29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

著者曰く“男は変わらない。変えられるのは自分の選択だけだ”

2012-01-30 09:22:00 | 読書ノート
サンドラ・L.ブラウン『その男とつきあってはいけない!:あなたを不幸にする“危険な男”の見抜き方』江口泰子訳, 飛島新社, 2011.

  ハウトゥーものだが、軽妙なイラストによる表紙と違って中身はかなり真剣。“女性の感情や肉体を傷つけ、経済的、性的、精神的な健全性を損なう、あらゆるタイプの男”(p25)から、女性が逃れる方法を説いている。著者はカウンセラーで、20年ほど男女間の虐待の事例を扱ってきたらしい。実際、被害女性の実例が豊富である。

  著者の言う「危険な男」には、DVを振るう男や中毒者だけでなく、母親役を女性に求めるタイプや、仕事や趣味に没頭しているかまたは体目当てでそもそも相手女性との精神的なつながりに関心が無いタイプ、結婚詐欺師のようなタイプまで入る。こういう男をパートナーにもった女性の人生はボロボロになるので、どうやって彼らを見分けたら良いかをチェックリストで教えてくれる。

  だが、恋に落ちている中でつきあっている男がそうでないかを見極めるのは難しい。そこで、著者は、体の異常やわきおこるちょっとした不快な感情を「危険信号」として察知せよ、と女性たちにアドバイスする。男としては、そんな不確実なものに頼っていいのかという疑問が起こるのだが…。

  全体として、記述は経験に裏打ちされているもの、男性の分類が適切かどうかは微妙である。また、著者が挙げたような悪い男性に捕まってしまう女性の心理を詳しく知りたいところだが、そういった箇所は少ない。精神病理学的な装いはあるものの、あくまでカウンセラーによる女性向けハウトゥーである。
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宗教は人類にとって必ずしも必要なものではないとのこと

2012-01-27 10:36:28 | 読書ノート
パスカル・ボイヤー『神はなぜいるのか?』鈴木光太郎, 中村潔訳, NTT出版, 2008.

  認知科学的視点から宗教について考察した書籍。著者はフランス出身の人類学者だが、主な活動場所は英米のようである。宗教の機能についての通常の説明──「世界を説明する」「不安を取り除く」「社会に秩序と道徳を与える」「認知的な錯覚である」──は間違いだというのである。

  宗教は人類が進化の上で獲得した認知機能の副産物であるというのが、その基本的な主張である。人類は、進化の途上で形成してきた思考のクセのせいで、神や霊、それらによる因果関係の説明といったものを受け入れやすくなっている。しかし、宗教は必ずしも適応の面で必要なものではない。それはペットに対する愛情のように、遺伝子を広めるのに役には立たない。

  大半の内容は、ではどのような認知機能が、神や霊による因果的説明、儀礼、死に対する宗教的認識、教義などを産み出すのかを説明するものである。議論は錯綜しており、すっきりしたものではない。説明は丁寧だが、説得力の上で微妙なところもある。しかしながら、進化心理学を理解しているならば、細かいところを抜きにしても大胆で面白いアプローチだと思えるだろう。
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全体として薄味だが、黄昏た音の中に奇妙な浮遊感がある

2012-01-23 10:47:40 | 音盤ノート
John Surman "A Biography of the Rev. Absalom Dawe" ECM, 1995.

  英国のジャズ系のリード奏者だが、この作品は管楽器による室内楽と表現した方が正確。それも多重録音によるもので、ソプラノサックス、バリトンサックス、バスクラリネット、アルトクラリネットなどを各曲で操っている。多重録音と言っても分厚く重ねてあるわけでなく、メインの楽器一つに、自身が演奏するシンセサイザーか、または薄く重ねた管楽器がバックで使用されるのがせいぜいのところ。あくまでもソロを中心に聴かせる趣向で、凝った編曲とはなっていない。

  曲もスローなものばかりで、ソロも哀愁を帯びたメロディを聴かせるのに徹している。技巧的に"聴こえる"局面はあまりない(響きはかなり滑らかなのだが、実際は難しいことをやっているのだと推測される)。なので、スリルもなく、琴線に触れるような瞬間も無く、一聴して素晴らしいという印象を与えない。しかし、夕暮れを飛翔するような独特のメロディセンスはかなり耳に残る。その、時の流れを忘れてしまうような「黄昏の中の浮遊感」は、気分によっては魅力を感じるときがあるだろう。
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図書館員のトラブル事例集。正当性があるのは図書館員のほうだが・・・

2012-01-20 15:19:43 | 読書ノート
川崎良孝, 安里のり子, 高鍬裕樹『図書館員と知的自由:管轄領域、方針、事件、歴史』京都図書館情報研究会, 2011.

  専門家向け。米国の図書館における「知的自由」関連のトラブルについて、米国図書館協会(ALA)がどう対処してきたかを論じる内容である。そこでのトラブルとは、図書館が扱う資料または資料選択に対する政治的圧力、さらにはそこから派生する図書館員の雇用保障といった問題である。ALAが、こうした問題に対し、どのような仕組みを作り、また個別の事件に対応してきたのかを詳しく解説している。

  ほとんどのケースでは、発端は図書館での資料やサービスの適性であるものの、最終的には当事者である図書館員の雇用問題につながっている。「白いウサギと黒いウサギが結婚する絵本は人種融和的だ」という理由で排撃される南部の図書館員や、中には味方がいないまま村八分をうける図書館員など、身につまされる事例もある。ほぼすべての場合で、理不尽なのは介入者のほうで、正当性は図書館員にある。こうした攻撃から図書館を守るのに、図書館と知的自由との結びつきが重要だったというのはよく理解できる。(ただし、6章だけは、資料やサービスとは無関係の図書館員の職場トラブルであって、知的自由の領域に入るかどうか微妙である。実際ALAがそういったケースへの協力に消極的な様子が描かれている)。

  以上のメリットを認めた上でなお問いたいのは「図書館をその設置者がコントロールしようとすることは不当なことなのか」ということである。具体的に考えているのは、住民または彼らに選ばれた首長が自治体図書館の蔵書をチェックする場合である。これは図書館員にとっては悪夢かもしれない。だが、チェック基準が理不尽なものではなく、正当なものである場合はどうか? 例えば教育効率で書籍を序列づけるというような場合である──それが計量できると仮定しての話だが──。うさぎの絵本より良い本があるのに、それを蔵書としないのは選択の失敗である、という評価はありうるだろう。こうした視点は、行政のアウトカムを評価する上で必要なことのように思われるのだが、それは知的自由を侵害するのだろうか? また稿を改めて考えてみたいことである。

  あと、米国図書館における知的自由への関心が"高まった"時期は1960年代後半から70年代半ばにかけてであって、1939年に採択された『図書館の権利宣言』よりずっと後だということは興味深い。
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「無知の枢軸」なる二曲目までの展開は素晴らしい

2012-01-18 09:53:59 | 音盤ノート
Nils Petter Molvaer "Np3" Emarcy, 2002.

  ジャズ・ミーツ・エレクトロニカ。ノルウェーのトランぺット奏者モルヴェルの三作目で、ECMからUniversal Music傘下のEmarcyに移籍しての第一弾。電子音響に凝ったアルバムで、シンセサイザーや打楽器音が電子的なだけでなく、ギターやトランペットもかなりエフェクトをかけて何の音だかわからないような状態になっている。(トランペットのソロは普通に吹いているが)。

  このアルバムは、爽やかに電子音の揺れを聴かせる短い一曲目"Tabula Rasa"から、サンプリング・ヴォイスを散りばめた重たい暗黒ファンクである二曲目"Axis of Ignorance"へと続く流れが素晴らしく、その後の期待を大いに高める。しかし後が続かず、冒頭に匹敵する曲に出会うことのないまま終わる。初めて聞いた時は、前作"Solid Ether"(参考)の印象が素晴らしすぎて、それと比較すると地味に思えた。今聴いてみると、これ以降のアルバムよりビートが効いており、アブストラクトでなく、入りやすいアルバムと言えるかもしれない。

  とはいえ、中盤以降は緊張感に欠けるという難点は変わらない。バンドサウンドに凝りすぎて、ソロにエネルギーが注がれていないという印象である。同じ問題は、次作"ER"(参考)も同様である。
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センター試験雑感

2012-01-16 11:39:55 | チラシの裏
  NHKの報道によれば、昨日まで行われていたセンター試験は「過去最悪のトラブル」だったそうだ。地理歴史の試験と公民の試験を一つの試験時間に押し込めて順に二科目やる、という改訂が混乱を呼んだ模様。会場に英語リスニング用のICプレーヤーが届いていないっていうのはもっと悲惨だ。トラブルに当たってしまった受験生にはご愁傷様としか言いようがない。

  センター試験というのはどんな馬鹿でも試験監督ができるようかなりマニュアル化されている。分厚い『試験監督要領』なるものが存在し、動作も発言もそこで決められたとおりに行うことになっている。くどいと判断される箇所でも、読まずに飛ばしてはいけないし、親切心で余計なことを言いたくなっても控えなくてはならない。マニュアル通りに実行することが、受験生の予期できないクレームから試験監督の身を守る。受験生にとっては一生を左右する試験かもしれないが、試験監督である大学教員にとっては相対的に重要度の低い仕事なので、保身に走ったほうがましなのである。

  しかし、あまりにマニュアル化されているので、ちょっとしたトラブルの処理が遅れることもある。実際僕も、試験中にトイレに行きたいと申告してきた学生に対して、「どのように対応するようマニュアルに書かれていたか?」を教卓にもどって調べた経験がある。状況に応じた常識的な判断を行使するのに不安になってしまうのである。たいした問題ではないかもしれないが、マニュアル化に思考を鈍らせる面があることは確かなようだ。

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NHK / センター試験 全日程終わる
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120115/t10015282071000.html
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友達を選ぶのは重要、でも親は何もできない

2012-01-13 12:08:00 | 読書ノート
ジュディス・リッチ・ハリス『子育ての大誤解:子どもの性格を決定するものは何か』石田理恵訳, 早川書房, 2000.

  一般向けの育児書のようなタイトルだが、行動遺伝学や進化学の成果を踏まえたかなりアカデミックなものである。四六版上下二段の502ページで、分量も多い。原著は1998年だが、もはや古典と言っていいだろう。子どもを持つ前に読んでおくといい本である。

  その主要な主張は、家庭における親のしつけや教育方針は、子どもの人格や能力形成に対して大した影響を持たない、ということである。そして、子どもの人格や能力は、遺伝と「非共有環境」でほとんどが決まる、と論証している。ただし、これは条件付きであり、虐待をするような異常な養育者と暮していれば、影響は出るかもしれないとのことだ。しかし、実子だろうと養子だろうと、離婚家庭だろうと、ストレスの高すぎない家庭においては、親の影響は小さいものであることを強調している。

  進化心理学関係の書籍を読んだことがあるならば、こうした主張にどこかで接したことがあるかもしれない。面白いのは、著者が非共有環境を子どもが所属する仲間集団として考えていることである。非共有環境というのは、一卵性双生児の心理について測定する行動遺伝学の概念だが、簡単に言えば、測定された値のうちの遺伝影響分と家庭環境影響分を引いた部分である(かなり誤解を招く表現なのでできれば書籍をあたってほしい)。この非共有環境の多くを、心理学の成果などから「仲間集団の影響」として著者は解釈している。友人関係におけるポジションによって、性格が形成されてゆくというのである。

  つきあう友達によって子どもが良い子にも悪い子にもなる。ならば、親は子どもが付き合う相手をコントロールしたほうが良いのだろうか? しかし著者はこの点に懐疑的なようで、親の意図がどうだろうと、子どもは付き合いたい相手と友人関係となる。なので、結局親はうまく介入できないという。(ただし、居住地を変えて子どもを以前と異なる環境に放り込む、というコストのかかる方法には効果があるという)。そんなにも、親は何もできないのだろうか。他に、兄弟など、出生順位は性格には関係ないというトピックもある。

  以上、極端なように見える主張が押し出されているが、論理には説得力がある。この「親の影響は小さいので、育児にそれほど血眼にならなくてよい」というメッセージは有益なものである。しかし、つきつめると、親の介入が難しいならば、良い子を持つには遺伝的に優れた配偶者を選べという、ちょっと納得しがたい示唆に辿りついてしまい、暗澹たる気分にもなる。
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静謐で美しいバラード演奏に、ときおり忍び込む毒気

2012-01-11 00:13:03 | 音盤ノート
Mark Copland Trio "Haunted Heart & Other Ballads" HAT HUT, 2001.

  静音系ジャズピアノトリオ。オリジナルはすでに廃盤だが、タイトルを"Haunted Heart"に、装丁もデジパックから紙ジャケに、表紙も変更して、2010年に同レーベルから再発されている。曲目には変更が無く、オリジナル曲‘Dark Territory’、Stingの‘When We Dance’、Mal Waldronの‘Soul Eyes’ほか‘Crescent’‘Greensleeves’‘It Ain't Necessarily So’‘Easy to Love’‘Hounted Heart’、3テイク収められた‘My Favorite Things’を収録。"Some Love Songs"(参考)と同じく、Drew Gress(b)とJochen Rueckert(ds)がサポートする。

  バラード集でありテンポのゆるい曲ばかりである。激しく自己主張するような場面もない。そうでありながら、かなり聴かせる。リリカルながら、硬質で冷たいと形容されるタイプのピアノ演奏だが、そのうえ毒気がある。ゆっくりと美しいメロディを紡ぎながらも、途中から不協和音を行ったり来たりする。この不協和部分が、フリー系にありがちなこれみよがしではなく、スムーズに移行して全体の演奏に収まっていて、曲のムードを壊さない。こうした演奏スタイルがもたらす、地に足のつかない不安定で浮遊した感覚。さながら、かすかに揺れるカーテンの影に佇む幽霊のよう。これを楽しめる人にとっては、かなり優れたアルバムということになるだろう。

  このコープランドのキャリアを調べてみた。1948年のフィラデルフィア生まれながら、初リーダー作が1988年って遅いなあと漠然と思っていたのだが、やはり紆余曲折のある人だった。そもそもMarc Cohenという本名で1973年にデビュー録音"Friends"(Oblivion)を残しているのだが、それはサックス奏者として。その直後にピアニストに転向、ワシントン周辺で下積みを積んだあと、日本レーベルJazz Cityのプロデューサー増尾好秋の目に留まり、ピアニストとして再デビューした、というわけである。バブル時の投資は無駄なものばかりではなかった。
  
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日本公共図書館史の古典だが、専門家向け

2012-01-09 21:38:28 | 読書ノート
石井敦『日本近代公共図書館史の研究』日本図書館協会, 1972.

  明治から昭和にかけての日本の図書館についての論文集。通史ではない。40年前の古い本であるが、現在の図書館史のベースとなる見方を提供する、この分野の基本文献である。著者は1925年生まれで、2009年に亡くなっている。

  基本的なストーリーは『図書館の発見』のエントリですでに述べたものと同じである。明治から昭和にかけて、図書館のような書籍や新聞を閲覧させる施設に対する‘民間における’需要は存在した。しかし、抑圧的な政府がそれを妨げており発展できなかった、というものである。

  こうした史観の大きな問題点は、私立の会員制図書館から公共図書館への移行を「発展」と見てしまっていることだろう。民衆運動と関連して、知識へのアクセスの要求が高まり、日本全国に読書施設ができた。だが、政府はそうした施設を歓迎せず抑圧した。戦後になって、そうした要求に応える公共図書館を、日本の図書館界は組織しつつある、というところで終わっている。

  しかし、敗戦によって抑圧から「解放」されたのならば、施設は民間に任せておけば良かったのではないか? 需要があるのならば勝手に発展しただろう。なぜ政府がしゃしゃり出てきて税金で図書館を造る必要があったのか? これが21世紀に活きる者の疑問である。現在ならば、民間から政府への事業の転換は、そこに何か市場の失敗があったか、または単なる利権目当てだと見られるだろう。

  結局、著者が描くのとは反対に「(図書館人が描くような)読書施設への需要は少なかった」と把握するのが正しいように思う。読書には正の外部性がある。しかし、市場にまかせていては十分な量の消費がされない。したがって、公費を投入して書籍を安価に提供するシステムを作ることが必要だ。──こうした市場の失敗の論理を前提にしないと、民間事業から公共機関に飛躍する過程がうまく説明できない。この点は『図書館の発見』のエントリでも述べた。

  民間には任せておけないことをやっているからこそ、近代図書館史は公共図書館史になってしまうのである。

  この本を直に読んでみると、著者の歴史観のルーツもわかる。

  まず、民間の読書施設の公共図書館化を「発展」と見る理解の起源は、シェラの『パブリック・ライブラリーの成立』(参考)にあることがわかる。

  次に、民間の需要を神聖視する(「上からの改革よりは下からの改革が良い」式の)考え方は、マルクス主義である。実際、「明治絶対主義」「封建遺制」などの語彙が登場し、講座派マルクス主義の発展段階論にもとづいて社会と図書館の関係を論じていることがわかる。

  これらのルーツに依拠しなければならなかったのは時代の制約である。しかし、前者の議論は、民間の読書需要への対応を公的支援に値するものと短絡させてきた(上に述べたようにそれはもう一ひねり説明が必要な事態なのだ)。また、後者の民間の需要重視は、公共図書館の公共性を図書館員が考えることを難しくした(そのような発想は「上から目線」ということになる)と予想される。  
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「図書館を知的自由と結びつける」という隘路

2012-01-05 19:02:10 | 図書館・情報学
  来年度「図書・図書館史」を講義することになったので、ちょくちょく関連文献を読んでいる。それに関するノート。

  図書館史では敗戦後に米軍の手によって図書館法が施行されて、近代的(すなわち「民主主義的」)な公共図書館を全国に普及させる基盤が整ったと見る。しかし、無料の原則といったよく強調される点を除けば、日本の戦前と戦後しばらくの公共図書館は目的において共通している。「社会教育」である。

  教科書的な図書館史では、戦前の図書館は「思想善導」に利用された保守的で悪いものであり、戦後の図書館は「見識ある市民の育成」のために奉仕するリベラルで善なるものという図式を使って、両者の間に断絶を見る。しかし、公共図書館を教育機関として捉えている点では戦前も戦後も同じである。皇国のために奉仕する国民を造り上げることと、民主主義体制を維持するために「市民」を形成することは、公共図書館のもたらす便益が利用者の教化を通じて最終的には共同体に回収されるという点において、相似した構造を持っている。

  断っておかなければならないが、こうした構造が悪だと非難したいわけではない。むしろ、公共事業としては正当な考え方であると言いたい。図書館利用の便益が個々の利用者に私的な利益に留まるならば、税金を使う事業としては肯定できない。もしそうならば、利用につきの課金を正当化するだろうし、そもそも民間に任せればいいということになる。個々の利用者が利用の便益の多くを受けるとしても、その効果は共同体の成員に薄いながらもトリクルダウンをもたらす、という論理があって、なんとか図書館サービスは公的支援に値する事業となるだろう。

  付け加えておくと、この論理において、便益を受ける共同体のレベルは善悪と無関係である。日本では、共同体が地方自治体レベルだと善、国レベルだと悪という図式にはまってしまう。しかし米国では、普遍的権利に敏感なリベラルな図書館員と旧弊で保守的な地域共同体という対立になってしまい、日本とは逆転する。ここから、戦前と戦後の図書館評価の差異は、図書館が社会教育として盛り込む内容の問題であって、公共図書館サービスの構造的問題とは異なるものであることがわかる。

  で、やっと本題なのだが、20世紀の図書館史において画期となるのは、やはり「公共図書館を知的自由と結びつける」ということをやってのけたことにあるだろう。これが画期だというのは、「社会教育」という目的と衝突するものだからである。理論上、知的自由という立場からは資料選択は相対主義的にならざるをえない。これ以前の図書館員ならば、資料選択においては教育的効果に関する専門家であることを主張できた。しかし、以降の図書館員は資料の価値判断を放棄しなければならず、専門家ではありえない。教育的役割を捨ててしまったので、かわって情報探索や検索の技能が図書館員の専門性の根拠となった。

  この目的は図書館関係者の間で主張され、実際の公共図書館に運営に影響している──どの程度本気に取り組んでいるかは別として、だが。例えば、別のエントリで述べたように『市民の図書館』の記述に流れ込んでいる。また、図書館の資料選択を擁護する近年の議論は、資料の価値の高さからその選択を肯定するのではなく、「図書館の自由」を用いて肯定するのである。

  言論の自由を守るというのは、少なくとも日本では選挙を経た政治家たちが課した公共図書館の目的ではない。それは法律で定められているわけではない。日本図書館協会という団体が勝手に主張していることである。米国の事情は詳しく知らないものの、その起源は全米図書館協会にあり、政治家を通じた草の根の民主的要求として実現されたものではないようである。すなわち、運動家の考える"私的な"「図書館の目的」であって、公的な「図書館の目的」ではないのである。

  もっとも、そうした目的を掲げても、行政や議会で問題となってこなかったのだから、すでに公認されていると解釈することも可能だろう。おそらく、1930年代以降のニューディーラーによる福祉国家的リベラリズムにとって受け入れやすいものだったのだと推定できる。経済的弱者に公的支援を与えることで、彼らの選択の自由を促進するというよう自由主義である。日本での始まりの時期はやや遅れるが、その頂点が1960年代後半から1970年代というのは日米で共通している。

  20世紀後半にこうした思想が意義をもったことを認めるのにやぶさかではない。しかし、21世紀においては言論の自由の主戦場はインターネットになり、実物の図書館は後景になったように見える(電子図書館は別だが、要は著作権問題である)。また、検索技術が発達して素人でも資料の入手が容易になると、資料の探索技能に専門性のアイデンティティを求めてきた図書館司書の地位も低くなるだろう。司書育成の場面において、相対主義に浸って主題や学術性を分析させるトレーニングをせず、資料評価の技能を洗練させてこなかったツケが将来禍根となると予想される。

  さらに、福祉国家的リベラリズムもコミュニタリアンやリバタリアンの批判を受けざるをえない。まず、経済的弱者ではない、マイノリティとはいえ十分な資産や所得があるようなグループの持つ、市場で充足できる情報要求を満たすことがナショナル・ミニマムなのかと問われることだろう。また図書館員は単なる公務員であり、価値相対主義がもたらす図書館の量的拡大志向はレントシーキングとして解釈される。さらに、自治体の職員が自治体住民や彼らが選んだ首長に対して自律を主張し、自治体が求めたわけではない普遍的サービスを地域に提供するというのは、住民の疑問を引き起こすことだろう。これはプリンシパル・エージェント問題の枠組みにはまる。

  結局、図書館利用者になんらかの方向で人的資本を形成してもらわなければ、図書館はレンタルビデオ店のように民間で運営されれればいいということになる。しかし、今になっても図書館の公営が放棄されないというは、読書の教育的効果が信じられているからであろう。私的に求める情報をただでアクセスできるからという論理では、図書館を利用し‘ない’者を説得できない。

  上のような理由で、図書館と言論の自由の結びつきは、21世紀の公共図書館の運営を隘路に導くと予想される。月並みだが、価値の高い、良質な資料の提供が還るべき公共図書館の場所だと思う。
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