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図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

「図書館の自由」に対する疑問

2011-05-30 16:28:01 | 図書館・情報学
 『日本図書館情報学会誌』Vol.57 No.1掲載の論文、安里のり子 / アンドリュー・ウェルトハイマー / 根本彰共著「小説『図書館戦争』と「図書館の自由に関する宣言」の成立」。「はじめに」で“図書館の自由を批判的視座から分析する”(p.20)とあるから、ついに「図書館の自由」に対する実名による批判が公けにされる時代になったのだなあと感慨にひたりながら読んだ。

  議論は、有川浩のシリーズ『図書館戦争』を肴に、背景となっている「図書館の自由に関する宣言」の成立時期に遡って、その時代的・思想的背景を明らかにするというものである。要は、1950年代の戦後民主主義運動が背景にあって、それは多少の暴力を許容するものだった──親マルクス主義だからね、論文にはそうは書いていないけれども。そして、有川はそこを読み取ったのだ、というのが主張である。期待したほど大胆な批判にはなっていないものの、公務員である図書館員が自分の属する政府から自律的になろうとするというパラドックスをチクチク指摘しており、著者らの「図書館の自由なんて時代遅れなんだよ」という意識が透けて見えて面白い。

  この論文に触発されて考えたことを次に記したい。

  個人的には「宣言」の問題は別の点にあると考えている。中心となる四つの点、①図書館の資料収集の自由、②資料提供の自由、③検閲への反対、④利用者のプライバシー保護に関して大きな点で異論はない。問題は、前文で展開されているロジックである。

  冒頭では「図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする」と書かれている。現在、主流の解釈では「知る自由」と「知る権利」は同一視され、図書館の自由に沿ったサービスは憲法上の根拠を持つとされる。

  特に前文中の次の二文を強調する見方がある。“すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する”(前文の2)。“図書館は、国民の知る自由を保障する機関として、国民のあらゆる資料要求にこたえなければならない”(第一条の1)。ここから、公共図書館は利用者の求める資料ならばどのようなものでも、できるだけ早急に提供しなければならない、とする主張が生れてきたのだろう。

  この方向を示した重要な文献が日本図書館協会による『市民の図書館』(1970)である。そこには、“公共図書館の基本的機能は、資料を求めるあらゆる人々に、資料を提供すること”(p.10)、“公共図書館は、利用者の求める資料は原則としてどのようなものでも提供する”(p.10)、“資料の提供は公共図書館によって公的に保証され、誰でもめいめいの判断資料を公共図書館によって得ることができる”(p.11)、という文言が並んでいる。

  すなわち、1970年ごろに「図書館の自由」に関してアクセントを変えた議論が発生したのである。それは、当初「宣言」にあったような「図書館は外部からの政治的な介入を拒絶して公平さを保つ」という消極的な主張ではなく、公共図書館サービスを「宣言」の前文に沿って組織してしまおうという積極的な主張であった。1990年代には、こうした考えが要求論に姿を変え、図書館員の資料選択に関する価値判断は忌避されるべきとするリベラルな主張と合体して展開されたのである。

  このとき、憲法上の根拠はかなり重要なものである。一応、公共図書館は、社会教育法を上位とする図書館法によって規定されており、民主的に選ばれた議会が定めた目的があるのである。しかし、あらゆる制定法の上位にある憲法から図書館の目的を引き出すことができれば、民主的な手続きを得ずとも、一民間団体たる日本図書館協会の主張を公共図書館運営に反映させることができ、いまでは流行らない概念である「社会教育」という目的を無視できるというわけである。

  ところが、「知る自由=知る権利」から図書館の任務を規定する論理展開はかなり根拠薄弱である。一般に、知る権利とは、情報の受領を政府によって妨げられない、ということを意味するにすぎない。加えて、公的機関に意思決定をした際の記録を請求できる権利も含まれるだろう。一方で、公的資金を投入して、市場に出回っている一般書籍などに安価にアクセスを可能にすることまで含まれてい“ない”と解釈するのが普通である。通常の解釈で必要となるのは、政府の情報政策に対する制限である。しかしながら、「図書館の自由」の場合は情報が市場で価格が付くことさえ権利の侵害とみなすのである。だからこそ政府は積極的に図書館を設置し無料のサービス展開しなければならない、ということになる。普通の納税者ならば、このような権利を支えるコストに不安を感じることだろうし、そのメリットがコストに引き合うかどうかも疑問を持つだろう。

  というわけで、僕は「宣言」の根拠はかなり危うく、前文に沿って図書館サービスを決定してしまうのは民主的な手続き上正当ではないとみる。まあ、そう考えるのはこの業界ではかなりの少数派だろうが。
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人間の思考の習性について「禁じられると欲しくなる」などいろいろ

2011-05-27 08:54:22 | 読書ノート
ロバート・B. チャルディーニ『影響力の武器:なぜ、人は動かされるのか』社会行動研究会訳, 誠信書房, 1991.

  相手の行動を操作する心理的なテクニックについて分類し、その対処法を述べた書籍。著者は米国の心理学者。よく引用されている本なので読んでみた。ちなみに邦訳二版が2007年に発行されているが、僕が読んだのは1991年の邦訳初版(原著二版からの訳出)のほう。

  内容はまず、人は他人から与えられるとお返しをしなくてはならないという気持ちになる(返報性)ことや、よく考えず気軽にある意見にコミットメントしてしまっても最終的にはそれに強固に固執するようになる(一貫性)、不確実な状況では他人と同じ行動をとりやすい(社会的証明)、ほか人間の本来的な習性について、実験や事件を例に解説するものである。そのうえで、そうした心理を突いてくる「承諾誘導のプロ」──典型的にはセールスマンのことだが、そうでないものも含む──のテクニックの解説と、彼らに対する対処法について説明している。

  人間の本来的な習性を説明するときの事例は豊富で記述が厚い。ここに魅力を感じる読者は多いだろう。個人的にも、地球の破滅を信じた宗教団体の顛末(p.143-154)や、朝鮮戦争時における中国共産党の米兵捕虜の扱い(p.83-98)は面白かった。一方で、挙げられている対処法は「内なる心の声に耳を傾けだまされていることに気付け」レベルで、あまり実用的ではない。
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資産としての土地のこれまでと今後

2011-05-25 10:38:05 | 読書ノート
吉村愼治『日本人と不動産:なぜ土地に執着するのか』平凡社新書, 平凡社, 2011.

  日本人にとっての不動産が「資産」としてどのような意味を持つかについて解説した書籍。副題にある「なぜ土地に執着するのか」という疑問は十分追及されていない。しかし、三井不動産出身の著者による、土地取引に関わる都市計画・金融支援・税制ほか諸政策への目配りが細かく、その問題点がよくわかる。

  日本では、株が上がれば同時に住宅価格も上昇する。したがって、日本人が株をあまり購入しないのは、土地を資産として見るとポートフォリオとしては正当で、銀子預金と併せて、株の代わりとしての土地が選好されているのだという。しかしながら、金融市場へのアクセスの差で、現在の日本人の間で土地所有に格差が生まれてしまったとも指摘している。バブル期まで地価は上昇し続けたので、金融機関や親族などから借金できた層は不動産の取得に有利だった。加えて、持ち家取得に対する税制や金融上の優遇措置が、彼らを支援した。結果として、容易に大きな額の借金ができない・ローンが組めない層を相対的に不遇にしてきたという。そのほか、日本の不十分な都市計画や行政の強制力の弱さ、借地借家権の問題などが挙げられている。

  ちなみに、インフレ期には持ち家有利で賃貸不利、デフレ期には持ち家不利で賃貸有利だそう。まあわかってはいることだが。
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ミルトン・ナシメント米国録音の一つとして

2011-05-23 14:08:21 | 音盤ノート
Wayne Shorter "Native Dancer" Columbia, 1974.

  フュージョン。ショーターのWeather Report在籍時のソロ作品で、Milton Nascimento (参考)の曲とボーカルを大々的に採りあげた録音である。

  冒頭のナシメント作"Ponta de Areia"は、"Minas"(EMI Odeon, 1975)収録の本人による録音の方が素朴で感動が深い。とはいえ、ネイティヴダンサー版のそれにはまた別の魅力がある。他の4曲でもそうだが、ナシメントの曲は、オリジナル録音の朴訥とした雰囲気が拭い去られて、マジカルかつ絢爛豪華に装飾されて夢の世界に漂うかのように奏でられる。他にも3曲のショーターのオリジナルと、ハンコック──全曲でフェンダーローズを演奏している──作品一曲を収録している。基本的に、前作の"Odyssey of Iska"(BlueNote, 1970)(参考)とうって変わった、暗さや混沌のない、明るくリラックスした典型的フュージョンを聴かせる。

  個人的には、ブラジルでとは違った面を覗かせるナシメントの米国録音という位置づけで聴いてしまう。ショーター作品としては「Columbia時代の最高傑作!!」と力みたいところだが、他の三作のクオリティを知っている人には大した褒め言葉でないことがわかるだろう。それでも水準以上であり悪くはない。
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解説を先に読むべきリバタリアニズム古典

2011-05-20 08:51:14 | 読書ノート
ヘンリー・ハズリット『世界一シンプルな経済学』村井章子訳, 日経BP, 2010.

  初心者向けの内容が記してあるかのようなタイトルで、確かに平易な記述でわかりやすい。だが、原書初版は1946年で、この翻訳は1979年の第三版から。事例が古く、現在の学問水準から見て疑問のあるところもあり、入門者向けではない。著者は、ミーゼスやハイエクを米国に紹介した経済ジャーナリストで、1993年に亡くなっている。つまり、その古さを念頭に置きつつ、現代的意義を探るための「古典」として読むべきものである。

  というわけでまずは若田部昌澄先生による最後の解説を読んでから挑んだほうがよい。それによれば、“価格理論、ミクロ経済学、あるいは国際貿易論とでもいうべき分野”(p.358)についてはあまり古びておらず、“とくに関税・補助金や最低賃金、家賃統制、労働組合の賃金引き上げについての分析は、このままでほぼ完ぺきであるといってよい”とのこと。一方、“マクロ経済学にかかわる部分の分析では、ハズリットの議論をそのまま受け取ることには注意が必要”(p.363)だそうである。

  この後者の面、政府のマクロ経済への介入の否定の姿勢が強く出ているせいで、本書は経済学の入門書である以上にリバタリアニズムの入門書という趣になっている。

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一人の教員が受け入れられる講義コマ数

2011-05-18 19:03:57 | チラシの裏
  久々に大学院時代の後輩に会う機会があった。彼は地方の国立大に勤めており、受け持っている講義コマ数についてボヤいていた。「講義が週5コマもあって大変なんです。授業の重なりも無いんですよ」。聞くところでは、よその大学では週4コマが通常。週2コマという人もいた。

  僕は彼に対して「それは大変だよねえ」と心にもない同情の言葉を述べるしかなかった。不幸自慢を避けるためだ。僕は現在、重なりの無い講義を週7コマ受け持っている。2年前は週9コマ持った。それでも、かつて週10コマを受け持ったことがあるという先輩教員に、なぜもっとコマを持たないのかと非難されたことがある。

  短大や有名でない私立大学なんかはこうなのだろうか? 僕はすべての大学が研究重視になる必要は無いとは考えるので、専任教員の持ちコマ数が多いところがあってもいいと思う。それでも、最近の傾向のように学務が多くなりすぎれば結局は授業準備の時間が削られ、教育の質は低くなるだろう。えてして、専任教員は研究も教育もできないということになりかねない。そういうことは実際起こっている。

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素朴さと地味さの中にも美的な洗練

2011-05-16 22:55:30 | 音盤ノート
Milton Nascimento & Lo Borges "Clube Da Esquina" EMI Odeon, 1972.

  MPB。MPBとは、ボサノヴァブームが終わった後の、ビートルズを筆頭にしたロックの影響を取り入れたブラジルの大衆音楽を指す。残念ながら、1970年代のそれはしばしばボサノヴァ以上にとっつきにくかったりする質のもので、今聴くとロック後進国の洗練のされ無さの方を強く感じることが多い。

  その中でもこのアルバムはフォークロック的なアレンジながら、今でも古さを感じさせない。それはほとんどの曲でアコースティックギターを中心にバックの演奏を組み立てているからだろう。1980年代以前だと、エレクトリックギターの音色は聴いただけで時代がわかってしまう。だが、アコギは流行で音が変わらない分、聴くものとしての耐用年数が長い。もっとも、このアルバムも一部の曲ではエレクトリックギターが使われる。他にオルガンや打楽器、曲によってはピアノやストリングスなどが加わるが、全般的に厚みはなくて素朴な味わいである。こうした演奏をバックに、ミルトン・ナシメントは朗朗と神々しく、ロー・ボルジェスはあまり力を込めずに、憂いを含んだ美しいメロディを歌いあげる。

  ミナス・ジェライス州出身のミュージシャンによるセッションと聞いているが、クレジットを見ると録音場所はリオデジャネイロである。リオは地方出身者における東京みたいなものか。
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相互監視と制裁は協力行為を進化させる

2011-05-13 20:41:31 | 読書ノート
大浦宏邦『人間行動に潜むジレンマ:自分勝手はやめられない?』DOJIN選書, 化学同人, 2007.

  進化ゲーム理論を使って協調行動がどう成立するかを解説した書籍。図表は用いられるものの、難しい数式は出てこないので、文系の大学生にもわかりやすいだろう。

  著者によれば、利他的な個体が協力行動を選んでも、利己的な個体に搾取されて終わる。この場合、得点が高くなるのは利己的に振る舞う個体なので、利他的な個体は子孫を残せず駆逐され、集団の中は利己的な個体ばかりになる。彼らは協力すればもっと良い成果が得られるのに、相対的に悪い状態に陥ってしまうのである。こうした結果を避け、協調行動によってパレート最適な状態を生み出すためには、結局「サンクション(制裁)」が必要だということである。

  サンクションが、利己的にふるまった場合の利益を、協力行動を採った場合の利益より少なくなるまで減少させるならば、社会的協調は成立する。したがって、他人に対する攻撃行為は、いつも必ず悪というわけではなく、良い意義を持つこともあるというわけである。もっとも、著者は協力行動がいつでもどこでも善だとは言っておらず、お互い利己的に振る舞った場合の方がパレート最適なケースもあるという。過剰なサンクションはそれを阻害してしまうことがあるので、避けるようにしなければならない。

  こうして、一見ネガティブである概念「相互監視」と「制裁」の肯定的意味が取り出された。協力行動の議論の中で、性善説の出る幕が完全に無くなってしまったと考えていいのだろうか?とにかく面白い。
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著者は伝統的な日本型知識人である

2011-05-11 10:01:45 | 読書ノート
池田信夫『希望を捨てる勇気:停滞と成長の経済学』ダイヤモンド社, 2009.

  経済政策に関する時論集。著者はいわゆる「構造改革派」で、雇用を生み出すために、正社員の“過剰な”解雇規制をあらためて雇用の流動化を進めるよう促す。ベースとなる分析はオーソドックスな経済学だが、それを歴史的経緯や地域的事情を無視して日本にそのままあてはめようとすると過激に見えてしまう好例である。

  もともと著者のブログ記事だったものを編集して発行したものらしく、書籍化にあたって十分に文言をチェックしなかったようだ。例えば、p.177に“最終的には(中略)この法案も廃案になった”とあるが、直前の部分は日本における法律一般の制定メカニズムについて記述しているだけで、特定の法案についての言及がなく、いったい何が廃案になったのか分からない。初出記事を変更する際、削り忘れたのだろう。そのせいか、説明が粗いと感じるところがいくつかある。

  大袈裟かつ攻撃的な語り口でインターネットの世界では毀誉褒貶のある著者。著名人なので一冊著書を抑えておこうと思うのならこれ。日本の前時代的“遅れ”を叩いていっそうの近代化を求めるという点では、一昔前のマルクス主義の洗礼を受けた市民派知識人のようでもある。日本で一定の層に受け入れられているようにも見えるのも分かる気がする。ただし、本当の専門は電波行政のようで。
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ウッドベースによるロック的インタープレイ

2011-05-09 08:03:10 | 音盤ノート
Miroslav Vitous "Infinite Search" Embryo Records, 1970.

  ジャズの範疇だが、初期フュージョンあるいはジャズロックとしたほうがより音を想像しやすい。ベーシストであるヴィトスの最初のリーダー作で、Weather Report加入前の1969年の録音である。サイドメンバーは、ギターにJohn McLaughlin、エレクトリックピアノにHerbie Hancock、ドラムにJack DeJohnette (一曲だけJoe Chambersに交代)、二曲でテナーサックスとしてJoe Hendersonが参加している。

  コンセプトは、ギターのように弾きまくるベースとやたらと手数の多いドラムに、スペイシーで怪しげなエレピとギターが絡み、たまにサックスを聴かせるというものである。ここに初期Weather Reportの原型を聴くことも可能だろう。鍵盤の音はザヴィヌルほど厚くないが、ハンコックのピアノは少ない音で知的で深みを感じさせる音を奏でている。ヴィトスのベースはとにかく細かく、テンポの速い曲でのデジョネットとの組み合わせは最高にスリリングである。マクラフリンは高速のソロを聴かせるが、全体のバンドサウンドにはあまり貢献していない印象。

  なお、僕が所有しているのはCollectablesというレーベルの2001年の再発CDである。オリジナルは1970年発表のLP。だが、1972年に同じ内容で"Mountain in the Clouds"というタイトルでAtlanticから発行され、その際に"Cerecka"という短い曲が加えられている。Collectables盤はオリジナル同様の6曲収録だが、2005年のWarner Music Japanによるリマスタリング盤ではAtlantic盤と同様の7曲収録となっている。

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