Ronald B. McCabe Civic Librarianship : Renewing the Social Mission of the Public Library. Scarecrow Press, 2001.
米国公共図書館論。20世紀最後の四半世紀に図書館員の間に広まった「個人に情報アクセス機会を提供する機関」というコンセプトを批判して、共同体の自治のために参加を促しかつそのための教育を施すことが図書館の正しい目的であると説く。著者は公共図書館の司書および図書館長の経験者で、明確にコミュニタリアニズムの立場を支持している(アミタイ・エツィオーニがしばしば言及される)。
著者によれば、1970年代以降の米国公共図書館はリバタリアン思想に染まってしまったという。この「リバタリアン」という語彙のために誤解が起きると思われる。注意すべきこととして、本書の用法ではいわゆる最小限の政府を求める自由至上主義というだけでなく、リベラリズム、相対主義、個人主義を包含する表現であると理解する必要がある。
「リバタリアン図書館」思想は二つの個人主義で構成される。その一つは功利主義的個人主義で、個人の富の追求を肯定するというお馴染みの考え方である。もう一つは表現的個人主義である。それは共同体は個人を抑圧するものだとみなし、制度や慣習からの徹底的な解放を目指す。この立場からは、教育なるコンセプトは本来の人間性を歪める悪であり、共同体の価値に同意するよう強制・誘導されるべきではないとされる。そして、そのルーツはロマン主義に、米国での普及は1960年代であるとする。(表現的個人主義は、通常ならば急進的なリベラリズムあるいは文化左翼と呼ばれているものである)。
この「リバタリアン図書館」思想を表現しているのが、「個人に情報アクセス機会を提供する機関」というコンセプトである。これは公共図書館の目的から共同体の価値へのコミットを排除し、要求論に従った資料選択を促すこととなった。図書館と利用者の関係は、店舗と顧客のような関係になった。しかし、と著者は問う、地域共同体へのメリットが不明確ならば、地域共同体がそのために財政支出することを正当化することは難しいのではないか、と。またそれは、民間企業と競合するという、問題のある立場に公共機関を置いているのではないか、と。さらに、それが有する価値相対主義は、地域の人々が図書館に献身する──ボランティアではなく、低賃金労働が想定されている──理由を消失させてしまうとも指摘する。
では、どうすればよいのか。著者は、公共図書館の目的が共和国のよき市民を育成することだというのを再確認し、図書館員はその役割を意識的に引き受けるべきだという。そのうえで、議論の場の提供、地域の他の団体との連携、「バランスの取れた」蔵書構築──明確にそう述べられてはいないが、論旨からは共同体の価値に会わない資料の収集・提供は拒絶できると推定される──などを積極的に行うべきだとする。
以上。「リバタリアン図書館」への批判は筋が通っていると思う。だが、代わりに提示されたコミュニタリアン図書館が魅力的に見えるかとういうと、そうは感じない。現代の情報環境は図書館を選択肢として周縁に追いやっており、「図書館による市民育成?無理でしょ」という気になる。というわけで、問題提起のところは無視できないけれども、処方箋には説得力がないというのが評価となる。
一点、オルデンバーグの『サードプレイス』が参照されている点は興味深い。日本においては、「個人に情報アクセス機会を提供する機関」というコンセプトとの関係が未整理のまま「場としての図書館」論が最近の主流になってしまった感がある。本書では、リバタリアン図書館に代わる共同体志向の新たな図書館論を補強するものとしてサードプレイス論が導入されている。つまり、コミュニタリアン図書館は情報提供重視の図書館とは相容れないということになるらしい。
米国公共図書館論。20世紀最後の四半世紀に図書館員の間に広まった「個人に情報アクセス機会を提供する機関」というコンセプトを批判して、共同体の自治のために参加を促しかつそのための教育を施すことが図書館の正しい目的であると説く。著者は公共図書館の司書および図書館長の経験者で、明確にコミュニタリアニズムの立場を支持している(アミタイ・エツィオーニがしばしば言及される)。
著者によれば、1970年代以降の米国公共図書館はリバタリアン思想に染まってしまったという。この「リバタリアン」という語彙のために誤解が起きると思われる。注意すべきこととして、本書の用法ではいわゆる最小限の政府を求める自由至上主義というだけでなく、リベラリズム、相対主義、個人主義を包含する表現であると理解する必要がある。
「リバタリアン図書館」思想は二つの個人主義で構成される。その一つは功利主義的個人主義で、個人の富の追求を肯定するというお馴染みの考え方である。もう一つは表現的個人主義である。それは共同体は個人を抑圧するものだとみなし、制度や慣習からの徹底的な解放を目指す。この立場からは、教育なるコンセプトは本来の人間性を歪める悪であり、共同体の価値に同意するよう強制・誘導されるべきではないとされる。そして、そのルーツはロマン主義に、米国での普及は1960年代であるとする。(表現的個人主義は、通常ならば急進的なリベラリズムあるいは文化左翼と呼ばれているものである)。
この「リバタリアン図書館」思想を表現しているのが、「個人に情報アクセス機会を提供する機関」というコンセプトである。これは公共図書館の目的から共同体の価値へのコミットを排除し、要求論に従った資料選択を促すこととなった。図書館と利用者の関係は、店舗と顧客のような関係になった。しかし、と著者は問う、地域共同体へのメリットが不明確ならば、地域共同体がそのために財政支出することを正当化することは難しいのではないか、と。またそれは、民間企業と競合するという、問題のある立場に公共機関を置いているのではないか、と。さらに、それが有する価値相対主義は、地域の人々が図書館に献身する──ボランティアではなく、低賃金労働が想定されている──理由を消失させてしまうとも指摘する。
では、どうすればよいのか。著者は、公共図書館の目的が共和国のよき市民を育成することだというのを再確認し、図書館員はその役割を意識的に引き受けるべきだという。そのうえで、議論の場の提供、地域の他の団体との連携、「バランスの取れた」蔵書構築──明確にそう述べられてはいないが、論旨からは共同体の価値に会わない資料の収集・提供は拒絶できると推定される──などを積極的に行うべきだとする。
以上。「リバタリアン図書館」への批判は筋が通っていると思う。だが、代わりに提示されたコミュニタリアン図書館が魅力的に見えるかとういうと、そうは感じない。現代の情報環境は図書館を選択肢として周縁に追いやっており、「図書館による市民育成?無理でしょ」という気になる。というわけで、問題提起のところは無視できないけれども、処方箋には説得力がないというのが評価となる。
一点、オルデンバーグの『サードプレイス』が参照されている点は興味深い。日本においては、「個人に情報アクセス機会を提供する機関」というコンセプトとの関係が未整理のまま「場としての図書館」論が最近の主流になってしまった感がある。本書では、リバタリアン図書館に代わる共同体志向の新たな図書館論を補強するものとしてサードプレイス論が導入されている。つまり、コミュニタリアン図書館は情報提供重視の図書館とは相容れないということになるらしい。