・方針転換・文科省との和解が取り上げられている。前半は、1980年代後半の日本の諸労働組合の合従連衡と並行した内部事情の話で、日教組の人事をめぐる対立をきっかけに、連合加入を目指す主流派(社会党系)と、脱会して全教を結成する反主流派(共産党系)に分裂してゆく。後半は、村山政権時での文科省との和解をめぐる、対立から対話路線の変更、そのための日教組内部での駆け引きを扱っている。後半の方針転換をめぐる駆け引きの話はなかなかスリリングで、歴史研究の醍醐味を味わえる。

  全体として「右派が非難するほどイデオロギー的はなく、現実的で穏健な日教組(ただし労働組合として)」像を打ち出している。この点は説得力があり成功している。ただまあ、中央執行部の動きを中心とした歴史的検証となっており、教育現場での印象はまた違ったものになるかもしれない。門外漢の僕には、日教組と言えば各種マスメディアを通じて流布された「頑迷なイデオロギー団体」というイメージしかない。なので本書を読んだ後でも、本書で精密に描かれた像と、自分が持っている漠然としたイメージにまだ距離があるという感想だ。編者は今後も研究を続けるとのことなので、続編を待つことにしよう。
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留学生試験の試験監督をやって

2020-02-24 07:52:40 | チラシの裏
  先日、教育学科の留学生試験の試験監督をしての感想。文理学部の中でも教育学科を志望する留学生はかなり多くて、定員数名のところに20~30人が受けに来る。競争倍率が10倍を超えることのある狭き門だ。ほとんどの受験者は中国本土からで、香港、台湾、韓国からが少々混じる。まずは日本国内の日本語学校で学んで、それから受験しにくる、という順序みたいだ。

  なぜ教育学科が人気なのだろうか。学科内では、故・渡部先生の面倒見の良さが留学生のネットワークでよく知られているからだろう、という見方で一致している。国際交流に熱心で、ゼミや大学院でも多くの留学生を指導していた。今回の面接試験でも、受験生から彼の名前が挙がった。ただもう、彼は亡くなってしまったわけで、唯一無二だった彼に代わる学科の先生は今のところいない。

  僕としては、異国の地で外国語を学んでその地の大学に入ろうとする受験生の心意気に大いに心動かされてしまう。「みんなうちの子になれ」と全員合格者にしたいところである。だが、やはり入学してからうまくやっていけるかどうかを考えると、本人のためにも慎重にならざるをえない。マンモス大学である我が校は、日本人学生のケアだってそれほど熱心ではない(基本ほったらかしだ)。無事入学できたとしても、困難があったら自分で動いて解決しなければならない。その際、事務セクションや教員に交渉したり大量の日本語書類を書いたりする必要がでてくる。何より教育学科が講義で書かせる日本語量は多い。

  というわけで、面接試験では教育学的な面での興味関心をいろいろ尋ねたものの、最終的には日本語能力で合否を決めた。質問の意味を理解して、きちんとコミュニケーションできるかどうかである。これができれば、日大でうまくやっていけるだろう。
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マルチレベル淘汰を導きの糸にして人間社会を語る

2020-02-20 10:43:29 | 読書ノート
デイヴィッド・スローン・ウィルソン『社会はどう進化するのか:進化生物学が拓く新しい世界観』高橋洋訳, 亜紀書房, 2020.

  進化生物学的観点を人間社会の分析にも適用しようという試み。この分野でWilsonと言えば、『社会生物学』のエドワード・O.ウィルソンの方が有名だが、本書の著者もマルチレベル淘汰の提唱者としてそこそこ知られている。原書はThis view of life : completing the Darwinian revolution (Pantheon, 2019) で、図版も豊富な一般向け書籍である。

  前半は、いくつかの事例を挙げながらの進化論およびマルチレベル淘汰の説明である。細胞、個体、小集団といくつかの段階で淘汰の単位がある。集団内の競争では利己的な個体が有利となり、個体間の協力行動は破壊される。一方、集団間の競争では協力的な個体で編成された集団の方が有利となり、協力できない集団を打ち破る。ここまではよろしい。

  後半は人間社会の分析の話になるのだが、進化生物学の道具立てで説明がうまくいっているのは文化進化論の話(ジョセフ・ヘンリックが言及される)まで。その後は群淘汰から得られた価値の話に執心してしまい、「みんな協力して人類の問題解決にあたりましょう」みたいな誰も反論できない主張を強調するだけに終わる。「どうやって」のところを詳しく示してくれないと、こういうのは無意味だ(ないわけではないのだが、かなり抽象的である)。

  このように、当初の試みは成功しているとは言い難い。とはいえ本書に価値がないというわけではない。未だ邦訳のないノーベル経済学賞学者、エリノア・オストロムの公共財についての簡単な解説があったりして、部分によっては啓発的だ。トヨタの改善の話も興味深く、小ネタを期待して読めば、最後の頁まで辿り着ける。
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「狭い回廊」に入って留まり続けることの困難

2020-02-16 10:38:40 | 読書ノート
ダロン・アセモグル, ジェイムズ・A.ロビンソン『自由の命運:国家、社会、そして狭い回廊』櫻井祐子訳, 早川書房, 2020.

  制度の観点から各国比較をするという試み。『国家はなぜ衰退するのか』の続編となる。長いけれども一般向けである。原書は、The narrow corridor: states, societies, and the fate of liberty (Penguin, 2019.)である。

  前著で「包括的」と「収奪的」の二つに分類された政治経済体制のうち、「収奪的」の方がさらに「専横的」と「不在」に分割されている。前者は国家が強すぎるケースで、後者は国家が機能せずに「社会」が強すぎるケースである。このときの「社会」とは、部族だったり、階級だったり、中間共同体だったりいろいろだ。「専横的」と「不在」のどちらのケースも、暴力を抑止することができず、個人の自由が失われる。結果として、イノベーションが阻害される。

  繰り返し提示されるのが、x軸に社会の強さ、y軸に国家の強さをとったグラフである。その45度線上に、国と社会の間の力関係においてバランスの取れた先進国が現われる。著者らはそれを「狭い回廊」と呼んでいる。

  本書は、狭い回廊の中の国、社会の側に外れた国、国家の側に外れた国を、過去か現代かを問わず、その形成過程を詳細に分析していくという内容だ。分析されるのが、初期イスラム国家、古代ギリシア、中世イタリアのコムーネ、インド、ナイジェリア、ガーナ、米国、ワイマール期のドイツ、中国、コロンビア、南アフリカ共和国、スウェーデン、コスタリカ、チリ、レバノンなどなどである。日本については短い言及があるだけで大きく取りあげられてはいない。

  日本の読者にとって参考になるのは、やはりドイツのケースだろうか。国の制度はある程度行き渡っており、政府が不在となる局面は少ない。しかし、さまざまな「社会」が相互不信に陥り、そのうち特定の「社会」が権力を握るならば、抑圧的なシステム(ある種の問題を放置するという無能さも含む)が出来る恐れがある。これは実際過去に経験したことだろう。したがって、社会の動員(=政治参加)を促して国家を監視し、社会間で調整かつ協力を促すことが重要だというのが、本書から得られる示唆である。「どうやって」という話は読者の側にある。

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マイブラ中毒患者のための代替治療薬

2020-02-12 17:29:29 | 音盤ノート
Fleeting Joys "Speeding Away to Someday" Thomason sounds, 2019.

  シューゲイズ。カリフォルニアはサクラメントの男女二人組のグループで、2006年と2009年にアルバムを発表しており、10年ぶりの新作ということになる。シューゲイズといっても、RideでもSlowdiveでもなくてMy Bloody Valentine。しかも「マイブラの影響を受けている(でも本人たちの個性がしっかりある)」というレベルではなく、マイブラが作りそうな曲をマイブラが演奏しているかのような、そのままなぞったような音を出すのが特徴である。音源がネット販売されているほか、北米ではLP発売がある。CD化は日本盤のみの模様。

  1991年に発表された”Loveless”は中毒性のあるアルバムだったが、マイブラはその後2008年まで沈黙する。あの独特の音響に脳をやられてしまった人間が一部にいて、バンドの活動停止期間中、激しい禁断症状に苦しむことになった。(なお、中毒患者の苦しみの記録が過去のエントリにある)。そうした中毒患者にとって、Fleeting Joysの2006年のデビュー作"Despondent Transponder" (Only Forever)は、ジェネリック医薬品のように苦しみを和らげてくれた有難い作品だった。しかしながら、本家が活動を再開させて以降、Fleeting Joysは存在理由を失った感があった。

  本家マイブラの方は2008年に復活し、2013年に21年ぶりのアルバムを発表した。2018年にもワールドツアーも行っているが、その際に新作が録音中であることもアナウンスされていた。正確には、まず2017年秋に「2018年初頭にはアルバムが出る」というニュースが駆け巡り、次に2018年春ごろ「2018年夏にはEPが出る」という話に替わって、続いて2018年秋に「秋にレコーディングが終わって2019年にアルバムがでる。次の作品もすぐ作り始めるつもり」というインタビュー記事となった。そして2020年を迎えたが、いまところ何も発表されていない。

  僕は、マイブラ関連の数々のフェイクニュースに騙されてきた古参のファンなので「またどうせ20年後だろ」と疑ってかかるぐらいの警戒心はある。けれども、それでも胸に希望の灯がともってしまったのも確かだ。また禁断症状が出始めたという頃に、タイミングよくFleeting Joysのこのアルバムである。「三作目だしそろそろ自分たちの個性を」などと考えないところが素晴らしい。いつものマイブラ節とマイブラサウンドで、きちんとジェネリック医薬品としての機能を果たしてくれる。8 track目の’Kiss a Girl In Black’なんかもう神々しい。救われた。
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演劇的手法を取り入れたアクティブラーニング論

2020-02-08 15:55:07 | 読書ノート
渡部淳『アクティブ・ラーニングとは何か』岩波新書, 岩波書店, 2020.

  渡部淳先生は日本大学文理学部教育学科の教授で、僕の同僚ということになる。といってもわずか二年の付き合いだけれども。本書の奥付発行日は2020年1月21日だが、彼はその一日前の20日の夜に自宅で体調を崩してそのまま亡くなった。当日は授業を行って普通に帰宅したのだから、本当に突然の死だった。残されていた後期授業の採点の仕事が僕にも回ってきた。

  彼はICU付属の高校で20年ほど教諭を経験し、その後に大学の教授になった。演劇的手法を取り入れたアクティブラーニングを推奨しており、獲得型教育研究会なる団体を起ち上げてその普及に努めていた。学者肌の先生が多い日大教育学科の中では異色で、教えることが上手く、学生にも人気だった。学生に体を動かすよう求める彼の授業スタイルは、詰め込み教育が主流の中国からの留学生に衝撃を与えるらしく、彼らの多くが渡部ゼミを希望した。今年度も、希望が叶わず僕のゼミに流れてきた一人の中国人留学生が、ドラマ手法を使った教育をテーマに卒論を書いたぐらい。

  本書は彼の考えるアクティブラーニングの入門書である。率直なところ、いわゆる「アクティブラーニング」概念に含まれる教育手法の一部しか詳しく紹介できていない、効果や理論面での説明がないなど、十分に議論が尽くされてないという感想をもった。もし彼がまだ生きていたら、これらの点について議論してみたかったところではある。けれども、彼はあまりそういうことには興味を持っていなかったかもしれない。彼は、基本的に理論家ではなく、新しい教え方を追及する実践家だったからだ。そのような、彼が評価する教え方のアイデアが本書では多く紹介されている。

  数か月前、帰りの電車で一緒になった際、「初めての演劇経験は秋田の高校でだった」と振り返っていたことを思い出す。こうなってみると、もっといろいろ彼の人生について聞いておけばよかったと後悔することしきり。なお下のリンクは、文理学部の宣伝動画で、渡部先生の授業の様子を垣間見ることができる。教育学科でこういう授業はもうできないなあ。渡部先生、ご冥福をお祈りします。


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個人の習慣改善よりも社会的慣習の変化を記したエピソードが秀逸

2020-02-04 15:41:18 | 読書ノート
チャールズ・デュヒッグ『習慣の力 / 新版』渡会圭子訳, ハヤカワ文庫NF, 早川書房, 2019.

  習慣を改めるためのハウトゥー本。もう少し心理学寄りの内容を期待して読んだのだけれども、完全に自己啓発兼ビジネス書だった。まあ、タメにはなったが。オリジナルはThe power of habit : why we do what we do in life and business (Random House, 2012.)で、最初の邦訳は2013年に講談社から『習慣の力 The Power of Habit』というタイトルで発行されている。その後2016年に講談社+α文庫となった。このハヤカワ文庫版は、2014年の原書ペーパーバック版のあとがきを訳出して加えたものである。

  人間の行動の4割は習慣でできている。「痩せたい」とか「健康になりたい」と思ってこれまでの生活スタイルをすべて変えようとしても上手くいかない。運動か、食生活か、あるいは喫煙や飲酒など不健康な嗜好か、いずれかの一つの習慣だけに注力すると継続できる。結果としてライフスタイル全体も変わってくるという。ただし、ただ我慢するだけではだめ。悪癖をしたくなるきっかけをきちんと分析して自覚し、ルーチンとなっていた悪癖を別の行動に置き換えなければならない。さらに、悪癖によって得られていた報酬(心の安らぎなど)を、置き換えたその別の行動によっても得られるようにしておく。そうすることで習慣の改善が達成できるという。

  以上。メッセージとしては上のように単純なもので、これをビジネスや社会運動のエピソードにつなげていって話を膨らませている。実をいうと、個人の習慣の改善の話よりも、社会的慣習がどのように変わるのかを示すエピソードのほうが面白い。スターバックスのスタッフ育成、公民権運動が広がったきっかけ、ロンドン地下鉄火災、医療ミスの克服やアメフトの新しい戦術などなどである。

  図書館の話も出てくる。1960年代半ば以降、同性愛の社会的認知を求める運動が全米で展開されるようになるが、なかなか進展がなかった。こうした中、米国図書館協会の求めに応じて、1972年に米国議会図書館は「ゲイ・レズビアン解放運動に関わる書籍」が分類されるカテゴリーを、「異常性行為と性犯罪」から、もっと中立的な「ホモセクシュアリティ・レズビアニズム・ゲイ解放運動・同性愛擁護」に変えた。この変更がそれなりの影響をもったそうで、精神医学会の同性愛の定義変更を後押しをして、いくつかの州で州法の改正をもたらしたとのこと。ささやかに見える分類の変更だけれども、その帰結にはちょっと感動する。
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