29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

イタリアを題材とした市民社会の分析、しかし結論が適用できる範囲は広くないと思う

2012-08-31 09:46:31 | 読書ノート
ロバート・D.パットナム『哲学する民主主義:伝統と改革の市民的構造』河田潤一訳, NTT出版, 2001.

  イタリアにある20の州政府のパフォーマンスを比較し、その原因を遡ってゆくと「市民的伝統」に至る、という書籍。このブログでは、パットナムの『孤独なボウリング』(参考)をすでに採りあげているが、これはその前の原著1993年の刊行である。内容は以下のとおり。

  1970年代初めから1980年代終わりまでの期間に取得できた州に関する各種データを突き合わせると、北部の州の政治パフォーマンスと住民の満足度は高く、南部の州のそれらは低い。データには、州政治家等へのアンケートや、州の民主度を推定できる指標である、統計情報の公開や住民一人当たり保育所の数などを使用している。分析手法として相関や因子分析が用いられている。さらに分析を進めると、北部と南部の州の差異は、経済による説明に還元できないことがわかる。そもそも20世紀前半には南北に差は無く、都市化は南の方が進んでいた。差が付き始めるのは工業化が進んで以降であり、ではなぜ北は巧くそれに対応でき、南はできなかったのか。

  著者はその答えを「市民的伝統」に求める。北部の州では、住民の他者に対する信頼が高く、また信頼しても報われるという関係が保たれているようである。しかしながら、そもそもそういったエートスを生み出すには、成員間が対等で、意見対立を対話を通じて調整するシステムが根付いている必要がある。北部には中世の都市国家の時代からそうした伝統を見ることができる。一方、南部は、歴史的に封建的な支配-従属の関係しか経験しておらず、現在でも政治リーダーと個々の住民の関係は庇護と恩顧の関係のままである。こうした市民的伝統の違いは、スポーツクラブなどの任意加入の団体、すなわちアソシエーションの数に現れている。

  と、このような主張が展開されているが、個人的にはそれほど説得されなかった。というのも、「市民的伝統」では日本や韓国などの東アジアの国々の発展をまったく説明できない気がする。それとも、ウェーバー研究者が日本の伝統に「プロテスタンティズムに似たエートス」を探したように、そうした系譜を見つけ出すという課題が新たに生まれたと考えるべきなのだろうか。いずれにせよ、分析手法は洗練されていながら、とても分かりやすいことは評価できる。学者のはしくれとして、こういう論文を一生に一度は書いてみたいものだと強くあこがれる。

  
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小学校低学年生の読書感想文執筆につきあって

2012-08-29 10:33:46 | チラシの裏
  この夏、夏休みの課題のため、読書感想文の指導を僕の子どもにしなければならなかった。まだ小学二年生で語彙も少なく、まともに文章を書けないような年代である。少なくとも僕の時代では小学校高学年からの課題だったように思う。現小学二年生は「ゆとり教育」廃止の最初の年代で、教科書も厚くなり、授業の進度も速い。低学年での読書感想文もその一環なのだろうか。

  腹立たしいのは、学校側が文章指導を十分していないらしいことである。我が子は、段落の前に一ます空けることは知っていたが、段落内の文の文頭の前にも一ます空白を作ってしまう。また、段落を意味のまとまりで形成するという概念が無く、三文ぐらいつなげたら適当に段落を変えてしまっていた。後者は子どもに難しいこととはいえ、前者は何回か授業内でトレーニングしてくれれば矯正できたはずである。

  親が見ていてもう一つ困ることは、子どもが原稿用紙二枚分の800字に文章を構成する方法をまったく分かっていないことである。単に彼らが指導を受けていないだけでなく、親の世代も小学生時代にそのような指導を受けていない。大学時代に論文執筆をしたことのある一部の親は多少のアドバイスができるだろうが、それとて読書感想文の構成とは異なるものだ。僕の想像するところ、小学校の教員もそれを知らないと思われる。

  構成の問題は執筆内容の問題である。方向は二つある。一つは、いわゆる「読書感想文」として期待されていることを書くこと。すなわち、読んだ本の登場人物に自分の姿を重ね合わせ、自分の生活や考え方を反省して一丁あがり、というやつだ。こういうのが教師に喜ばれるのは、読書感想文が読解力や文章表現力のための純粋な課題ではなく、道徳教育または生活指導的な意味も負わされているからだろう。教師が感想文を通じて知りたい事柄は、執筆した子の言語能力ではなく、子どもの生活状況だったり意識改革の表明なのである。

  方向のもう一つは、「報告書」に近い体裁で書くというものである。内容の正確な読みとりと分析を主とするもので、執筆者は後景に引かなければならない。報告書では簡潔かつ正確に物事に伝えなければらなず、執筆者の改心などの記述は冗長だとして評価が下がるだろう。大学教育や社会人となって以降の連続性を考えると、小学校高学年のうちから報告書の執筆訓練を受けさせることが望ましいと個人的には考える。とはいえ、小学校低学年レベルでは難しいかもしれない。

  僕も強制を嫌う今時の親である。そういうわけで、子どもにどっちの方向でまとめたいか尋ねてみた。理解したのかどうかわからないが、答えは報告書スタイルだった。

  で、始めに「書籍の魅力の説明」、次に「登場人物とストーリーの説明」、以降「印象に残った場面を列挙してコメントする」という構成の順序を決めて書かせてみた。しかしそこは小学校低学年生。冒頭の段落に来るべき文章全体に対するやや抽象度の高いコメントをひねり出せない。ストーリーの要約も、本人が注目した部分だけ詳細であり、全体の展開を説明できていない。以降は、個々の場面についての「こわかった」「おもしろかった」というコメントの連続である。一応「なぜおもしろいと思ったの?」とこちらから突っ込んでみるのだが、深い理由づけなどできやしない。まあこんなものだろうと思ってそのまま清書させた。このレベルだとコンセプトが「読書感想文」風だろうと「報告書」風だろうと大して変わらないということを強く感じた。まだ二つの体裁を書き分けることができないのである。

  執筆に付き合って認識したのが、小学校二年生がクリアしておくべき文章レベルというのがよくわからないということである。生活指導ではなく、文章指導という点に焦点を合わせるならば、内容理解の程度を知るために要約部分を多く書かせ、あとは少しだけコメントでいいという気がする。いずれにせよ、夏休みに原稿用紙に向かわせる前に、教室で準備しておくべき段階があるのは確かだ。大学生に体裁の整った書評を書かせるのも講師が何回か添削してやっとの結果なのだから、小学生に対しても授業内で何度か訓練機会を持つべきだろう。
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そこに帰りたいという思いを欠いた、暖かい郷愁感

2012-08-27 12:00:50 | 音盤ノート
Bill Frisell "Have a Little Faith" Elektra Nonesuch, 1993.

  ジャズ。といっても非ジャズ的な内容で、ヴォーカルとバンジョーとヴァイオンを欠いたオルタナ・カントリーロックといった趣きである。ごくまれに体温低めのフリージャズにもなる。編成は、フリゼル(g), Kermit Driscoll(B), Joey Baron(Ds)のトリオに、クラリネット(たまにバスクラも)のDon ByronとアコーディオンのGuy Klucevsekが加わったクインテットである。

  アメリカ的音楽の探求というのがこの作品のテーマ。冒頭7曲がアーロン・コープランドの『ビリー・ザ・キッド』からである。他に、チャールズ・アイブス‘ワシントン・ポスト・マーチ’フォスター、ソニー・ロリンズ‘When I Fall in Love’ボブ・ディラン、マディ・ウォーターズ、マドンナ、ジョン・ハイアットなどを採りあげている。要は、非ヨーロッパ的な米国クラシック音楽、米国民謡、ジャズ、ブルース、フォーク、ポップミュージックなどアメリカ印が押されたものならなんでもいいというわけである。

  バンド演奏は緩く、メンバーが激しく挑発し合う場面は見られない。フリゼルのギターは、たまにハードなディストーションを聴かせることがあるけれども、大方の場面では柔らかい音色でユーモラスかつノスタルジアに満ちたソロを展開する。アルバム全体を覆うノスタルジア感は、涙を見せて過去を懐かしむような情緒感からは遠いもので、現在の生活を十分満足している大人が子ども時代の楽しさを思い返すような感覚である。そこに帰りたいという思いを欠いたもので、子どもの頃一緒に過ごしたみんなは今どうしてるだろうかと軽く気遣うような感覚。

  個人的には、二十歳の頃このアルバムを購入して、即行で中古盤屋に売り払った記憶がある。当時ジョン・ゾーン率いるNaked Cityでの演奏に衝撃を受けてフリゼルに接してみたのだが、このアルバムでののんびりとした演奏は若い頃の僕に退屈すぎた。あれから20年近く経って改めて聴いてみると、今でも緩すぎるという印象は変わらないものの、ここで展開されているノスタルジアの味わい深さを分かるぐらいにはなった。
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表現の自由が認められる境界についての判例・学説の考察

2012-08-24 09:49:08 | 読書ノート
市川正人『表現の自由の法理』日本評論社, 2003.

  表現規制に対する日米それぞれの判例・学説を検証することによって、規制が正当化できる根拠、あるいは正当/不当の境界を探る学術書である。特に「表現内容の規制・内容中立的規制二分論」に大きな関心を割いている。

 「表現内容の規制・内容中立的規制二分論」とは、表現内容を理由にした規制は違憲だとみなす一方、表現される時と場所・表現の方法を理由に規制することは合憲だとみなす論理である。表現される内容の適否でもってその表現を禁止することは法的に許されない。しかし、デモや集会などで開催日時が不適切である場合──夜中であったり、集会場の休館日に開催を試みたり──や、表現する場所が不適当である場合──子どもの目につくような場所でポルノグラフィを掲示するなど──、あるいは方法に問題がある──電柱への張り紙のように街の美観を損ねる方法を使ったりするような場合、これらに対して表現活動を一律禁止することは認められるという。内容に対して中立的ならば、表現する時と場、方法を理由に規制しても許されるというわけである。実際に、この論理は裁判で使用されている。

  著者の考察によれば、中立的規制は十分説得力のあるものになっていないとのことである。第一に、表現の自由のそもそもの目的が多くの表現活動を促して思想の選択肢を増やすことにあるのに、内容中立的規制のような一律規制は表現活動の量を減らしてしまい、目的と矛盾すると指摘している。第二に、資金力の無い表現者が表現内容にインパクトを持たせようとするとき、時・場所・方法などの点で敢えて常識を逸脱しようとせざるえないことがあるが、中立的規制が適用されるならば結果としてそうした「弱い」表現者の活動を禁じてしまうことになると指摘している。第三に、これは日本の場合だけだが、公共の福祉とのバランスで表現活動の規制が認められることが多いが、その比較考量方法が厳密でなく正当性を欠くと指摘している。

  二分論に対する問題的の指摘は理解できたが、解決の方向性についてはどうだろうか。著者は、中立的規制も不合理だとし、表現の自由を優先した一元的な法的判断を求める立場である。けれども、個人的には次のように考える。表現の自由は社会にとっての究極目標ではなく、個人の幸福のための手段であるだろう。ならば、個人の幸福と表現の自由が対立する場合、前者を優先する法的判断を採っても良いはずである。この点で、中立的規制の存在は時と場をわきまえない表現活動を迷惑に感じる人々の救いになるだろう、と。もちろん、個人の幸福と表現の自由がもたらすメリットを比較考量することや、その法的判断の波及効果を推定することの難しさはあるのだが。

  とはいえ、判例や学説を整理してくれているありがたい書籍であり、大変ためになる。パブリック・フォーラム論についても良くわかった。
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メセニー作品を湿度高めに演奏するヨーロッパ的解釈

2012-08-22 08:04:39 | 音盤ノート
Pat Metheny & Anna Maria Jopek "Upojenie" Nonesuch, 2008.

  一応ジャズということになるが、女性ボーカルによるAORといったほうが正確だろう。アナ・マリア・ヨペクはポーランドの歌手で、細く透き通った声質を持つ。『ツイン・ピークス』の歌姫ジュリー・クルーズを少しだけ情熱的にした感じ、といっても分かる人は少ないかもしれない。曲によっては、Cocteau Twinsのエリザベス・フレイザーのようになるのだが…、あまりマイナーな例を挙げるのはもう止そう。

  パット・メセニーが全曲で参加し、アコギ、エレクトリックギター、ギターシンセなどさまざま演奏を聴かせる。収録17曲うち8曲が彼の曲。まさに彼に捧げられた作品なのだが、メセニー的な音楽と印象はだいぶ異なっている。メセニーの音楽にある乾いた叙情感と爽快感はばっさり切り捨てられ、湿度の高い叙情と地上から飛翔してゆくような荘厳さがこのアルバムの特徴的な要素となっている。また、控えめにエレクトロニクスやループ音を絡ませるバンド演奏も、非常にヨーロッパの現代ジャズ風である。以上のようなわけでメセニーの曲をよく知っている者にはその欧風なアレンジがとても面白い作品だろう。御大のギターも手抜き無しである。

  2008年のこのリイシュー盤はメセニーとヨペクの共作であるかのような表示となっている。だが、もともとの2003年のオリジナルはヨペクのリーダー作であり、メセニーはゲストという立場だった。アメリカ発売にあたって、Nonesuchが知名度を鑑みてリーダー名を操作したようだ。ちなみに、オリジナル盤は14曲で、リイシュー盤にはそれに3曲プラスされている。
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民主政体の維持のために「より小さな悪」にも手を染めよというリベラル思想

2012-08-20 10:43:01 | 読書ノート
マイケル・イグナティエフ『許される悪はあるのか?:テロの時代の政治と倫理』添谷育志 , 金田耕一訳, 風行社, 2011.

  テロ対策に伴う一時的な人権停止を許容するという議論であり、同時に民主制にダメージを与えない程度の権利停止はどの程度にすべきかを考察する内容でもある。著者はカナダの哲学者で、国会議員になっただけでなく、自由党の党首も務めたこともある人物である(ただし、選挙に敗れて政治活動を引退し、今は大学の先生をやっているとのこと)。この本では、リベラルとしての目標を追求ながら、過剰な理想主義にも陥らないよう、綱わたりのような思考をやってのけている。

  著者の中心的な主張は、テロ被害を受けるという「より大きな悪」を抑えるという目的のために、テロ計画やテロリストを洗い出すための一時的な人権侵害的な捜査──身体を傷つけない拷問など──は許容されるべきだ、ということである。それは、民主制を守るための「より小さな悪」というわけである。ただ、民主国家側の政治家や官僚が人権侵害に慣れてしまい、腐敗しないよう、予防線を張っておく議論も詳細である。

  原著は2004年刊行で、9.11のテロが背景にある。19世紀のロシアに始まるテロ史と分類も参考になる。バスクからパレスチナまで、抑圧された側の集団の状況が改善されたり、または抑圧する側との関係改善を模索し始めるその矢先に、より強硬で原理主義的な一部の集団がテロを行うのは共通しているという。改善の動きを頓挫させて、抑圧された側の集団の分離主義を再び呼び起こすのが彼らの狙いだという。著者は、アルカイダのような、そもそも背景となる社会集団を持たないテロ組織──イスラム民衆の支持を受けていない──は、政治的・外交的に交渉の余地がなく、徹底的に潰すしかないという。したがって、アフガン攻撃は理解できるとのことである。

  上のようにまとめるとまるでネオコンのようだが、民主政体の健全性の維持を目指す態度や、「より小さな悪」がエスカレートしないよう細かく超えてはいけない境界を設定する姿勢はあくまでリベラルである。繊細な議論を展開しており、すっきりわかりやすいとは言えないが、こういう立場もあるということに驚かされる。
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ギター二台によるアドリブが続くインストゥルメンタルのカントリー音楽

2012-08-17 09:48:48 | 音盤ノート
Marc Johnson "The Sound of Summer Running" Verve, 1998.

  ジャズ。Bass Desiresと同じギター二台とドラムとベースという編成だが、メンバーには若干の変更がある。ジョンソンとフリゼルはそのままで、新たにPat Metheny(g)とJoey Baron(d)が加わっている。サウンドもカントリー風味が増し、かなりリラックスした演奏である。壮絶なギターバトルを期待すると裏切られる。

  内容はいたって健康的。神経質さや過剰な感傷も無く、情動は中庸な状態のまま。Bass Desiresにあったかすかな狂気は感じられない。ギターシンセを使わない時のメセニーの演奏は中庸そのものなのだが、もう一人のギタリストであるフリゼルまで中庸になっている。このアルバムで、フリゼルは以前のようにエフェクト類を駆使したレイヤー仕事をしておらず、普通のギタリストのようにバッキングを務め、ソロを取る。1990年代から傾注していたカントリー色を前面に出した演奏であるため、彼らしさは失われていないけれども。また、ジョーイ・バロンのドンスカと楽しげなドラムは全体の演奏を緩いものにしており、Bass Desiresにおけるアースキンのシャープなドラミングが生み出していた緊張感も消失した。

  以上のようなわけで、暖かくて聴きやすい内容ではあるけれども、個人的には緩すぎるように思える。Bass Desiresのような「ひねり」が何か欲しいところだ。
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力を誇示するための体刑から、罪人に規律を教え込むための監禁へ

2012-08-15 17:38:17 | 読書ノート
ダニエル・V.ボツマン『血塗られた慈悲、笞打つ帝国:江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?』小林朋則訳, インターシフト, 2009.

  江戸時代から明治にかけての刑罰や囚人施設の変化を検討しながら、日本の「近代化」の様相を探るという歴史書。江戸時代の刑罰は幕府の権力を誇示するために行われており、死罪になった者の死体の一部を晒す一方、恩赦も頻繁に行って寛大な幕府というイメージも与えようとしたという。一方で、明治の監獄は現代に通じる矯正施設である。この変化を理解するべく、当時の刑罰や収監施設の実態、運用状況を検証し、かつ当時の政府関係者や知識人の議論を追うという内容である。

  本書によれば、江戸時代は体刑中心だったが、明治になると犯罪者を施設に収容して労働させるという形に変化した。背景には、「日本の刑罰は野蛮」として自国民の安全を理由に日本での治外法権を手にした西洋列強の圧力がある。この不平等条約を解消するために、明治政府は当時の水準で「洗練された」刑罰制度を整えて、近代国家であることを示そうとした。その試みは成功するのだが、劣悪な囚人労働や、植民地における体刑という別の野蛮さ──これは欧州諸国がそうしていたのを真似たもの──を生み出すことになった。以上の議論の展開は、あまり抵抗なく納得させられる。加えて、様々な細かい指摘や面白い。

  例えば、個人的には学校の日本史で習う「寛政の改革」や「天保の改革」やらのイメージが今一つつかめなかったのだが、この本ではその一部を理解できる。貧困や飢饉のため農村の生産力が落ち、浮浪者が都市に大量流入したために治安が不安定になった。幕府は対策として人足寄場という収容施設を作り、浮浪者を捕まえて街に出ないようにし、そこで労働させたという。ただし著者によれば、これは近代的な監獄とは異なった発想のもとで作られたもので、犯罪者を懲戒する目的のものではなく、刑を受けた後の身寄りのない犯罪者や、浮浪者を野に放たないよう収容する予防的施設であったとのことである。

  他にも、簡単な言及のみで詳しく書かれていないものの、日本における活版印刷技術が、明治時代に拡張された「近代的」な石川島の監獄での中心的な労働だったという指摘(p258)も興味深い。個人的には、木版印刷が軌道にのっていたはずの江戸の出版業が、どのような経緯で活版印刷術を採り入れていったのか、十分明らかにされていないと考えてきた。著者の指摘からは、読み書きができる教養のある階級出身の収監者(おそらく政治犯?)がそこで活版印刷術を学習し、出獄後に安価な労働力として出版社に採用されてそれを普及させた、という勝手な想像をしてしまうのだがどうだろうか。

  西洋中心主義に陥らず、かといって日本礼賛にも偏らない、公平で冷徹な視点が貫徹している点も優れている。イェール大学にあるプロフィール1)によれば、著者はパプアニューギニア生まれのオーストラリア育ち、高校時代に大阪を訪れてアジア史に興味を持ち、以降オーストラリア、日本、アメリカとあちこち移動しながら研究を進めてきたとのこと。こういう経歴を持つと、複数の文化の論理を理解できるようになるのだろう。

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1)Daniel Botsman / Yale University http://www.yale.edu/history/faculty/botsman.html
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ジャズミュージシャンによるギター系ロックバンドの二作目

2012-08-13 07:16:37 | 音盤ノート
Marc Johnson's Bass Desires "Second Sight" ECM, 1987.

  ジャズ。マーク・ジョンソン率いるBass Desiresの二作目。メンバーは前作(参考)と同じ──ジョンソン、フリゼル、ジョンスコ、アースキンの四人──である。

  大きく変わった点は無いもの、前作より神経質度が後退した感がある。冒頭のtrack1‘Crossing the Corpus Callosum’とtrack5の‘Thrill Seekers’がへヴィで緊張感のある楽曲でクオリティが高く、track4の‘Twister’がノリノリのロックンロール曲で楽しめる。しかし、他の曲ではギター二台がお互いを尊重しすぎというか、寄り添うようになってしまい、あまり盛り上がらない。前作でもギタリスト二人に一応の役割分担がなされていたが、お互いの距離加減をうかがっているかのような打ち解けなさがかすかな緊張感をもたらしていた。この二作目となると、適正な距離感覚を理解してリラックスした間柄になってしまったようだ。とはいえ、上に曲名を記した3曲の完成度は高く、うまくかみ合った時のこのバンドの凄さがわかる。

  Bass Desiresでの録音は前作とこのアルバムの二枚のみ。珍しい編成なので、もう数枚録音を残してくれても良かったと思う。
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セルフ・コントロールをめぐる哲学的・科学的エッセイ

2012-08-10 08:58:00 | 読書ノート
ダニエル・アクスト『なぜ意志の力はあてにならないのか:自己コントロールの文化史』吉田利子訳, NTT出版, 2011.

  セルフ・コントロールをテーマとしたジャーナリストによる考察。自己制御に関する心理学や行動経済学の知識をベース(マシュマロテストなど)に、事例や概念を求めて文学と哲学と渉猟してゆく。消費社会批判の要素もあるが、副題にあるような歴史書ではない。全体としての体系性は無く、雑獏としたエッセイ集である。文章は面白いが、内容が濃いとは言えない。

  とはいえ興味深い知見が得られることもある。例えば「怒りは解放したほうがいいのか、それとも抑え込んだ方がいいのか」という問題。米国では前者が正しいと考えられているようだが、著者によればそれは間違いらしい。感情の表出には、表出それ自体(例えば顔の表情)が感情形成に寄与するという作用があるらしい。笑い顔を無理矢理作っていると気分が楽しくなってくるように。同様に、怒りを表現するにまかせていると、正のフィードバックがかかってより怒りが増してしまうとのこと。抑え込んだほうが気持ちを鎮めやすいという。まあ、抑え込んでばかりというのも体に悪そうだから、適度にというのはあるだろう。

  結論としては、自分の意志力だけで自分を制御することは難しいので、プリコミットメントを使えということである。プリコミットメントとは、3ヶ月で10kg痩せないと一万円払うなどと親しい人に約束したり、クッキーを食べるときは箱から直接ではなく皿に数枚だけ出して箱を隠してから食べる、というようなことである。つまり、自己の外部の者やモノ・制度に行動を拘束されるよう、自分を縛ってしまうことが有益だというわけである。日本人の僕には穏当な主張に思えるが、主体性重視の西欧ではセンセーショナルなのだろうか。
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