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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

欧州産室内楽風低温ジャズの先駆け、ただしWeather Reportの影あり

2013-08-30 11:02:57 | 音盤ノート
Eberhard Weber "Yellow Fields" ECM, 1976.

  フュージョン。エレクトリック・ピアノが目立つ、アレンジ重視の室内楽風ジャズである。リーダーのウェーバーは、アップライトの五弦エレクトリックベースを操るドイツ人で、ベースにしては腹に響かない、かつぼんやりとして力の入らない、それでいて暖かみのあるトーンで知られている。他のメンバーは、Charlie Mariano (soprano sax, etc.), Rainer Brüninghaus (keyboards), Jon Christensen (drums)となっている。

  冒頭の‘Touch’は5分ほどの演奏時間だが、あとは10分を超える長尺曲3曲を収録している。最初の曲はレイヤー系のシンセ音の上に、次の‘Sand-Glass’は反復パターンの上に、それぞれソロをのせるという方法で出来ている。ミニマル音楽的で悪くないが、肝心のソロは盛り上がらない。アルバムタイトル曲となる三曲目は組曲風で、引き締まったユニゾン部とサックスの時と鍵盤の時ではテンポの異なるアドリブ部分で構成されている。最後の‘Left Lane’は、最初のユニゾンの後にベースとアコースティック・ピアノがそれぞれバッキング無しでソロを弾き、続いてサックスソロのときはバンドが揃って盛り上げるというもの。後半二つの曲におけるソロ部分はスリリングで素晴らしい。

  初期Weather Reportの影響下にあることがわかる音だが、あれよりは清廉かつ明朗である。オリジナリティ的にはまあまあといったところか。すごい傑作だとは思わないが、過少評価されている気もする。メンバーがその後あまり活躍しなかったということもあるかもしれない。
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米国中南部植民地こそ米国史的に重要であり、北部は特殊である

2013-08-28 10:39:31 | 読書ノート
ジャック・P.グリーン『幸福の追求: イギリス領植民地期アメリカの社会史』大森雄太郎訳, 慶應義塾大学出版会, 2013.

  米国社会史の専門書。ボストン周辺の東海岸北部を米国社会揺籃の地とみるニューイングランド中心史観に、もう一つの入植地であった東海岸中部のチェサピーク湾(メリーランド州やバージニア州がある)を対置するという論争的な内容である。そもそもニューイングランド中心史観の影響力を理解していないとまったく面白くないだろう。原著は1988年。

  17-18世紀にかけての人口構成や経済・社会体制などをデータとして挙げながら、チェサピーク湾を筆頭に、他の英国植民地──ニューヨークなどの中部、サウスカロライナなどの南部、ジャマイカなどのアンティル諸島、そしてアイルランド──のどこでも、ある程度共通性のある、利己的かつ個人主義的な植民地社会が発達したことを論証する。その中で、宗教による強い統制があり、富に対して警戒心のあったニューイングランドは、かなり例外的な社会であった。しかし、経済発展の過程でその共同体志向は薄れてゆき、他と同様の「個人の利益を追求する」社会に変貌してゆく(それは聖職者からすれば「堕落」とみなせるようなものだった)。こうして独立前後には、米国東海岸によく似た価値観を持ついくつかの植民地共同体が出来上がる。だが、それは決してニューイングランドからの影響で広がったのではなく、他の植民地がすでにもっていた資本主義的なエートスを、ニューイングランドも受け入れるようになっただけ、というわけである。

  では「なぜニューイングランド史観が後世に優勢になったのか」については、簡単な示唆に留まっている。独立当初からの米国大統領五人のうち四人はみなバージニア州出身で、チェサピーク湾植民地の建国当初の他の地域に対する高い地位は明らかだった。しかし、19世紀になると北部の州と南部の州は対立し、北部側が勝利する。この結果、バージニアを含む南部の相対的地位が低下した。こうした理由のためだろうと著者はほのめかしている。

  日本ではウェーバーの『プロ倫』がいまだ強い影響力を持っているようだが、本書ではまったく言及されていない。しかし本書は、資本蓄積は信仰心の弱い他の植民地の方により強く展開したというもので『プロ倫』の反証になっている。そもそも今どきの制度派経済学が重視するのは「財産権の保護」(参考)であるので、『プロ倫』はもう時代遅れなのだが。さようなら『プロ倫』。
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『はだしのゲン』閲覧規制問題にかこつけて

2013-08-25 09:57:22 | 図書館・情報学
  松江市の教育委員会が市内の小中学校図書館に置いてある漫画『はだしのゲン』に閲覧規制をかけようとして、大きな騒動になった。クレーマーが右寄りの人だったために、議論がウヨサヨ論争に流れてしまい、規制の表向きの理由だったはずの「発達に合わせた表現の適性」については議論が深められないままになってしまった。これは表現の自由の問題だというわけである。ただ、そのロジックについては気をつけておきたいことがる。

  最初に言っておくと、僕は閲覧制限に反対である。現在手元に作品はないけれども、僕も『はだしのゲン』を小学校高学年の頃に読んだ。その記憶では、家族も失い、放射能を浴びながらもなんとか生き抜こうとする主人公のバイタリティには心動かされた。同じ戦争を扱った作品でも、主人公が無抵抗なまま大人しく死んでゆく『火垂るの墓』より全然好きだ。

  僕が閲覧制限をかけるべきではないと思うのは、それが良い作品だからである。しかしながら、この閲覧制限を「言論弾圧」とか「検閲」とラべリングして、知る権利の侵害だとみなす立場もあるようだ。知る権利アプローチを正しく理解している者は、所蔵の可否についてその書籍の価値から議論することを避ける。作品の良し悪しとは無関係に、あらゆる表現の所蔵や閲覧を制限してはいけないというのである。日本図書館協会は、学校図書館をそうした機関とみなしている1)

  しかし、知る権利アプローチには三つの問題がある。第一に、学校図書館の不所蔵は作品の社会的な抹殺ではない。その外の世界において、この作品に接触する機会は絶たれていない。『はだしのゲン』ならば書店でも漫画喫茶でも公共図書館でもそれは簡単に手に入るだろう。閲覧制限が知る権利の侵害となるならば、それを置かない学校図書館はより強く非難されなくてはならない。そうしないならばダブルスタンダードである。

  第二に、知る権利を学校図書館に適用することは、学校図書館の教育機関としての性格と齟齬をきたす。その蔵書が、教育目的に沿ってコントロールされるのは当然である。子どもが求めるすべての資料を購入することはできない。結局、その蔵書が世間的に受容できる最大公約数的なものにとどまり、児童・生徒の日常有する「情報要求」を満たすものにならないというのは受け入れざるえないことである。そこからはずれた児童・生徒の関心は私的な手段に満たさざるをえない。しかし、知る権利アプローチに従うと、複数の情報要求のあいだに扱いの差を設けることは不正となるので、あらゆる資料を受け入れるべきだという実現不可能な要求につながってしまう。

  それが実際に適用される場合は「特定の言論を優遇するのは不公正なので、対抗的な言論を持つ資料を所蔵しよう」という話になるだろう。今回のケースでは、『はだしのゲン』に対して『竹林はるか遠く』や小林よしのりの『戦争論』を入れようという提案が該当する(実際ネット上で多く見かけられる)。そうすれば、左右の言論のバランスがとれた蔵書一群を作ることができるだろう。その一方で、学校図書館で相対的に優先したいはずの他の書籍の予算が食われてゆく結果になる。

  第三に、知る権利アプローチは、学校図書館蔵書に対するクレームを倫理的に悪とみなしてしまう。学校図書館蔵書に意見する親や教師は頭の固いファシスト扱いされる恐れがあるのだ。これでは学校図書館蔵書に関する生産的な議論の可能性を閉ざしてしまう。しかし、資料選択者も無謬でない。子どもに読ませたくない内容の所蔵資料に対するクレームがあり、親・教師・学校図書館の担当者が議論して、正当な手続きを経て最終的に合意に至るならば、その除籍や除架があってもおかしくないはずである。その際議論されるべきなのは、対象となった作品の価値や学校図書館への適性であって、言論の自由ではない。

  学校図書館の資料選択者は事実上、価値に基づいて資料を選んでいる。しかし、日図協の主張に従えば、資料選択者は価値中立の立場から自分の選択を擁護し、外部からの介入を拒絶できるということになる。これは欺瞞にしか見えない。このような論理は、学校図書館の理解者であるべき一部の親や教育関係者を警戒させ、場合によっては敵対させる危険性もある。

  以上のように、知る権利アプローチは学校図書館蔵書をめぐる議論を大きく歪めてしまうものである。それは学校図書館に適用するのにふさわしくない。その所蔵資料をめぐっては、その価値や適性の点で議論した方がストレートで世間的に理解されやすいはずである。

  この結論に対する予想される反論も十分理解しているつもりだ。「価値について合意がありうるならば、それではどうして学校図書館蔵書間で蔵書が似たようなものにならないのか」。あるいはもっと根源的には「相互に妥協が不可能な「比較不能な価値の迷路」に陥ったときはどうするのか?」。この反論には簡単には答えられない。しかし、これは重要な問いであり、図書館の資料選択者ならば考えておくべきことである。僕の見るところ、大きな問題は、図書館関係者が「図書館の自由」に依拠して価値相対主義を表向き採用するようになってしまったために、実際に行っている資料選択を十分説明できる理論を開発してこないままになってしまったことである。

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1) 日本図書館協会図書館の自由委員会 / 中沢啓治著「はだしのゲン」の利用制限について(要望)
http://www.jla.or.jp/Portals/0/html/jiyu/hadashinogen.html
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埋もれてしまったピアノソロの好盤

2013-08-23 13:06:59 | 音盤ノート
Steve Kuhn "Jazz 'n (E)Motion" BMG France, 1998.

  ジャズ。BMGフランスによる、映画サントラ曲を五人のジャズピアニストにアルバム一枚分録音させるという企画物で、他にマーシャル・ソラール、ポール・ブレイ、ステファン・オリヴァ、アラン・ジャン=マリーによる作品が発表されている。録音もかなりよい。ただし、現在廃盤のようである。

  収録曲は‘Once Upon a time’‘The Night Has A Thousand Eyes'‘Emily'‘Love Is For The Very Young’‘The Pawnbroker’‘This Is New’‘Invitation’‘Smile’。他のミュージシャンによる録音がすでにあるものが多く、ジャズファンにはおなじみだろう。珍しいのは‘Last Tango In Paris’とレーナード・バーンスタインによる‘Lonely Town’、オリジナルの‘The Rain Forest’あたりだろうか。

  演奏は暑い和音と多彩な装飾音でドラマチックに盛り上げるというスタイルで、メロディをあまりいじっていない。キューンの過去のソロ作品の中では、"Live at Maybeck Recital Hall 13"(Concord 1991) "In Cafe"(徳間Japan 1997)よりは、"Ecstasy"(ECM 1975)に近い。あそこまで静謐ではないけれども、耽美な音に聴き手を溺れさせるような作品になっている。
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政令指定都市は中途半端な制度であるという

2013-08-21 15:11:03 | 読書ノート
北村亘『政令指定都市:百万都市から都構想へ』中公新書, 中央公論, 2013.

  日本の「政令指定都市」という制度とその問題点についての概説書。一般的には、政令市になるような大都市ならば、そうでない市町村と比べてさまざまな面で恵まれているとイメージされがちである。本書は、現在の政令市の性格は多様であり、恵まれているかどうかは一概には言えないとし、後半では特に財政面で困難を抱えている大阪市を採りあげてその問題を検討している。

  政令市は、外国にある特別市のように道府県から完全に独立しているわけででもなく、かといって道府県の域内の他の市町村よりは自律性が高い状態にある。冒頭でまずそのような制度になった経緯について述べられているが、要約すれば「国における都市政策の理念の欠如と、税収減を恐れる道府県側の反対」が、現在の政令市制度を中途半端なものにとどめたということである。人口70万(インフォーマルな下限)を超える市でかつ国に申請さえあれば、今のところなんでもOKという状態になっている。そのため、政治経済的に中枢性の低い、別の大都市のベッドタウンのような都市まで政令市になれてしまうということである。

  一方で、大阪市や名古屋市のような中枢性の高い政令市は、通勤・通学者などによって昼間人口が多くなるため、夜間人口を基にした住民税の収入に比して、公共事業や公的サービスへの投資を多くしなければならない。一方で、市内居住者の高齢化が進んでいるため、実は住民にあまり担税力がなく、逆に福祉の費用を圧迫している。これらの理由のため財政難に陥ってるという。そこで出てくるのが「大阪都構想」なのだが、今のところ財政難を解消するようなアイデアになっておらず、ただ大阪市を解体して区の自律性を高める──裕福な区と貧乏な区で行政サービスの質の差が生まれる──という方向に見えるという。東京都区部はまた別だとのこと。

  以上。話が細かすぎてて読むのがしんどい部分もあるが、堅実な内容ではある。地方行政の入門書として読んでもいいかもしれない。
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見捨てられてしまったミニマル音楽とジャズの融合という実験

2013-08-19 20:49:55 | 音盤ノート
Rainer Bruninghaus "Continuum" ECM, 1984.

  ジャズ。鍵盤による細かい反復パターンにホーンを乗せるという、ミニマル音楽・ミーツ・ジャズな趣向。リーダーのライナー・ブリューニングハウスはドイツ出身の鍵盤奏者で、Eberhard WeberやJan Garbarekとの録音がいくつかある。しかし自身の名義による作品は少なく、二作目となる本作がいまのところ最後のソロ名義作品(Manfred Schoofとの共作は除く)のようである。他に、Markus Stockhausen(trumpet)とFredy Studer (drums)がサイドメンとして参加している。残念ながら1990年代にCD化された後、長らく入手困難のままのようである。ちなみに僕はLPで持っている。

  アルバム全体としては、スリルは無いけれども透明感と浮遊感を感じさせる美しい作品になっている。演奏にはピアノだけでなくシンセも用いられる。アルペジオ全開でロールする鍵盤とトランペットという組合せからは、Azimuthの1st(参考)が思い出されるが、確かにあれに近い雰囲気はある。しかし、この頃のシュトックハウゼンは音色こそ素晴らしいものの、AzimuthのKenny Wheelerほどクセがない。こうした「曲構成重視・ソロ薄め」という方針のおかげもあって、本作の方がより正しくミニマルミュージック的である。この試みはかなり成功しているように思える。

  しかし、ブリューニングハウスのこの試みは続くことが無く、またその後に大した影響を与えなかった。そのことを考えると、アドリブを主とするジャズと、自由度の少ない反復パターンを主構造とするミニマルミュージックとの相性は悪いと言わざるをえない。アドリブにかなりのスペースを与えたPat Methneyの"Way Up"(参考)が、ジャズファンのぎりぎり許容できるラインなのだろうか。僕のようなミニマル音楽好き向けにマーケティングしても儲からないということなんだろう。
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プラネタリウム番組についての思いつき

2013-08-15 18:00:28 | 映像ノート
  子連れで楽にまわることのできる施設に科学館がある。多くの場合、プラネタリウムも併設されており、足休めに観覧することが多い。プラネタリウム番組には王道パターンというものがあって、冒頭10分間ぐらいで星座の解説をし、その後30分程度アニメーションの上映を行う。事実上の安い映画館である。

  先日、小牧市のプラネタリウムで『ONE PIECE』を観てきた。いつ頃かはよく覚えていないものの、横浜で『星の王子様』、小牧で『スターリーテイルズ』、岐阜で『名探偵コナン』を観た覚えがある。『名探偵コナン』は星とは全然無関係な内容で、『ONE PIECE』は星を題材にはしているものの、プラネタリウムで上映する必然性を感じなかった。テレビで見ても大して変わらないだろうと思わせるクオリティだった。『星の王子様』はなかなかだったけど、暗い話なので我が子は全然喜ばなかった。

  大人の目から見ると、『スターリーテイルズ』はドライブ感があって面白かった。作り手が180度の視覚体験に意味をわかっており、映像が奥の方に向かってに進んでゆくと、椅子に座っている観客も前に進んでいるかのような錯覚を覚えさせる作りになっている。ただ、子どもに言わせると「空を飛んでいるようで怖い。車酔いしそうな気持ち悪さもある」とのことである。子ども受けを狙うかクオリティを追求するかというジレンマはどこにでもありそうな話である。

  ところで、これらプラネタリウム番組ってどこかの機関が保存しているのだろうか。DVDになっているものもあるようだが、そもそもすべてが市販されるわけではないように見えるが。

  
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読解力における学習効果においてマンガは活字の本より劣る

2013-08-13 20:55:51 | 図書館・情報学
  最近のエントリで、マンガを読むことは所得にマイナスの影響を与えるということを記した。この件についてもう少し加えておきたい。マンガと活字の本の間には、その学習効果において差が無いと考える人がけっこういるようだ。彼らに言わせれば、マンガばかり読んでいるのに仕事のできる人もいれば、活字中毒の馬鹿もいるというわけである。しかし、統計的にはそんなに甘い話ではないことがわかっている。

  すでにマンガが学校成績に与えるマイナスの影響について示した調査がある。吉岡亮衛による中学生を対象とした調査1)(『読書教育への招待』所収)である。調査では、最近一か月間何も本を読まなかった「非読者群」、マンガだけを読んだ「マンガ群」、マンガも本も読んだ「本マンガ群」、本だけを読んだ「本群」の四つのグループに生徒を分け、読解力試験の結果を比べている。すると、非読者群の平均点がもっとも悪く、次にマンガ群のそれが悪かった。本マンガ群と本群は前二つの平均点より高かったが、本マンガ群と本群の間には差が無かった。すなわち、何も読まないよりはマンガを読んだ方が点が良いが、本を読んだ方がもっと良くなる。しかし本もマンガを読む生徒は、本だけを読む生徒と同程度の点数になるという。(ただし吉岡論文は上の話だけに焦点をしぼったものではない)。

  以上のようなわけで、子どもを持つ親に対しては、もし子どもが「マンガしか読まない」ならば、やはりその学力を危惧したほうがよい、とアドバイスできる。結局、社会で出会う文書の多く──仕事やお役所でこなさなければならない文書や、あるいは電化製品や薬の使用説明書──は、マンガの文法や語彙で書かれているわけではないのである。なので、読める文書様式の幅は広くもっておいたほうが良い。もちろん、何も読まないよりはマンガを読んだ方が良いということもあるので、上はその段階をクリアした後の話であるが。

  大学の授業でこのような話をしたら、かなりの数の学生(しかも全員教職志望者!!)がひどく驚いていた。この反応には教えているこちらが面喰らってしまう。今時の学生は、漫画も活字の本も等価だという、価値相対主義的な雰囲気で育っているんだろうか。

1) 吉岡亮衛“中学生の読解力と読書活動の関係”『読書教育への招待:確かな学力と豊かな心を育てるために』国立教育政策研究所編, 東洋館, 2010.
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子どもの自制心の育成には監視と処罰が効果的であると

2013-08-09 10:25:38 | 読書ノート
ロイ・バウマイスター, ジョン・ティアニー『WILLPOWER 意志力の科学』渡会圭子訳, インターシフト, 2013.

  自己コントロールあるいは自制心についての一般書籍。著者らはそれを「意志力(willpower)」と読んでいる。原著は2011年で、著者のバウマイスターは心理学者、もう一人のティアニーはジャーナリストである。

  で、内容はというと以下。意志力はエネルギーを使う。すなわち我慢するとグルコースを消費する。自制のために糖分が必要となると、ダイエット中の者にはパラドクスである。そして自制を続けて心的に消耗すると、その後は感情に流されやすくなるという。そんなときは馬鹿な決定をしやすいので気をつけようとのこと。

  意志力は社会での成功にも影響する。米国では、その小さい人口比にも関わらずアジア系が多くエリート職に就いている。そうした職にあるアジア系のIQは、同じ職の白人と比べて特に高くなくて、むしろ低い。著者らはその理由を探ってゆき、アジア系の家庭教育のスタイルが「権威主義的」──「アメとムチ」方式というべきか──であるため、結果として子どもの自制心を育成し、それが学業成績に反映するからだろうと推測している。一方で、子どもの主体性を尊重するような米国的教育スタイル(インテリ層が礼賛するようなやり方)は、特に良い結果はもたらさないそうだ。フーコー的な「近代」はまだ継続中というわけか。

  では、どうやったら意志力を発揮して、目標に向かって物事に取り組み続けることができるのか。紹介されているのが、長期的な目標をたてること、数値化による頻繁な自己監視、プリコミットメント(参照)、集団で励ましあう、などである。「毎日背筋を伸ばすことを心がけること」というような、一見無関係な訓練でも意志力強化には効果があるとのこと。

  ちなみに僕はものすごい甘党だが、健康診断の結果から「甘いもの」の消費量を減らさなくてはならないというジレンマに陥っている。本書を参考にして節制しはじめるつもりだが、糖分の誘惑と戦うのはかなり大変だという印象。(ちなみに著者はタンパク質を摂取してもグルコースになるとアドバイスしている)。
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デュラン・デュランのカバーで幕を開ける能天気なライブ盤

2013-08-07 09:24:21 | 音盤ノート
Bebel Gilberto "In Rio" Biscoito Fino, 2013.

  MPB。タイトル通りリオ・デジャネイロ海岸でのライブ録音で、同一の内容・タイトルのDVD(ただし曲順は異なる)も発売されている。バックは、管楽器とギターのJorge Continentino、鍵盤にJohn RoggieとSacha Amback、ドラムにMagrus Borges、その他打楽器にMarcos Suzano、そしてアコギと五弦エレベをこなすMasa Shimizu(日本人)という編成。シコ・ブアルキほかゲストとのデュエットとなる曲も数曲ある。

  一曲目がDuran Duranの‘Rio’のカヴァー。その能天気でテンションの低い仕上がりで聴く方は脱力させられるが、その後は彼女の代表曲を並べたベスト盤的選曲で安心させられる。しかしながら、全体的に一曲目と同じような緩い雰囲気が漂っており、歌も演奏も手堅く巧いのだが、盛り上がるような瞬間が見られない。観衆の声が少な目であるせいもあるだろう、ライブ作品なのに淡々と進んでしまう。もう少しメリハリがあっても良い気がする。

  早い話がDVDで見たほうが良いのかもしれない(僕は未見)。サウンドもここ最近の歌姫路線の延長線上にある。個人的には、デビュー作(参考)のような、クラブ的な要素をMPB的に解釈した先鋭的な音を期待しているのだが、もうそういう試みはしてくれないのだろうか。
  
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