29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

静岡の紅ほっぺ

2009-01-31 22:56:10 | チラシの裏
  最近、農家の自販機で苺を買うようになった。自販機といっても、中の見えるコインロッカーみたいなやつ。この苺が安いし、美味しい。個人的には「酸っぱい」果物として苺は好きではなかった。苺をケーキの上に乗せるのは、クリームとスポンジの甘さを引き立たせるためだという認識だった。だが、この自販機苺は、酸味が少なく甘い。

  ラベルが付いていないので、この自販機苺の品種は不明だが、形状や産地から推定するにおそらく「紅ほっぺ」。この「紅ほっぺ」は、関東にいたときはあまり印象に残っていない品種だ。関東のスーパーでは「とちおとめ」か「あまおう」をよく見たような気がする。この自販機苺が問屋と小売を介するといくらになるか知らないけれど、静岡だと路上の自販機で、約20個300円で売っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリジナルとCDとの間に収録曲の違いあり

2009-01-29 23:50:47 | 音盤ノート
Brian Eno / David Byrne "My Life in the Bush of Ghosts" Sire, 1981.

 昨年、突如として27年ぶりにデュオ作品を発表したEnoとByrneだが、そちらは未聴。ここで紹介するのは、その27年前の最初のデュオ作品。いわゆる「ロック名盤」ということになるだろうが、中高校生お断りの、名門大学所属のインテリ学生が聴くものという嫌み(?)なイメージもある。

  そのイメージとは異なり、ファンク系の細かい反復リズムは洗練されており聴き易い。演奏自体は弛緩した、こじんまりとしたものだ。ぶにょぶにょとした柔らか味のある演奏は「かわいらしい」とすら言えるかもしれない。メインのボーカルは無く、代わりにテープコラージュ──当時はデジタル・サンプリングなんて便利な技術が無かった──が乗る。このコラージュが作る「声」が楽曲の緊張感を高めている。テープはラジオDJのしゃべりや中近東の歌手の歌唱等から採られている。演奏と融合する電子音もまだ古びていない。

  同時期に発表されたTalking Headsによる"Remain in Light"(1980)──同じくEnoとByrne参加──も、ファンク系リズムと電子音の融合という似たようなコンセプトで出来ている。だが、そちらは現在では「ちょっと時代を感じるなあ」という印象だ。特に、Byrneの、David Bowie直系のボーカルスタイルは、1980年代前半の流行だったせいで、今聴くと古く感じる。一方この"Bush of Ghosts"にはそういう問題は無い。

  演奏はほとんどがEnoとByrne以外によるもの。曲によってはゲストミュージシャンが参加しているが、クレジットを見る限り、あまり知られていない人ばかりだ。今でも活躍しているのはBill Laswellぐらい。他に分かるのは、David van Tieghem (Steve Reich組)とTim Wright (DNA)だけだ。他はよく知らない。

  僕はUS盤のレコードを所有している。ここに収録されているB面1曲目の"Qu'ran"は、US盤CD以外のプレスでは別の曲に置き換えられている。理由は明らかではない。神聖なるコーランをダンス曲に変えてしまったということで、イスラム教信者によるテロを恐れたため、という推測記事をどっかで読んだ記憶があるが、真相は不明だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人論を修正する困難

2009-01-26 14:04:49 | 読書ノート
高野陽太郎『「集団主義」という錯覚:日本人論の思い違いとその由来』新曜社, 2008.

 「日本人はアメリカ人と比べて特別に集団主義的ではない」ということを丁寧に論証した著作。「日本人論」のロジックの批判だけでなく、心理学分野での実証研究のレビュー、言語学や経済学分野での議論も援用して、「日本人=集団主義」説を論破している。証明は手堅いが、記述は平易。その説得力はかなり高い。

  この本の中心となる部分は、事実を提示しながら、これまでの日本人論に見られた「日本人のイメージ」を次々に破壊していく第2部だろう。しかしながら、個人的には、通説の強さの理由を探った第3部が面白かった。「日本人=集団主義」という図式に反する情報に接したことがありながら、通説に絡めとられたままの読者が多いと思われるからだ(僕がそうだった)。

  この本で挙げられている、著者の議論を支持する資料のいくつかは、10年ぐらい前から一般にも入手可能である。杉本良夫とロス・マオアの本1)は日本人論批判の古典としてよく知られているものだし、「日本人はアメリカ人ほど他人を信用していない」という山岸俊男の報告 2)もそれなりに話題になった。「終身雇用は欧米でも普通であり、日本特有の慣行というわけではない」という話3)も、1990年代後半の人事制度の変革期によく参照されていた印象がある。

  それでも、通説というのは根強いものだ。著者によれば、心理学的には、間違っていたことが明らかになっても、信念は保持され続けることがあるという。僕も、以前のエントリでは、通説に乗っかって書いた4)

  そういうわけで、この本が示した事実が広く受け入れられるかどうかは不明だ。文化間の違いを強調する方が受け入れられやすいという風潮が変わらない限り、現状は変わらないままなのかもしれない。この著作が、多くの人に読まれることを願いたいが…。

-----------

1) 杉本良夫;ロス・マオア『日本人論の方程式』ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 1995.
2) 山岸俊男『安心社会から信頼社会へ:日本型システムの行方』中公新書, 中央公論新社, 1999.
3) 小池和男『仕事の経済学:第3版』東洋経済新報社, 2005.
4) 当のエントリで採りあげたマクファーレンの議論は、本書によれば“多くの歴史学者は、この見解を受け容れていない”(p.335)とのこと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エレアコの曲が秀逸

2009-01-22 15:42:34 | 音盤ノート
Pat Metheny "80/81" ECM, 1980.

 名盤としてよく知られている作品だが、僕は最初から最後まで聴き通すことはほとんどない。最後から二曲目の"Every Day (I Thank You)"を何度もリピートし、それよりわずかな頻度で一曲目の"Two Folk Songs"を再生するだけだ。

 編成はCharlie Haden (b)とJack DeJohnette (d)というリズム隊に、Methenyのギターとテナーサックスが乗るというもの。テナーは二管で、Michael BreckerとDewey Redmanが配されているが、二人が絡むのは三曲しかない。

 僕はRedmanがテナーを取る曲を飛ばしてしまうのだが、あらためて通して聴いてみると迫力のあるいい演奏である。だが、あまりにも"Every Day"が素晴らしいので、かすんでしまうのだ。

 "Every Day"は、アコースティック・ギターのアルペジオが印象的なバラード曲である。ここでのBreckerのソロの構成は完璧だ。高度なテクニックを見せつつも印象的なフレーズをちりばめ、スリリングでありながら歌ごころを失わない素晴らしい演奏を披露する。「この一曲さえあればいい」と思わせる逸品である。

「聴く曲」のもう一つである"Two Folk Songs"(の前半)はギターのコードストロークに乗せて進行し、それにBreckerのテナーが乗る。こちらはフリートーンでのソロだが、バックが手堅く聴きやすい曲になっている。

 ジャズのジャンルで、アコースティック・ギターのアルペジオやコードストロークはあまり耳にすることの無いスタイルだと思う、たぶん(僕がジャズ・ギターの主流としてイメージしているのはWes MontgomeryやJim Hallのスタイル)。なので、上記二曲は耳に新鮮に響く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しいマルクス

2009-01-19 08:55:58 | 読書ノート
ダイアン・コイル『ソウルフルな経済学:格闘する最新経済学が1冊でわかる』室田泰弘ほか訳, インターシフト, 2008.

 最新の経済学の動向を紹介する内容である。近年の(昔から?)研究は「幸福」が大きなテーマとなっており、また実際に成果があがっていると主張する。また、経済学の考え方についてもちょっとした解説がある──「ガルブレイスはエコノミストではない」という主張とともに。古今の経済学者への言及が大量にあり、数人でも分かればそれなりに楽しく読めるだろうが、彼らを全然知らない読者にはややとっつきにくいかもしれない。

 1章から3章までは経済成長に関する議論を扱っている。以前のエントリで言及したサックス vs.イースタリー論争についても、本書はイースタリーの方に軍配を上げている。その他、行動経済学、情報の不完全性、社会関係資本についての議論などを扱っており、その動向が通覧できる。

 扱っているトピックは、詳細な説明が加えられるものと、簡単な言及に留められるものと二種類ある。ゲーム理論や非線形動態モデルなんかもっと詳しく書いて欲しいところだ。また、トピック間の接続は十分とはいえない。もちろん繋がりのある章もあるが、全体としてみれば雑然とした構成だ。冒頭から論理展開に注意して読むものではなく、あくまでも興味のあるところをつまみ食いして読むものなんだろう。

 あと、どうでもいい箇所なんだけど、グルーチョ・マルクスは最近では「グラウチョ・マルクス」と表記するんですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

落としたい候補者を落とす

2009-01-16 13:58:25 | 読書ノート
加藤秀治郎『日本の選挙:何を変えれば政治が変わるのか』中公新書, 中央公論, 2003.

  鹿児島県阿久根市の市長が、自分のブログで「辞めさせたい市議会議員の投票」を呼びかけたというニュース1)を読んで、以前読んだこの本のことを思い出した。

  現在の衆議院議員選挙のように小選挙区と比例代表を組み合わせた制度のほか、各国の細かい選挙制度を紹介し、それがどのような政府を形作るのか、またどのようなメリットとデメリットがあるのか、さらにその思想的背景まで踏み込んで、わかりやすく解説している。選挙権を持つ日本国民ならば必ず読んでおくべき好著である、とまで言うと押し付けがましいかな?

  国政選挙は注目されているだけあって、しばしば制度についての反省がなされる。だが、地方議会の選挙は、区割りのある政令都市や県議会を除けば、旧来の大選挙区制のままであることが多い。本書では、これは国政選挙の制度と乖離が大きく、政党政治を実現する上で問題があるのではないか、という指摘がなされている(p.182)。大選挙区では落選させたい議員を落とすという選挙制度の意義の一つが機能しない。特に候補者が少ないときはそうで、この場合選挙などほとんど無意味だという(p.186)。

  前述の阿久根市議会も立候補者が少なすぎるようだ2)。それでも阿久根議会は良く機能しているのかもしれないし、ブログで投票を呼びかけるなど市長の振舞いとしてどうかとも思う。だが、一有権者として地方議会へのフラストレーションは理解できるところもあるというのが率直なところだ。

----------------

1) 「辞めてもらいたい議員名」投票 阿久根市長自分のブログで募る / J-CAST
  http://www.j-cast.com/2009/01/14033626.html

2) 平成17年の市議会議員選挙では、定数16に対して18人の候補者しかいない。
  http://www.city.akune.kagoshima.jp/kurasi/senkan.html
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

床屋政談ながらちょっと真剣

2009-01-12 21:37:07 | チラシの裏
 最近の新聞やテレビで派遣禁止論を耳にするようになった。正確には、製造業への派遣労働の禁止論だ。さも有効な方策であるかのように議論されているが、派遣労働者らはこれに満足してるのだろうか? 現状では、派遣契約を禁止しても、正規雇用ではなく、単なるパートタイム契約に置き換わるだけだと推定される。さらには、国内への投資が減って雇用が日本から逃げてゆくという最悪の予想もある。

 僕の短大のみならず、どんな大学でも、卒業する学生の何人かは非正規雇用の道を進むと考えられる。さすがに卒業後の学生の人生まで面倒を見切れないが、それでも卒業生にはなんとか糊口をしのいで幸せ──それがささやかなものであっても──に暮らしてほしいと願っている。彼らにとって、生活を誰かに頼ることができないならば、仕事はどんなものでも無いよりあった方がましだろう。政治には、国内の仕事の数が減らないような手を打ってほしいのだが・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャケットを見て海賊盤だと誤解した

2009-01-10 00:22:30 | 音盤ノート
The Smiths "The Sound of The Smiths" Rhino, 2008.

 懐かしい。昨年末に発表された、僕が十代の頃に愛聴したロックバンドのベスト盤である。Manchester出身で1980年代の英国を代表するこのバンドのベスト盤はすでにいくつか発売されているが、いずれも僕は聴いていない。歳をとってしばらく興味を失っていたからだ。オリジナル・アルバムも実家に置いてきたままである。今になって再び興味が湧いたのは、現在の勤務先にイングランド北部工業都市出身の同僚がいたからだ(ちなみに彼はSheffield近郊の生まれで、このバンドのボーカルのMorrisseyと同い年だ)。

 このベスト盤には、シングル中心の一枚ものと、それにレアトラックを収めた盤を付した二枚組のものと二種類発売されている。リマスタリングされているとのことだが、比較の対象となるオリジナルアルバムが手元に無いのでどの程度音質が改善されているのか判断はできない。Disc 1の選曲は妥当だろう。だが、レアトラックを集めたはずのDisc 2は特に入手困難では“ない”曲が多く混じっていて不徹底だ。ただ、そのDisc 2に"The Queen is Dead"や"Stop Me"といった代表曲が含まれており盛り上がる。

 そのサウンドは、英国では"Jangly Guitar Pop"、日本で言えば「ネオアコ」にカテゴライズされる。サウンドだけでなく、「若いのに、貧乏でモテず仕事も無い」という状況を憂いとユーモアを交えて表現する歌詞も魅力だ。初めて聴く人は歌詞対訳付きの日本盤の方をおすすめする。元の英語の詞は読み取り困難ではないが、たまに慣れない単語がででくる──"belligerent ghouls"てすぐ分かる?

 歌詞がどんな感じが一例を挙げよう。今をときめくRadioheadがカバーした"The Headmaster Ritual"は、サウンドに集中すればギターのアルペジオが爽快なネオアコ曲で、鼻歌にもってこいという印象だ。だが、その詞は学校時代の悲惨な思い出をつづったもので、軍隊風の教育方針を持つ学校に通う主人公が、教師からひどい体罰を受けて──例えば「風邪をひいているので体育を休ませてください」とうそをついたらシャワー室に連れ込まれて蹴飛ばされるという具合だ──「人生をあきらめたい」「家に帰りたいよ~」と嘆く内容である。聴く方としては同情すべきか笑うべきか微妙なところだ。多くの曲で、こういった情けない嘆き節や恨み節が、爽やかなギターサウンドに乗せて唄われる。

 1980年代の英国の不景気な状況がこのような表現を生んだのだろう。このバンドの曲は、愛や希望についてポジティヴに語られることに、自分の状況に照らして欺瞞を感じるという(不幸な?あるいはひねくれた?)人に、アピールするところが多いと推測される。斜陽の時代に暮らす今こそ日本の若者が聴くときだろう──いや教師として学生にはすすめられないな、一応「くじけるな」「頑張れ」と言わなくては。

 最初、メンバーの写真をあしらったジャケットを持つこのアルバムを静岡の輸入盤店で見かけたとき「○ィスク○ニオンに置いてあるような海賊盤をここも扱うようになったのか?」と疑問に思った。これまで、The Smithsのシングル・アルバムともに、バンドのメンバーが憧れるポップスターの写真(つまり他人の写真)がジャケットになっていたからだ。一方、四人のメンバーフォトをあしらった作品はライブの海賊録音と相場が決まっていた。果たして、垢抜けない四人の姿をジャケットにしたこのアルバムはファン以外にアピールするのだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パッケージとしての教養

2009-01-08 01:44:04 | 読書ノート
稲葉振一郎『経済学という教養:増補』ちくま文庫, 筑摩書房, 2008.

 すでに多くの書評がweb上で読めるので、内容紹介は割愛。以下では僕のちょっと飛躍した印象を記す。ちなみに、僕が読んだのは東洋経済新報からのハードカバー版(2004年)のほう。

 個人的に興味深い点は、この本が経済学というパッケージ化した知識を「教養」と銘打っているところ。この点はこの本の本筋から離れるところだけれども、近年の教養論の中では珍しい態度と言える。

 最近のアカデミックな教養論で、特定の知識を「教養」として定義することはあまり無いはずである(印象にすぎないけれども)。例外として、旧制高校と結びつけられて歴史的に定義されるケースがある(その場合、日本の知的エスタブリッシュメントに対する否定的なイメージと、同時に「知への敬意がある時代」に対する羨望の入り混じった目で振り返られる)。しかし、現代人の「教養」と言った場合、特定の知識として提示されることはほとんど無いと思う。

 代表的な教養論者、阿部謹也や竹内洋も、現代の教養は一昔前の人文学のような知識のパッケージとしてあるわけではないと考えているようだ。教養は、本質的に人格において実現されるものである。それは「高貴な生き方」あるいは深い意味での「コミュニケーション能力」としてあらわれ、読書を数多くこなしても身に付くものではないかもしれない、と。あるいは、教養に知識を求めるのは不純で、人格の陶冶こそ教養の本質だというような。教養として特定の知識を指定することをしない態度は、現在の知的に多様な状況への対応でもあり、またエリート階級へのパスポートとして機能した旧制高校的教養の反省のためだろう。

 一方で、読書の価値が捨てられているわけでもない。巷間では、本を読まないことを嘆く言説は広く流布している。だが、では本を読んでどのような知識を身につければいいのかという疑問が残る。もちろん教養のためのブックリストは多く出版されているが、断片的で体系性に欠け、知識としてのまとまりが感じられないことが多い。読書内容よりも、知識に敬意を持って読書し続ける態度が重要だというようなものもある。どうやら知的であることは重要だという合意はあるようなのだが、その知識の中身は問われないのだ。

 このような現代的「教養」観は、倫理的あるいは審美的すぎるか、個人的すぎ、あまり社会性というのが感じられない。それは、身勝手な行動を制御したり、人に不快な思いをさせない、またそれを持っている人の品格も感じさせるものではある。しかし一方で、集団での意思決定に影響するようなダイナミズムに欠ける。このような、集団を統合・方向づけるような知識としての「教養」はもう必要無いのだろうか?

 そうではないだろう、というのが僕の考えだ。日本が民主主義国家でやっていく以上、集合的な意思決定ができるだけまともになるよう、国民の知的レベルは重要だ。スジの悪い決定は国民に被害を及ぼす。職業人や生活人、あるいは運動家として、その振舞いが人格の高貴さを感じさせる、そのような人間が多くいてもいい。だが、その彼らが政策的に無知で、議論や投票行動において相対的に悪い政策が選択されことは、やはり社会として不幸なことなのである。

 で、やっとこの本についてだが、これはそうした公共での意思決定において欠かせない知識を「教養」として定義している──と、僕は深読みする。これは人格の高貴さとかと無関係に存在する知識のパッケージである。タイトルで「経済学」と特定のイメージのある一領域を名指ししてしまっているので誤解を招くかもしれない。社会全体の幸福を増すことのできる知識さらには政策技術で、理論的根拠を持ちかつ実証性のあるものと広く捉えてもいい。個人として人生の洗練を目指すよりも、この意味での「教養」を取得する方が、より簡単でかつ社会への貢献も大きいと思える(その人の品性が改善されていなくても、だ)。

 2008年神戸での図書館大会で、滋賀県高月町立図書館の明定義人さんがこの本を取り上げていた。どういう文脈だったかもう覚えていないが、このレベルの本ぐらい公立図書館は蔵書としておくべき、ということだったような。この本で展開される議論は不十分さも感じられ、不満が残る部分もある。だが、著者の高い問題意識を汲んで──その教養観は公共図書館のサービスと少なからず関係があるものだ──、それを評価できる人がちゃんと図書館の世界にいることに「まだ捨てたもんじゃない」という感覚を覚える。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公共的な“図書館サービス対象者”の決定

2009-01-04 19:48:40 | 読書ノート
ダグラス・レイバー『司書職と正当性:公立図書館調査のイデオロギー』川崎良孝訳, 京都大学図書館情報学研究会, 2007.

 1940年代後半、米国で行われた『公立図書館調査』について、そのプロジェクトに関わった者の主張や思想的背景について検討する書籍である。記述は、プロジェクトに持ち込まれた概念や主張の再現と整理に終始し、あまり批判的な視点は見られない。(現在も未解決な「公立図書館の公共性」の問題を扱っており、性急な批判を控えた点は本書の価値を高めているといえるかもしれない)。

 『公立図書館調査』と言えば、図書館・情報学研究者の間では、ベレルソンの調査と勧告のみが知られている。それはこうだ。調査によれば、公共図書館の利用者は、その地域に住む住民のごく一部によって占められ、なおかつ階層の上でも中流層への偏りがある。したがって、彼らに重点を絞ったサービスを行うべきである、と。本書によれば、『調査』は彼以外にも、15冊以上の報告書を世に送り出した大プロジェクトであったことがわかる。

 ベレルソンがなぜ全住民へのサービスという方向について考えなかったのか、今までよくわからなかったが、本書を読んではじめて彼のロジックもわかった。彼も含めて、プロジェクトの結論は「公立図書館は生産活動または政治に影響力のある層への重点的なサービスを行うべき」ということだった。

 調査では、全住民を利用対象者とするような蔵書やサービスは、蔵書を娯楽化して知的レベルを低下させると考えられた。特に民間の娯楽の提供業者と争うことは望ましくないことだと考えられていた。娯楽の提供は、長期的には公的サービスであることの根拠を破壊し、さらに民間業者に勝てないと考えられたからだ。

 一方で、利用者の偏りも次のような論理で肯定できると考えられた。図書館がもたらす便益は、生産的な利用者層が図書館で得た情報を社会に活かすことで全住民に行き届くはずであると。特に「民主主義体制の維持」という形でその便益があらわれると考えられた。

 訳者が解説で疑問を呈しているように、『調査』はエリート層の知性と良心に頼りすぎているように思える。しかしながら、情報の消費を民間企業と大衆の判断力に依存できるならば、そもそも公立図書館は不要だろう。社会を維持するために“ある種の情報”への特別待遇が必要である、そう考えなければ図書館に公費を支出する理由を確立することはできないように思われる。『調査』のこうした認識は今でも意義深い。

 これは民間の選択と政府の決定のどっちがいいかという議論に繋がっている。公立図書館が必要だと信じる限りは、後者に依拠せざるえないと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする