29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

日本のバブルの栄光と歌手にとっての黒歴史が交錯する

2016-03-31 21:12:58 | 音盤ノート
Bebel Gilberto "海を見ていた午後" meldac, 1991.

  ボサノバ。ジョアン・ジルベルトの娘がポルトガル語で歌う松任谷由実カバー曲集。字面だけ見ると不可解すぎて絶対ありえなさそうだが、現実に存在する作品である。曲目は「卒業写真」「何もきかないで」「やさしさに包まれたなら」「翳りゆく部屋」「瞳を閉じて」「きっと云える」「海を見ていた午後」「 ルージュの伝言」「少しだけ片想い」「曇り空」の10曲。僕は3曲しか原曲を知らないのだが、けっこうマニアックな選曲ではないだろうか。日本企画盤であり、現地ブラジルのミュージシャンを使ってのリオ録音となっている。

  出来は良くなくて、1980年代後半のアダルトコンテンポラリー的なボサノバ(初期の小野リサもそうだった)解釈である。シンセ音がチープで、本当に安い。まだ若いベベウ・ジルベルトはスルっとした歌唱法で引っかかるものがなく、後年の「ドスを効かせた包容力」みたいな魅力がまだない。ただドライブBGM狙いの企画だったと想像され、出資した日本側はボーカリストの個性よりも、聞き流せる程度のスタイルで、曲のメロディをしっかり辿ってくれることを期待していただろう。べベウはその任をきちんと果たしたとは言える。

  残念ながら日本盤CDは廃盤で、現在はEvolverなる米国のレーベルが"De Tarde Vendo O Mar: Sounds of Brazil"というタイトルで曲順を変えてCDを発行している。日本盤では「ベベール・ジルベルト」と帯にでかでかと記されているのに、米国盤ではなぜかジャケット等でアーティスト名が無記名である(演奏者クレジットにはその名が記載されている)。

  本作は彼女のデビューフルアルバムとなるが、本人としては自分で初めて全体をコントロールして作った"Tanto Tempo"(2000)がデビュー作のつもりだったのだろう。2002年に出たこの米国盤にリーダー作品としてクレジットされるのを嫌がったのかもしれない。とはいえ、最近の本人HPを見ると本作はきちんとディスコグラフィに上がっている。キャリアを重ねて余裕がでてきたのだろうし、宮崎駿作品のおかげで松任谷由実の名もそこそこ国際的に認知されるようになっているという事情があるのかもしれない。

  いずれにせよバブル時代の日本の財力と、当時の日本人のボサノバへの深い関心を示す逸品であり、貴重な音源である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボサノバ創成期の群像、埋もれた人物にもスポットを当てる

2016-03-28 12:58:45 | 読書ノート
ルイ・カストロ『パジャマを着た神様:ボサノヴァの歴史外伝』国安真奈訳, 音楽之友社, 2003.


  『ボサノヴァの歴史』の続編で、原著は2001年のA onda que se ergueu no mar。原題をGoogle翻訳にかけると「海の中で上昇した波」と訳された。全19章あるが、それぞれがミュージシャンを一人か二人採りあげてのオマージュ・エッセイとなっている。邦題の「パジャマを着た神様」とはジョアン・ジルベルトのこと。彼のほか、ジョビン、ナラ・レオン、ジョアン・ドナートなどが採りあげられている。日本ではあまり知られていないボサノバ勃興前の歌手、オルランド・シルヴァ、ディック・ファルネイ、ルーシオ・アルヴィスについても詳しい。なぜかブリジット・バルドーのリオ滞在記もある。

  ジョビンの音楽の影響関係の考察──彼の曲に付けられた英詞がいかに酷かったか、というのもある──や、ジョアンの隠遁生活については複数章にまたがる。特に興味深かったのは、テノーリオ・ジュニオールという、軍事政権下のアルゼンチンで無実の罪で拘束されて拷問死したピアニストの悲劇をまくらにした章。1966年頃にブラジルのレコード会社は、「国内で売れない」というのを理由に、インスト系の演奏者に録音機会を与えなくなってしまったという。その結果、歌手を除いたブラジル人演奏家の大量国外移住(主に米へ)が起こり──例えばデオダートやセルジオ・メンデス、アイルト・モレイラ──、海外でのボサノバ~ジャズ・サンバの普及につながった、と。他の章では日本にも少々言及があって、1990年代にはリオの中古レコード店で一心不乱に1950年代~60年代の中古盤を探す日本人バイヤーがいた(おそらくリイシューのため)とか、ナラ・レオン晩年の録音は日本のレコード会社の企画だったと記されている。

  惜しむらくは、ブラジルの国内事情以外では、米国との関係に視野が限られており、1990年代のボサノバ再評価の理由を把握してきれいないこと。そのためには1980年代の英国ネオアコや、ニッチな需要にも応えようとした日本のバブル時代の経済力(上のナラ・レオンがヒントになったはず)に言及する必要があると思うのだが、まあそれは著者の仕事ではないかもしれない。あと、著者はボサノバ至上主義者らしく、その後に出てきたMPBを批判している。通常どっちも好きだろと思うのだが、ブラジル国内では違うんだろうな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反自由市場主義と留保付きの計画経済の再評価

2016-03-25 19:26:17 | 読書ノート
ハジュン・チャン『世界経済を破綻させる23の嘘』田村源二訳, 徳間書店, 2010.

  一般向けの経済書。著者は韓国出身の経済学者で、現在はケンブリッジで教えているらしい。原書は23 things they don't tell you about capitalism (Bloomsbury Press, 2010)である。韓国の開発独裁時代を肯定的に捉える一方、自由化の結果雇用が不安定になった現在を嘆いている。国の秀才がこぞって医者になろうとする現在の韓国は、人材をうまく社会に配置できていないというわけだ。

  全体は2008年の世界経済危機を受けての議論で、規制無き自由市場への反対論と、政府による市場への介入の肯定論がその基本的な主張である。自由市場は先進国の雇用を不安定化し、また途上国の発展を阻害してきた。歴史的には、経済が今よりもっと規制され・保護されていた時代に先進国は発展し、途上国の中から抜け出した東アジア諸国もまたそうだった。というわけで、著者は政府規制と保護主義を肯定する。とはいえ、あくまでも資本制をベースとした主張で、資本主義反対論ではない。

  ただし、その裏付けは歴史的であったり、諸外国間の比較に基づくもので、理論的なものではない。規制なしに市場はうまく機能しないという著者の主張は理解したものの、ではどのような規制が必要かという議論がなくてちょっと物足りない。本書で1960年代~70年代は良かったとされるものの、やはり時代がもたらす条件は異なっているだろう。

  面白かったのは、インフレと高等教育の章。「インフレは悪くない」という説は既知だったが、それでも年率2~5%ぐらいに納まるべきだと考えていた。本書に従えばなんと20%(‼)でも経済成長を阻害しないことがあるようだ。あと、大学進学率の低いスイスの1人当たりGDPの高さを挙げて、高等教育は無駄な出費であり経済発展とは無関係だとする議論もある。「大学にもっと税金をつぎ込んでくれ」と願う教員としては実に都合の悪い指摘である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

録音から40年を経て発掘されたボサノバの貴重音源

2016-03-23 17:51:05 | 音盤ノート
Stan Getz, Joao Gilberto "Getz/Gilberto '76" Resonance Records, 2016.

  ジャズ・ボサノバ発掘音源。Bill Evans最期のライブ会場として知られるサンフランシスコのキーストンコーナーでのライブ録音。同年発売の"The Best of Two Worlds"を元にした演奏で、ゲッツとジョアンの他、ゲッツ組のJoanne Brackeen(p), Clint Houston(b), Billy Hart(ds)がバックをつとめている。

  音質は完璧とは言えないが、ストレスを感じるほどではない。録音は1976年5月11日から16日までの演奏からチョイスされている。曲目はジョアンのレパートリーばかりで、編集されているとはいえ実際もそうだったのだろう。歌ってギターを弾くジョアンが主であり、ゲッツはバンドを貸して時折サックス吹くだけである(曲によってはまったく登場しない)。そこまで主導権を渡すほどゲッツはこの企画に前向きだったわけだ。そもそも仲がよいわけでもない(と推測される)この二人が一週間も同じステージに立っていたと思うと驚きである。しかもジョアンが楽しそうだ。リラックス感と緊張感のバランスが絶妙な素晴らしい演奏が続き、55分間が短く感じられるほど。

  というわけで絶賛したい。ジャズとして聴くとアドリブ部分が少なすぎるが、ボサノバ作品として聴くならば"The Best of Two Worlds"より出来がいいといえる。関係者のインタビューを掲載したブックレットも充実しており、丁寧に作られた発掘音源である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文系教育擁護論だが、獲得できるとされる能力に疑問あり

2016-03-21 17:56:39 | 読書ノート
マーサ・C.ヌスバウム『経済成長がすべてか?:デモクラシーが人文学を必要とする理由』小沢自然, 岩波書店, 2013.

  人文系教育擁護論。著者はNY出身の白人インテリ女性だが、やたらインドの話が出てくる。うろ覚えだが「アマルティア・センの潜在能力アプローチを支持する徳倫理学者」という解説を何かの本で読んだことがある。タゴールの教育思想が高く評価されるのはそういった影響関係のゆえなのだろうか?原書はNot for profit : Why democracy needs the humanities (Princeton University Press, 2010.)である。

  内容はこう。米国の教育は理工系指向・職業指向に傾きすぎており、人文系予算が削られつつある。しかし、教育の目的は職業訓練だけではない。民主主義社会を維持するための能力の形成も重要である。その能力とは「批判的な思考能力」と「共感の能力」である。これらは他者を理解し共存しながら、建設的に社会を維持してゆくために必須である。これらを身につけさせるために芸術や文学の教育は欠かせない、と。

  あまり説得力はない、というのが正直な感想。民主主義社会に「批判的な思考能力」と「共感の能力」が必要という点については完全に同意する。だが、人文系教育がそうした能力を育成するという話はエピソードの域を出ていない。人文系学部出身の知識人が今も昔もどれほど独善的な議論を展開してきたことか。それを思うとまったく首肯できない。また、社会科学や理工系の教育が挙げられた能力の習得とまったく無縁だとも考えられない。二つの能力は、学問領域を人文系教育としなくても習得可能だ。単純化すれば、役割を設定し、立場を入れ替えるような議論の訓練で済むものである。

  個人的に文学部出身であり今も文学部で教えている人間なので、説得力ある文系擁護論を求めていた。19世紀的な教養論においては道徳的卓越性が、最近の経済学の影響を受けた芸術文化肯定言説においては国家イメージへの寄与が挙げられてきた。ただ前者は階級的に感じられ、後者は芸術の意義を卑小化するものと感じられる。本書はそれらとは別の論理を組み立ててはいるが、成功していると言うことはできないだろう。結局、芸術や文化についての教育が社会に(個人にではなく)どのようなメリットをもたらすのかは、よくわかっていないということなんだろう。あるいはリベラル的立場からは、(本音としてある)文化に伴う卓越主義を掲げることができない、とかね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕が移籍した先の学科長が組織からいなくなるというジンクス

2016-03-18 20:12:30 | チラシの裏
  この話は卒業生らにはすでに公にしたからもうタブーではないと思うが、僕の上司である英文科の学科長・平川先生が今月をもって文教大を退職してしまう。ただし引退というわけではなく別の大学への異動だ。それに伴って彼女に師事していた大学院生も別の大学に行く。異動の理由は表向き「家から通いやすい近所の大学から話があった」ということらしい。実のところは、管理職となって学務の負担が大きくなったからだろう。彼女は研究も教育もかなり熱心だった(学部ゼミ生を海外に連れて行って学会発表させるほどだった)ので、学科長としての余計な仕事は不満がたまるものだったと思う。今になって、僕のようなヒラ教員がもうちょっと学務のお手伝いをすればよかったと後悔している。(なお平川先生は非常勤講師として来年度引き続き文教大で授業を持つことになっている)。

  ちょっと引っかかっているのは、僕が移籍してきた当初の学科長がみな、数年するとイレギュラーな辞め方(定年を待たないという意味で)をしていること。前任校に赴任した最初の年に英文科に所属したが、そのときの英文学科長は一年経つと退職して文部科学省の教科書審議官になってしまった。その後同じ短大の日文科に移籍したのだが、そのときの日文学科長は、定年までまだ数年あるにもかかわらず、なぜか僕が来て一年で辞めてしまった。彼は現在悠々自適の老後を送っているはずである。そして文教大に僕が移って三年間上司だった平川先生の異動である。偶然であって僕が部下として嫌われているからではないと思うが、嫌なジンクスである。ちなみに最初の学科長が辞めたあとの次の学科長は、僕が学科からいなくなって以降も同じ役職を務めている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

参加メンツから想像される音よりはずっとソフト

2016-03-16 22:10:07 | 音盤ノート
Marisa Monte "Mais" EMI, 1991.

   MPB。マリーザ・モンチは、前回のカエターノ・ヴェローゾと同様、1990年前後のワールド・ミュージック時代を代表するブラジル人スター。ロンドン五輪の閉会式にも登場していた。本作は彼女の二作目で、米国ではデビュー作となる。日本盤も発行された。

  今となっては大して意味もないことだが、若いころの僕は参加ミュージシャンの情報を理由にこのアルバムを手にした。Arto Lindsayプロデュース、元Lounge LizardsのDougie BowneとMarc Ribot、John Zornと坂本龍一が数曲で参加という具合である。このほか、P-Funk系の鍵盤奏者であるBernie Worrell、ロフトジャズ出身のMelvin Gibbs、Pat Metheny Groupに短期間在籍したArmando Marcal、今月亡くなってしまった(合掌)Nana Vasconcelosもまた参加している。

  参加メンバーを元に想像するならば、Gang of Fourのようなポストパンクまたはジャズファンクにブラジル風味が添加された音を思い浮かべる。だが実際は、ポルトガル語で歌われる、抑制の効いた少々パーカッシブなロックである。初めて聴いたときはいたって普通だと感じた。もうちょっと過激なものを期待していたので、当時不満だったことを覚えている。今でも楽器編成の厚い曲におけるその印象は変わらない。とはいえ、アコースティックギターと薄めの打楽器(たまに鍵盤)を従えただけのボサノバ曲はなかなか魅力的である。演奏時間が短いのがもったいないぐらい。

  曲はモンチとNando ReisとArnaldo Antunesによるものが大半で、ピシンギーニャやCartolaの曲が少々挿入されるという構成。本作の方がMPB史における重要度が高いけれども、個人的には次作"Rose & Charcoal"(EMI, 1994)の方が好みである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グーグルの協力を取り付けた空前の物量によるデジタル人文学

2016-03-14 09:29:47 | 読書ノート
エレツ・エイデン, ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス:文化をビッグデータで計測する』坂本芳久訳, 高安美佐子解説, 草思社, 2016.

  計量書誌学。グーグル社の協力のもと、同社が電子化した膨大な書籍を対象にして、時代毎の語の出現頻度の変化を調査した結果と、そうした研究の経緯を紹介する内容である。原書はUncharted : Big data as a lens on human culture (Riverhead Books, 2013)で、著者二人はハーバード大出身の若手研究者。邦題の「カルチャロミクス」は著者らの造語で本文中に時折登場する。アメリカ英語学会が選ぶ2010年の「もっともすぐに廃れそうな言葉」の部門の栄誉に輝いたという。

  2000年代半ばからGoogleが電子化してきた紙の書籍だが、その一部をそのまま公開しようとしても著作権の壁に阻まれてしまう。けれども、単語や句だけを切り取って表示し、出典がわからなくなれば大丈夫、というわけで、著者らはNグラム・ビューワーを開発する。ただし、研究はビューワーの公開以前から行われていて、19世紀初頭から現在までに至る期間の、各種の語彙の出現頻度を調べている。検証されるのは、不規則に変化する動詞(drive-droveなど)の数の減少、新語や新たな言い回しの普及パターン、有名人や新発明・新発見が書籍で言及されるパターン、検閲による言論弾圧が少なくとも検閲が継続している間は効果的であることなどである。このほか、グーグル社との交渉や、データのバイアスに対する考え方、一つの概念に複数の表現用語彙がある場合の処理などについても解説されている。付録として最後にライバルとなる語(football/baseball, fever/cancerなど)の栄枯盛衰がわかるグラフが付されている。

  本書で紹介される「ジップの法則」が発見されたのが1930年代であることからわかるように、計量書誌学にはそれなりの歴史がある。しかし本書には先行研究への目配りがあまりなく、その点が気になったところだ。記述からは、どうも計量書誌学の文脈にこの研究を位置づけようという気が著者らにはないらしいことがうかがえる。個人的には「結局、検索キーワードとテキスト上の語彙がマッチングしたのを数えているだけだろ。凄い新しい研究であるかのように装うのは大げさ」という気になった。だが、確かに対象期間と文献量は圧倒的であり、過去に例を見ないものである。やはり新しいのかな。確かに面白い。物量の勝利だろう、これは。 

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米国向けブラジル音楽紹介本。邦訳は初版から

2016-03-11 22:13:32 | 読書ノート
クリス・マッガワン, ヒカルド・ペサーニャ『ブラジリアン・サウンド:サンバ、ボサノヴァ、MPB ブラジル音楽のすべて』武者小路実昭, 雨海弘美訳, シンコー・ミュージック, 2000.

  米国向けのブラジル音楽解説本。著者二人は米国の音楽ライター。原書The Brazilian Sound (Temple University Press)の初版は1998年刊行で、2008年に改訂版が発行されている。残念ながら邦訳は、初版を元にしたものが発行されているだけで、かつ絶版状態のようである。また、本としての体裁も問題ありで、A5版のソフトカバーというのは普通なのだが、活字が小さい上にゴシック体での印字で読み難く、おまけに曲名表記がカタカナ。アルファベットの綴りがわからないので検索が面倒このうえない。

  それでも中身は充実しており、ブラジル植民史、特に黒人奴隷が持ち込んだ音楽文化を手際よくまとめつつ、サンバ、ボサノバ、MPB、ミナス系、その他地方、ジャズ、ロックと展開してゆく。時間が前後することもあるが、おおむね時代順に記述が構成されており、1990年代半ばまでの動向がわかるようになっている。「米国向け」だというのは、ミュージシャンを紹介する際に「パット・メセニーが言及」「ハービー・ハンコックが称賛」等、米国の音楽(ほぼジャズ)への影響によって評価を決めているところがあるからである。ジャズを聴かない人にはピンとこないだろう。

  本書を頼りに音を聴いてみた個人的な印象だが、やはり1950年代後半から1970年代いっぱいまでがブラジル音楽の全盛期であると感じる。すなわちボサノバ~MPB期であるが、著者が指摘する通りこの時期は軍政期であり、1960年代後半から70年代後半までは特に検閲が厳しかった時代である。反体制を理由に拘留されたとか、歌詞が検閲に引っかかって発表できなかったという話が本書で多く紹介されている。また、英米からの影響があからさまであるような楽曲はナショナリストから批判されたようだ。こうした世相が、検閲を潜り抜ける洗練された歌詞と、英米の大衆音楽を吸収しつつも民族性を強く刻印した独特の音楽を生み出したのだろう。他人の言を借りつつも、著者は「検閲が音楽的創造にプラスの影響を与えた」とほのめかしている。

  一方、抑圧が無くなった1980年代半ば以降のブラジルの音楽についても本書は長く記述しているが、実際に音を聴いてみるとマリーザ・モンチのような一部のミュージシャンを除けば、あまり面白くない。ロック系などはそれなりに質の高いものもあるが、それならば彼らに影響を与えたと思われる英米産ので十分と感じるレベルである。

  ただし、危機や抑圧があれば逆に芸術が発展するという紋切型の考えは、検閲のあった時代やまた現在もあるような国を思い浮かべても、そうやすやすと首肯できるものでもないことも確かだ。直観としては、ミュージシャンが持つジャズやロックなどの外国音楽への嗜好と、国内の一般大衆が持つドメスティックな嗜好の緊張関係のほうが重要な気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

打楽器隊がバックサウンドの要となるクルーナー作品

2016-03-09 22:41:19 | 音盤ノート
Caetano Veloso "Livro" Mercury/Polygram, 1997.

  MPB。カエターノ・ヴェローゾは1960年代後半からのキャリアを積んできたMPB界の大御所だが、国際的に注目を浴びるようになったのは1980年代後半からで、その頃からブラジル盤以外にUS盤も発行されるようになった。Milton NascimentoやIvan Lins、Djavanらが1980年代前半までに米国ジャズミュージシャンらに見いだされて米国録音するようになっているのだから、少々遅い。とはいえその遅れは、逆にメリットになった。前に挙げた3人がジャズ~アダルト・コンテポラリー文脈で受容されてしまったのためにアピール層が限られてしまった(当時「アダルト・コンテンポラリー」は僕のようなロック少年にとっては限りなくダサいものだった)。一方、1980年代後半になると「ワールド・ミュージック」なる新ジャンルを音楽メディアがもてはやすようになっていて、彼はそのジャンルでマーケティングされた。おかげ地方在住の高校生でもヴェローゾの名を耳にすることができたのである。

  初めて聴いたのは"Circuladô"(Polygram, 1991)で、「Arto Lindsay参加」という情報に釣られたせいだ。この前後のアルバムは良かった。しかし、1970年代にさかのぼってゆくと、アルバムを通して聴きとおすのがけっこう辛い。サイケデリックロック的なサウンドが古すぎるか、あるいはボサノバギターを従えて甘く歌いあげるクルーナー曲ばかりで飽きるのである。80年代後半の世界進出時(および彼の全盛期)は、厚い打楽器隊でバックを埋め、歪んだエレクトリックギターを隠し味的にまぶすことで、根はマイルドなのに音は刺激的だとして成功した。この"Livro"もこの路線を踏襲するもので、一皮向けばポップで甘いクルーナーボーカルがのった優雅なビッグバンドジャズだったりボサノバだったりするのだが、やたら躍動的な打楽器隊と場違いなエレクトリックギターによって当時は前衛的なサウンドに聴こえた。というわけで意匠が重要という作品である。20年近く経た今でも古びていないのは、収録曲のクオリティも高いからだろう。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする