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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

コミュニタリアニズムを標榜する米国公共図書館論、サードプレイス論も含む

2023-11-27 07:00:00 | 読書ノート
Ronald B. McCabe Civic Librarianship : Renewing the Social Mission of the Public Library. Scarecrow Press, 2001.

  米国公共図書館論。20世紀最後の四半世紀に図書館員の間に広まった「個人に情報アクセス機会を提供する機関」というコンセプトを批判して、共同体の自治のために参加を促しかつそのための教育を施すことが図書館の正しい目的であると説く。著者は公共図書館の司書および図書館長の経験者で、明確にコミュニタリアニズムの立場を支持している(アミタイ・エツィオーニがしばしば言及される)。

  著者によれば、1970年代以降の米国公共図書館はリバタリアン思想に染まってしまったという。この「リバタリアン」という語彙のために誤解が起きると思われる。注意すべきこととして、本書の用法ではいわゆる最小限の政府を求める自由至上主義というだけでなく、リベラリズム、相対主義、個人主義を包含する表現であると理解する必要がある。

 「リバタリアン図書館」思想は二つの個人主義で構成される。その一つは功利主義的個人主義で、個人の富の追求を肯定するというお馴染みの考え方である。もう一つは表現的個人主義である。それは共同体は個人を抑圧するものだとみなし、制度や慣習からの徹底的な解放を目指す。この立場からは、教育なるコンセプトは本来の人間性を歪める悪であり、共同体の価値に同意するよう強制・誘導されるべきではないとされる。そして、そのルーツはロマン主義に、米国での普及は1960年代であるとする。(表現的個人主義は、通常ならば急進的なリベラリズムあるいは文化左翼と呼ばれているものである)。

  この「リバタリアン図書館」思想を表現しているのが、「個人に情報アクセス機会を提供する機関」というコンセプトである。これは公共図書館の目的から共同体の価値へのコミットを排除し、要求論に従った資料選択を促すこととなった。図書館と利用者の関係は、店舗と顧客のような関係になった。しかし、と著者は問う、地域共同体へのメリットが不明確ならば、地域共同体がそのために財政支出することを正当化することは難しいのではないか、と。またそれは、民間企業と競合するという、問題のある立場に公共機関を置いているのではないか、と。さらに、それが有する価値相対主義は、地域の人々が図書館に献身する──ボランティアではなく、低賃金労働が想定されている──理由を消失させてしまうとも指摘する。

  では、どうすればよいのか。著者は、公共図書館の目的が共和国のよき市民を育成することだというのを再確認し、図書館員はその役割を意識的に引き受けるべきだという。そのうえで、議論の場の提供、地域の他の団体との連携、「バランスの取れた」蔵書構築──明確にそう述べられてはいないが、論旨からは共同体の価値に会わない資料の収集・提供は拒絶できると推定される──などを積極的に行うべきだとする。

  以上。「リバタリアン図書館」への批判は筋が通っていると思う。だが、代わりに提示されたコミュニタリアン図書館が魅力的に見えるかとういうと、そうは感じない。現代の情報環境は図書館を選択肢として周縁に追いやっており、「図書館による市民育成?無理でしょ」という気になる。というわけで、問題提起のところは無視できないけれども、処方箋には説得力がないというのが評価となる。

  一点、オルデンバーグの『サードプレイス』が参照されている点は興味深い。日本においては、「個人に情報アクセス機会を提供する機関」というコンセプトとの関係が未整理のまま「場としての図書館」論が最近の主流になってしまった感がある。本書では、リバタリアン図書館に代わる共同体志向の新たな図書館論を補強するものとしてサードプレイス論が導入されている。つまり、コミュニタリアン図書館は情報提供重視の図書館とは相容れないということになるらしい。
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米国大卒女性においてはキャリアか育児かの二択問題が残る

2023-11-23 21:20:03 | 読書ノート
クラウディア・ゴールディン『なぜ男女の賃金に格差があるのか:女性の生き方の経済学』鹿田昌美訳, 慶應義塾大学出版会, 2023.

  男女の賃金格差の原因について経済学的視点から探った一般向け書籍。2023年のノーベル経済学賞の受賞者の邦訳となる。原書はCareer & Family: Women's Century - Long Journey toward Equity. (Princeton University Press, 2021.)である。

  書籍全体の2/3を使って、20世紀米国の大卒女性における育児・仕事・キャリアの選択の変化を検討している。仕事とキャリアは異なる。仕事とは、年を経ても業務内容が変化せず、いったん職を離れてもまた同じような待遇で復帰できるもの──教師、看護師、図書館員が代表的──である。対してキャリアとは、成果によって職場における階梯の上昇があり、そのために継続的な就労と長時間労働が求められるもの──弁護士や医師(正確にはそれぞれにおける管理者または経営者的地位)が代表的──である。

  第一次大戦前の大卒女性は、結婚したら仕事もキャリアもあきらめる必要があった。第一次大戦後は、独身の間は仕事ができたが、結婚したら家庭に入った。これが第二次大戦後から1960年代半ばまでの大卒女性になると、大学を卒業してすぐに家庭に入り、育児が落ち着いた後に仕事をするというパターンに変化した。1960年代後半から1970年代の大卒女性は卒業後男性と同じようにキャリアを追求したが、子どもを持つことが遅れるか、または持たないことが多かった。1980年代以降になると、キャリアと育児を両立できるようになる。

  こうした変化には、既婚女性を職場から排除する労働慣行があったこと(20世紀半ばに訴訟になって撤廃)や、家電製品が普及して家事負担を楽にしたこと、1970年代以降経口避妊薬がポピュラーになり出産のタイミングをコントロールできるようになったこと、などなどのさまざまな要因が絡んでいる。21世紀の現在、女性の就労を阻んだり、低賃金にとどめておいたりするような社会的障壁は、大卒女性が働くような職種では無くなっている。では、職種や就労年数を調整してもなお現れる男女の賃金格差の原因は何か、というのが残り1/3での問いである。

  その答えは、キャリア形成のために継続的な就労と長時間労働が必要となるが、これが育児とトレードオフとなっているためだ、というものだ。現在、同一職種かつ同一就労年数ならば男性と子無し女性の間の収入格差はなくなっている。一方で、子どもを持つ女性の収入は彼らより少ない。子どもを持つとどうしても労働時間を減らさざるをえないからだ。解決策として「夫婦で均等に育児負担をすればいい」と単純に考えがちだが、そのような役割分担はどちらのキャリアも傷つけ、生涯の収入を大きく減少させることになる。どちらかが仕事をし、もう一方は育児という役割分担のほうが家庭にとってリスクが低い。これが、男女の伝統的な役割分担と重なってしまうのである。

  ならばどうしたらよいのか。著者は三つほど挙げている。キャリアにおいて男女の賃金格差のない職種(薬剤師と獣医が挙げられている)を参考にするならば、顧客に対して個別の専門職職員ではなくチームで対応する職場体制を作るべきだ、というのが一つ。夫に対して妻のキャリアを優先する生き方(つまり自身のキャリアの中断を受け入れること)を選択するよう呼び掛けているのがもう一つである。政府に対しては欧州並みに保育所に政府資金を投入するよう提言している。

  以下感想。著者は専門職を例に挙げて説明していることが多い。そのため上の一つ目の解決策となるが、この案は民間企業における管理職ではうまくいかない気がする。チーム対応といっても判断できる権限者の替えは効かない。なので、上司は部下と接触する機会をできるだけ多く持つ必要があり、職場にいる時間は長くならざるをえない。二つ目の解決策についても、自分より稼ぎの大幅に少ない男性と家族を続ける女性の数はそう多くはないだろうという印象を持つ。また、保育所への政府支出は側面支援的なものにすぎず、女性の就労を促す効果はあるだろうが、キャリア中断問題への対応としては不十分に思える。

  というわけで解決は簡単ではない。しかし、そのことで怒ったり悲観的になるよりも、100年の時を経て女性の雇用労働がそれなりに進んできたことを喜んでもいいのではないだろうか。それにしても、米国エリート層の労働時間が週40時間以上当たり前で60時間だの72時間だのと出てきてビビる。よく生きてられるな。
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西洋および英国の図書館史の論文集、印刷術は短期的には図書館を衰退させたとのこと

2023-11-22 22:28:24 | 読書ノート
Alice Crawford ed. The Meaning of the Library: A Cultural History. Princeton University Press, 2015.

  図書館史。スコットランドのセント・アンドリュース大学図書館の400周年記念論文集で、編者はそこの司書である。三部構成となっており、第一部は図書館の歴史、第二部が文学作品等における図書館のイメージ、第三部が近年の動向、となっている。

  第一部は、ギリシア・ローマ、中世、ルネサンス期、啓蒙期フランス、19世紀英国の会員制図書館、同時期英国の貸本屋と公共図書館、これらを扱う6つの章で構成されている。ルネサンス期を扱う3章によれば、活版印刷の誕生によって書籍収集の減少がもたらされ、個人蔵書は放棄され、図書館は危機に瀕したという。出版物が大量となったため収集への諦念が生み出され、また印刷の対象となったのが大衆向けの宗教文学やニュースであり蒐集家の気を引くものではなかったという二つの理由からだ。16世紀は図書館衰退期とみなせるという。

  5章では、会員制図書館の本質とは英国紳士の社交であり、彼らが強く書籍や情報を求めていたなどと考えるべきではないとくぎを刺される。他の形での社交クラブと同様、それらはクロムウェル時代の反動であり、暴力の時代が忘れられた19世紀末には用済みになって閉鎖が相次いだとのことである。6章は英国の一般大衆の読書行動についてである。19世紀後半では図書館よりも貸本屋のほうが女性が使いやすい業態だったとか、ディケンズやらの個人蔵書の話などについて書かれている。

  第二部は小説、詩、映画それぞれにおける図書館のイメージについてである。それぞれの領域における主要な作品の名を把握するのにはいいけれども、3つの章すべてレトリカルで何が言いたいのかわかりにくい。第三部では、特定著者の手稿が散逸する問題、大学出版局と図書館間の提携、図書館と民主主義(東欧の話中心)の3つについて扱われている。

  以上。玉石混交ながら、第一部は読みごたえがある。シェラが描いた米国の場合とは異なって、英国では会員制図書館の延長に公共図書館があるのではないという知見は、個人的には有益だった。 
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英国00年代の公共図書館改革の途中経過報告

2023-11-09 08:56:44 | 読書ノート
Anne Goulding Public Libraries in the 21st Century: Defining Services and Debating the Future Ashgate, 2006.

  ニューレイバー時代、00年代前半の英国公共図書館論。図書館員におけるリーダー的存在61人へのインタビューによって英国図書館の現状を伝える── John PatemanとJohn Vincent(参考)も登場する。著者はラフバラ大学の先生(執筆時)。このタイトルに話を限れば、著書が実際に議論している範囲を適切にカバーできていなくてダメだと思う。中身は情報量が多い。

  焦点は、文化・メディア・スポーツ省が2003年に発表したFramework for the Futureなる公共図書館の報告書についてである。これを、一部の図書館員は地方自治に対する侵害であるとして批判する。だが、かつての保守党政権が図書館に関心を持たなかったのに比べて、労働党政権は国として指針を示したわけで、報告書は現場の図書館員が自治体を説得する材料となった。このことを評価する図書館員も多かったという。

  英国の公共図書館は、高齢の白人中流層(特に女性)が小説を借りに来る施設だというイメージがある。こうしたイメージを変えるために、若者や移民を利用者とすること、IT化など書籍の貸出以外のサービスの提供、また新しいサービスを実行するための資金獲得、これらが課題となった。インターネット・アクセス端末の設置はおおよそ成功した。ネット接続目当てに従来ならば来館しなかったような社会層が図書館を訪れるようになった。だが、伝統的な利用者を遠ざけていることも懸念もされた。

  また、サービスの多様化や目標の数値化は職員にストレスを与えた。図書館員の間でも、図書館は読書機会の提供の場であり続けるべきか、それともあらゆる人々に情報アクセス機会をもたらす場となるべきか、議論があるという。後者は一部の図書館員に支持されているものの、実際には実現するためのリソースが常に足りない状態となるため、外から見れば図書館を貧弱に見せる結果になっている、あるいは図書館が何をやりたいのか見えにくくさせている、という。

  このほか、1980年代以降英国の公共図書館では貸出数が減少しつつあること、英国では1995年に再販制をやめたが、納入業者がいくつかつぶれたために全国で5~6社ぐらいになったらしく図書館もそれなりに影響を受けたこと、全国的に管理職となる人材が不足していることなどについて議論されている。

  以上。各トピックについて、インタビュイーの間で反対意見もあるが肯定意見もあるという調子でまとめている。2000年代半ばは景気が良かった時期で、数年後のリーマンショックでそれは暗転する。なので、この時期は英国公共図書館としては中興期だったはずだ。2010年代になると、利用者減少と図書館閉鎖という悲惨なニュースしか伝わってこない。それを思うと、一見ニュートラルに記述されている本書も楽観的に感じられる。
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タイパ概念の探求、消費の目的は快楽ではなくネタ獲得

2023-11-04 14:38:14 | 読書ノート
廣瀬涼『タイパの経済学』(幻冬舎新書), 2023.

 「タイパ」すなわちタイムパフォーマンス概念について議論する新書。映画を早送りで見て、書籍は要約されたものを読む、音楽では間奏をスキップする、みたいな消費のベースにある理論だ。著者はニッセイ基礎研究所生活研究部研究員。シンクタンク研究員にありがちなトレンドの分析ではなく、概念定義にチャレンジしているところが特徴である。大学人としてはこの点を「好ましい」と感じる。

  コスパ概念においては費用に対する消費の質が問われた。一方、タイパには質へのこだわりはなく、消費しているコンテンツや活動についてポイントとなる要素を素早く把握できればよい。つまり、可能な限り短い時間でそれを「経験した」と言える状態に達すること、これがタイパ理論で要求される消費である。ならば、タイパのよい消費というのは何のために行われるのか?。著者はその理由を、次のように推論する。そうした消費の経験は、後日、仲間内でのコミュニケーションの材料として使用される。だが、若年層の日常は忙しく、世間で言及されるコンテンツの量は膨大だ。したがって、個人でコンテンツ消費の経験を蓄積してゆくために、短時間で消費できるようなコンテンツの形式や要約、技術的な方法が追求されることになる。

  以上。著者によれば読書はタイパが悪い活動だそうだ。最近、他の書籍の内容を要約しただけの本を書店で見かけるようになったが、ああいうのもタイパ重視のトレンドにあるのだろう。コロナ禍で対面授業が禁じられたとき、大学教員が公開した授業動画を受講生が早送りで見ている、という話をよく耳にした。大学の先生のしゃべりがゆっくりだからだろうと個人的に思っていたが、そういう問題ではないわけね。
  
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