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OECDによるナッジ政策についての短いレポート

2018-11-15 08:08:34 | 読書ノート
経済協力開発機構(OECD)編著『行動公共政策:行動経済学の洞察を活用した新たな政策設計』齋藤長行訳, 明石書店, 2016.

  OECDによるレポート。選択アーキテクチャを用いた欧米における近年の政策の事例集で、英語版なら無料で読める1)。邦訳は訳者による長めの解説などを加えたものだが、それでも全体で128頁ほどの分量であり、短い。

  行動経済学上の知見や理論を基にした政策を採りあげることが中心で、サンスティーンが気にかけていた「政策としての倫理的問題」についての議論は省かれている。チェックボックスにチェックを入れた設定での販売の禁止、適正な燃費ラベル表示、クレジットカード規制などの例がさらりと説明されている。もっともすぐれた選択肢に顕著性を与えたり、またはそれをデフォルトとしたり、契約条件が複雑な商品については情報提供形態を限定して選択肢を狭め、消費者の認知的負荷を削減する、などなど。一方で、年金や健康保険のようなものは選択アーキテクチャより強制加入のほうが効果的である可能性があること、また民間が用いる選択アーキテクチャを規制して「公正」な取引を促すことは供給自体を減らす恐れがあること、などの問題点が指摘されている。いずれにせよ、始まったばかりの政策が多くて、まだ「評価」の段階に達していないようだ。

  以上。政策といってもかなりこまごまとしたレベルのものばかりで、実のところ驚かされるようなものは少ない。業界の抵抗が少ないようなところに手をつけているという印象。低コストでできるけれども、改善効果もそれほどすごいものではないだろう(臓器提供意思表示のオプトアウト方式は劇的だが)。政府ができることはまだよく知られていなくて、研究が進むにつれてこれからたくさん出てくるのだろう。

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1) Pete Lunn Regulatory Policy and Behavioural Economics OECD
  http://www.oecd.org/gov/regulatory-policy/regulatory-policy-and-behavioural-economics-9789264207851-en.htm
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コンサルによる誤ったアドバイスに気をつけろ

2018-11-11 21:42:51 | 読書ノート
カレン・フェラン『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です:コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』神崎朗子訳, 大和書房, 2014.

  ビジネスマン向けのコンサルタント批判の書。著者はMIT卒業後に二社のコンサルタント会社の勤務経験を経て、現在は自分のコンサルタント会社を経営しているという。原書はI'm sorry I broke your company: when management consultants are the problem, not the solution (Berrett-Koehler, 2012)である。邦訳は2018年にだいわ文庫版が発行されている。

  コンサルによる将来予測は当たらないので、その予想に合わせて戦略なんか立てると痛い目にあう。数値目標を立てると帳尻合わせのごまかしがはびこり、有能なのに評価されない社員が去り、会社が荒廃する。人格的に優れた管理職や経営者が成功するなんて嘘、スティーヴ・ジョブズの無茶苦茶ぶりを見よ。問題がおきたら、社内の関係者を集めて話し合わせたほうがましな解決に至る確率が高い。というようなことが書かれている。コンサルは書類の山をもたらすが、所詮は部外者だ。第三者の視点が欲しいというときだけ彼らを頼るべきで、通常は社員を大切にして彼らの声に耳を傾けよう、というのがその主旨である。

  体験記と簡単な考察が中心で、ユーモアもある。激烈な調子ではないので、深刻にならずに読み流せる。トピックが重なるわけではないが、ベースは『ヤバい経営学』と同様の俗流経営論の批判である。著者のコンサル経験が豊富で、エピソードを中心に読めるというのがウリだろう。

  日本ではどうだろうか。個人的にまた聞きした話である。ある中小企業の経営者が新規事業の資金を得るために、自社で作成した事業見通しのレポートを銀行に提出した。しかし、お金は借りられなかった。ところが、あきらめずに次に大手コンサルに頼んでレポートを作ってもらい、それを銀行に持って行ったところ、めでたく融資を受けることができた。その経営者によれば「レポートの中身は自社作成のものとほぼ同じで、毛が生えた程度に図表が加わっただけ。結局レポートの中身ではなく、大手コンサルに依頼したという事実が事業の信用を高めた」ということだった。当該企業は今ではかなり大きくなっている。とはいえ審査の事典で事業が当たるかどうかわからないのだから、銀行側としては失敗したときの言い訳となる何かが必要だったのだろう。それが大手コンサルによるレポートだったというわけだ。経営改善だけでなく、そういう役割も果たしているらしいという話である
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あまりにも上手く行き過ぎたコピーの苦難

2018-11-07 22:57:08 | 音盤ノート
Nando Lauria "Novo Brasil" Narada Equinox, 1996.

  MPB。フュージョン味のあるミナス系ボサ、と書いても伝わらないかもしれない。ペドロ・アズナール在籍時のPat Metheny Groupの、つまり全盛期のPMGの、あの複雑ながら爽やかなサウンドの再現と言ったほうが分かりやすいだろう。実際、元PMGのDan Gottliebが参加している。Lo Borgesのような淡い感覚をにじませる曲もあってとてもいい。

  男声ボーカルが全編にわたって展開するけれども、歌詞を丁寧に聴かせるという曲の作りではない。伸びのある地声とファルセットを駆使して、ひたすらスキャットやヴォカリーズが繰り出される。そのメロディラインはとても印象に残る。ギターはいわゆるヴィオランで、打楽器隊もサンバ風となることもあるのに、シンセサイザーの音色のせいで「MPBの米国解釈」に聞こえてしまう。まあ、米レーベルの米国録音なのでそうならざるをえないのだが。

  エピゴーネンで片づけてしまうには惜しい質の高さがある。しかし、このアルバムの後、新しい録音がないままになっている。やはりPMGフォロワーというのは本人的には納得できるポジションではなかったのだろうな。このアルバムが発表された頃、本家PMGはアズナール時代が終わって80年代のPMGサウンドを奏でなくなっていたのだから、継承者として堂々としていてもよかったと思うのだが。
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保護される権利が自己決定権に読替えられてしまった経緯

2018-11-03 09:02:03 | 読書ノート
森田明『未成年者保護法と現代社会:保護と自律のあいだ』有斐閣, 1999.

  米国における少年犯罪に対する最高裁判決、子どもの権利条約の採択過程での各国のやりとり、および日本における少年法制定の論議の三つを検証し、子どもの保護と子どもの自律のバランスに対する考え方がどう変化していったのかを跡づけるという内容である。著者は法学者で、本書も専門的な法学書である。また、1986年から98年の間に発表された論文を編集した論文集であり、記述される事項の繰り返しが多い。2008年に第6章への補論を加えた第二版が発行されている。

  本書によれば、政府による子どもへのパターナリズム的な制度は、19世紀の米国で誕生したという。当時、親から養育を放棄されたような一部の子どもたちは、何の保護もないまま労働市場で長時間労働をさせられて、犯罪を犯せば成人と同じように取り扱われた。こうした状況を憂う一部の社会改良主義者たちが、少年保護を掲げた少年裁判所制度を創設して「保護される権利」という意味での「子どもの権利」を確立した。

  しかしながら、1960年代になると、このような制度的なパターナリズムは未成年の決定権を奪うものとして批判の対象となった。1968年の連邦最高裁の判決以降は、保護よりも子どもの自己決定権が強調されるようになった。同時代に伝統的な家庭の崩壊と少年犯罪の激増があり、少年刑法犯も成人と同じように処遇されるべきだとする機運も形成された。一方で、教育機関の秩序維持をめぐるさまざまな問題を引き起こし、反発も生み出した。1980年代になると連邦最高裁もパターナリズムを認める方向に軌道修正するようになっている。

  1989年の国連子どもの権利条約は「保護される権利」と「子どもの自己決定権」が混在していて折衷的であり、またドイツのように親権を認める留保をつけての批准もある。米国は、条約採択において議論をリードしたが、議会の反対にあって最終的に批准できなかった。子どもの自己決定権は、当初推進者が考えていたほどの魅力的なアイデアとは今は思われていないということだ。なお日本は米国からの影響を微妙に受けつつも、パターナリズムを放棄するような制度的変化はないとのことである。

  以上。ピンカーが『暴力の人類史』で、1960-70年代は米国における犯罪が激増した時期だと書いていたことを思い出す。1960年代以降の米国の子どもは、自己決定権を与えられると同時に崩壊した秩序も押し付けられたわけだ。当然、得した子どもとそうでない子どもがいただろう。子どもの権利が子どもの困難をすべて解決するわけではないことがわかる。
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犯罪者の多くはセルフコントロール能力が低い若者だという

2018-10-30 09:14:30 | 読書ノート
マイケル・R.ゴットフレッドソン, トラビス・ハーシー『犯罪の一般理論:低自己統制シンドローム』大渕憲一訳, 丸善, 2018.

  犯罪原因論。原書は1990年のA general theory of crime (Stanford University Press)で少々古いが、この分野では古典であるとのこと。邦訳も1996年に『犯罪の基礎理論』(文憲堂)というタイトルで発行されていたが、ネットをさらった限りでは旧訳の評判は悪い。本書理論の重要性はまだ衰えていないので新たに訳したということなのだろう。

  内容は、1960年代から80年代にかけての犯罪研究を批判するもので、犯罪の原因を文化や社会に求めるのは誤っているとする。このほか、青年期の悪い友人を原因としたり、犯罪カテゴリ毎に犯罪者像を描いたり、犯罪者の気質が遺伝すると考えるのは全部間違いだとされる。これらに代わって犯罪をうまく説明する──「犯罪を犯す者とそうでない者を見分ける」という意味で──理論は、セルフコントロール能力の低い人が、威力や偽計を使って即座に欲望を満たせる状況に出会ったときに犯罪が起こるというものであるという。犯罪者は、基本的に忍耐力がなく、短期的な欲望充足を求め、長期に努力することができず、人間関係を維持するコミュニケーション能力もない、そういう「低」自己統制者である、とされる。彼らは組織でうまくやっていけないのだから、犯罪組織があったとしても基本的に長続きしない。そして、低自己統制者が形成されるのは、小学校就学前から就学直後の年齢の期間で、家庭でのしつけにおいてであるという。

  低自己統制者がそうでない者より犯罪を犯しやすいという議論自体は納得できる。ただ、他の原因説を吟味し排除してゆく際の議論は極端である。確かに、貧困や失業などの経済状況は、ある人が犯罪者になるかどうかを決定しないのだろう。だが、経済状況は低自己統制者が犯罪を犯す閾値を低めると推測されるから、真の原因ではないかもしれないけれども、犯罪の「契機」として犯罪の研究において無視できないように思われる。また犯罪気質の遺伝も簡単な考察で排除されている。しかし、低自己統制者が家庭でのしつけ「だけ」で誕生するとは考えにくい。自己統制概念はビッグファイヴの「勤勉性 (Conscientiousness)」概念とまるかぶりなのだから、ある程度遺伝の影響があると推測することは妥当だろう。加えて、性格に影響する「環境」としては、家庭以外が探られるべきだというのが行動遺伝学の知見である。また、犯罪組織についての議論も、日本のヤクザを十分説明できないものとなっている。

  というわけで、さまざまな議論が概念整理されてゆく面白さはあるのだけれども、そこからこぼれ落ちるものが多くある。著者らが退けていった学説の残骸にも、まだ何かしら犯罪研究に役に立つ情報が残っているのではないだろうか。数としては低自己統制者による青少年期の犯罪が圧倒的なのだから、そちらに目を向かせるというところに本書の意義があったのだろう。
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入門書ではなく横目で経済学を眺める感覚

2018-10-26 20:43:35 | 読書ノート
瀧澤弘和『現代経済学:ゲーム理論・行動経済学・制度論』中公新書, 中央公論, 2018.

  最近の経済学のトピックを概観する書籍。「初学者に向けた入門書」というわけではなく、部外者が外から経済学の中で何をやっているのかを俯瞰するように読む本である。著者は経済学者で、ゲーム理論を専門とし、ノースなど制度学派の翻訳も手掛けている。科学哲学的なところもあって、他分野の人が横目で眺めるように読むにはいい本だろう。

  ノーベル経済学賞を導きにして、ミクロ経済学、ゲーム理論、マクロ経済学、行動経済学、RCTなど実験経済学、制度学派、経済史と通覧してゆく。最後の章で、経済学の変化が論じられる。著者によれば、今後、経済学は当初目指されたような法則定立的な科学ではなく、様々な経済現象の中にある様々なメカニズムを明らかにしてゆく人間科学になってゆくという。物理学ではなく生物学のイメージである。

  なお個人的には既知のトピックもかなりあって、すごい新鮮というわけではなかった。すでに一般向けの書籍が発行されているトピックが多くあるためだろう。それらが整理されて簡単に知識を得られるというのが本書のメリットだろう。

  あと、気になったことがひとつ。経済学の「遂行性」についても言及がある。これは現実を描写した(つもりの)学問上の概念が、またさらに現実に戻って影響するというループ効果のことだ。アンソニー・ギデンズのいう「再帰性」とまったく同じ概念に見えるが、経済学者は社会学用語は使わないみたい。
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アクティブラーニングは新しくないという批判

2018-10-22 09:10:16 | 読書ノート
小針誠『アクティブラーニング:学校教育の理想と現実』講談社現代新書, 講談社, 2018.

  近年、教育関係者の間を席巻するアクティブラーニング。教師が一方的に知識を伝える従来の教授法に代えて、生徒自身が主体的で能動的に学ぶように対話やグループワークを用いる指導法である。本書はそれに対する批判の書で、著者は青山学院大学所属の教育学者であるとのこと。

  その内容はこう。表現は異なるものの、アクティブラーニングに類似する指導法は昔から存在していて、決して目新しいものではない。大正時代の新教育や、戦後の教育運動に相当するものを見出しうる。その問題点は昔から変わらない。意欲のある生徒とそうでない生徒で学習結果の差がひらいてしまうこと、そして意欲のある生徒はもともと頭良い生徒であることが多い。すなわち、アクティブラーニング形式の授業は、意欲のない生徒の学習機会を奪うことにもなる。そのような批判を受けて、導入されてはたびたび取り止められてきた指導法でもある。また、生徒の主体性と教員の指導には論理矛盾があり、自発性の強要が教師や学校の志向への「主体的な服従」となることがありうることも指摘される。加えて、望むような教育効果が得られているかどうかはよくわからないとのことだ。

  理想化されがちな「子どもの主体的な学び」であるが、その手法は特に目新しくもなく、すでに幾度か挫折してきたという歴史的事実があるということだ。この点についての本書の主張は明解で、たちまち説得させられてしまうことは確かだ。アクティブラーニングなんか不要だと言いたくなること請け合い。ただ、著者の批判は成功しすぎているかもしれない。週30時間ぐらいある授業時間の中でも、アクティブラーニング部分など合計しても1-2時間程度ではないだろうか。授業時間中ずっとアクティブラーニングということにならなければ、学力に大きく影響するようなレベルの問題でもないように思える。その導入が比較的小さい割合に留まるならば、そしてその機会費用が高価でないのならば、そのような授業あるいは授業時間中にそういう部分があってもよいと思える。むしろ、重要な論点は「一部の生徒に対して学習効果があるかがどうか」「あるならばもっと必要か」だろう。

  教育効果が不均等であるという問題は、アクティブラーニングにとりわけ先鋭的に顕れるとしても、他の教授方法でも同様だろう。そもそも導入する側がエリート教育を目的としているならば、効果の不均等は問題とならないかもしれない。できる子に対話と表現のスキルを磨いてもらい、そうでない子はそのような場で大人しくしていてもらう、と。このような学習を倫理的に正当化できるかという問題はあるが、そうした教育を受けた指導者層が社会的なメリットをもたらすならば、簡単には否定できない部分もあるとは思う。ならば、アクティブラーニングには本当に効果があるのかどうかが問題となる。著者はPISA調査の結果から無いだろうと推定しているが、効果の検証はもっと詳細なものがみたいところだ。ただスジとしては、挙証責任は著者にではなくアクティブラーニング推進派にある。
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胸の奥に暗い情念がこみ上げてくるがごとし

2018-10-18 21:35:50 | 音盤ノート
Tord Gustavsen Trio "The Other Side" ECM, 2018.

  ジャズ。ノルウェーのピアニスト、トルド・グスタフセンの新作。しばらくカルテット編成やボーカル入りの作品が続いたが、ピアノトリオでの録音は"Being There"以来11年ぶりということになる。タイトルからなにか新機軸でも打ち出されたのかと誤解するが、かつてと変わらないグスタフセン節が繰り広げられていた。

  いや新機軸がないわけではない。クレジットを見ると、担当楽器の欄にTord Gustavsen / piano, electronicsとある。エレクトロニクス⁉。いったいどの曲で使われているのかと耳を澄ませてみたが、ピアノトリオの演奏が延々と続くだけでなかなかわからない。4曲目と6曲目の後ろで鳴っている音がそうなのか?。ならば完全にレイヤー系の使い方である。曲目にあるバッハの曲やトラッド曲もまた新機軸と言えるが、完全に自家薬籠中のものとしており、オリジナル曲と見分けがつかない。

  ちょっと変わったかな、と思わせるところは、パッションを感じさせる曲における感情表現の仕方。以前ならば、こみあげてくる暗い情念をぐっと抑えているよう感覚があったのだが、本作では少々抑えきれずに大粒の涙を一粒だけぽとりとこぼしてしまうようなことが起こる。とはいえ感情たれ流しというわけではなく、かなり抑制的ではあるのだが、それでも我慢しきれない瞬間があるということである。もしかしたら新機軸というより「歳を取ると涙もろくなっちゃうんだよね」という話なのだろうか。

  全体的には静謐な演奏であり、いつも通りである。と書いてはみたものの、音数の多い曲もあるし、デビュー時と比べれば微妙に変化してはきている。クオリティは高いので、酒に溺れるかのように暗くじめじめした音楽に浸りたいという人ならばきっと中毒になるだろう。
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きちんとした読書研究だがタイトルで損しているかも

2018-10-14 10:58:09 | 読書ノート
松崎泰, 榊浩平著 ; 川島隆太監修『「本の読み方」で学力は決まる:最新脳科学でついに出た結論』青春新書インテリジェンス, 青春出版社, 2018.

  読書の効果の研究を伝える一般向け書籍。監修者の名前がでかでかと出ているけれども、本文を書いている著者の二人の指導教員なのだろうか(三人とも東北大所属の研究者である)。タイトルが断定的なわりには中身では全然そんなことを証明してはいない。たぶん出版社側がこのタイトルをつけたのだろう。表紙まわりの煽りっぽい調子を無視して本文だけに目を通せば、オーソドックスな読書効果研究であることがわかる。結論も常識的である。

  最初の二つの章は成績と読書時間をクロスさせて読書の効果を探る内容である。サンプルは仙台市内の小中学生4万人とのこと。一般的に言って、本読む習慣のある児童・生徒はそうでない子よい成績が良い。だが、一日2時間を超えると睡眠時間や勉強時間が削られてしまうので成績が落ちてくる。小学5・6年生の場合は読書1時間以上・睡眠8時間以上・勉強30分~1時間が成績に最適な組み合わせで、中学生の場合は読書1時間未満・睡眠6~8時間・勉強2時間以上となるという。読書に関心を持つ者としては、他の変数(親の学歴など)も投入したら結果がどうなるのか知りたいところだった。

  三章~六章は、読み方や本のジャンル、読み聞かせなどで脳のどの部分が活性化するかという話である。学力との関係は調査されていないので、先に指摘したようにタイトルは誇大である。幼児への読み聞かせは読む側の大人をも落ち着かせる効果があるなど、面白い発見もある。ただ、これらの章で開陳されている話はまだ研究途上であり、途中経過の報告として考えるべきものだろう。

  悪い内容ではないのだが、出版社のせいでスロッピーな印象の本になってしまったのではないだろうか。本文のフォントも大きく、他出版社の新書ならばもう少し内容を詰め込めそう。その分、検証方法などもう少し記述を厚くしてもよかった気もするのだが、これらの印象は僕が研究者であるせいかもしれない。お母さんたちにはアピールするのだろうか。
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相手を尊重しないことこそ差別が悪である所以だと

2018-10-10 21:40:44 | 読書ノート
デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』池田喬, 堀田義太郎訳, 法政大学出版局, 2018.

  差別論。世の中には、良い差別(アファーマティブ・アクションなど)と悪い差別があるが、後者をどうやって見分けられるかを問う。原書はWhen is discrimination wrong? (Harvard University Press, 2008.)で、分析哲学・倫理学・法学の領域にまたがる内容であり難解である。僕もきちんと理解できたかどうか心もとない。

  差別はなぜ悪なのか。「自分がやられて嫌なことは他人にしてはいけない」という反転可能性が根拠になると僕は単純に考えていたけれども、それだとアファーマティブ・アクションも許容できなくなる。著者は、良い差別もあるという立場に立って、悪い差別とは差別される側を貶価(demean)しているから悪なのだ、説いている。貶価(へんか)とは聞きなれない訳語だけれども、要は相手を対等な存在として尊重しないことである。訳者のサイト1)によれば、差別を悪とする立場には大まかに二つあって、差別の結果としての不利益を悪とみなす立場と、被差別者に対する軽蔑や軽視こそが悪であるという立場である。著者は後者の範疇に入る。

  さらに著者は、悪い差別かどうかは、差別する側の意図や被差別者の感情とは関係しないという驚くべき主張を展開する。歴史的・社会的文脈が定まれば、ある程度客観的に悪い差別かどうかは判定できるという。例えば、某医大のように、女子受験生の合格のハードルを上げるのは就業機会に関して性の不均衡の歴史があるために悪となる。だが、現役生に対して浪人生に同様のことをしても歴史的文脈がないので悪ではない、ということになるのだろう。どちらも同じように、医師となったときの労働時間や国家試験の通過率など統計的な根拠がある(らしい)合理的な差別であるとしても。一方で、被差別者が不快を感じていなくても、悪い差別だとみなされることがある。

  率直にいって、読んでみて納得させられたという感じはしない。歴史的・社会的文脈で差別をカテゴライズするのは、悪くすればアイデンティティ・ポリティクスを激化させて社会の分断を招くと予想される。反転可能性のほうを論拠としたほうが穏健な気がするのだが。また、容姿や能力などの生まれつきの不利をどうするのだろうか。こういう差別をどう処理するのかわからない。本書で展開された議論では、差別論争は終わらないだろう。あくまでも、考えるとっかかりというのが本書の価値だろう。


1) 差別論(英語圏・規範理論系)/ 堀田義太郎のウェブサイト
https://yoshitaro-hotta.jimdo.com/文献紹介/差別論-英語圏-規範理論系/

  
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