29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

1990年代から2000年代にかけてのテレビ番組と音楽市場の多様性を測る

2024-09-10 09:55:09 | 読書ノート
浅井澄子『コンテンツの多様性:多様な情報に接しているのか』白桃書房, 2013.

  日本語タイトルからは分かりにくい──英語タイトルにはbroadcastとmusicの語が入っている──が、テレビ放送における番組ジャンルの多様性と、CDやダウンロード音源などの形態で市場に流通する音楽ジャンルの多様性、この二つについて量的に検証する専門書籍である。なお数式が出てくる。対象期間は主に1990年代から2000年代までである。

  前半ではテレビ放送の多様性を検証している。米国では1960年年代半ばから1990年頃まで、三大ネットワークの独占力を削ぐための規制があった。しかし、規制者の意図に反して、番組ジャンルの多様性は規制があった期間中に減少していったという。日本では、視聴者の需要よりも広告主や放送局の財政状況が番組編成に影響するとのこと。パブル経済が崩壊して以降、テレビ局の収入が減ってドラマ(高価)を製作することができなくなり、バラエティ番組(安価)に置き換わっているらしい。また、BS放送の導入は、一つのテレビ局内の多チャンネル化をもたらし、番組の多様性をもたらすこととなったとのこと。

  後半では音楽ジャンルの多様性を検証している。日本における、CD販売のピークは1990年代後半である。新譜数と新人数で測られた多様性については年によって増減することがあるものの、それらは経年的に蓄積されてアクセス可能となるので市場全体として多様性は増加しているとする。このほか、CDの売上は発売直後の第一週に集中してその後は下降線をたどること、CDレンタルやダウンロード販売は(CDの購入より安価であるため)実績の少ないアーティストの音源にアクセス機会を提供していること、などについて議論されている。

  以上。コンテンツについて量的に検証することを試みる向きには重要な研究書籍だろう。ただし、統計手法の説明があっさりしていて、わからないところもあった。また、ハーフィンダール・ハーシュマン指標(HHI指標)という多様性を測る指標が開発されていることを初めて知った。詳細は原典に当たる必要があるが、本書の説明を読む限りでは図書館の所蔵にも適用可能な指標であるように見える。
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社会的地位で流行を説明、ネット普及以降の時代の分析が冴える

2024-09-02 07:00:00 | 読書ノート
デーヴィッド・マークス『STATUS AND CULTURE:文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 ―― 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』黒木章人訳, 筑摩書房, 2024.

  流行の変遷をステイタス概念を用いて整理しようという試み。学術書と一般書籍の中間あたりの難易度であり、本文中に挙げられている芸術家や音楽家の名前、あるいは作品名や商品名にピンとくるかどうかで読みやすさが変わる。計量分析無しで、著者が重視する単一の理論を適用してさまざまな文化現象を解釈してゆくというスタイルで書かれている。著者は、ハーバード大と慶應大で学んだライター(?)で、雑誌『POPEYE』などでも記事を書いており、デビュー作は日本における米国風ファッションを論じた『AMETORA』(DU BOOKS, 2017)となる。本書は二作目で、原書はStatus and Culture : How Our Desire for Social Rank Creates Taste, Identity, Art, Fashion, and Constant Change (Viking, 2022) である。

  どのような文化アイテムが流行するかは恣意的に決定され予測不可能であるけれども、流行には規則性があるという。その規則性の背後にあるのがステイタスである。ステイタスは単純に高から低までの一つのスケールでできているわけではない。上位層は、経済資本の多いニューマネー層と文化資本の多いオールドマネー層の二つに分かれる。前者は派手さを好み、後者は落ち着きや控え目さを好む。これら二つの層の下に、中程度の経済資本と文化資本を併せ持つ知的職業階級があり、上位層が持つ嗜好のヒエラルヒーに対抗するべく、新規性を持つ文化的アイテムを好んで採用する傾向を持つ。知的職業階級の下には、二つの資本どちらも欠いた一般大衆がいる。大衆は流行の終着点である。他の三つの層にとって、大衆と違うことを示すことが特定の文化アイテムを採用する理由となっている。加えて、一般大衆のグループの内部にはさらに趣味嗜好などで別れたサブグループがあり、その内部でもステイタスを争っている。

  しかし、21世紀になると上のような力学がインターネットの普及──特にスマホと高速回線の普及──によって崩壊しつつあるという。これまで。理解に訓練が必要な「高尚な」文化や革新的な文化は、上位層の差別化のために採用されてきた。だがそれらは、1990年代半ばからネットが普及すると誰にでもアクセスしやすいものになった。また、文化相対主義が社会で支配的になるにつれて、文化による差別化自体がエリート主義として批判されることとなった。ある文化アイテムと別のアイテムには価値の違いはなく、好みの違いがあるに過ぎないとされるようにった。熟練された技能を要求する表現も、素人芸も対等なのだ。こうして、「高尚な」文化あるいは高尚な文化を前提とする革新的な文化は21世紀になって凋落した。すなわちそれはオールドマネー層の地位低下であり、経済資本に対抗するような価値軸の喪失である。対抗価値の喪失は、価値が数値(すなわち金額やいいねの数)だけに収斂する、ニューマネー層の好みの優位をもたらした。まとめとなる章では、差異化とステイタスの平等の調整の可能を探っている。

  以上。1970年代に形成された理論で20世紀後半から21世紀初頭の流行の変化を説明する、という点に面白さがある。社会のエリート層を経済資本と文化資本で二つに分けるのはブルデューの『ディスタンクシオン』がオリジナルだろう。「見せびらかしのための消費」というアイデアはヴェブレンにさかのぼることができるが、本書ではボードリヤールの消費社会論を通過した議論となっている。ただし、やや難しいとはいえポストモダン系の書籍にありがちな衒学趣味はなく、エピソード中心とはいえ議論は実証的であろうとしている。この点は評価できる。特に、インターネットの普及がもたらした世界的な文化状況の合理的な解釈を試みた10章はとても素晴らしい。

  だが一方で、本書は流行の説明に部分的には成功していると言えるものの、説明されない大きな謎を残したように思う。文化の普及の方向はステイタスの序列に従った上から下への流れである、というのが本書の理論だ。二つの上位層が差異化のために希少な文化アイテムを採用しそれが徐々に大衆化するという流れ、あるいは知的職業階級がアーリーアダプターとなって新しい文化アイテムを採用しその後は尖った部分が削られて大衆化するという流れ、これらは示された理論通りである。しかし、ビートルズのように、大衆文化が古典に格上げされるという現象はどう説明するのか。あるいは、知的職業階級が採用した革新的文化(モダンジャズなど)は、どのように上位文化層に普及するのか。これら二つのケースのメカニズムは上手く説明されていない。つまり、最上位層が下位ステイタスをなぜ模倣するのかが説明されていない。そこには、ステイタスに還元されない何かがあるのだと予想される。
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2024年5月~8月に読んだ本についての短いコメント

2024-09-01 11:11:51 | 読書ノート
マルコム・グラッドウェル 『第1感:「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』(光文社未来ライブラリー) , 沢田博, 阿部尚美訳, 光文社, 2022.

  "Blink: The Power of Thinking Without Thinking" (Little, Brown, 2005)の文庫版。『急に売れ始めるにはワケがある』と『天才』の間に発表された著者の二作目で、むかし2006年の邦訳版を途中まで読んで放置していたのだが、あらためて通読してみた。いつもながら世間では知られていない事例や研究を引っ張ってきて巧みに構成しており、面白く読ませる。だが、直感を働かせることで上手くゆくときと失敗するときがあって、なぜそうなるのかの判断基準は示されないまま終わり、もどかしくなる。エピソードを楽しむものなのだろう。

橘玲, 安藤寿康 『運は遺伝する:行動遺伝学が教える「成功法則」』(NHK出版新書) , NHK出版, 2023.

  遺伝をめぐる対談本。安藤寿康は行動遺伝学の第一人者でかつ橘玲もこの領域にかなりの理解がある。また遺伝という主題がデリケートである。これらの理由のために、対談本ながらけっこう難解である。先にそれぞれの単著となっている新書を読んで、その補足として読むべき内容となっている。くれぐれも入門書だと思わないように注意すべし。興味深かったのは橘玲の「保守思想の持主は言語能力が低い傾向があるが、全体としての知能が低いわけではない」という説(p.163)。これは保守云々ではなく、理系男子の特徴ではないだろうか。そして、言語能力の高い女性からは彼らが馬鹿に見えてしまうという。

清水俊史 『ブッダという男:初期仏典を読みとく』(ちくま新書) , ちくま書房, 2024.

  信頼できる典拠に基づいてブッダの実像を描くという内容。ブッダは、平和主義者でも平等主義者でもなく、輪廻転生を否定したわけでもない。これらの点では、古代インドの常識の範囲内にあったという。ではブッダの教えの何が新しかったのか?煩悩を消失させることで「業」を不活性化させることができると主張したことだという。この要約だけでは「はあ?」と思うかもしれないが、ここは古代インドにおいて仏教と争った他の宗教の主張と比較しないとその意義がよくわからないところだ。そしてそこを本書は初学者に分かりやすく説明してくれている。しかしながら、読んだ後で「仏教って輪廻転生を信じない現代人には意味がない」という考えが湧きおこるのは避けられない。本文部分よりも、仏教学会におけるパワハラ事件を記したあとがきのほうに本書の重要性があるかもしれない。

河田雅圭『ダーウィンの進化論はどこまで正しいのか?:進化の仕組みを基礎から学ぶ』(光文社新書) , 光文社, 2024.

  進化論の現状を一般読者に伝えることを目的としているはずの書籍だが、新書にしては議論がけっこう高度である。これは著者がアナロジー的説明の曖昧さを廃して遺伝のメカニズムから進化を正確に説明しようとしているから。この道に入門したい初学者向けであると考えたほうが適切だろう。書籍中では「種が生き残るために遺伝子の多様性が必要だ」といった言説に見られる、「種」概念や遺伝の単位の混乱、因果関係の誤解について丁寧に指摘してくれる。

トム・フィリップス 『メガトン級「大失敗」の世界史』(河出文庫) , 禰冝田亜希訳, 河出書房, 2023.

  世界史エピソード集。結論は説得力がなくて、著者は「人間は先を見通せない馬鹿だから、あまり環境をいじったりしてはダメだ」という。石器時代からの人類の発展は評価しないわけ?と問いたくなる。ただし、結論はとってつけたようなものにすぎず、環境改変に関するトピックは全体の1/4ぐらいで、残りのすべては人間関係や社会における失敗を扱っている。なので、説教臭い部分は無視して、笑える歴史小ネタ集として暇つぶしに読めばいいと思う。

小杉泰・林佳世子編『イスラーム 書物の歴史』名古屋大学出版会, 2014.

  イスラム世界における書物史。15人の日本人研究者による全22章のアンソロジーである。中国からの製紙法伝播、アラビア文字の形成、書籍の製作、イラン・トルコ・インドの書籍文化、書籍の保管と流通、などを主題とした論考が収録されている。写本研究の困難と愉しさを語るエッセイもある。長い間イスラム世界では写本が重視され、印刷本は19世紀に至るまで普及しなかったそうだ。その理由はさまざまあるが、単純化すれば印刷本に対する需要が無かったということらしい。生産・流通・保管に関連する箇所を読んだ限りでは、読書が一握りのエリート層の文化という枠を超えられなかったという印象である。
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公立文化施設の新しい方向性とガバナンス、ただしコモンズ概念使用には違和感

2024-08-21 22:28:22 | 読書ノート
佐々木秀彦『文化的コモンズ:文化施設がつくる交響圏』みすず書房

  公立文化施設──博物館、図書館、公民館、劇場・ホール、福祉施設──の役割論および経営論である。注意すべきは、本書は「文化的コモンズ」を直接扱っているわけではないことである。「文化的コモンズ」は一般財団法人の「地域創造」が提唱したものらしい。本書「はじめに」にその報告書から引用された図が引用されている(p.13)が、公立文化施設だけでなく民間企業や商店街など私的な団体もまた文化的コモンズの構成要素として挙がっている。本書は、公立の文化施設に限って取り上げ、まとめて論じようと試みるものだ。著者は公益財団法人東京都歴史文化財団に設置されているアーツカウンシル東京の企画部企画課長であるとのこと。

  前半1/3で施設の種類ごとに日本での発展史を簡単に描き、戦前の創生期、戦後の1980年代までの成長期、1990年代から2010年頃までの再考期を経て、現在は成熟期として「文化施設4.0」の段階にあるという。中盤から後半にかけては、文化施設のガバナンス──上位設置機関すなわち政府や自治体による統制──の話と、マネジメント──施設内の組織における職員の管理──の話が主になる。ガバナンスにおいては、民主主義(議会や首長)vs.施設にいる専門家(学芸員や司書ほか)というありがちな対立がある。これを解消するために、教育委員会のような独立性の高い評議会を一枚かませて、施設は評議会に対して説明責任を持つという仕組みが提案されている。評議会には一般の市民と専門家が参加する。民主主義がコントロールできるのは施設の目標だけに限り、コンテンツに口出しできないようにする。その一方で、専門家を職業倫理で縛って中立性を義務付けるとする。マネジメントにおいては、分散型自律組織による「管理なき経営」が理想とされ、実現のためにはどうしてもピラミッド型組織となる公営よりも指定管理者が望ましいとする。これらの議論の合間に、さまざまな文化施設の取り組み事例が数多く紹介されている。

  以上のほか専門職養成制度など、文化施設に関する広範なトピックや議論が紹介されており啓発的なところは多い。だが全体としては、個人的にはコモンズ概念の使用に違和感を感じてしまい、素直に読むことができなかった。

  確認しておくと、自由に使わせると資源が消費され尽くされて維持不可能になる、というのが「共有地(コモンズ)の悲劇」である。したがって、共有を止めて公有または公的規制を導入するか、あるいは分割して私有にする(ロナルド・コース)のが解決策となる。すなわち、コモンズを解消することによって資源が維持可能になると議論されてきた。これに対し、利用可能なメンバーを限るなど特定条件下では共有地のままでも維持できる(エリノア・オストロム)という別の解決策も提案された。本書はオストロムの流れを汲むもので、自治が目指されていることがわかる。しかしながら、現状、日本の芸術文化活動が蕩尽されつつある状況に陥ってるようには見えない(ただし保存面には問題があるようには思うが)。したがって「文化的コモンズ」なる概念が要請される理由がよくわからない。

  「文化的コモンズ」というタイトルから期待されるのは、文化資源──共同消費が可能なものもあり通常の資源と異なる──のどのような側面を維持管理するために、私企業も公的機関もともに参加するはずの共同統治の仕組みをどうつくるのか、という話である。しかし、本書では、「文化的コモンズ」が十分語られておらず、その一部にすぎない公立文化施設が語られるのみである。なお、公立文化施設それ自体はコモンズとは言えないだろう。著者の目指しているのは、文化的コモンズを共有する仕組みを起ち上げることではなく、芸術文化活動に影響を与えるために公立文化施設のプレゼンスを高めるということなのだろう。このタイトルならば民間の役割についての議論も欲しい。
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保守系図書館史学者による20世紀米国図書館批判

2024-08-19 09:35:07 | 読書ノート
Stephen Karetzky Not Seeing Red University Press of America, 2002

  米国20世紀図書館史。米国の図書館員および図書館情報学者が、親共産主義的傾向を持ち、かつ一般大衆による草の根的な保守主主義をファシズム扱いしてきたことを跡付ける。紛うことなき保守派による図書館論であり、あちらの文献を読んでいてもまれにしか出会うことができない珍しい立場だろう。著者のKaretzkyは、20世紀前半の実証主義的図書館情報学研究の誕生を記した大著Reaading Research and Librarianship (1982)の著者である。本文が400頁と長尺であるが、引用が多いだけであり、論旨は複雑ではない、

  1920-30年代の米国図書館員および知識人は、ロシア革命後のボルシェビキ政権を「進歩的」だとして肯定的に評価した。彼らは、ソ連における思想統制や検閲の存在を知っていたが、問題とは考えなかった。また、粛清や強制徴用といった制度的暴力については、同時代に漏れ伝えられていたにもかかわらず、取り上げることはなかった。だが冷戦期に入ると、ソ連における図書館の実態──図書館はプロパガンダ機関であり、図書館員は選書における裁量がなく専門家とは言えないこと、図書館員が投獄や粛清されることがしばしばあったこと、など──、あるいはその粉飾された統計数値──本が50冊あれば図書館とカウントし「世界一の図書館数を誇る国」と自称する、など──、さらには共産主義者が先端科学技術情報の収集や重要な意思決定機関ののっとりのために米国でスパイ活動をしていたこと、これらについて、米国でも冷徹な報告が散見されるようになる。しかしながら、米国図書館員の間でそれらが深刻に受け留められることはなかった。

  冷戦期の米国図書館では、「知的自由」の名の下で親共産主義の著作が優先的に所蔵され、保守派の著作の排除が行われた。当時の図書館員向けの雑誌カタログには保守系雑誌がほとんど掲載されていなかったらしい。また、1950年代のマッカーシズムによる焚書運動も誇張されてきたという。マッカーシー本人が図書館を標的としたとき、対象となったのは米国政府が管理する海外の図書館(反米的な本が所蔵されていた)だけである。米国内の公共図書館が対象となったのは住民運動によるものあり、そうした焚書運動の結果としてのパージ自体はごく一部の地域で見られただけで、米国全土にまたがる狂騒とは言えないとする。むしろ、知的自由の背後にある図書館員のエリート主義を正当化するために、マッカーシズムは実態以上に悪魔化されてきたという。最後の章では『検閲とアメリカの図書館』(日本図書館研究会, 1998)の邦訳で知られるルイーズ・ロビンズら図書館学系の歴史学者が批判されている。

  以上。主張が強く出ている書籍であり、どこまで信用したらいいのかわからない。米国でも「保守系著作は排除されやすく、リベラル系の著作は所蔵されやすい」という話は耳にすることもあるが、都市部の図書館の特有の傾向ではないのだろうか。地方部の図書館はまた様相が異なると推測するのだが、所蔵数を比較した数字がみたいところである。また、盤石な資本主義国であった米国において、冷戦期の言論人や図書館員が、国内で浸透しそうにない共産主義よりも、眼前で繰り広げられた言論に基づいたパージを危惧したのは理解できるものだろう。彼らのほとんどは共産党員ではなく、単にリベラルだっただけである。さらに、20世紀半ばのインテリが容共的立場を取るのは当時の雰囲気を考えれば世界的な常識であって、そのことが彼らの評価を高めることはないとしても、ソ連や東欧の共産主義諸国が崩壊した後になって批判するのは後知恵に過ぎるだろう。まあ、本書のような意見もあるというところか。
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知識を組織化する機関の安定を求める苦闘と挫折

2024-08-16 16:34:11 | 読書ノート
アレックス・ライト『世界目録をつくろうとした男:奇才ポール・オトレと情報化時代の誕生』鈴木和博訳; 根本彰解説, みすず書房, 2024.

  19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したベルギー人、ポール・オトレの評伝。解説によれば、著者のライトは図書館情報学の訓練を受け、情報デザイン関連の博士号を持つジャーナリスト(あるいはフリーの研究者?)とのことである。原書はCataloging the World : Paul Otlet and the Birth of the Information Age (Oxford University Press, 2014.)である。

  図書館情報学を学んだ者として個人的にはオトレの名前は知っていたが、国際十進分類法の考案者で、「ドキュメンテーション」関連の業績が何かあるらしい、ぐらいの断片的な知識しか持っていなかった。「ドキュメンテーション」には科学論文のマイクロフィルムへの保存と検索という強いイメージがあって(もちろんそれだけではないのだけれども)、もはや時代遅れになったコンセプトだという先入観があった。

  本書を読むと、オトレは知識を組織化しようとしただけでなく──そういう試みは昔からある──、そのための実効性のある組織(それも国際的な組織)を構想し、かつまたそれに一時的には成功したという点に特徴があることがわかる。必ずしも上手くいったというわけではないが、オトレの団体はベルギー政府や国際連盟との関係を保つことができていた。しかし、オトレの活動を支えていた普遍主義と国際協力は19世紀に限られた時代潮流であり、20世紀の二度の大戦が彼のプロジェクトを破壊することになった。

  つまりドキュメンテーションと19世紀的理想、二つの基準でオトレは「古い」ように見える。しかしながら、本書はインターネットの時代にオトレの意義を蘇らせようと試みる。20世紀後半のカリフォルニアのコンピュータ~インターネット発明家を取り上げて、彼らの思想とオトレの知識の組織化の構想とを比較する。前者は管理無き無秩序な世界だが、後者には中央集権的な機関があるという点が大きな違いである。しかし、それ以外の点では、オトレの構想はインターネットを予見していたところもあるという。実際、1990年代末あたりから再評価が進んでいるようだ。

  本文とは無関係なことだが、出版社の宣伝文句に「起業家」とあって気になった。だが、原書出版社も'entrepreneur 'を使っていて、私企業でなくてもなにか事業を起こせば「起業家」になるのかとようやく理解した次第。
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マンガ単行本はなぜ見かけが書籍なのに流通上は雑誌扱いなのか

2024-08-12 10:26:26 | 読書ノート
山森宙史『「コミックス」のメディア史:モノとしての戦後マンガとその行方』青弓社, 2019.

  マンガの発行形態と流通の歴史。「コミックス」いわゆる雑誌に連載されたマンガを収録した新書判(またはB6判)という発行形態が、いつどのように誕生して、またそれが出版や書店をどう変化させていったかという歴史を描いている。元は関西学院大学に提出された博士論文である。出版時の著者の所属は四国学院大学だが、現在は共立女子大学のようだ。

  マンガ単行本は戦前から存在したが、現在のように雑誌連載に従属したものではなく、書籍であった。1960年代初めに4コマのサラリーマン漫画が新書判で発行されるようになり、さらに1960年代半ばには新書判がストーリーマンガを収録する判型となった。60年代終わりには特定雑誌と結びついてシリーズ化され、流通上では「雑誌扱い」となる。これが現状のコミックスとなった。その際、少年誌掲載マンガは新書判に、青年誌掲載マンガはB6判へと棲み分けられたという。

  コミックスは小売書店ですぐさま受け入れられたわけではなく、1970年代までは書店における棚の数は限られたものだったらしい。地方書店では入手困難なこともしばしばだった。この状況は70年代後半から80年代にかけて改善される。小売書店主にマンガの商品性が高く評価されて(すなわちよく売れたということ)徐々に売り場面積を増やしていった。このほか、ブックオフの台頭によって形成された二次流通市場や、電子媒体によるマンガ流通についても言及がある。

  以上。コミックスの「書籍なのに雑誌扱い」という奇妙な位置づけを掘り下げた内容であり、これまで無かった視角からの分析で非常に啓発的だった。ただし、序章と終章は必要以上に難解になっている気がする。
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1970年代半ばから2000年代半ばまでの米国ビデオレンタル店の栄枯盛衰史

2024-08-11 20:33:39 | 読書ノート
Joshua M. Greenberg From Betamax to Blockbuster : Video Stores and the Invention of Movies on Video MIT Press, 2008.

  米国におけるビデオ文化の興隆と衰退の社会史。特にビデオレンタルに焦点を当ている。著者はニューヨーク公共図書館所属で、現在もいろいろプロジェクトを動かしているらしい。本書ではビデオ再生機のことをVCR = Video Cassette Recorderと記している。ざっと調べた限りでは、あちらでもVTR = Video Tape Recorderが使われることのほうが多いようだが、VTRはオープンリール形式対応の機器も含むので少々範囲が広いみたいである。なお実際に読んだのは2010年のPaperback版で、ハードカバー版より少々ページが多い。

  1970年代半ばにソニーがBetamaxの家庭用再生録画機器を米国で発売したとき、テレビ番組の予約録画するという使用が想定されていた。まずマニア(20代から30代の独身男性)がこれに飛びつき、ミニコミを通じて自前で録画したカセットの交換を行った。続いて、ビデオに商機を見出した企業家が映画会社と交渉して、映画を事前に収録したビデオの販売およびレンタルの卸売業者となってゆく。ビデオには伝統がなく、参入障壁も低いため、さまざまな前歴を持つ人物が各地でレンタル店を開くようになる。一部の店舗はシネフィルを店員として雇い(そうした店員の代表がタランティーノ)、ビデオレンタル店が映画館に代わってレイ・オルデンバーグのいう「第三の場」となっていったという。しかし、より品揃えやレンタル体験を均一化(マクドナルド化)しようとした後発の大手チェーン店ブロックバスターが、そうした独立系レンタル店を駆逐していった。

  「第三の場」的なレンタル店は、ネットの普及以前に、大手チェーンによって劣勢に追い込まれたという歴史観が開陳されている。このほかベータvs.VHS闘争、著作権問題、レンタル店の団体形成、録画予約の操作ができない米国人がけっこういた、などなどについて語られている。エピローグでは、Neflixも登場するが本書ではまだDVDの郵送レンタル会社として紹介されている。始めのほうではソニーや松下(Matsuhitaという変な表記になっている)が出てくるので日本人読者も楽しめるかもしれない。あと、出てくる映画タイトルもそれほどマニアックではない。日本でも同時代にビデオレンタル店の栄光盛衰があったわけで、比較のためにも邦訳があってもいいと思う。
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商業主義を取り除こうとして商業出版物を模倣したのが科学ジャーナルである、と

2024-08-09 12:32:18 | 読書ノート
アレックス・シザール『科学ジャーナルの成立』柴田和宏訳; 伊藤憲二解説, 名古屋大学出版会, 2024.

  科学史。学術雑誌、なかでも自然科学系のジャーナルが現在の地位をいかにして築いたかを歴史的に明らかにしようとした学術書である。著者はハーバード大の科学史科教授であるが、ネットでプロフィールを探しても詳しい記事が無く、2010年代から論文を発表し始めたというこというぐらいしかわからない。原書はThe Scientific Journal : Authorship and the Politics of Knowledge in the Nineteenth Century (University of Chicago Press, 2018)である。

  「世界最初の学術雑誌は英国王立協会によるThe Philosophical Transactionsであり17世紀に誕生した」というのは神話であるという。当時のそれは現在の学術雑誌──査読された数頁の原著論文を複数含む──の原型と言えるようなものではなく、雑報ほかいろいろな記事を含んでいた。また、19世紀に至るまで、科学コミュニケーションの中心は雑誌論文ではなかった。著書は当然として、手紙や学協会での発表も重視されていた。科学上の発見に権威を与えていた──すなわちその信頼性を保証していた──のは、英国ならば王立協会による登記簿への登録、フランスならばアカデミー会合における発表であった。王立協会やアカデミーでの報告は、その報告者とは別の聴講者やジャーナリストによって最初に記事にされることがしばしばであり、科学の発見者が必ずしも著者となるというわけでもなかった。

  こうした科学を取り巻く制度や習慣は、19世紀を通じて徐々に変化していった。18世紀末から商業出版の勢いが増し、新聞や一般誌で科学に関連した報道がなされるようになり、さらには大衆向けにその動向を伝える専門誌も発行されるようになった。一部の著者は自分の発見をそうした商業誌に発表した(その抜き刷りを関係者に配布するという習慣もあったらしい)。1830年代の英国では、科学の生産性を高める改革論の中で、論文の著者を重視する論調が生まれた(ディファレンス・エンジンで知られるチャールズ・バベッジが先導したとのこと)。科学者は顕名で書かなければならなくなった。結果として書かない人、例えば研究活動に出資するだけのアマチュア貴族などは、科学者集団から排除されていった。いくつかの学協会が先行して、発行する専門誌の定期購読者=会員というコンセプトを作りあげて、会員の出版ニーズに応えた。19世紀半ばには、王立協会やアカデミーも週刊の定期刊行物を発行するようになった。

  王立協会やアカデミーが直面したもう一つの問題は、大量の出版物のなかから、真の科学的発見を伝える論文とそうでない記事を見分けて、前者にだけ権威を与えることである。ひとつの解決策は査読の導入である。英国において1830年代に匿名の専門家二人による審査というかたちで試みられた。詳細は省くが、その試みは最初から波乱含みだったらしい。なお、匿名というのは当時の英国の書評にあった習慣だった。もうひとつの解決策は目録化である。目録は文献探索を容易にすると同時に、それへの掲載によって科学に属するものとそうでないものの境界を定める。王立協会は1860年代に科学文献目録を作成して、科学と非科学の分割を確かなものとした(もちろん異論もあった)。このほか、科学的発見と発明の違い、科学史における第一発見者の見方、科学情報へのアクセスにおける利用者観(専門家だけか一般の人も含めるか)などについての当時の議論が詳述されている。

  以上。主に19世紀全体の英仏の動向を追った記述であり、19世紀後半に台頭するドイツや米国については部分的に言及されるだけである。科学を国家で管理しようとして商業出版物に近づくこととなり、それが現在の科学コミュニケーションの原型となった。というわけで、解説によれば、国が前面に出ていた英仏を中心に記述するという本書の選択は適切であるという。科学と商業主義と入り組んだ関係は昔から続いてきたわけで、今に始まった話ではないことがわかる。図書館情報学関係者はご存じのメルヴィル・デューイやポール・オトレもちょっとだけ出てきます。
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勝ち組男性の孤独対策、人間関係の維持に努力せよ、と

2024-08-08 07:00:00 | 読書ノート
トーマス・ジョイナー『男はなぜ孤独死するのか:男たちの成功の代償』宮家あゆみ訳, 晶文社, 2024.

  心理学。中年以上の男性が自殺する原因について探っている。原書はLonely at the Top: The High Cost of Men's Success (St. Martin's Press, 2011)である。邦訳では特に言及されていないけれども、フロリダ州立大学の心理学教授という著者プロフィールからは、『自殺の対人関係理論:予防・治療の実践マニュアル』(2011, 日本評論社)の著者と同一人物であると推測される。彼の主著はWhy People Die by Suicide (Harvard University Press, 2005)だが、未邦訳である。

  男性は、子ども時代から与えられた人間関係を当たり前のものとして享受し、コミュニケーション能力を磨くことをせず、仕事に邁進する。その結果、晩年になって家族から見離され、友人もいない状態になり、孤独のまま精神のバランスを崩して自殺することになる。にもかかわらず、追い込まれるまで自身は孤独なままでも平気だと思っているという点が深刻である。男性もまた女性が子ども時代からそうしてきたように人間関係を維持する努力をすべきだということを、豊富なエピソードを交えて論じている。

  読むうえで気を付けなければならないのは、男性一般の、ましてや弱者男性の話などではなくて、原書タイトルから示唆されるように、仕事に打ち込んでそれなりの稼ぎを得てきた(一時的にせよ)社会的にも認められた男性、彼らの孤独が問題視されているという点である。彼らは、プライドが高くて自己決定権を持つことを尊び、そのせいで周囲と衝突し、なおかつ他人に助けを求めることができない。彼らは、成長期や社会人である途上で仕事(あるいは仕事をうまくこなす能力)にエネルギーを注ぐことを選び、人間関係維持にエネルギーを注ぐことが少ない。また周囲も「男性だから」という理由でそれを許容している。著者はこのことを甘やかし(spoil)という表現で批判している。

  以上が、成功した男性もそれなりのコミュニケーション能力を磨くべきだという理由である。そのような男性の厚生に限れば、これはメリットのある提案なのではないだろうか。ただし弱者男性論の文脈ではそうではないかもしれない。ある程度の稼ぐ能力がなければ家族にせよ友人にせよ人間関係を安定的に維持することは難しいだろう。厚生を維持する以前の状態である。なので、まずは働いてそれなりの収入を得よというアドバイスのほうが適切かもしれない。仕事と人間関係維持にはトレードオフがあるということなんだろう。
  
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